2,『世界のどこかに存在する』
「わしの日課兼趣味は冬月と阿星を叱り飛ばすことじゃ!」
かつて。たぶん本気で、そんなことを東海はカミングアウトしたことがある。自信満々などや顔を冬月は今でも思い出せるし、面と向かって叫ばれた阿星は反射で叫んだものだ。
「理不尽か!」
しかし東海はどこまでも悪びれなかった。野生の熊のごときいかつい外見そのまま豪快で奔放、腕前は確かすぎる。が、しかし、指導者としてはやや疑問の残る男。それが東海という師範であった。
今朝の遅刻も、冬月と阿星以外が該当者であったらまあ、説教はあったにせよ、初めから理由も問わずに問答無用で訓練割り増しを言い渡しはしなかっただろう。その訓練量をこなせると思っているのだから冬月と阿星の実力を買っていると前向きに考えることもできなくはないが、前向きに考えるには訓練は地獄だった。
だがしかし既に決定事項、言い切った東海に翻す気配もなくそんな希望を持つほど冬月たちと東海との付き合いは浅くない。
「さあ鍛錬じゃ、始めるぞ! 全員、整列!」
もはや冬月と阿星のことは忘れたとでも言わんばかりの切り替えっぷりで、東海は声を張り上げる。彼の行動はある意味正しい。ここは道場、目の前に道場生、時間も押していて鍛錬を始めるのを急ぐのは当然だ。
よって東海の言葉に、道場に集まって冬月たちを遠巻きにしていた少年たち――小さいものは五歳ぐらいの幼児から、十九歳くらいの青年まで――も、ささっと動き出す。触らぬ神に祟りなしと言わんばかりだった。誰も冬月と阿星に目を合わせてくれない。むしろ東海から「さっさと並べー!」と叱責まで飛んできた。
「……三倍か……」
「俺は、五倍だぜ? ははっ……」
諦め並ぶ、彼ら二人は全力疾走の疲れもあってか、ついた溜息は海より深かった。
☽☽☽
――『龍使いの里』。
人がそう呼ぶ場所がある。その正確な位置はだれも知らないが、確かに世界のどこかに存在する……そうまことしやかにささやかれる里。
そして人は言うのだ。龍を操る異能者――『龍使い』と呼ばれる流浪の民は、全てその隠れた里で生まれ育ったのだと。
この世界の大空を覇して畏怖される生物、それが龍だ。長年研究されているが、その正しい生態はほぼ知られていない。ただ龍には龍の、明確な縄張りが存在し、大別して大陸の八方位に、それぞれ龍の巣が存在していることは判明していた。そのうちの東の龍の縄張りであり、世界最大の国土を誇る国が、オッチェンジェスタ。
人がまことしやかにささやく『龍使いの里』は現在、その国の北、東龍の巣たる護竜山のお膝元――そこに広がる広大な樹海の中に、人知れず、けれど確かに実在していた。
虚実入り混じるだろう伝承を語るなら、この里に住まう一族は、かつて世界の始まりに龍と人を生んだと言われる『男神』と『女神』の加護を受けているのだという。
……この世界の創世の伝説は地域によって諸説あるが、大筋は変わらない。
太古の昔、この世にはただ厳然とした無が広がっていた。そこに闇と光がはじけ、光闇の狭間から二柱の神が生じた。
二柱の神は、片や凄絶な美女、片や精悍な青年の姿を成した。男神が手を翳すと光と闇は昼と夜に分かれ、女神が手を翳すと世界が天と地に分かれた。
男神の息吹は植物を生み育て、女神の息吹は獣を生み育てた。これにおいて二柱の神による世界の創造は終わったかに思われたが、穏やかであるが躍動に乏しい世界を憂え、男神は龍を、女神は人を創りそれぞれに知性を与えることにした。
しかし、神ですらこの世は思い通りに動かせぬらしい。龍が強大な力を持ちすぎたために世界が乱れることを恐れた女神に請われ、男神は一握りの人間に龍の力を授けた。
――この『龍の力を授かった人間』が『龍使い』……総称として『龍の一族』に当たるのだというのが、世間にも流布する様々な伝承の中でも最も多く伝えられる説である。
龍の一族の発祥が真実どうであったかは今となってはだれにもわからない。龍使いの里にすらそれは伝わっていない。――しかし、『龍を操る力』は今も連綿と受け継がれ、現代にも残っているのだ。
その『ただ人ならざる力』ゆえに、彼らは長きにわたりその拠点を幾度も移し、口をつぐんで、隠れ住む。だからこそ里の形態は非常に特殊である。
『龍使いの里』――あえて正式な里の名を呼ぶなら『ジスタ』というが――に隠れ住むとは言っても、世間全ての情報を遮断してしまうことは逆に危険に過ぎる。自給自足に限界が生じる場合もあるし、情報はいくらあっても足りないのだ。
ゆえに、役割を、居場所を分けた。一つは人の住まう村や町から隔離された場所……現在においては樹海の中に存在する、『異能者』たるものの集まる集落。
もう一つが、世界各国を巡る『行商』である。こちらは逆に一族の中でも龍使いの異能を持たぬ者だけが、ごく自然に『普通の人間の集団』であるかのように、時と場所によって名乗りを変えつつ集落や村を巡り、売買をし、人々と交流をする。もちろん、『森』の里の存在は国も、草原の向こうに点在する村や集落にも、認知されていない。
――そうして、冬月と阿星、二人は里に住まう龍使いの力を顕現した少年たちである。彼らの遅刻を叱っていた東海も、『龍使い』のひとり。そもそも道場自体が『龍使い』の資質を持つ子供たちのための鍛錬の場であった。