10,『そして、何の前触れもなく、』
その事件は、予期していなかったし、色々と不幸が重なった末に起こったのだ。あれがなければ、冬月と阿星はそれはもう、どこかの薬草売りの子供、という顔を崩すことなくさわやかに世悧たちと別れていただろう。
しかし、事件は起こる。チェラの街から野営地まで帰る道中……というか、野営地についていざ世悧たちと別れる寸前、という時に。
――バッシャン、という音が、事件の始まりで、その場の誰も、その時何が起こったのかよくわからなかった。正確には、背後に人が通りかかっていることも、そのひとが何かを持っていることも冬月は気配で気づいていたが、まさかその人がすっころぶとは思っていなかったし、肩で阿星を支えていたのでとっさに避けることができなかった。
「うわっ」
「うおっ?」
それは背後から、冬月と阿星にむかって、甕の中の水がぶちまけられた音だった。冬の夜空の下で頭からずぶぬれになった冬月は、肩には未だ眠る阿星を引きずっていて、重いし寒いし冷たいし、なんだっていうんだ、と呆然としていた。
そして、別れのあいさつ……むしろ、野営地に泊まっていけ、いいえ結構です、というやり取りをご機嫌で繰り広げていた世悧も、突如ぬれねずみになった冬月と阿星に呆然としていた。
そうして二人で、冬月の背後を振り向けば、そこにいたのは騎士団に同行していた、医師見習の青年で、きれいに転んだ体勢のまま、顔だけあげて真っ青になっていた。
「……」
冬月は思わず、無言で青年を見つめた。青年はいっそう震えだし、なんか憐れになった。わざとではなさそうだし、こちらが大人になるべきだろうかと冬月は思う。
が、冬月が口を開く前に、青年は叫んだ。
「きゃあああああああ!?」
女子かな? と一瞬思う、甲高い、まさに絹を裂くような悲鳴だった。何だっていうんだ。なお、今回来ている騎士や医師たちの中に女性はいない。強行軍で北部に行き、それも護竜山ふもとの樹海に入るなどという、体力勝負な任務であるため、体力自慢が集まった結果男性ばかりなのである。つまり、医師見習の青年も正真正銘、男性だった。
冬月が半眼になっている間に、青年は身を起こしてずるずる尻で後ずさる。
(え? 水かけられたのは僕らなのに、なんで僕らが悪者みたいに恐怖されているの……?)
冬月は理不尽を感じた。そして、一連の流れを呆然と見つめていた世悧は、ここでようやく再起動したようだ。ちなみに阿星はこの期に及んで寝ている。ずぶぬれなのに。凍死したいのだろうか。
「……えーっと。すまんな、冬月。彼は少し動転しているようだ。あ、タオル、使ってくれ」
そうして世悧は、端正な顔に困った表情を浮かべて、穏便にことを収めようとしている。冬月としても、怒りよりとにかく寒かったので、ありがたくタオルを借りようとした。――けれど。
「ダメです! その水に触っちゃいけないです、隊長様!」
「え?」
ずりずり後ずさっていた医師見習の青年が、突如言語を取り戻して上げた叫び声に、びくりと世悧は動きを止める。その顔には困惑が浮かんでいるし、冬月はもちろん、いつの間にか集まっていた野次馬(騎士たち)も一様に首をかしげた。
(いや、寒いんだけど? なんだあの人、僕らに何か恨みでもある……あ)
冬月も最初は同じく困惑していたが、気づいた。『鱗疱瘡』の薬となる『鱗鈴草』。冬月は、というか、龍の一族なら誰でも、その調薬過程を知っていた。何ならそこらの医者よりてきぱき作れる自信があった。ぶっちゃけ、鱗鈴草を定期販売しているのは半分以上龍の一族である。
ゆえに、気づいてしまった。今、自分と阿星がひっかぶった『水』が何だったのか。
(あ~。気づかれたな、これ。野次馬多いし、逃げるのは面倒かもなぁ)
冬月はこの糞寒い中でずぶぬれという踏んだり蹴ったりな状況で、遠い目をした。
――さて、この鱗鈴草。鱗疱瘡の薬になるまでには段階がある。まずは乾燥させ、それをすりつぶし、水に溶かして、その他の材料と混ぜ合わせることで完成する丸薬だ。
この工程の中の、『水に溶かす』という部分だが……この水は、不純物のない、完璧な蒸留水でなければならない。なぜならば水に不純物が混じっていると、毒性を持ってしまうという厄介な性質があるからだ。まあ、救いと言えるかはわからないが、ここで失敗すると、本来赤いはずの水の色が紫になるのですぐわかる。
そしてその毒はどんな効果なのかと言えば、割とひどい。触ると皮膚が爛れるのだ。これはかなり痛いときく。その上、解毒に使えるのは同じ鱗鈴草で作った軟膏のみだ。
面白いのは、一日程度しか毒性が持たないので、失敗したモノはしばらくおいておけば、やがて毒性はなくなって色も変わり、ただの黒い水になるということ。
そして、龍気を持っていると、この毒は効かないということだ。
つまり、乾燥が終わったものから調薬を開始していたが、失敗。世悧が触れば皮膚がただれる毒性をいまだ保っている、失敗したてほやほやの水を隔離しようと運んでいた医師見習の青年は、誤ってそれを冬月たちにぶちまけたのにもかかわらず、平然とされてガチビビりしたので悲鳴を上げたし、今叫んでいるのだろう。
(てか、そもそも、鱗疱瘡も、龍の一族はかからないんだけどね)
それも龍気が関係しているし、割とそんな感じで龍の一族と『普通の人間』の違いはいろいろある。
と、それはともかく、冬月が遠い目をしているうちに、医師見習の青年からの叫ぶような説明が終わり、世悧たちは状況を把握したようである。目の前の彼の赤い瞳が、驚愕に見開かれたのを冬月は見つめ返した。
そして、何の前触れもなく、阿星に肘撃ちをお見舞いした。世悧はさらなる驚愕に口元をひきつらせていたが、知ったことか。
「うぐってぇ、……ってさむ!? さっっっむ!」
阿星が目を覚ましたことに、冬月は良しとうなずいた。
「いや冬月。起こしたかったのはわかるが他の方法はなかったのか?」
「この真冬に水をかぶっても寝ている馬鹿には、これくらいじゃないとおきませんよ」
なんか普通に突込みをもらったので、冬月も普通に返したし、冬月の答えに世悧を含めた周囲は納得した。水をひっかぶってからこっち、なんでこいつまだ寝てるんだ、大丈夫か? みたいな視線を頂戴していたので、彼らの理解は深かった。
「え? 何? 何で濡れてんだ? つかなんで殴ったんだよ冬月!」
状況が理解できていないのは阿星だけだった。冬月は真顔で、簡潔に答える。
「事故。鱗鈴草の水。ばれた」
「なるほど理解」
阿星も真顔で返してきた。世悧たちは困惑していたが、とりあえず冬月と阿星は通じ合ったので、横並びから背中合わせになって周囲を見る。
「野次馬多いだろ」
「多分、三小隊全員来てるよね」
つまり騎士四十五人+医師多数+庵哉軍大臣という六十人くらいが、たった二人を取り囲んでいるのであった。ちなみに医師見習の青年は、よろよろしながら保護され、医師たちにまぎれて姿は見えない。
「……あのさ。泥酔していた阿星がすっきり目覚めたのもびっくりしたけど、お前ら冷静過ぎねえ?」
全然緊張感のない冬月たちに、一応剣の柄に手をかけた世悧は言った。それを言う資格が世悧にあるのだろうかと冬月は思った。さっき普通に突込みをしてきたし、世悧も大概緊張感がないのだから、お互い様ではないだろうか。
ともかく、冬月と阿星は顔を見合わせ、こてんとそろって首をかしげる。
「いや、だって、命の危険は感じないっすもん」
「騎士や貴族としての隊長さんたちに、僕らを殺すメリットないもんね」
そして言わないが、冬月も阿星も逃げ足には自信がある。だてに毎日熊筋師範から逃げていない。その上、目の前の騎士たちは半分ほど、つい先ほどまで酒盛りしていたのだ。冬月(一番飲んでいた人)と阿星(一番最初につぶれた人)がまるで素面なので忘れそうになるが、世悧含め他の飲み会参加者は、立派な酔っ払いで泥酔者も多数である。さらにここは地の利がある樹海の近く。つまり、一見多勢に無勢なこの包囲状態は、結構抜け道が見えるし、包囲を抜ければ逃げられなくはない。
じり、じり、と双方が次の動きを待って無言のにらみ合いをしてしばし。降ってきた低い声は、冷静な男のものだった。
「……あの、樹海に『龍使いの里』があるのだな」
軍大臣・庵哉。鋭い眼光を冬月たちに向け、問う。それに冬月と阿星は目を見合わせた。すでに冬月と阿星が、『龍使い』と呼ばれる者たちであることは、やはり確信を持っているようだ。
「まあ、隠しても仕方ないから、答えるっすけど。ありますね、あの奥に」
わしゃわしゃ、と頭を掻きながら答える阿星に、庵哉は目を細め、周囲の騎士たちは一気にざわつく。
「……え。これマジの話?」
「冬月と阿星がアレ? あの、あれ……龍使い……ってこと?」
「龍使いって未確認生物だと思ってた……」
「俺もそう思ってた……」
ほとんどの人間に緊張感はなかった。素面の人間も、酔っ払いどもにつられているらしい。庵哉が微妙な顔をして騎士たちを見たことに、冬月たちは気づいた。世悧も気づいていた。(なんか……大変そうですね……?)という視線を投げてしまった冬月と阿星に、(そう、こいつらの世話は大変なんだよ……)と視線を返してきた世悧。一般的に、このような絶好の機会に恵まれれば、目の色を変えて冬月たち龍使いを捕縛にかかっておかしくないのに、これである。部下が部下なら上司も上司だと思う。
なんだかなあ、とこちらも微妙な顔をしているうちに、仕切り直しとばかりにゴホン、と庵哉が咳払いをした。
「……随分と、素直に答えるのだな。私たちがこれから、龍使いの里に侵攻するかもしれないというのに」
しかし、その言葉に、再び冬月は阿星と目を見合わせるしかなかった。そして、ふたりは真顔で返す。
「いや無理だと思います」
「あんな森の浅いとこで迷子になってたのに何言ってんすか。集団失踪したいんすか」
そうだった! みたいな顔を、庵哉はしなかったけど世悧はした。庵哉は、ピクリとほほをひきつらせただけだったが、たぶん内心、今気づいたんじゃないだろうか。都会っ子集団な騎士団員たちに、この大自然は攻略できないのだと。
「いや、でも森だろ。人海戦術なら、木を伐採するとかいろんな方法があるぞ」
慌ててそういった世悧に、正気か? という目を冬月たちは向けた。まるでとんでもない人でなしを見たかのように、二人、手を口元にあて、顔を寄せ、眉をしかめ、ひそひそ話す。
「え、隊長さん正気? 正気なの?」
「酔ってんだろ? そうだろ? じゃなきゃあんなこと言わねーって。ここ何処かわかってんだろ、護竜山のふもとだぜ?」
「だよね。東龍の縄張りの樹海を荒らすとか、自殺行為でしかないのに、まさかそれを部下にやらせようなんて……」
「ひそひそすんな! 聞こえてるからな! 全部聞こえてるからな! そんな鬼畜を見るような視線を向けるんじゃない!」
世悧は耐えきれず怒鳴った。しかし、同じく冬月と阿星のひそひそが聞こえていた(聞こえるように話していたのだが)周囲の騎士たちが、世悧に「うわぁ……隊長ありえない」って視線を向けていた。世悧は泣きそうだった。
ここで、冬月は容赦なく追い打ちをかける。
「言っときますけど、自分たちの里に侵攻してくる敵を龍から助けるほど、うちの一族はお人好しじゃないですからね」
だから、あの少数民族が今まで生き残っているのだ。もし、そんな博愛主義の自己犠牲精神にあふれている一族だったら、とっくの昔に滅びているだろう。というか、誇り高き龍の縄張りに、うっかり迷い込んだり、やむを得ず足を踏み入れたのならばまだしも、軍事侵攻する時点でなわばりの主の反撃にあうのは自業自得である。
そして、その場は再び、微妙な空気が流れた。庵哉はため息をついて額を抑えている。ちなみに、影の薄い副隊長・亥良は、最初からずっと、庵哉のすぐ横にいる。たぶん護衛のためについているのだろうけれども、オロオロオロオロしていて特に発言していなかった。よってその存在には冬月も、阿星も特に言及することなく、視線を世悧に向ける。
世悧はいろいろ面倒くさくなったように、言った。
「……えっと。冬月と、阿星。二人は俺たちの命の恩人だから、手荒なことはしたくないんだ。でも龍使いと判明したお前たちを逃がすのも、ちょっとな。色々聞きたいし、できればうちの国に所属して、守ってほしいし。……おとなしく俺たちと一緒に来る気って、あるか?」