9,『いったい今まで何を見て生きてきたのだろうか』
「っなにやってんだジェタ!!」
景気の良すぎる殴音とともに冬月の怒声が響く。攻撃は完全に予想外だったのか、ジェタは一瞬呆けてまじまじと冬月を見つめた。しかし冬月はそんな彼を見て、間髪入れずにのど元を締め上げ、ギリギリギリと締め上げる。そのままがっくんがっくん揺さぶると、当然のように駄龍の頭がグラングランと揺れた。
「あ? こんなとこまで? いったい? 何しに来たんだよ? お前はさぁ?」
ジェタを揺さぶりながら冬月は一言一言を脅すように放つ。
「お、おおう、なかなかのご挨拶だな、冬月。そ、そんなにここ数日私に会えないのが寂しかったのか!」
グラングランと揺さぶられつつ、それでもジェタはジェタだった。たたいた軽口は逆効果。いや、本気だったのかもしれないところが計り知れない。
「……ちっ。やっぱり脳みそ腐ってるな」
激しい舌打ちと共に、冬月は掴んだジェタを突き飛ばす。いきなり離された勢いで、そのまま壁に衝突しそうになりながらも、かろうじてジェタは踏みとどまった。それにさらに舌打ちをする冬月。心底残念そうだった。しかし、それにすらどこか嬉しそうにジェタが笑う。冬月は思い切りドン引きした。何だこいつ。むしろ寒気を感じた。
「……」
無言で冬月が後ずさると、ジェタは楽しそうに髪をかき上げながら口を開いた。
「ああ……、そなたはやはり面白いな。ことごとく予想外の反応を見せる」
そしてくつくつと笑うジェタ。
(マゾか)
いつもの邂逅でのやり取りからも、こいつには被虐趣味があるのではと常々疑ってはいたが、確信に変わりつつあった。いろんな意味で関わりたくない。そういう性癖があることは否定しないが、自分を巻き込まないでほしい。具体的に言うと、冬月以外で嗜虐趣味の人間を見つけて、利害の一致を結んでほしい。
というか、だから、どうして冬月に付きまとうんだこいつは。今まさに、里の龍使いたちが、森で感じられた異変について調査中だというのに、異変の原因がこんなところにやってきて人間に混じっている。
なんだか各方面に申し訳ない気持ちになるものの、冬月が謝る必要は一つもないだろうと思い直した。そして大きくため息を吐き出してから、今度は冷静に問う。
「お前仮にも王だろ? 腐っても、なんだかんだ言っても王だろ? こんなところにいて良いのか?」
「腐ってないしなんだかんだ言わなくても王だが、問題ない。私が旅に出ることなどうちの者たちは慣れている。一度出ると数か月はざらであるし数年であることも少なくないな」
あっさり言ったジェタに開いた口が塞がらない。そして東龍が可哀そうになった。自由人な王をいただくと、きっと下が苦労するんだろう。龍社会がどういう形なのか知らないが、たぶん間違いなく、一部の東龍たちはこの奔放な王に振り回されている。かわいそうに。
「……そんな頻繁に、人間の間に混じって何してるんだよ?」
「女漁りだ」
最低野郎だった。
この龍王、人間界での振る舞いや身だしなみは多少学んでいるようだが、人間の考え方というものは学ぶ気がさらさらなかったのだろうか。外聞とか思いやりという概念がないのか、それとも本能に忠実なだけか。どちらにしたってたちが悪い。
冬月はこめかみに青筋を浮かべる。――が、こちらが口を開くより先に、ジェタはほんの少しだけ冷めた目で言った。
「何もしなくても私がこの姿で歩いていると、向こうからやってくるのだ。人間とは本当に単純な奴らよ」
特に興味もなさそうに言い捨てる彼に、冬月は怒りよりも諦めの念が浮かんだ。
「……僕もその単純な人間の一員なんだけどね……」
見た目だけはお綺麗なジェタに惑わされた女たちの末路など、あえて聞かなかった。聞かなくともわかる、龍の手中に落ちたものの結末など。一種の本能であるその行為を今更責めるほど冬月は子供ではなかった。だからといってその結末を予想できないほどめでたい頭はしていなかったので、少し嫌悪を表す表情になるのは仕方がない。しかしその表情を何と勘違いしたのか、ジェタは慌てたように弁明した。
「いや、違うぞ、そなたは私が求める伴侶なのだからな?」
「……」
いつだって気色の悪いほど楽しそうに笑みを浮かべている彼にしては、焦ったようなそれは少し珍しい表情だったので、思わず見つめる。そんな冬月を見てジェタは急速に平静を取り戻して、見慣れた笑みを浮かべて言った。
「なんだ、私に見とれているのか?」
「違うけど」
即答した冬月は、美形に耐性があった。阿星や蜜香もそうだし、彼らがそうならその両親も美形であった。そもそも冬月自身の顔面が美しい自覚もしっかりある。ただ、『顔面が美しい=目立つ』という認識しかないだけだ。普段は前髪を下ろして美貌を隠し、必要に応じて気配も薄めているのは、ただ目立つのが面倒だからだ。なお、その認識を改めさせ、もっと警戒心を持てと教育しようとした阿星や蜜香や東海は、ことごとく敗北を喫した。
ともかく、美しい顔は自分や周囲で、毎日見慣れているので今更ジェタに見惚れたりしない。こいつも目立つ顔立ちだなと思うだけだ。そもそも冬月は、割とジェタのことを変態だと思っている。見惚れるには無理があった。
「お前が見当はずれの弁明をしているから、なんだこいつって思っただけだよ。……お前、東龍たちの感情にも、そんな風に疎かったりしないだろうな? 龍には龍のやり方があるのはわかってるけど、そんな自由にふらふらして、その上あんまりにも察しが悪いなんて、いくらお前が『王』とはいえ、愛想尽かされないか?」
冬月はため息とともにそう言いつつ、淡々と彼の青灰色の瞳を見つめたまま心の中だけで、龍ならばそんなことはあり得ないのだろう、とも思う。すると、ジェタはからかうように顎に手をあて首をかしげた。
「おや。まさか私の立場を心配しているのか?」
その言葉に冬月はイラっと来た。ジトリと目をすがめる。彼女の澄んだ紺青の瞳に強い光が宿った。
「心配したらいけないのか? お前は変だし何かと迷惑だし、非常識だし、あんまり関わりたくないやつだし、変だし駄龍だし面倒臭い奴だけど……こうして話ができる相手なんだから、知人程度の情はある」
当然、といった表情で冬月はきっぱりと言う。冬月からジェタを見た時、ジェタの言う『伴侶』は断固否定するし、『友人』とは断じて言わない。が、秘密も知られてしまっている現状、ただの『知人』よりは、もう少し近い感覚である気も本当はしている。……言わないが。
ただ、冬月にとっては大した内容ではない言葉だったのに、ジェタが本気で驚いた顔をしたから、冬月は眉をひそめる。
「何、その顔。そんなに意外だった?」
ジェタは考え込むように視線を彷徨わせ、瞬きも多い。さり気に『変』を二回言ったからだろうか。……いや、違うだろう。冬月は意味が分からない反応に小首をかしげた。するとジェタは変な顔のまま口を開く。
「……いや、少し……驚いただけだ。人間が、私を、心配するとはな。そういう人間は初めて会ったぞ」
ジェタは独り言めいて呟きながら、冬月と視線を合わそうとしない。……ああ全く。この龍王は、いったい今まで何を見て生きてきたのだろうか。冬月は息を吐いてまたきっぱりと言った。
「ほかの人がどうだかなんて知らないよ。でも僕は言うべきと思ったら言うし、心配もするよ。お前が龍であろうと、人であろうとね」
そこでようやくジェタは冬月に視線を戻す。どこか興味深そうに、彼は言った。
「そなたは、そういう風に言うのだな。恐れもせずに」
そんなジェタへ、返す言葉にためらいなど必要なかった。
「は? 言うけど? というか、『恐れる』? 今更何言ってるんだ。これだけ頻繁に現れて言い合いしてて、もう怖いなんてのはどっか行っちゃったよ。っていうか最初の数回は散々怖がってあげたでしょ。それで十分。それとも何? お前、僕に怖がって欲しいの?」
顰めた眉の下、まっすぐに視線でジェタを射抜く。
「いや、そんなことはない。私は―――」
「おい、冬月! 何やってんだ、そんなところで?」
言いかけたジェタの上にかぶさってきたのは若干呂律の怪しいドラ声だ。店にいたはずの騎士団員の一人である。ジェタと話していたせいで、扉が開いたのに気付かなかった。それは当のジェタも同じだったようで、はっと正気付いたように肩を揺らした。
その騎士が赤い顔のままこちらへ近づいてきたのを見て、ジェタはどこか複雑そうな表情を残したままではあったが、さっと踵を返して闇に消える。
「半分以上つぶれたから、もうお開きにしようって隊長が言ってたぜ。元気な奴はつぶれたやつを担げって。……ところでさっき誰かと話してたのか?」
「ああ。どっかの酔っ払いですよ」
尋ねる言葉に冬月はしれっと返した。そしてどっかの酔っ払いにされたジェタがその声が聞こえて密かに傷ついているのに気付きもせずに、冬月は店の中に取って返した。