6,『人間を歓迎していない森(Side世悧)』
あかん。完全に迷った。
右を見て、左を見て、前を見て、後ろを見たが、木しかなかった。真上も見たが、やっぱり木しかなかった。時間的にはまだまだ昼間のはずではあるのだが、それも常緑の葉に陽光さえぎられて薄暗い。
(これは、ダメなやつだ。ものすごく、ダメなやつだ!)
うっそうとした森の中に立ちつくし、だらだらと冷や汗を流しているのは、一人の男。毛先が外側に遊んでいる柔らかな質でありながらその輝きの濃い金色の髪、宝石のような紅色の瞳は目じりが甘く垂れている、美男子だ。
しなやかな体躯は程よく筋肉に覆われ、それを包み込むのは蒼色の騎士服。襟や袖、裾にあしらわれた金色のラインは三本。襟につけられたバッジは銀色、龍の翼を背景に二つの剣が交錯している。胸元には浅葱色の徽章、その意匠は六枚の花弁を持つ花。
これはオッチェンジェスタ国では、第一騎士団にして『六花』の騎士……つまり、大隊長相当の実力者であり、かつ『牙鱗』と呼ばれる近衛隊……王族直下の護衛隊の一員であることを表している。
若くしてこの地位にいることは実に異例と言われているし、それ相応の実力があるとも自負している。自負しているが、だからと言ってこの状況が打破できるかと言えばそうではなかったりする。
あかん。……完全に、迷った……。
戦闘訓練は詰んでいるものの、常々平和極まっているオッチェンジェスタの騎士である。都会で生まれ、都会で育ち、都会で就職した彼には、残念ながら、この人間を歓迎していない森は強敵すぎた。
しかも、だ。
「……世悧。これは、……」
騎士服の美男子――世悧にそう呼び掛けるもう一人の男が、ここにはいた。
「……申し訳ございません、庵哉軍大臣閣下。……我らはただいま……遭難寸前のようです」
世悧は跪き、深く頭を下げる。そう、目の前の壮年の男――庵哉は、世悧の上司。しかもただの上司ではなく、一番上、騎士団を束ねる総騎士団長よりも上のお人。騎士団・兵士団・警察の三つからなる軍部、その統括を担う軍大臣その人である。
この庵哉軍大臣もまた、美丈夫と言える男であった。白髪ひとつない黒髪に黒髭、眼光の鋭い黄土色の瞳。かつては自身も騎士として務めた彼は今も鍛錬は欠かさぬらしく、がっしりとして引き締まった体形は目力も相まって迫力がある。そもそもがやや厳めしさを感じる相貌の上、表情は無に近いために、さらに拍車をかけていた。
だがしかし、彼は決して理不尽な男ではない。付き合いが長ければわかる程度に自嘲を込め、庵哉は言った。それは責める口調ではない。
「そんな気はしていた」
ですよね。世悧は思った。口には出さなかったが。
美男子と美丈夫がそろっていても遭難は遭難である。大自然の前では、美貌はただの顔面の皮一枚でしかないのだ。最悪の事態を予測しつつ、世悧はさらに頭を下げる。
「すべて私の不手際です。面目次第もございません。……ですが、必ずやお守りし、帰還いたします」
「……迷ったのは、私が深追いしたせいだ。頭を上げろ」
「いいえ、こうなる前にお止めするべき責務がございました。……ですが、確かにこうしているわけにもいきませんね」
苦笑し、深く下げた頭を上げると世悧は再び周囲を見渡した。木しかなかった。前も後ろも右も左も全く持って同じにしか見えない。絶望だ。
どうしよう、と焦りつつ、落ち着くためにも世悧は状況を整理することにした。そもそも、自分たちはなぜ森にいるのか。
――今現在、オッチェンジェスタ国では各地で病が流行っている。『鱗疱瘡』、という名の通り、鱗のような発疹が体中に現れる病である。発疹の痛み・かゆみ・発熱などなど症状はいろいろある。十数年に一度ほど流行する病だ。
この病、多くは子供がかかるが、あまり重症化せずに一般的な解熱剤やかゆみ止めだけで完治する。その上、一度かかれば二度とかかることはないため、普段であればそこまで問題視されることはない。ああ、そんな時期になったのかぁ、くらいのものである。軽い。どこまでも暢気な国民性はここにも現れている。
だがしかし、五人に一人程度割合で、幼少期に経験せずに大人になったものもいる。というか貴族にそういった大人が多い。貴族であるがゆえに整えられた衛生環境に加え、幼少期の行動範囲が限られるため、感染源も少ないからだろう。
そしてそういった大人が罹患すると、実にひどい。症状もひどいし完治まで時間がかかり、下手をすれば命を落とす。そして症状がひどいと、一般的な解熱剤程度ではやや効力が弱いのだ。踏んだり蹴ったりである。
それでも治療薬がないわけではない。作成できる薬師が限られていることもあり常時流通はしていないが、それでも大きな問題にはここ何十年もなっていなかったくらいには、その薬の存在は知られていた。だから余計に、鱗疱瘡の流行に対する国民の反応は軽かった。ヤバい状態に陥る寸前まで、マジでのほほんとしてた。
さて、そこで今回。貴族の中で、この病にかかったものが、いた。己の子供からうつされたらしい。そしてこの病の潜伏期間中に、貴族が全員集まる、年に一度の大会議が開催されていた。
……そしてそして、会議の数日後、貴族の多くが病に倒れたのである。……大惨事だった。
しかもその罹患者に国王陛下がいた。目も当てられない大惨事だった。
もちろん王医をはじめとして首都の医者という医者をあたり、重症者が使用する『鱗疱瘡』専用治療薬を探し求めた。しかし最悪なことに在庫が足りなかった。全く足りなかった。
……時期も悪かった。十数年に一度の流行が始まって、そうして終息する間際の事件であったからだ。誰の日ごろの行いが悪かったのだろうと、真っ青になって頭を抱えた国上層部は一人や二人ではない。
薬がないならば作るしかあるまい。その結論に至ったのは早かった。しかし材料がないとガタガタ震えながら医者たちは言った。顔面蒼白、それこそ命ばかりはお助けを、と命乞いする勢いで怯えていた。
いわく。治療薬は作成できる薬師が限られていることもさることながら、希少な薬草を使用しており、その生息域もまたごく限られている。ゆえに薬草を入手するにはその地に赴き採取するか、その薬草を取り扱っている専門業者に委託するしかない……という。
なんてこったい、と国上層部は泣いた。
そして不幸はまだまだ積み重なる。その薬草、希少である上に、使い道がこの流行病一択、と言っていいほど限定されているらしく、取扱業者が実に少なかった。そして専門業者はなぜか一様に各地を流れ歩いている……というか、本当に薬草の生息域が狭いせいで乱獲禁止、しかも特殊な環境が生育に必要なせいで栽培ができない。
そんな面倒な薬草のくせに、必要とされるのは十数年に一度あるかないか。つまり、一般的な薬師やら薬問屋やら商人に人気のない薬草なのだ。
それらすべての事情が相まって、数少ない専門業者は各国を練り歩くらしい。流行の始まる頃ふらりと現れて十分な量を販売し、去っていくのが常。当然のように、今の時期ではすでにオッチェンジェスタを去っていた。去ってしまっていた……。
おいおい、マジかよ、とこぼした国上層部はもはや涙も出なかった。
ならばどうするか。薬草を自力で取りに行くしかないのである。
事は一刻を争う。しかし、その薬草を見分けることができる者も必要だった。『鱗鈴草』というこの薬草、葉の裏が紅いという特徴があるが、他はよくある植物とさして変わりない見た目なのである。唯一よかったのは年中葉を茂らせているため、冬真っただ中である現在でも採取可能なことだ。
……乱獲禁止の制限は、王家の権限で一時的に採取に赴く騎士たちの判断に任せられることになった。背に腹は代えられない。刈りつくさない事に十分気を付けるように厳命されてはいる。
そんな中、医師はもちろん動員されたが、――鱗鈴草を見分けられる者たちに、どういうわけか軍大臣が、含まれていた。
軍大臣・庵哉。彼は見た目を裏切って研究者気質を持っていた。特に薬草・調薬については下手な医者顔負けだったという。
――そうして、軍大臣・庵哉の息子は鱗疱瘡罹患者の一人だった。ゆえに常になく強硬な主張をし、騎士団に同行。畳みかけるように場所が『護竜山』ふもとの森というから、三小隊という動員になった現在。鱗鈴草を求めて森に深入りし……今に至った。
親心、と言えばそうだろう。国を預かる者の一人としての責任もあったかもしれない。世悧は思う。庵哉自身もかつて騎士であったこともあり、足取りは確かで、鱗鈴草を採取する手つきも手慣れたものだった。いっそ世悧よりよほど森の歩き方は様になっていたといえるだろう。
だがしかし、所詮庵哉も、都会で生まれて都会で育ち、都会で就職したお貴族様であった。容赦なく森に惑わされた。
「とにかく、私が方角だけでも一度確認をしてまいります」
「太陽も見えぬが、解るのか?」
「木登りくらいは何とか……、少々お待ちください」
とりあえず、行動しよう。そう思った世悧はおもむろに腕まくりをすると、枝ぶりのしっかりした木を選ぶ。意図を理解したのか、庵哉は邪魔にならぬようやや距離を取り、周囲の警戒に努めていた。
――が、その時。
がさり、と音が、した。ぴたりと動きを止め、世悧は庵哉をかばい腰に佩いた剣に手をかけつつ、音の発生源をにらんで息を殺した。
仲間の騎士が探しに来た、可能性は低い。それなら声を出して探し回っていてもいいはずだ。……ならば野生動物、あるいは……龍、の可能性もある。ここは青龍の巣・護竜山のおひざ元なのだから。
「「……」」
無言のまま、世悧と庵哉はゆっくり、あとじさる。冷や汗がにじみ――
「……あ?」
「え?」
がさり、と大きく揺れた草むらの向こう。顔を出したのは、見知らぬ二人の、人間だった。