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狼に変わる旦那様、離縁状をくわえてこないでください

掲載日:2026/10/11

「待ったは一度までのはずだ、クロエ」

「まだ駒には触れておりません」

「三度、手を伸ばした」

「考えるのは何度でもよろしいでしょう」


 夫は笑いをこらえる時、唇の端だけを少し上げる。

 私はそれを見るのが好きだった。自分が負けそうな時でなければ。


 ギルベルト公爵に嫁いで三週間になる。

 冷酷で気難しく、笑顔を見た者がいないと噂の夫は、毎晩私と盤上遊戯に興じていた。昨夜までの成績は私の十八敗。引き分けすらない。

 実家では父にも兄にも勝っていたので、最初はたまたまだと思った。五敗した頃には相性の問題を疑い、十敗目でようやく夫が強いのだと認めた。

 だからといって、負けてよいわけではない。


「そこまで悩むなら、明日に持ち越そう」


 夫は壁の時計を見た。

 夜半を過ぎていた。侍女のヘルガがお茶を替えに来て、今度は私のカップにだけミルクを多く注いだ。

 眠る時間だと言いたいらしい。


「この盤面のままで?」

「誰にも触らせない」

「私がいない間に、駒を動かしませんわね」

「そんなことをしなくても勝てる」


 私は夫を睨んだ。

 彼はとうとう笑った。冷酷な公爵の笑顔を見たいだけなら、私を夜更かしさせればいい。


 白い駒が私、黒い駒が夫。

 今は私の手番で、盤の右端には彼の騎士がいる。その駒は取れる。けれど、取ってしまえば中央を守る私の駒が一ついなくなる。

 前にもそれで王を追い詰められた。

 今度こそ、あの騎士に手を出さずに勝ちたい。


「では明日の夜、同じ時間に」


 私が立つと夫も腰を上げた。

 左手の銀の指輪を、右の親指でくるりと回す。

 難しい手を考える時の癖だった。盤から離れた今もしているのが気になったけれど、私は明日の勝ち方を考えるので忙しかった。


「クロエ。君に、話しておくことがある」

「盤の攻略法でしたら、伺いません」

「そうではない」


 夫は指輪から手を離した。

 私は続きを待ったが、彼は窓へ目を向けてしまった。


「……明日、話そう」

「忘れないでくださいませ。勝っても負けても」


 夫の腕を取って廊下へ出た。

 彼は私の歩幅に合わせ、寝室まで送ってくれた。扉の前で手に口づけるのも、いつものことだった。

 明日は私から頬にしてみようか。

 勝てたら、きっと気分よくできる。


 ◇


 ところが翌晩、夫は来なかった。

 私は小広間で本を読み、冷めた紅茶を飲み、もう一度同じ頁を読み直した。

 盤は昨夜のまま。右端の騎士も動いていない。


「旦那様は、お加減でも悪いの?」


 尋ねると、ヘルガはお茶を注ぐ手を止めた。


「書斎にいらっしゃいます」

「呼んできてくださる?」

「今夜は、お会いにならない方がよろしいかと」


 私は本を閉じた。

 その言い方では、会いに行かずに済むはずがない。


 廊下へ出ると、ヘルガも後ろからついてきた。

 どういうことかと尋ねても、旦那様からお聞きになるのが一番ですとしか答えない。書斎の前で呼びかけると、中で椅子を引くような音がした。


「ギルベルト様。お約束の時間を過ぎております」


 返事はなかった。

 もう一度叩こうとしたら、扉がこちらへ開いた。


 大きな狼がいた。


 銀色の毛が灯火を受けて光り、肩の高さは私の腰ほどもある。灰色の目が私を見上げた。

 口には一枚の紙をくわえていた。


 私は一歩退き、ヘルガの腕をつかんだ。

 狼の背後へ目を走らせる。誰もいない。窓辺の椅子に夫の上着が掛かり、机の上には眼鏡と銀の指輪が置かれていた。


「……旦那様は?」

「こちらに」


 ヘルガは狼へ目を向けた。

 私も見た。狼は紙を落とさないまま、気まずそうに耳を伏せた。


「ご当家の血筋でございます。旦那様は満月の夜だけ、このお姿になられます」


 廊下の窓から丸い月が見えた。

 もう一度、狼を見る。


「ギルベルト様?」


 狼が頷いた。

 その拍子に、紙の端が揺れた。


「お言葉は話せませんが、奥様のお話はすべてお分かりになります。お心も普段の旦那様のままで。夜が明ければ元のお姿に戻られます」


 ヘルガの説明は、あまりに落ち着いていた。

 私だけが、ひどく場違いな顔をしている気がした。

 狼は私に近づこうとして、つかまれたままのヘルガの腕へ目をやった。それから足を止め、紙を持ち上げた。


「それを、私に?」


 頷く。

 私は片手を伸ばした。紙の端をつまむと、夫はそっと口を開けて放してくれた。

 白い紙には二つの歯形と、夫の見慣れた署名があった。


 離縁状だった。


 驚きすぎると、本当に声が出なくなる。

 持参金の返還。住まいの用意。今後の生活に不自由のないように、と続く文面を読み、最後に空白の署名欄を見た。

 そこへ私が名前を書くようになっていた。


「昨日、お話があるとおっしゃったのは、これですか」


 狼は少しためらって頷いた。

 私にとっては、姿が変わることより、こちらの方がよほど分からなかった。


「十八回も負かしておいて、お別れするおつもり?」


 狼が顔を上げた。


「昨夜、明日もいらっしゃるとお約束したでしょう」


 返事の代わりに、喉の奥で低い音がした。

 体が少し強張った。狼はすぐに口を閉じ、顔を背けた。

 私は紙を握る手から力を抜いた。

 怖くないと言えば嘘になる。けれど少なくとも、この人は私を怖がらせないようにしている。


「怒っているのでは、ないのね」


 彼はゆっくり頷いた。


「なら、今はお声を出さなくて結構です。何がおっしゃりたいか、余計に分からなくなりますから」


 私はようやくヘルガの腕を放した。


 ◇


「私が嫌いになったのですか」


 狼は大きく首を振った。

 その勢いに少し安心したけれど、ではなぜこんな紙を出したのかは分からない。

 私は離縁状を裏返した。こちらには何も書いてなかった。


「理由くらい書いてくださればよかったのに」


 夫の目が泳いだ。

 紙の端を引こうと鼻先を寄せ、途中でやめる。取り返したいのか、もう一度読めというのか、それさえ分からなかった。


「筆をお持ちしましょうか」


 ヘルガが聞いた。

 私は夫の前足を見た。大きな毛の塊の先から、爪が少しのぞいている。


「それで書けるの?」

「以前、お試しになりました。机が傷だらけになりまして」


 夫がヘルガを見た。

 声はなかったが、言うなと聞こえた気がした。


「では、お話は朝に伺います」


 離縁状を畳む。

 紙が鳴るたび夫がこちらを見た。私は紙を持ったまま小広間の方を指した。


「その前に、昨夜の続きを」


 夫は動かなかった。


「忘れたとは言わせません。あなたの騎士を取るべきか、私は午後いっぱい考えていたのです」


 灰色の目が私を見つめた。

 戸惑っているのは分かる。私だって戸惑っていた。夫が狼になったことも、離縁状を渡されたことも、まだうまく飲み込めない。

 けれど昨日の勝負が終わっていないことは確かだった。


「私が勝ったら、その紙を撤回して――」


 言いかけて、やめた。

 そんな条件をつけたら、十九敗目と引き換えに屋敷を出ることになる。最初の一勝もしていないのに、ずいぶん分の悪い賭けだ。


「いいえ。これは賭けません。朝、あなたのお話を聞いてからです」


 夫の耳が少し立った。


「盤の上では、いつもどおり勝ちにいきますからね」


 私は向きを変えた。

 数歩進んでも足音がしないので振り返ると、夫はまだ書斎の戸口にいた。


「来てくださらないの?」


 今度は少し、声が小さくなった。

 明日は私から口づけようと思っていた人が、昨日よりずっと遠くに見えた。

 夫は床へ目を落とした。それから戸口を出てきた。

 爪が床石を踏む音が、私の後ろをついてきた。


 小広間に戻ると、夫は扉の前で止まった。

 いつもの椅子と、自分の足を見比べている。

 私はヘルガに低い卓を出してもらい、二人で盤をそちらへ運んだ。駒が倒れないよう両側を持ち、ゆっくり下ろす。


「ひとつくらい動いていても、気づかないのでは?」


 夫はこちらを見た。

 私は笑った。少なくとも、今の目の意味は分かった。


「冗談です。ずるをして勝ってもつまらないでしょう」


 離縁状は畳んだまま、盤から離れた脇机へ置いた。

 私は敷物の上に座り、向かいの場所を掌で叩いた。夫はしばらく私と盤を見比べていたが、やがて黒の側へ回り込んだ。

 大きな体を横たえると、銀の毛の向こうに卓の脚が隠れた。


「お茶は、どうなさいますか」


 ヘルガに聞かれ、私は夫を見た。

 彼は首を振った。私は自分の分だけ頼み、それから侍女へ少し身を寄せた。


「ヘルガ。お水なら飲める?」

「いつも、浅い器をお使いです」

「では、そちらをお願い」


 侍女が下がると、部屋が急に静かになった。

 火のはぜる音と、夫の息遣いがする。

 私は膝に触れそうな前足を見た。昨夜まで、同じ場所に夫の靴の先があった。盤を覗き込むと時々触れて、私は気づかないふりをしていた。


「本当に、全部お分かりなのよね」


 夫が頷く。


「では今朝、私が朝食のジャムをこぼしたことも?」


 また頷く。

 ついでに、私の口元へちらりと目をやった。


「そこについていたのは、もう知っています」


 あの時、夫は私に何も言わずナプキンを渡した。今も似たような顔でこちらを見ている。

 私は肩の力を抜き、盤へ向き直った。


「私の手番からでしたわね」


 夫が黒の駒へ鼻を近づけたので、すぐに制した。


「まだです。考えている途中」


 鼻先が下がった。

 意外に大きく、息を吐く音がした。


「ため息も、お上手ですこと」


 私は取れる騎士を見ないことにして、中央を守る駒を動かした。


 ◇


 夫は盤を覗き込み、前足を持ち上げた。

 厚い肉球が駒へ近づく。


「待って。ご自分で動かしたら、周りの駒まで倒れそうです」


 前足が止まった。


「私が動かします。どれを、どこへ?」


 夫は黒い駒の一つへ鼻を寄せた。

 私が持ち上げると、今度は空いている升目を見る。そこを指で示して尋ねると、彼は頷いた。


「ここですね。では、こちらへ」


 駒を置く。

 それだけで、夫に仕えているような気分になった。自分の王を追い詰める手伝いまでしているのだから、ずいぶんよくできた妻だ。


 右端の騎士には触れず、守りを固める。夫は反対側の駒を示した。

 私は指示どおりに動かし、すぐ次の駒へ手を伸ばしかけた。

 鼻先が、私の指を押し戻した。


 冷たかった。

 普段なら「考え終わってから手を伸ばせばいい」と返されるところだ。

 私はその鼻先を指で軽く押し返した。


「そういうご注意は、明日まとめて伺います」


 夫は驚いたように目を開いた。

 私は何事もなかった顔で駒を進めた。


 しばらくして、夫が次の手を考え込んだ。

 黒い駒を見比べ、私の側へ目を移す。

 大きな前足がもう片方の前足に重なり、何かを探すように爪先が動いた。


「指輪なら、書斎です」


 夫が顔を上げた。


「難しい手を考える時、いつも回していらっしゃるでしょう。ようやく私にも、あなたを悩ませる手が指せたようですわね」


 私は隠さず笑った。

 夫は前足をきちんと並べ直し、盤に向き直った。

 肩の毛が少し盛り上がった。


「悔しい時に黙る癖も、そのままですのね」


 今度は長くこちらを見た。

 私も見返した。

 やがて夫が先に盤へ目を戻したので、私は勝った気になった。


 ただし、そちらの勝負だけだった。


 数手後も、右端の黒い騎士が私の守りを脅かしていた。

 中央は固めてある。以前のように飛び込まれても大丈夫。そう思っていたのに、夫が次に示したのは反対側の塔だった。

 私が彼の指示どおりに駒を置くと、自分の王の逃げ道が一つ消えた。


「……あら」


 盤の右端を見た。

 取らなかった騎士はまだそこにいる。それを警戒して駒を寄せたせいで、今度は左の守りが薄くなっていた。


「騎士を取ると思っていたのでは、ないんですか」


 夫は首を振った。


「取らないと分かっていて、置いておいたの?」


 頷いた。

 私は盤を睨み、夫を睨み、もう一度盤を睨んだ。


「昨日から?」


 また頷く。

 私は両手で顔を覆った。

 午後いっぱい考えた時間を返してほしい。


 それでも諦めきれず王を逃がした。

 夫が次の駒を示す。私はそれを動かしてから、しばらく自分の王を見つめた。

 どこへ動かしても、助からなかった。


「負けました」


 十九敗目を認めると、夫はゆっくり顔を上げた。

 いつものことながら、実に腹の立つ落ち着き方だった。


 私は白い王を倒し、深く息を吐いた。

 夫も息を吐いたが、こちらは勝った後とは思えないほど長かった。その視線が脇机へ動く。

 畳んだ離縁状が置いてあった。


「もう一局」


 顔を上げた夫に見えるよう、私は白い駒を並べ始めた。


「今度は最初からです。あなたが黙っている分、私も少しは集中できるでしょう」


 彼は動かなかった。


「……お疲れですか」


 首を振る。


「では、よろしいでしょう。私はまだ、あなたと遊んでいたいの」


 そう言ったら、夫はようやく盤へ顔を戻した。

 黒い駒を片づけようとする私の指に鼻先が触れ、止まる。私が手を引かずにいると、彼はそっと頬を寄せた。

 銀の毛は、見た目より温かかった。

 ほんの一瞬触れただけで夫は離れ、何事もなかったように並びかけの駒を見た。


「今ので、手加減すると思わないでくださいね」


 夫は長い息を鼻から抜いた。

 どうぞご心配なく、と聞こえたのは私の勝手な想像だ。


 その後、私は二十敗目を喫した。

 二十一敗目をどうにか免れようとしている頃には、時計の針はずいぶん進んでいた。

 夫は相変わらず容赦なく駒を取り、私のうっかりした一手を見逃さなかった。

 こちらを慰めようとして負けてくれたら、たぶん私は腹を立てただろう。

 けれど勝たせてくれないのも、やはり腹が立つ。


「あなたと遊ぶのは、本当に忙しいわ」


 私があくびを噛み殺すと、夫は盤と私の顔を交互に見た。

 やめるか、と聞かれている気がしたけれど、私は首を振った。


「決着がつくまでは眠りません」


 そう言ってすぐに、王を追い詰められた。


 ◇


 窓の外が白む頃、ヘルガがやってきた。

 私たちを見ても驚かず、夫へそっと声をかける。


「お着替えは、隣室にご用意しております」


 夫が立ち上がった。

 大きな体が盤の向こうから消えると、急に部屋が広くなった気がした。

 私は足を伸ばし、ようやく敷物から椅子へ移った。立ってみて初めて、腰が固まっていたことに気づく。

 ヘルガが温かいお茶を注いでくれた。


「旦那様は、お強うございますね」

「嫌になるほど」


 侍女は笑い、空いた器を下げていった。


 ほどなく隣室の扉が開いた。

 銀の毛も長い鼻もない。シャツの襟元を整えながら、いつものギルベルト様が入ってきた。

 ただ、書斎から戻してもらった指輪をはめる手が、少し落ち着かなかった。


「クロエ」


 一晩ぶりの声だった。

 私はカップを下ろした。


「ようやく、お返事を伺えますわね」

「まず、謝らせてほしい」


 夫は向かいへ座った。


「結婚する前に話すべきだった。分かっていたのに、君を失うのが怖くて、言い出せなかった」

「なぜ離縁状を?」

「姿を見てからでは、私に申し出ることさえ怖いだろうと思った。私の署名があれば、君はいつでも……」


 そこで言葉が止まった。

 夫は膝の上で手を握り、脇机の紙を見た。


「本当は、使ってほしくなかった」


 私はそれを取って卓上へ置いた。

 折り目を開くと、端に残った歯形がよく見えた。


「だったら、その一言も書いてくださいませ。私には、あなたが私を追い出したいように見えました」

「すまない」


 夫は俯いた。

 指輪を回そうとした右手を、左手で押さえている。


「昨日も、話すつもりだった。君が明日の勝負を楽しみにしているのを見たら、また延ばしてしまった。こんなふうに過ごせるのは最後になるかもしれないと思って」

「私も、楽しみにしていましたよ」


 顔を上げた夫に言った。


「今日は勝てるかもしれない。勝ったらどんな顔をなさるかしらって。あの騎士を取らずに済む手も、ずっと考えていました」

「知っている」

「ご存じだからこそ、さらに罠をお張りになるんですものね」


 夫の唇の端が少し上がった。

 私はその顔を見て、大きく息をついた。


「狼には驚きました。唸られた時は、怖かったわ」


 笑いかけた顔が曇る。


「でも、あなたが来なくて、今夜はもう遊べないのかと思った時の方が寂しかった。お会いできて、ほっともしていたんです」


 夫は私を見つめた。


「君は、昨夜も楽しめたのか」

「三回とも負かされましたけれど」

「それは、すまない」

「そちらは謝らないで。次は私が勝ちますから」


 彼は少し笑った。

 それから笑みを収め、私の方へ身を乗り出した。


「私は、君と暮らしていたい」


 朝の光の中で聞く声は、夜会で誰かに命じる時より低く、小さかった。


「君が明日の勝ち方を考えながら眠り、夕食になると私の顔を見に来る。そんな毎日が、この先も続いてほしい。来月も、その先の満月にも」


 私は眠い目を瞬いた。

 夫は逃げずに見返してきた。


「君が好きだ、クロエ。帰らないでほしい」


 私は手を伸ばした。

 夫の左手を取り、落ち着かない指輪を一度だけ回してから、指を絡めた。


「私も、あなたが好きです。おかげで毎晩、負けた後もお顔を見たくなるの」


 彼の手に力がこもった。


「この先も、私を負かしてよろしいわ。その代わり、次の勝負には必ず付き合ってください」

「約束する」


 夫は私の手を離し、離縁状を持ち上げた。

 紙が二つに裂ける音がした。さらに重ねて破り、歯形のついた端まで小さくして、屑入れへ落とす。

 私の署名欄は、最後まで空白だった。


「これで、よろしいだろうか」

「もう一つ」


 私は椅子を立ち、夫のそばへ行った。


「昨夜、私から頬に口づけようと思っていたんです」

「そうだったのか」

「ええ。でも、あなたに先を越されてしまいました」


 夫は不思議そうにした。

 私が自分の指に頬を寄せる仕草をすると、彼は口元を片手で覆った。


「……あれは」

「ですから今度は、こちらへ」


 唇を指さした。

 夫が椅子から立ち、私の腰へ手を回す。

 近づいた顔は少し赤かったけれど、口づけは狼だった時よりずっと上手だった。


「来月も、同じ時間に小広間でお待ちしております」

「ああ」

「離縁状はお持ちにならないで。駒にもなりませんから」


 夫は笑った。

 私はその腕に寄りかかり、低い卓に残った盤を見た。白い王は倒れ、黒い駒はきれいな顔でこちらを見ている。


「今夜こそ、私が勝ちますわ」


 頭の上で夫が小さく笑う。


「楽しみにしている」


 今度は、私も疑わなかった。

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