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詐欺を論破したら、王子の首根っこを掴むはめになった

作者: マサ
掲載日:2026/09/12

 王立学園の広大な食堂は、昼時ともなれば色とりどの制服を着た貴族の子息たちでごった返していた。金糸の刺繍が施された高位貴族の外套が揺れ、シャンデリアの下では優雅な笑い声とカトラリーの音が耳障りに響いている。だが、その華やかな空間の片隅、柱の陰に申し程度に追いやられた席だけは、まるで別の澱んだ空気が溜まっていた。

 

 俺――エイル・フォンタナ。いや、苗字なんてこの学園では飾りだ、ただのエイルは、茶色くすり減って油汚れの染み込んだ木製テーブルに陣取り、ぬるくなった野菜スープをただ匙で突っついていた。周囲の貴族たちから向けられる視線は、冷ややかというより、そこに粗大ごみでも転がっているかのような無関心そのものだ。無理もない。ここは王国の未来を背負う特権階級の学び舎であり、俺のような平民出身の特待生が混ざっていること自体が、彼らにとっては異物混入なのだから。


(……頼むから、今日も何も起きるな。このまま何事もなく、無事にこの昼休みが終わってくれ……)


 前世の記憶がある。ごく普通の、それこそ底辺の営業職で数字に追いまくられ、胃薬を相棒にすり潰される日々を送っていた社畜の記憶だ。あんな泥沼のような人生をもう一度やり直す気力などない。この異世界では、貴族のお歴々に尻尾を振る必要もなく、ただ目立たず、平穏に卒業し、どこかの田舎の片隅でひっそり暮らすことが目標だった。スープの濁った油膜を匙でかき回していた時だった。隣のテーブルから、やけに浮かれた、しかし妙に湿っぽく熱を帯びた声が耳の奥に突き刺さってきた。


「――聞いたか?幸運の黄金樹の投資案件、次の期日までに一口金貨十枚を出せば、二人の紹介者を作るだけで元金が倍になって返ってくるらしいぞ」

「ああ、知ってる!上の位階に上がれば、自分で動かなくても下の者から勝手に上納金が入ってくる仕組みだそうだ。あれは実質、何もしなくても富が湧き出る錬金術だな」


 手がぴたりと止まった。匙を持ったまま、俺の指先が強張る。――なんだって?喉の奥が急にカラカラに乾き、唾液を飲み込む生々しい音が耳の奥でこだました。


(……おいおい)


 乾いた息が唇から零れ落ちる。いまの台詞は、かつて日本という国で聴き飽きたそれと完全に同質だった。俗に言う、ネズミ講、あるいはマルチ商法。前世の記憶の奥底で、テレビやネットの記事が流れるように通り過ぎていく。上位者が下位者の血肉を吸い上げ、全体のパイが限界を迎えた瞬間にすべてが瓦解する。構造上、絶対に全員が救われることはなく、最後に残った末端の人間がすべての負債を背負って無に帰す――法律の有無を超越した、純粋にして冷酷な数学的暴力。


(よりによって、このファンタジー世界でそれをやるか……っ!)


 剣と魔法が世界を支配していようとも、人間の業の形など変わらないらしい。いや、魔力経済の特異な流通構造を持つこの国でそれをやっては、毒性は雪だるま式に跳ね上がるはずだ。


「これで魔法剣を手に入れられる」

「新しい馬を買える」


 隣のテーブルでは、上級貴族のボンボンたちが、脳天気に未来の札束を数えて酔いしれていた。彼らの無知な笑顔の裏で、数え切れない絶望の群れが牙を剥いている未来図が脳裏に生々しく浮かび上がり、胃の腑が引き裂かれるような冷たさで収縮した。


(やばい、関わるな。絶対に触るな。俺はただの平民の生徒だ。あいつらがどうなろうと、俺の平穏な学生生活には一切関係ない……!)


 自分にそう呪文のように言い聞かせ、微かに震える指を無理やり木目へと押し付け、味のしないスープを無理やり喉の奥へと流し込む。目の前の粗末な器から血走りそうな眼を逸らすように視線を落としたが、脳髄の奥では先ほどの悪夢のようなざわめきが、悍ましい残響としていつまでも鳴り響いていた。


 幸運の黄金樹の話を耳にしてから、数日。俺は関わらないこと、とにかく視界に入れないことを信条に、埃っぽい図書室の隅で息を潜めて日々を過ごしていた。食堂でも隅の席を死守し、怪しげな投資話で盛り上がる一団とは徹底して距離を取る。完璧なまでの事なかれ主義だ。だというのに、運命というやつはつくづく悪趣味らしい。図書室の窓際、分厚い歴史の資料をめくっていた俺の背中に、重みのある気配が不意にのしかかってきた。


「よお、エイル。相変わらずだな」


 顔を上げると、そこには申し訳なさそうに眉を下げ、しかしどこか現実逃避じみた楽観的な笑みを貼り付けたルークが立っていた。没落寸前の下級貴族ベレット家の次男坊であり、この広大な学園の中で、なぜか俺なんかと気さくに話してくれる数少ない友人だ。人柄は悪くない。むしろお人好しすぎて、悪意ある人間にカモにされやすいタイプの典型だった。俺は嫌な予感を全身に覚えつつ、開いていた本をパタンと乱暴に閉じた。


「なんだよ、ルーク。お前がこんな薄暗い図書室に来るなんて珍しいじゃないか」


 ルークは周囲の気配をちらりと伺うと、小さな椅子を引きずり、俺の向かいの席にドサリと腰を下ろした。


「いやさ……こないだ、食堂でエイルが一人で何か呟いてたろ。あれが気になってさ。お前、こういう世情に詳しいだろ?実はさ、幸運の黄金樹って投資話、学園の外の街でもめちゃくちゃ流行ってるんだけど、知ってるか?」


(……やっぱり、その話かよ)


 俺の眉間が深く刻まれ、呼吸が浅く乱れる。ルークはそれに気づいていないらしく、落ち着かない手つきで制服の裾をいじりながら言葉を続けた。


「うちの親戚の男爵家もさ、最近家計が火の車でさ……。藁にもすがる思いで、その黄金樹に出資しようかって話になってるんだよ。でさ、エイル、お前も一緒に乗らないか?なんでも今なら我が家経由で、特別に紹介枠を作れるって言われてさ」


 思わず額に手をやり、ぐっと視線をテーブルの木目に落とした。よりにもよって、このお人好しがその腐った泥舟に、身内ごと飛び込もうとしている。


「……おい、ルーク」


 俺は息を細く吐き出し、テーブルの下で両手を固く握りしめながら、喉のつかみを押し殺すように低い声で釘を刺した。


「その話、ガチでやめとけ。絶対に、大損する。上の数人しか得をしない、典型的な詐欺だから」


 ルークはまばたきを数回繰り返し、きょとんとした間抜けな顔をした。


「さ、詐欺……?いや、でも、周りの連中はみんな儲かってるって……」

「だから……!新規の金で過去の配当を回してるだけで、参加者が頭打ちになった瞬間、一銭も戻らなくなってすべてが吹き飛ぶ。お前の親戚が全財産を失いたいなら止めはしないが、身の破滅を生で観たいのか?」


 あまりの剣幕に押されたのか、ルークは息を呑んでたじろぎ、冷や汗を額ににじませた。


「そこまで、言うなら……」


 彼はわずかに体を引いた。まあ、これだけ言えばさすがに踏みとどまるだろう。そう思い込みたかったが、ルークの指先が自分のネクタイの結び目を落ち着きなく引っ張っているのが見え、嫌な予感が胃のあたりで重く澱んだ。その予感は、最悪の形で現実のものとなる。ルークは家に帰るなり、身内である男爵家の叔父に、恐怖と焦りをそのまま引き継ぐようにこう伝えてしまったのだ。


「エイルが、あれは典型的な詐欺だから絶対に出資しちゃダメだって言っていた……」


 その言葉を聞いた男爵家の叔父は、血の気が引いたように青ざめた。家が没落しかけているからこそ、一縷の望みをかけていた投資が詐欺だと言われ、パニックに陥ったのだ。彼は必死になるあまり、その情報を隠さず、自分たちの一族を牛耳る寄り親である有力侯爵家に駆け込んだ。


『我が家の知る平民の優秀な者が、あの黄金樹は危険な詐欺だと言っております。どうかお調べを……!』


 その一報は、泥沼に落ちた石のように波紋を広げた。侯爵家が不審な投資話として独自に調査を始めたところ、単なる悪質な詐欺という枠に収まらない現実が浮かび上がってきた。背後には、他国から流れ込んだ不穏な影と、王国の富を根こそぎ吸い上げようとする経済工作の構造が見え隠れしていたのだ。事態の深刻さに重鎮たちは顔面蒼白となり、緊急の協議を経て王家へ直訴が行われる。


『王国を揺るがす経済的脅威が水面下で進行している。一刻も早い実態把握と摘発を――』


 平穏を願う平民の一言が、ほんの数日という短いスパンで、王国の財務と外交を巻き込む巨大な国家機密の引き金を引いてしまった。冷めたスープの残りを匙ですくい、味のしないそれをただ口に運びながら、俺は今日も周囲の喧騒からできる限り体を縮こまらせている。


 ある日の放課後。その日も俺は、ルークが持ち込んだ不穏な噂の波及を警戒し、誰とも目を合わせないように足早に自習室から自室へと戻ろうとしていた。石造りの長い廊下を曲がり、中庭へと通じるアーチを抜けようとしたその足が、ぴたりと止まった。黒い制服に身を包んだ学園の警備兵が二人、音もなく進路を塞いでいたのだ。屈強な体躯から放たれる威圧感のせいで、肺腑の空気が無理やり押し出される。周囲の生徒たちが何事かと足を止め、好奇の視線を投げてくる中、警備兵の一人が乾いた声を落とした。


「エイル・フォンタナだな。生徒会棟へ同行してもらう」


(……は?)


 血の気が一気に引き、心臓が肋骨の裏側を激しく叩きつける。頭の中で最悪のシナリオが回り始める前に、胃の腑が嫌な冷たさで収縮した。


(終わった。あのときルークに余計なことを言ったのがバレたんだ。平民のくせに貴族様の投資話にケチをつけた。王宮の地下牢に引きずり込まれて、二度と日の目を見ないんだ……!)


 冷や汗が首筋を伝い、シャツの襟を濡らす。足元がグラリと揺らいだように感じながらも、逆らうことなどできるはずもなく、俺は二人の間に挟まれるようにして生徒会棟へと歩き出した。その道すがら、見慣れた学園の景色がやけに歪んで映る。食堂の前や中庭のベンチでは、相変わらず幸運の黄金樹の甘い蜜に酔いしれた生徒たちが群がっていた。


「親の借金が返せるんだぜ」

「こんな儲け話に乗らないやつは脳みそが腐ってやがる」


 彼らはそんな言葉を吐き捨てながら、次なるカモを釣るための紹介リストを嬉々として握りしめている。そのすぐ脇を、硬くなった足を引きずるようにして俺が通り過ぎる。やがて、生徒会棟の最奥にある、普段は絶対に生徒が立ち入らない重厚な扉の前に到着した。警備兵がノックもそこそこに、無機質な音を立ててその扉を押し開ける。瞬間、部屋の中から溢れ出した冷気が、俺の背筋を芯まで凍らせた。


(やばい、やばい、やばい……っ!)


 指先が冷たく痺れ、呼吸が浅く早くなる。震える足を無理やり一歩踏み出し、床の木目を凝視しながら部屋の奥へと視線を這わせた。窓から差し込む夕陽を背に、ゆったりと椅子に腰掛けていたのは一人の少年だった。整いすぎた容貌には、年端もいかない学生とは思えない、ガラスのように冷徹な美しさが宿っている。王立学園の生徒でありながら誰もが畏怖する第二王子、アルベール。その周囲には、書類の山を抱えた厳めしい顔つきの財務・外交官僚たちが、まるで刃物のような視線をこちらに向けてずらりと控えていた。逃げ場のない密室の中で、俺はスラックスの端を強く握り締め、ただ立ち尽くすしかなかった。


「顔を上げよ、エイル」


 静寂を切り裂くように響いた声は、若くして王国の次代を背負う第二王子、アルベールのものであった。冷徹な美貌をたたえた瞳が、怯えて縮こまる俺を真正面から捉えている。その背後では、屈強な官僚たちが獲物を値踏みするかのような鋭い眼光を向けていた。


「そなたがかの黄金樹の仕組みを看破し、破綻を断言したそうだな。……確たる根拠があってのことか。絶対に損をする、その理由を詳しく説明せよ」


 低い、だが逃げ場のない圧力を伴った問いかけだった。


(ここで詰まったら終わりだ。不敬罪だの国家反逆だのと言いがかりをつけられて、その場で切り捨てられる……!)


 冷や汗がまぶたを伝い、視界が滲む。歯の根が合わないほどの寒気の中、俺は奥歯を強く噛み締め、乾ききった喉を無理やり鳴らした。


「は、はい……っ!ご説明、いたします……」


 机の上に置かれた白紙の羊皮紙と一本のペンを手に取り、俺は前世の泥臭い営業の記憶と、叩き込まれた数字の理屈を脳内で必死に引きずり出した。


『黄金樹概要および資金循環スキームに関する聴取書』


 震える手で書き付けたそのタイトルを視界の隅に入れながら、俺は掠れた声を絞り出した。


「まず、ひっ……一つ目は、その……数学的限界による、構造的な破綻です」


 ペンを走らせる指先が痙攣し、インクの線がひどく歪む。


「仮に、この黄金樹が謳う通り、一人が二人を勧誘し、元金が倍になって返り続けるとしましょう。加入者が新たな仲間を呼び込み続ける、際限のない拡大の仕組みです。ですが、これを数世代繰り返すとどうなるか。参加者の数は爆発的に膨れ上がり、わずか十数世代で、この王国の全人口、ひいてはこの大陸全体の総人口すら軽く超過します」


 官僚の一人が、はっと息を呑み、硬い音を立てて身じろぎした。


「無限に会員が増え続けることなど、あり得ません。つまり、この仕組みは新規の参加者が無限に調達できるという、絶対に満たされない前提の上に成り立っているんです。限界が訪れた瞬間、必ず行き詰まります」


 さらに、俺はペンを走らせる勢いを強め、羊皮紙に叩きつけるように文字を重ねた。


「二つ目は……上層だけが富を吸い、末端の九割以上が破滅する構造だからです。この投資話には、魔石の精製や作物の生産といった、新たな生産や経済活動が一切生み出されていません。動いているのは、後から参加した人間が払った現金を、上の階層へそのまま回しているだけです。上が儲かるということは、その何倍もの人間が下層で全財産を搾り取られ、一文無しになっているということです。最終的に、全参加者のうち九割以上の末端は、自分の投資金を一銭も回収できずに路頭に迷います」


 部屋の空気がさらに張り詰め、財務官僚の男が信じられないものを見る目で手元の図を見つめている。だが、俺の恐怖と焦りは止まらない。ここで国の危機を叩きつけなければ、自分の首が飛ぶ。


「そして、三つ目が……最も重大な、国家の治安と外交への危機です」


 俺は最後の一点を絞り出すように声を張り上げた。


「貴族から平民に至るまで、国内の幅広い層が全財産をこの詐欺につぎ込み、ある日突然それが破綻したとしましょう。何が起きるか。莫大な債務を抱えた者たちの間で凄まじい規模の暴動が発生し、国内の購買力は完全に消滅します。富の偏在と経済の混乱によって王国全体が疲弊したとき、それを隙と見た他国が経済工作や軍事侵攻を仕掛けてきたら……この国は、外敵に抵抗する体力を残していない状態になっているはずです」


 言い切った。そこまで一気にまくし立てると、俺は膝の力が抜け、荒い呼吸を繰り返しながら床に手をついた。冷や汗で濡れた手のひらが、冷たい石畳の感触を拾う。部屋の中には、鉛のように重い沈黙が落ちていた。誰も声を発しない。財務官僚は額の汗を袖で拭いながら、震える声を漏らした。


「……馬鹿な。我が国の経済や流通、その裏にある仕組みすら見通したかのような……」


 隣の立っていた外交官僚も、青ざめた顔で小さく頷いていた。静まり返った部屋の最奥で、第二王子アルベールは、床に手をついたまま肩で息をする俺を、ただ冷徹な眼差しで見据えていた。長い沈黙ののち。アルベールの端正な唇が、ふっと歪み、静かな笑みを形作った。


「見事だな、エイル」


 アルベール王子は、冷徹さの中でどこか面白がるような光を宿した瞳で俺を見据えている。


「これほどの知見を持つ者が、学園の隅で埋もれているのは国益の損失だ。どうだ、我が直属の財務局へ加わらないか?特例として、平民であっても破格の地位と報酬を約束しよう」


(――王宮のスカウトだ)


 脳の奥で、前世のブラック企業で文字通り過労死寸前まで追い込まれた記憶と、権力闘争の泥沼に引きずり込まれて暗殺される未来が思い浮かぶ。ごめんだ。王宮なんて、一番行きたくない魔窟の最深部じゃないか。


 震える足を必死に制御し、頭を床につけんばかりに下げた。


「もったいなきお言葉でございます……ですが、私のような未熟者が王宮の重責を担うなど、身の丈に合いません。それに、私はただ静かに学問を修め、平穏に卒業したいと願う身。なにとぞ、この愚鈍な平民をお見捨てくだされば幸いです」


 不敬罪にならないよう目一杯気をつけての綱渡りだったが、平穏に暮らしたいという私欲を隠さずに拒絶したことで、かえって変な野心がないことをアピールしたつもりだった。


 すると、隣に控えていた保守派の老官僚が、嫌悪感を隠さずにつまらなさそうに声を荒げた。


「殿下、お戯れを。いくら一時的に才気を見せたからといって、身分の低い平民を王宮の、しかも財務の中枢に迎え入れるなど貴族社会の秩序を揺るがします。身の程を知らぬ者が調子に乗るだけですな」


(よく言った、ジジイ!その通りだ、俺なんかを近づけるな!)


 内心でその老官僚に盛大な拍手を送り、激しく同意した。


 アルベール王子は、そんな保守派の反発をちらりと一瞥すると、ふっと肩をすくめた。


「ふむ、本人がそこまで固辞するなら無理強いはすまい。身分の壁というのも、時には堅いものだな」


 王子はあっさりと引き下がった。あまりにも素直な幕引きだった。


(よっしゃ……!助かった……!)


 牢獄行きを免れただけでなく、面倒なスカウトもうまくかわした。これで元の、誰からも注目されない平和な学園生活に戻れる――このときの俺は、本気でそう安心しきっていたのだ。王国の中枢が、そんな甘い逃げ道を許してくれるはずがないとも知らずに。


 あの一件から、学園の空気が変わった。


 公式の夜会でアルベール王子が口にしたという我が国の経済を救った平民の少年という言葉が、あっという間に生徒たちの間に流れ込んだらしい。


「おい、あいつが……」


 図書室の席に着こうとすれば、隣の卓からひそひそ声が飛んでくる。食堂の隅でスープをすすっていれば、見知らぬ商会の子息がまとわりついてきて、抜かりなく口説き文句を並べていく。


(……は?はあぁぁぁっ!?ちょっと待てよ!!)


 目立たず平穏に卒業するというプランは、王子の勝手なプロパガンダによって音を立てて崩れていた。


 もう限界だった。自室のドアを開ければ利権をねだる手紙が雪崩のように落ちてくるし、教師たちまで奇妙な期待の目を向けてくる。


(ふざけるな……!俺が望んだのは、ただ静かに卒業して田舎で細々暮らすことだけだろ……!)


 前世のブラック企業の組織ですり潰されてきた悪夢が、頭の中で激しく疼く。ここで王子の掌の上で飼い慣らされたら、過労死か暗殺で終わる未来しか見えない。


「……国を出よう」


 寮の自室、月明かりだけが頼りの暗がりの中で、震える手で一枚の羊皮紙にペンを走らせる。


『父さん、母さん。王都でちょっと取り返しのつかないことに巻き込まれました。しばらく連絡が取れなくなります』


 雑な謝罪を書き殴ると、旅費として隠し持っていた全財産の入った革袋を懐にねじ込んだ。


 正面の門には見張りが立っているだろうが、建物の構造や警備の隙間くらいはリサーチ済みだ。使い古した地味なローブのフードを目深にかぶり、裏手の古びた搬入口から音もなく飛び出した。


 冷たい夜風が頬を叩く。王都の外れにある馬車乗り場か、そこから港町へ抜ける街道へ出さえすればいい。国境を越えちまえば、アルベール王子だって手は出まい。


(よし、うまく巻いた……!)


 足音が響かないように裏通りの石畳を必死に駆け抜ける。心臓がうるさく脈打つが、この冷たい夜風のなかにこそ求めていた平穏があるはずだった。


 その足元が、パタリと止まった。


 裏通りの暗がりから、音もなく伸びてきた影が完全に進路を塞ぐ。振り返る間すらなかった。冷たい気配が首筋を撫でたかと思うと、次の瞬間、視界が真っ白に弾け飛んだ。全身の麻痺とともに地面へ崩れ落ちる。意識を保とうと奥歯を噛み締めたが、無情にも視界は暗転した。


 冷たい石造りの床の感触で意識が浮上する。ここは、あの生徒会棟よりもさらに深い王宮の一室らしかった。薄明かりの中、第二王子アルベールが優雅に椅子に腰掛け、カップの紅茶を静かに傾けている。


「よくぞここまで足を伸ばしたな、エイル。夜の散歩にしては、少々遠回りだったようだが」


 その皮肉めいた声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがぷつりと音を立ててちぎれた。胃の腑が一気に熱を帯び、頭のなかの血管が引き攣るように脈打つ。これまで抑え込んできた冷たい緊張が一気に沸騰し、限界点を突き破った。


「……ふざけんなよ」


 掠れた、だが震えの混じった声が部屋に響く。


「なんだと?」


 アルベールがわずかに眉をひそめる。だが、もう恐怖で縮こまる小物ではなかった。脳のブレーキが焼き切れていた。


「ふざけんなって言ってんだよ……っ!」


 拘束されたまま上体を起こし、血走りかけた目で目の前の王子を睨みつけた。


「生まれながらに全てを手に入れ、人の意思なんておもちゃの兵隊みたいに動かせると思ってやがる!あんたたちが勝手に仕組んだ詐欺の尻拭いをさせられ、勝手に面倒な噂をばら撒かれて日常はめちゃくちゃにされた!貴族どもの悪意に晒されて、いつ暗殺されるかびくびくしながら生きるこの地獄のどこが国益だ!人の人生を勝手にオモチャにするなよ……っ!」


 溢れ出る涙を拭うこともせず、溜め込んでいた澱のような言葉をすべてぶちまけた。明日には首が刎ねられているかもしれない。そんな捨て鉢な、すべてを投げ出した剥き出しの怒りだった。


 息を荒げ、肩を大きく上下させながら、王子を睨み据えた。


 怒りに満ちた姿を見たアルベールは、意外にも言葉を失い、目を見開いて固まっていた。そして、ほんの一瞬の沈黙の後。


「……はっ。ははは、ふはははは!」


 王室の規律も威厳もあったものではない、心の底から愉快そうに、彼は声を上げて笑い出したのだった。


「殿下!この無礼者め、今すぐ首を刎ね――」


 控えていた側近の官僚が、青筋を立てて剣の柄に手をかけた。しかし、アルベール王子は片手を挙げてその制止を命じ、笑みを引っ込めた。その瞳には、先ほどまでの余裕とは違う、冷徹な理性の奥にある深い疲労の色が浮かんでいる。


「下がれ。……言うではないか、エイル」


 王子は冷めた紅茶のカップをソーサーに置くと、深く息を吐き出した。


「お前は、私がただ生まれながらの特権にあぐらをかいて、他人の人生を玩具にしているだけに見えるか。……笑わせるな。この腐り切った王宮で、明日にも毒を盛られるか他国の工作員に暗殺されるか、そんな恐怖におびえながら生きている私の孤独が、お前にわかるものか」


 静かな、だが押し潰されるような重圧を伴った声だった。アルベールは椅子から立ち上がり、一歩ずつ俺へと歩み寄る。その冷ややかな美貌には、確かに俺と同じ、理不尽な構造にすり潰されようとする者の影が宿っていた。


「だがな、エイル。現実を見ろ。お前はこの王国で、唯一あの詐欺の構造を見抜き、国家の破綻を防いだ『唯一の知性』だ。一度その頭脳の価値が知れ渡った以上、お前をこのまま野放しにすればどうなるか分かるか?他の貴族派閥に拉致されて政治の道具にされるか、あるいは危険視されて闇に葬られるかの二択だ。お前が平穏に暮らせる場所など、この世界にはもうどこにもない」


 逃げ場のない現実を、王子の冷徹な声が突き刺す。


「選択しろ、エイル。私を主とする直属の側近となり、この国の盾となれ。さもなくば、王家を侮辱した不敬罪の罪人として、今ここで静かに闇に消えろ。お前を守れるのは、王位にある私だけだ」


 胃の腑が冷たく冷え固まり、恐怖の代わりに胸の奥から吐き気が湧き上がってきた。王子の側近として一生ブラックな政争に関わるか、ここで犬死にするか。どちらを選んでも、求めていた日常は戻ってこない。喉の奥が勝手にひきつる。


「……冗談じゃない」


 拘束されたまま地面に膝をついた姿勢で、乾いた笑い声が漏れた。


「なんだと?」

「王子の側近?ふざけんなよ。結局、俺を自分の都合のいい道具として使い潰したいだけだろ。そんなもん……勝手にしろよ」


 まっすぐアルベールを見据える。もはや怯えの色はない。


「首を刎ねられるなり、暗殺されるなり、野たれ死ぬなり、好きにしろよ。どうせお前らの都合で殺されるなら、ここで這いつくばって命乞いしてやる義理なんかない。俺の人生をこれ以上ぐちゃぐちゃにするなよ!」


 保身を完全にかなぐり捨てた拒絶の言葉が、冷え切った密室に投げ出された。


 アルベール王子はすぐには動かなかった。怒鳴り声を上げるわけでもなく、ただ冷徹な瞳を細め、まるで未知の魔物を見つめるかのように静かに思案にふけり始める。


(どうせ殺されるなら、言いたいことくらい言ってやるさ……!)


 死を覚悟したことで逆に頭の回転が鋭利になっていた。拘束されたまま上体を起こし、目の前で計算を狂わせている第二王子へ向けて、乾いた笑いを落とす。


「……殺せるもんなら殺してみろよ、王子様」


 言葉を継ぐ。


「あんたは自分で言ったはずだ。俺がこの国の経済の歪みを見抜いた『唯一の知性』だと。そしてそれを、国民や貴族たちに大々的に宣伝してバラ撒いたのは誰だ?『我が国の未来を救った天才平民』として俺を神格化したのは、他でもないあんた自身だろ」


 側近の官僚たちが、ハッとしたように青ざめて息を呑んだ。


「そんな人間を、『自分の思い通りに手駒にならなかったから』という私怨で、あるいは危険視だからという理由で、不敬罪を口実に闇から闇へと葬ってみろ。――何が起きるよ?」


 冷ややかに言い放つ。


「『国家の損失である天才を、度量の狭さと嫉妬から処刑した暗愚な指導者』。……世間の人々や敵対する貴族派閥は、あんたにそういう烙印を押すはずだ。あんたがどれだけ国を思っていようが、積み上げてきた信頼も、民からの支持率も、一瞬で粉々に砕け散る」


 エイルはさらに続ける。


「お前が手を下さなくても、俺が殺されたり拉致されれば『唯一の知性』を守れなかった無能だ」


 自らが仕掛けた網が、今まさに王子の首元を締め上げる縄へと変わっている。王子が作り上げた神話が、そのまま王子の逃げ道を塞ぐ檻になっていた。


 アルベールの端正な顔から、わずかに余裕の色が消える。計算の狂いを悟った王子の瞳孔が、かすかに揺らいだ。


「――殿下、お待ちくだされ!」


 青ざめた側近の官僚が、震える声でアルベール王子の腕を引き留めた。額にびっしりと浮いた冷や汗が、床の光を反射している。


「彼の言う通りです……!今ここで彼を消せば、我々が築いてきた世論の信用は地に落ち、保守派も改革派も一斉に牙を剥くでしょう。かといって、野放しにすれば王家を脅かす特異点になりかねない……!」


 側近は激しく頭を振り、青い顔のまま王子を見上げる。


(ふっ、ざまあみやがれ……)


 極限の緊張感の中で、口の端が歪む。拘束されたまま床に這いつくばった状態から顔を上げ、氷のように冷ややかな笑みを王子に向けて浮かべてみせた。


「どうするんだよ、王子様。選択肢は二つだ。俺を殺して自滅するか、それとも俺を生かして、このまま王宮の檻の中で怯えながら暮らすか」


 トドメの言葉を叩きつける。俺が仕掛けたこのハッタリが、あの王子の喉元を締め上げる細い縄になる。かつて俺を虫けらのように扱った王子が、いまや俺の一言で青ざめている。


「だがな、勘違いするなよ。俺は大人しくお前らの飼い犬になる気なんてハナからねぇ。もし今後、少しでも平穏を脅かしたり自由を縛ろうとしたりしてみろ――この国の経済的欠陥の全容と、それを回避する全ての仕組みを、敵対する貴族派や他国へ丸裸にしてバラす手はずを、完璧に整えてから、大勢の前で不敬を働いて喜んで首を刎ねられてやるよ」


 俺が死ねばこの国も一緒に沈む。その縛り首の縄を、自分の手で王子の首筋へと掛けたのだ。


「お前が俺を殺すなら、この国も一緒に沈めてやる。……さあ、どうする?」


 アルベール王子は、自分の足元で不敵に笑う俺を見下ろした。その動かぬ現実を前に、王子の端正な顔が、悔恨と冷や汗に歪んでいくのだった。


 長い、長い沈黙が部屋を支配した。


 冷や汗を流す側近たちの視線が集中する中、アルベール王子はゆっくりと息を吐き出す。その表情にあった焦燥はすでに消え去り、代わりに浮かんでいたのは、自らの完璧な計算が木端微塵に砕け散ったことに対する、冷徹で深い敗北感だった。


「……見事だ、エイル」


 王子は乾いた笑みを漏らし、立ち上がる。


「私の完敗だな。まさか、一人の平民にここまで足元をすくわれるとは思いもしなかった。……いいだろう。お前の処刑は取り消す。自由にするがいい」


 アルベールは鋭い眼光を向けたまま、静かに告げた。


「だが、覚えておけ。お前がどれほど平穏を望もうと、この国の運命を揺るがす特異点になってしまった事実からは、もう一生逃れられんぞ」

「警告どうも……。でも、ご心配なく」


 拘束を解かれた体を立たせようとして、ひどく重くなった膝がガタリと揺れる。冷や汗を拭う余裕すらない。


「あんたが……馬鹿みたいに大がかりな工作なんかしないで、普通の隣人として接してくれてたら、こんな泥沼にはならなかったはずだ。まあ、身分差や選民意識に縛られたあんたには、最初から……そんな選択肢はなかったんだろうけどさ」


 側近の官僚たちは正気を疑うように青ざめ、気絶せんばかりに震えながら怒りの声を漏らしたが、息を切らしながらも言葉を継いだ。


「便利な相談役にでも据えておけば、おとなしく協力してやったものを……。無理やり牙を剥いて手駒に取り込こうとするから、このザマだ。自業自得ってやつだな……っ」


 乾いた笑いを掠れさせながら言い捨て、二度と振り返ることもせず、静まり返った謁見室を後にした。


 背後から追いかけてくる者は誰もいない。王宮の重厚な扉を抜け、冷たい夜明けの空気が残る王都の石畳へと踏み出す。空の向こうが、ほんのりと白み始めていた。


 目立たず平穏に卒業するという当初のささやかな願いは、跡形もなく吹っ飛んだ。これからの学園生活も、きっと面倒な視線や一筋縄ではいかない連中に囲まれるに違いない。


「……ふう、なんとかなるか?」


 緊張が完全に解けた途端、酷く摩耗した両足が鉛のように重く沈む。あんな化け物みたいな王子を相手に、よく生きて帰って来られたもんだ。心臓のバクバクはまだ収まらないが、あの野郎の青ざめた顔を思い出せば、少しだけ溜飲が下がる。


 朝日を浴びながら、足を引きずるようにして自室のある寮へ向けて歩き出した。

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