ファティマの天啓〜考えるな、感じろ! はい、そうします!
それは、まさに天啓だと思った。
だからファティマは従ったのだ。それこそが己の運命を切り開くのだと信じて。
「ごめんあそばせっ!」
そう断りを入れてから、悪運を打ち払うべく、思いっきり拳を打ち込んだ。
──優雅に微笑んだ、男性の顔面に。
女の細腕だと侮ることなかれ。なぜなら、私は秘技を知っている。「ひねるように打つ」。脳筋である兄から伝授してもらった必殺技よ。
腰や体幹の回転によって生み出される大きな運動エネルギーが、最終的に拳の速度と威力に変換され、単に腕だけで打つよりも、体全体の回転力を利用することで、はるかに強力なパンチになる。
そして、打撃の瞬間に拳を「ひねる」ことで、手首の関節が固定され、力が逃げずにまっすぐ対象に伝わり、拳の最も硬い部分で的確に衝撃を与えることができるのだ!
「ぐわっ⁉」
おほほっ。ほら、ご覧なさい。みっともない声を上げて倒れたではありませんか。
……でも、兄様。私への衝撃もかなりのものだわ。拳も手首も肩も背中も痛いです。
「なっ⁉ 何をしているのです、ファティマ!」
じんじんと痛む腕に泣きそうになっていると、お母様が蒼白になって叫び声を上げた。
「……天啓ですわ。『目の前の男を打ちのめせ』とお告げがありましたの」
正直に言ってみてから、何だか頭の悪い発言だと気づく。でも、事実だから仕方がない。
だって、普段ならこんな奇天烈な真似はしないわ。でも、本当に殺らなくてはいけないと思ったのよ。
「何を言っているの⁉ この方はあなたの婚約者でしょう!」
母の言葉に思わずまばたきをする。そして、まだ床に転がってうめいている男を一瞥した。
「……婚約を結ぶな、という意味ではないでしょうか」
この感覚に間違いがあるとはどうしても思えない。
私のあまりにも堂々とした態度に、母も、そして婚約者(仮)のご両親も何も言えずにいた。
「……うぅっ……、ファ…ティマ……」
あら、ようやく話せる状態になったらしい。でも、勝手に名前を呼び捨てにするとは許し難い。
つい、見下す視線をやめられずにいると、男の瞳に涙が浮かんだ。
「……まさか、……覚えているのか?」
──はて、何をだろう。
全く心当たりはないので無表情を保ったまま考える。すると、男は違う意味に取ったらしく、泣きながら縋ってくるではないか。
「っ、ちょっと! 離れてください!」
怖い。泣きながらスカートにしがみつかないで。
思わず今度は蹴り飛ばそうかと思った。その時。
「すまなかった! 君を殺す気はなかったんだ!」
「…………は?」
男の台詞に蹴りを止めた。
だって、殺す? ……私に殺されるのではなく?
「あれは事故だ! ただ運が悪くて! だって、アーリンが妊娠するなんて思わなくてさ!」
「なっ、あなた! あの子とは別れたと言っていたじゃない!」
婚約者(仮)のご両親が慌てているところを見ると、アーリンとはこの男の恋人、もしくは情婦なのかしら。
やだ、この年でそんな人を囲っている男と婚約するの?
思わずお母様を見ると、まるで汚物を見るような視線を男に向けている。……よし、お母様は彼を見限ったわ。
「え⁉ あ、いや、そうじゃなくて! そ、そう! 夢! 夢の話なんだ! だって、一度死んで戻ってくるなんてありえないだろう⁉」
夢……。なるほど。この男が馬鹿でよかった。
「でも、あなたにはそんなお相手がいるのですね? 妊娠したことを不思議に思わないような関係の女性が」
「あ!」
あ、じゃない。本当に馬鹿な人ね。
「そして、だからこそ私には天啓が与えられたのね」
よく分からないけど、婚約してからか結婚してからか、彼は愛人を妊娠させて、それを責めた私を殺したってことよね?
「お母様、帰りましょうか」
「……そうね。教会に寄ってから帰りましょう」
あら、早い。今日はお布施するほどの物も金銭も持ち合わせておりませんのに。
でも、これ以上話を聞く必要はないだろう。関わったら馬鹿を見ると分かったのだから。
「そんな! あの、この子との婚約は⁉」
「……神様が見ていますよ」
本当は分からないけどね。
それでも、この一言で婚約者(仮)は赤の他人となった。
どうせあちらの家とはそれほどの契約ではなかったし。年齢も近いし、丁度いいのではと気軽に組まれた婚約話だもの。なかったことにしても支障はないはず。
浮気者&殺人者(仮)との結婚なんてどんな罰ゲームなのよ。
そもそも、妻を殺す夢を見て、その妻にそっくりな女が目の前に現れたのに優美に微笑めるあたりがおかしいでしょう。
「神様、ありがとうございます」
まだ教会に着いていないが、感謝の言葉が口を衝いて出た。
「あなた、本当に覚えていないの?」
「はい、全く。ただ、あの男を絶対に許してはいけないと思っただけですわ」
「……天啓ではなく、未来の自分からの警告ではないの?」
「私にそんな超能力があるとお思いで?」
「……そうね。やっぱり教会に行きましょう」
彼との婚約が流れても、思った通り大して支障はなかった。
その後に婚約した、今では夫となった男性は、見た目は厳ついけれどとてもおおらかで懐の広い、愛すべき人で。私の多少のやんちゃは笑って受け入れてくれる優しい人だ。
子どもも三人授かり、楽しい毎日を送っている。
「あら、兄様。めずらしいわね、こんな時間に」
「今日は休みだからな」
実家に子どもたちを連れて遊びに行くと、珍しく兄様が寝ぼけた顔をして降りてきた。
まるで学生の頃に戻ったかのような姿に、ふと、あの頃の疑問が浮かんだ。
「ねえ、兄様? どうして私に人の殴り方を教えてくれたの?」
もし、あの時。殴り方を知らなかったら、私は天啓を信じてぶん殴ることができただろうか。
「ふむ……、分からん。ただ、お前に教えないと後悔すると思った。だから教えたんだ」
あのあと、兄様はお母様に叱られた。女の子に何を教えているのだと、滔々と説教されたのだ。
「……ありがとう。私は幸せよ?」
「そうか、なら良かった。やはり、直感は信じるべきだな」
「ふふっ、そうね!」
脳筋兄妹の勝利ということなのかしら。
あの時、婚約が流れた浮気者兼殺人者(仮)がどうなったのかは知らない。
社交界で会ったのは、彼ではなく弟君だったから。
「後継は私になったのでよろしくお願いします」
と、何があったかの説明はなく、私もまた説明を必要とはしなかった。
「かあしゃま、お外行こ?」
「そうね。でも、まずはおばあちゃまにご挨拶をしてからよ?」
「はーい!」
神様なのか、未来の私なのかは分からない。でも、おかげさまで幸せだ。
「考えるな、感じろ」
ふふっ、全く名言だわ。
End.




