恋愛経験ゼロの「氷の公爵」に、現代の「恋愛シミュレーションゲーム」の攻略本を渡したら、アプローチが極端すぎて死にそうです
結婚して三ヶ月。
私、リリアーナ・エヴァレットは、いや、今はリリアーナ・フォン・グレイヴは、毎朝同じことを思う。
この屋敷、寒すぎない?
いや、実際の室温の話ではない。
暖炉は常に焚かれているし、使用人たちは優秀だし、私に与えられた部屋は南向きで日当たりも良い。
問題は、この屋敷の主である。
「おはようございます、アルベルト様」
朝食の席で声をかける。
長いテーブルの向こう側、まるで外国の要人との会談のような距離感で座る夫は、新聞から顔も上げずにこう答えた。
「……ああ」
以上。本日の会話終了。
銀色の髪に氷のような青い瞳。
整いすぎた顔立ちは彫刻のようで、「氷の公爵」の異名は伊達ではない。
王国最強の騎士団を率い、政治手腕にも長け、社交界の女性たちが憧れる完璧な貴公子。
ただし、感情表現は絶望的に下手。
「本日のご予定は?」
「……騎士団の演習だ。夜は王宮へ」
「そうですか」
「……ああ」
これが私たちの日常だった。
もちろん、政略結婚だった。
私の実家であるエヴァレット伯爵家と、王国随一の名門グレイヴ公爵家。
両家の利害が一致し、私は「氷の公爵」の元へ嫁いできた。
愛がないことは分かっていた。もとより期待もしていなかった。
ただ、まさかここまで会話がないとは思わなかったのだ。
「では、私は庭園の手入れでも」
「……好きにしろ」
「はい。では」
席を立つ。夫は相変わらず新聞を読んでいる。
私の顔を見たのは、今朝に入ってまだ一度もない。
これが、私の結婚生活だった。
転機は、その日の午後に訪れた。
「リリアーナ様、これは……?」
庭園の隅、古い物置を整理していた時だった。
使用人のマリーが、埃まみれの箱の中から一冊の本を取り出した。
「どれ?」
「この……なんでしょう、見たことのない文字で…読めませんわ」
受け取ってみる。確かに、見たことのない文字が並んでいる。
ただ、なぜか私にはすらすらと読めた。
表紙には、派手な装飾とともにこう書かれていた。
『永遠の君へ~氷の騎士攻略完全ガイド~』
『全エンディング網羅!好感度MAXへの最短ルート!』
……は?
パラパラとめくる。中には奇妙な絵と文章が並んでいた。
『攻略対象:アルベルト・フォン・グレイヴ』
『属性:氷、クール、不器用、実は一途』
『攻略難易度:★★★★★(最高難度)』
『好感度を上げるポイント』
『・壁ドン(効果:好感度+15)』
『・「君だけだ」イベント(効果:好感度+30)』
『・夜のバルコニーイベント(効果:好感度+25)』
なにこれ。
いや、待って……
「アルベルト・フォン・グレイヴ」って、うちの夫の名前そのままじゃない?
『エンディング分岐条件』
『・好感度80以上でノーマルエンド』
『・好感度100かつ「祭りイベント」達成でトゥルーエンド』
「リリアーナ様? どうかされましたか?」
「いえ……なんでもないわ」
マリーには適当に返事をして、私は本をそっと懐にしまった。
馬鹿馬鹿しい。こんなもの、誰かの悪戯に決まっている。
「恋愛魔導書」とでも言いたいのだろうか。
この世界には、恋愛の指南書など存在しないはずなのに。
でも、なぜだろう。
夫の名前が書いてあることが、妙に引っかかった。
その夜。
夕食の席で、私は冗談半分でそれを差し出した。
「アルベルト様、これ、お渡ししたいものがありまして」
「……なんだ」
夫が初めて、新聞から顔を上げた。
氷のような瞳が、私の手の中の本を見る。
「庭の物置から出てきたのですが……古い魔導書のようです。
私には読めますが、理解ができなくて」
嘘である。
理解はできる。ただ、意味が分からないだけだ。
「……ふむ」
夫が本を受け取る。
パラパラとめくり、眉をひそめた。
「読めるな」
「え?」
「この文字、読める。……『好感度』『攻略』『イベント』……」
夫は真剣な顔で本を凝視していた。
「……これは」
「どうかしました?」
「高度な恋愛理論書だな」
違う。たぶん違うかも…
「著者は相当な研究者と見える。体系的にまとめられている……借りてもいいか」
「え? あ、はい、どうぞ」
「感謝する」
夫は本を持って、さっさと書斎へ消えていった。
まあ、いいか。あんなふざけたもの、どうせ読んで「くだらない」と捨てるだろう。
そう思っていた。
翌朝。
私は自分の部屋で、優雅に紅茶を飲んでいた。
今日は特に予定もない。
せいぜい刺繍でもしようかと考えていたところ、ノックの音がした。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたのは、夫だった。
「……アルベルト様?」
珍しい。いや、珍しいどころではない。
夫が私の部屋に来たのは、結婚以来初めてかもしれない。
「リリアーナ」
「は、はい」
夫がずんずんと近づいてくる。
私は椅子から立ち上がる暇もなく、気づけば壁際に追い詰められていた。
ドン。
夫の手が、私の横の壁についた。
「……え?」
顔が近い。息がかかるほど近い。
氷の瞳が、真正面から私を見つめていた。
「リリアーナ」
「は、はひ……!?」
「……君の瞳は、宝石のようだ」
は?
「朝露に濡れた薔薇のように美しい……
この世界で、君より美しい者はいない」
はああ?いや待って何事?
夫は真顔だった。完全に真顔で、その台詞を言っていた。
まるで騎士団への訓示を読み上げるかのように、淡々と、しかし一言一句正確に。
「あの、アルベルト様?」
「なんだ」
「その……どうされたんですか?」
「攻略本の指示だ」
攻略本。
「『壁ドンイベント:相手を壁際に追い詰め、甘い言葉を囁く。好感度+15』と書いてあった」
私は全身から力が抜けた。
「……それ、真に受けたんですか?」
「当然だ。あれは高度な恋愛理論書だ」
「いえ、あの、それはちょっと……」
「好感度は上がったか?」
「こ、好感度?」
「上がったなら、次のイベントに進む」
「ちょっと待って」
私の制止を無視して、夫は懐から本を取り出した。
パラパラとめくり、うなずく。
「次は『偶然の接触イベント』だな」
「いや、だから……」
「指示通りに実行する」
そう言って、夫は部屋を出て行った。
残された私は、壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。
心臓がうるさい……顔が熱い。
いやいやいや。あの人、完全に本気だ。
あの攻略本を、一言一句信じ込んでいる。
まずい。
これは、まずいことになってしまった。
その後の数日間は、地獄だった。
いや、天国か地獄かの判断が難しい、奇妙な日々だった。
廊下を歩いていると、曲がり角で夫とぶつかる。
偶然ではない。明らかに待ち伏せしていた。
「す、すみません」
「いや、私が悪い」
夫が私の手を取る。
「怪我はないか?」
「だ、大丈夫です」
「……そうか」
じっと手を見つめる夫。なかなか離さない。
「あの、アルベルト様?」
「ああ。……本には『五秒以上手を握り続ける』と書いてあった」
「離してください」
「まだ三秒だ」
真顔で言われた。なんなんだ……
夕食の席。
夫がじっと私を見ている。食事中ずっと、瞬きもせずに……
「あの……」
「なんだ」
「見すぎではないですか?」
「本に書いてあった。『食事中は相手から目を離すな。視線は愛情の表れ』と」
「食べづらいです」
「そうか。だが指示だ」
スープを飲もうとしても、視線が痛い。
パンを千切っても、視線が痛い。
デザートを食べても、視線が——
「やめてください!」
「好感度は上がっているか?」
「上がってません!」
嘘だ。
本当は心臓がばくばくしている。でも認めたくない。
夜、バルコニーで涼んでいると、いつの間にか夫が隣にいた。
「……月が綺麗だな」
「え? あ、はい」
「リリアーナ」
「はい」
「私は——」
夫が口を開く。私は身構える。
「私は、君を……」
「……」
「君を、大切に思っている。誰よりも」
さすがに恥ずかしくなってきたかも……
こんなこと思ってくれている人だったのね。
どう返事したら…私、顔真っ赤なんじゃない!?
「——と、本に書いてあった」
「だ、台無しです!」
ドキドキして損した…なぜ毎回オチをつけるの!?
こんな日々が、二週間ほど続いた。
壁ドンは計七回。
偶然の接触は十二回。視線攻撃は毎食。夜のバルコニーイベントは五回。
私は疲弊していた。
もちろん身体的にではない。精神的に。
だって、夫の言葉は全部、本の受け売りなのだ。
「君だけだ」も「愛している」も「離さない」も、全部。
本に書いてあるから言っている。ただそれだけ。
夫の本心は、どこにもない。
それが、じわじわと私を蝕んでいた。
二週間後。
「リリアーナ様、大変です!」
使用人のマリーが、血相を変えて飛び込んできた。
「どうしたの?」
「旦那様が……旦那様が、王都で祭りを開催するとおっしゃって……!」
「祭り?」
「はい!それも国を挙げての大祭を!陛下に直談判なさったそうで……!」
私は嫌な予感がした。
まさか。まさか、あの本の——
『トゥルーエンド条件:祭りイベントで告白すれば、エンディング確定』
「嘘でしょ……」
「リリアーナ様?」
私は部屋を飛び出した。夫の書斎に向かって走る。
廊下を抜け、階段を駆け上がり、書斎の扉を勢いよく開けた。
夫がいた。
机に向かい、書類と——あの攻略本を並べて、真剣な顔で何かを書いている。
「アルベルト様!」
「おお、リリアーナ。ちょうどいい」
夫が顔を上げる。
いつもの無表情だが、どこか満足げにも見えた。
「祭りの準備は順調だ。三日後には王都の中央広場で開催される」
「いや、あの、なんで祭りを……」
「本に書いてあった」
知ってる。
「『祭りイベントで告白すればエンディング確定』と。つまり、これが最終段階だ」
「だから、その本は——」
「リリアーナ」
夫が立ち上がる。まっすぐに私を見つめる。
「私は君との関係を、より良いものにしたいと思っている。
この三ヶ月、私は君に何もしてやれなかった」
「……」
「だが、この本のおかげで、方法が分かった。
君の好感度を上げ、トゥルーエンドというものに到達すれば、我々は幸福な夫婦になれる」
夫の顔は真剣だった。
本気で、心の底からそう信じているのが分かった。
でも。
「……馬鹿」
「なんだと?」
「馬鹿です、アルベルト様は」
私は、初めて夫に向かって声を荒げ、そのまま部屋を出て行ってしまった。
三日後。
王都の中央広場は、人で溢れかえっていた。
「氷の公爵」が主催する大祭。
珍しい催しに、王都中の人間が集まっている。
屋台が立ち並び、楽隊が演奏し、子供たちが走り回っている。
その中心に、私たちはいた。
「リリアーナ」
夫が、私の手を取る。
広場の真ん中、全員の視線が集まる場所で。
「時が来た」
夫が膝をつく。
まるで騎士の誓いのような姿勢で、私を見上げた。
「リリアーナ・フォン・グレイヴ。私の妻よ」
周囲がざわめく。
何が始まるのか、誰もが固唾を呑んで見守っている。
「私は君を——」
夫が口を開く。
「愛している。誰よりも、何よりも。君は私の太陽であり、月であり、星である。
君なしでは生きられない。どうか、私のそばにいてくれ——」
長い、長い台詞だった。
聞き覚えがあった。
「——永遠に」
夫が言い終える。
周囲から拍手が起こる。
でも、私は動けなかった。
「……リリアーナ?」
夫が不安そうに見上げる。
たぶん、本に書いてある「感動して涙する」という反応を期待していたのだろう。
でも、私の目に涙はなかった。
「その言葉」
声が震えた。
「全部、本に書いてありますよね?」
「……」
「『太陽であり、月であり、星である』。『君なしでは生きられない』。
全部、本の通りです。一言一句、同じです」
周囲が静まり返った。
「アルベルト様。私は——」
喉が詰まる。
でも、言わなければならなかった。
「私は、アルベルト様の言葉が聞きたいんです」
「……」
「本に書いてある言葉じゃなくて。
誰かが考えた『正解』じゃなくて…アルベルト様自身の、言葉が」
夫は、膝をついたまま固まっていた。
「好感度なんてどうでもいいんです。
トゥルーエンドとか、そんなのも。私はただ……」
涙が出そうになる。でも、頑張って堪えた。
「あなたが、本当は私をどう思っているのか。それが知りたいだけなんです」
あんなに騒がしかった広場中が、静まり返っていた。
夫は——何も言わなかった。
口を開きかけて、閉じる。
それを何度か繰り返して、結局、言葉が出てこない様子だった。
私は、涙が出そうになったのを隠したくて、その場から走り去った。
屋敷に戻り、自室に閉じこもった。
泣いた。声を殺して、泣いた。
馬鹿だ。私は馬鹿だ。
あの人は、不器用なだけなのだ。
恋愛感情の表し方が分からなくて、だから本に頼った。
私のことを思って、必死に努力してくれていたのだ。
それなのに、私は——
コンコンと、私の部屋の扉を叩く音がした。
「……誰ですか」
返事はない。
でも、扉がゆっくりと開いた。
夫が、立っていた。
「……入っても、いいか」
「……どうぞ」
夫が部屋に入ってくる。
その手には、あの攻略本が握られていた。
「リリアーナ」
「……はい」
夫が、私の前に立つ。そして——
本を、閉じた。
「この本は」
低い声が、静かに響く。
「……役に立った。君に、どう接すればいいのか。
何を言えばいいのか。私には分からなかったから」
「……」
「だが、お前の言う通りだ」
夫が、本を脇に置いた。
捨てはしなかった。でも、もう見なかった。
「私は……言葉が下手だ」
夫の声が、少し震えているのが分かった。
「何を言えば正解なのか、分からない。
どう振る舞えば君が喜ぶのか、分からない。
だから本に頼った。この本に書いてある通りにすれば、間違えないと思った」
「……」
「だが」
夫が、私の目を見た。氷の瞳が、今は少しだけ揺れているように見えた。
「私の言葉を聞きたいと、お前は言った」
「……はい」
「…この言葉が正解ではないかもしれない。上手くも言えない。だが——」
夫が、一度だけ深く息を吸った。
「……好きだ」
短かった。
本当に、短い言葉だった。
言葉を探すように、夫は続けた。
「お前が、朝、おはようと言ってくれるのが……嬉しかった」
「……」
「食事の時、何か話しかけてくれるのが……温かかった」
夫の言葉は、ぎこちなかった。
詰まりながら、途切れながら、少しずつ紡がれていった。
「お前がいると、この屋敷が……明るくなる気がした。私は、それが……」
一度、言葉が止まる。
「……最初は分からなかった、この感情が何なのか。
だから、知りたかった。本を読んで、やっと分かった」
夫が、不器用に微笑んだ。初めて見る表情だった。
「これが、好きということなのだと」
私は——泣いていた。
いつの間にか、涙が止まらなくなっていた。
「リリアーナ」
夫が、おずおずと手を伸ばしてきた。
ぎこちなく、不格好に、私の頬に触れ、私の涙を拭う。
「私は……正解の言葉を持っていない。だが」
「……はい」
「これからは、自分の言葉で……伝えようと思う。下手でも、間違っていても」
「……はい」
夫は、私の目を見つめると、静かに言った。
「だから……そばに、いてくれるか」
「……もちろんです」
私は、夫の胸に飛び込んだ。
それから、三ヶ月が経った。
「リリアーナ」
「はい?」
朝食の席。
夫が、新聞を置いて私を見た。
「今日の……その、髪が」
「髪?」
「……綺麗だ」
ぶっきらぼうに言って、夫は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
「ありがとうございます」
「……ああ」
相変わらず、会話は短い。
でも、以前とは違う。
「アルベルト様」
「なんだ」
「アルベルト様も今日のお召し物、素敵ですね」
「……そうか」
夫が、小さくうなずく。
でも、口元がわずかに緩んでいるのが分かった。
攻略本は、まだ書斎にあるようだ。
捨ててはいない。
夫は時々、それを開いて読んでいるらしい。
「参考にはなる」
と、夫は言った。
「だが、実行はしない……なるべく」
「なるべく?」
「…ただ、本に書いてある『記念日イベント』は、やってもいいかと思っている」
「……まだ読んでるんですか」
「研究だ」
真顔で言われた。
この人は本当に……。
その日の夜、バルコニーで、二人で星を見ていた。
「リリアーナ」
「はい」
「その……」
夫が、言葉を探している。
いつものことだ。
「……月が、綺麗だ」
「そうですね」
「……だが、お前の方が綺麗だ」
「……ふふ」
「何がおかしい」
「いえ、今の、本に書いてありましたよね?」
「……覚えてしまったものは仕方ない」
夫が、ばつが悪そうに視線を逸らす。
でも、次に出てきた言葉は、本には書いていなかった。
「リリアーナ」
「はい」
「……今は幸せか?」
私は、夫の手を握った。
「はい。とても」
夫が、不器用に微笑む。
「そうか」
「アルベルト様は?」
「……私もだ」
短い言葉。不器用な言葉。
でも、嘘のない言葉。
私の「氷の公爵」は、今日も少しだけズレている。
褒め言葉は棒読みだし、たまに本の受け売りが混じる。
でも、いいのだ。
この人は、一生少しだけズレているのだろう。
不器用で、真面目で、一度「正解」だと思ったことは全力で実行してしまう。
きっと、これからもそう。
でも——
「リリアーナ」
「はい?」
「……愛している」
本には書いていない、夫だけの言葉。
「私も、愛しています」
たぶん、この人は一生、少しだけズレている。
でも——私たちの正解と幸せは、ここにあった。
【完】




