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恋愛経験ゼロの「氷の公爵」に、現代の「恋愛シミュレーションゲーム」の攻略本を渡したら、アプローチが極端すぎて死にそうです

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/02/02

結婚して三ヶ月。


私、リリアーナ・エヴァレットは、いや、今はリリアーナ・フォン・グレイヴは、毎朝同じことを思う。


この屋敷、寒すぎない?


いや、実際の室温の話ではない。

暖炉は常に焚かれているし、使用人たちは優秀だし、私に与えられた部屋は南向きで日当たりも良い。


問題は、この屋敷の主である。


「おはようございます、アルベルト様」


朝食の席で声をかける。

長いテーブルの向こう側、まるで外国の要人との会談のような距離感で座る夫は、新聞から顔も上げずにこう答えた。


「……ああ」


以上。本日の会話終了。


銀色の髪に氷のような青い瞳。

整いすぎた顔立ちは彫刻のようで、「氷の公爵」の異名は伊達ではない。

王国最強の騎士団を率い、政治手腕にも長け、社交界の女性たちが憧れる完璧な貴公子。


ただし、感情表現は絶望的に下手。


「本日のご予定は?」


「……騎士団の演習だ。夜は王宮へ」


「そうですか」


「……ああ」


これが私たちの日常だった。


もちろん、政略結婚だった。

私の実家であるエヴァレット伯爵家と、王国随一の名門グレイヴ公爵家。

両家の利害が一致し、私は「氷の公爵」の元へ嫁いできた。


愛がないことは分かっていた。もとより期待もしていなかった。


ただ、まさかここまで会話がないとは思わなかったのだ。


「では、私は庭園の手入れでも」


「……好きにしろ」


「はい。では」


席を立つ。夫は相変わらず新聞を読んでいる。

私の顔を見たのは、今朝に入ってまだ一度もない。


これが、私の結婚生活だった。





転機は、その日の午後に訪れた。


「リリアーナ様、これは……?」


庭園の隅、古い物置を整理していた時だった。

使用人のマリーが、埃まみれの箱の中から一冊の本を取り出した。


「どれ?」


「この……なんでしょう、見たことのない文字で…読めませんわ」


受け取ってみる。確かに、見たことのない文字が並んでいる。

ただ、なぜか私にはすらすらと読めた。


表紙には、派手な装飾とともにこう書かれていた。


『永遠の君へ~氷の騎士攻略完全ガイド~』

『全エンディング網羅!好感度MAXへの最短ルート!』


……は?


パラパラとめくる。中には奇妙な絵と文章が並んでいた。


『攻略対象:アルベルト・フォン・グレイヴ』

『属性:氷、クール、不器用、実は一途』

『攻略難易度:★★★★★(最高難度)』


『好感度を上げるポイント』

『・壁ドン(効果:好感度+15)』

『・「君だけだ」イベント(効果:好感度+30)』

『・夜のバルコニーイベント(効果:好感度+25)』


なにこれ。


いや、待って……

「アルベルト・フォン・グレイヴ」って、うちの夫の名前そのままじゃない?


『エンディング分岐条件』

『・好感度80以上でノーマルエンド』

『・好感度100かつ「祭りイベント」達成でトゥルーエンド』


「リリアーナ様? どうかされましたか?」


「いえ……なんでもないわ」


マリーには適当に返事をして、私は本をそっと懐にしまった。


馬鹿馬鹿しい。こんなもの、誰かの悪戯に決まっている。

「恋愛魔導書」とでも言いたいのだろうか。

この世界には、恋愛の指南書など存在しないはずなのに。


でも、なぜだろう。

夫の名前が書いてあることが、妙に引っかかった。





その夜。

夕食の席で、私は冗談半分でそれを差し出した。


「アルベルト様、これ、お渡ししたいものがありまして」


「……なんだ」


夫が初めて、新聞から顔を上げた。

氷のような瞳が、私の手の中の本を見る。


「庭の物置から出てきたのですが……古い魔導書のようです。

私には読めますが、理解ができなくて」


嘘である。

理解はできる。ただ、意味が分からないだけだ。


「……ふむ」


夫が本を受け取る。

パラパラとめくり、眉をひそめた。


「読めるな」


「え?」


「この文字、読める。……『好感度』『攻略』『イベント』……」


夫は真剣な顔で本を凝視していた。


「……これは」


「どうかしました?」


「高度な恋愛理論書だな」


違う。たぶん違うかも…


「著者は相当な研究者と見える。体系的にまとめられている……借りてもいいか」


「え? あ、はい、どうぞ」


「感謝する」


夫は本を持って、さっさと書斎へ消えていった。

まあ、いいか。あんなふざけたもの、どうせ読んで「くだらない」と捨てるだろう。


そう思っていた。




翌朝。


私は自分の部屋で、優雅に紅茶を飲んでいた。

今日は特に予定もない。

せいぜい刺繍でもしようかと考えていたところ、ノックの音がした。


「どうぞ」


扉が開く。


入ってきたのは、夫だった。


「……アルベルト様?」


珍しい。いや、珍しいどころではない。

夫が私の部屋に来たのは、結婚以来初めてかもしれない。


「リリアーナ」


「は、はい」


夫がずんずんと近づいてくる。

私は椅子から立ち上がる暇もなく、気づけば壁際に追い詰められていた。


ドン。

夫の手が、私の横の壁についた。


「……え?」


顔が近い。息がかかるほど近い。

氷の瞳が、真正面から私を見つめていた。


「リリアーナ」


「は、はひ……!?」


「……君の瞳は、宝石のようだ」


は?


「朝露に濡れた薔薇のように美しい……

この世界で、君より美しい者はいない」



はああ?いや待って何事?


夫は真顔だった。完全に真顔で、その台詞を言っていた。

まるで騎士団への訓示を読み上げるかのように、淡々と、しかし一言一句正確に。


「あの、アルベルト様?」


「なんだ」


「その……どうされたんですか?」


「攻略本の指示だ」


攻略本。


「『壁ドンイベント:相手を壁際に追い詰め、甘い言葉を囁く。好感度+15』と書いてあった」


私は全身から力が抜けた。


「……それ、真に受けたんですか?」


「当然だ。あれは高度な恋愛理論書だ」


「いえ、あの、それはちょっと……」


「好感度は上がったか?」


「こ、好感度?」


「上がったなら、次のイベントに進む」


「ちょっと待って」


私の制止を無視して、夫は懐から本を取り出した。

パラパラとめくり、うなずく。


「次は『偶然の接触イベント』だな」


「いや、だから……」


「指示通りに実行する」


そう言って、夫は部屋を出て行った。

残された私は、壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。


心臓がうるさい……顔が熱い。


いやいやいや。あの人、完全に本気だ。

あの攻略本を、一言一句信じ込んでいる。


まずい。

これは、まずいことになってしまった。




その後の数日間は、地獄だった。

いや、天国か地獄かの判断が難しい、奇妙な日々だった。


廊下を歩いていると、曲がり角で夫とぶつかる。

偶然ではない。明らかに待ち伏せしていた。


「す、すみません」


「いや、私が悪い」


夫が私の手を取る。

「怪我はないか?」


「だ、大丈夫です」


「……そうか」


じっと手を見つめる夫。なかなか離さない。


「あの、アルベルト様?」


「ああ。……本には『五秒以上手を握り続ける』と書いてあった」


「離してください」


「まだ三秒だ」


真顔で言われた。なんなんだ……




夕食の席。

夫がじっと私を見ている。食事中ずっと、瞬きもせずに……


「あの……」


「なんだ」


「見すぎではないですか?」


「本に書いてあった。『食事中は相手から目を離すな。視線は愛情の表れ』と」


「食べづらいです」


「そうか。だが指示だ」


スープを飲もうとしても、視線が痛い。

パンを千切っても、視線が痛い。

デザートを食べても、視線が——


「やめてください!」


「好感度は上がっているか?」


「上がってません!」


嘘だ。

本当は心臓がばくばくしている。でも認めたくない。




夜、バルコニーで涼んでいると、いつの間にか夫が隣にいた。


「……月が綺麗だな」


「え? あ、はい」


「リリアーナ」


「はい」


「私は——」

夫が口を開く。私は身構える。


「私は、君を……」


「……」


「君を、大切に思っている。誰よりも」


さすがに恥ずかしくなってきたかも……

こんなこと思ってくれている人だったのね。

どう返事したら…私、顔真っ赤なんじゃない!?


「——と、本に書いてあった」


「だ、台無しです!」


ドキドキして損した…なぜ毎回オチをつけるの!?





こんな日々が、二週間ほど続いた。


壁ドンは計七回。

偶然の接触は十二回。視線攻撃は毎食。夜のバルコニーイベントは五回。


私は疲弊していた。

もちろん身体的にではない。精神的に。


だって、夫の言葉は全部、本の受け売りなのだ。


「君だけだ」も「愛している」も「離さない」も、全部。


本に書いてあるから言っている。ただそれだけ。


夫の本心は、どこにもない。

それが、じわじわと私を蝕んでいた。






二週間後。



「リリアーナ様、大変です!」

使用人のマリーが、血相を変えて飛び込んできた。


「どうしたの?」


「旦那様が……旦那様が、王都で祭りを開催するとおっしゃって……!」


「祭り?」


「はい!それも国を挙げての大祭を!陛下に直談判なさったそうで……!」


私は嫌な予感がした。


まさか。まさか、あの本の——


『トゥルーエンド条件:祭りイベントで告白すれば、エンディング確定』


「嘘でしょ……」


「リリアーナ様?」


私は部屋を飛び出した。夫の書斎に向かって走る。


廊下を抜け、階段を駆け上がり、書斎の扉を勢いよく開けた。

夫がいた。

机に向かい、書類と——あの攻略本を並べて、真剣な顔で何かを書いている。


「アルベルト様!」


「おお、リリアーナ。ちょうどいい」


夫が顔を上げる。

いつもの無表情だが、どこか満足げにも見えた。


「祭りの準備は順調だ。三日後には王都の中央広場で開催される」


「いや、あの、なんで祭りを……」


「本に書いてあった」


知ってる。


「『祭りイベントで告白すればエンディング確定』と。つまり、これが最終段階だ」


「だから、その本は——」


「リリアーナ」


夫が立ち上がる。まっすぐに私を見つめる。


「私は君との関係を、より良いものにしたいと思っている。

この三ヶ月、私は君に何もしてやれなかった」


「……」


「だが、この本のおかげで、方法が分かった。

君の好感度を上げ、トゥルーエンドというものに到達すれば、我々は幸福な夫婦になれる」


夫の顔は真剣だった。

本気で、心の底からそう信じているのが分かった。


でも。


「……馬鹿」


「なんだと?」


「馬鹿です、アルベルト様は」


私は、初めて夫に向かって声を荒げ、そのまま部屋を出て行ってしまった。




三日後。


王都の中央広場は、人で溢れかえっていた。


「氷の公爵」が主催する大祭。

珍しい催しに、王都中の人間が集まっている。

屋台が立ち並び、楽隊が演奏し、子供たちが走り回っている。


その中心に、私たちはいた。


「リリアーナ」


夫が、私の手を取る。

広場の真ん中、全員の視線が集まる場所で。


「時が来た」


夫が膝をつく。

まるで騎士の誓いのような姿勢で、私を見上げた。


「リリアーナ・フォン・グレイヴ。私の妻よ」


周囲がざわめく。

何が始まるのか、誰もが固唾を呑んで見守っている。


「私は君を——」


夫が口を開く。


「愛している。誰よりも、何よりも。君は私の太陽であり、月であり、星である。

君なしでは生きられない。どうか、私のそばにいてくれ——」


長い、長い台詞だった。

聞き覚えがあった。


「——永遠に」


夫が言い終える。

周囲から拍手が起こる。


でも、私は動けなかった。


「……リリアーナ?」


夫が不安そうに見上げる。

たぶん、本に書いてある「感動して涙する」という反応を期待していたのだろう。


でも、私の目に涙はなかった。


「その言葉」


声が震えた。


「全部、本に書いてありますよね?」


「……」


「『太陽であり、月であり、星である』。『君なしでは生きられない』。

全部、本の通りです。一言一句、同じです」


周囲が静まり返った。


「アルベルト様。私は——」


喉が詰まる。

でも、言わなければならなかった。


「私は、アルベルト様の言葉が聞きたいんです」


「……」


「本に書いてある言葉じゃなくて。

誰かが考えた『正解』じゃなくて…アルベルト様自身の、言葉が」


夫は、膝をついたまま固まっていた。


「好感度なんてどうでもいいんです。

トゥルーエンドとか、そんなのも。私はただ……」


涙が出そうになる。でも、頑張って堪えた。


「あなたが、本当は私をどう思っているのか。それが知りたいだけなんです」


あんなに騒がしかった広場中が、静まり返っていた。


夫は——何も言わなかった。


口を開きかけて、閉じる。

それを何度か繰り返して、結局、言葉が出てこない様子だった。


私は、涙が出そうになったのを隠したくて、その場から走り去った。



屋敷に戻り、自室に閉じこもった。


泣いた。声を殺して、泣いた。


馬鹿だ。私は馬鹿だ。


あの人は、不器用なだけなのだ。

恋愛感情の表し方が分からなくて、だから本に頼った。

私のことを思って、必死に努力してくれていたのだ。


それなのに、私は——




コンコンと、私の部屋の扉を叩く音がした。


「……誰ですか」


返事はない。

でも、扉がゆっくりと開いた。


夫が、立っていた。


「……入っても、いいか」


「……どうぞ」


夫が部屋に入ってくる。

その手には、あの攻略本が握られていた。


「リリアーナ」


「……はい」


夫が、私の前に立つ。そして——


本を、閉じた。


「この本は」


低い声が、静かに響く。


「……役に立った。君に、どう接すればいいのか。

何を言えばいいのか。私には分からなかったから」


「……」


「だが、お前の言う通りだ」


夫が、本を脇に置いた。

捨てはしなかった。でも、もう見なかった。


「私は……言葉が下手だ」


夫の声が、少し震えているのが分かった。


「何を言えば正解なのか、分からない。

どう振る舞えば君が喜ぶのか、分からない。

だから本に頼った。この本に書いてある通りにすれば、間違えないと思った」


「……」


「だが」


夫が、私の目を見た。氷の瞳が、今は少しだけ揺れているように見えた。


「私の言葉を聞きたいと、お前は言った」


「……はい」


「…この言葉が正解ではないかもしれない。上手くも言えない。だが——」


夫が、一度だけ深く息を吸った。


「……好きだ」


短かった。

本当に、短い言葉だった。


言葉を探すように、夫は続けた。


「お前が、朝、おはようと言ってくれるのが……嬉しかった」


「……」


「食事の時、何か話しかけてくれるのが……温かかった」


夫の言葉は、ぎこちなかった。

詰まりながら、途切れながら、少しずつ紡がれていった。


「お前がいると、この屋敷が……明るくなる気がした。私は、それが……」


一度、言葉が止まる。


「……最初は分からなかった、この感情が何なのか。

だから、知りたかった。本を読んで、やっと分かった」


夫が、不器用に微笑んだ。初めて見る表情だった。


「これが、好きということなのだと」


私は——泣いていた。

いつの間にか、涙が止まらなくなっていた。


「リリアーナ」


夫が、おずおずと手を伸ばしてきた。

ぎこちなく、不格好に、私の頬に触れ、私の涙を拭う。


「私は……正解の言葉を持っていない。だが」


「……はい」


「これからは、自分の言葉で……伝えようと思う。下手でも、間違っていても」


「……はい」


夫は、私の目を見つめると、静かに言った。

「だから……そばに、いてくれるか」



「……もちろんです」

私は、夫の胸に飛び込んだ。



それから、三ヶ月が経った。


「リリアーナ」


「はい?」


朝食の席。

夫が、新聞を置いて私を見た。


「今日の……その、髪が」


「髪?」


「……綺麗だ」


ぶっきらぼうに言って、夫は視線を逸らした。

耳が少し赤い。


「ありがとうございます」


「……ああ」


相変わらず、会話は短い。

でも、以前とは違う。


「アルベルト様」


「なんだ」


「アルベルト様も今日のお召し物、素敵ですね」


「……そうか」


夫が、小さくうなずく。

でも、口元がわずかに緩んでいるのが分かった。



攻略本は、まだ書斎にあるようだ。

捨ててはいない。

夫は時々、それを開いて読んでいるらしい。


「参考にはなる」

と、夫は言った。


「だが、実行はしない……なるべく」


「なるべく?」


「…ただ、本に書いてある『記念日イベント』は、やってもいいかと思っている」


「……まだ読んでるんですか」


「研究だ」


真顔で言われた。

この人は本当に……。




その日の夜、バルコニーで、二人で星を見ていた。


「リリアーナ」


「はい」


「その……」


夫が、言葉を探している。

いつものことだ。


「……月が、綺麗だ」


「そうですね」


「……だが、お前の方が綺麗だ」


「……ふふ」


「何がおかしい」


「いえ、今の、本に書いてありましたよね?」


「……覚えてしまったものは仕方ない」


夫が、ばつが悪そうに視線を逸らす。

でも、次に出てきた言葉は、本には書いていなかった。


「リリアーナ」


「はい」


「……今は幸せか?」


私は、夫の手を握った。


「はい。とても」


夫が、不器用に微笑む。


「そうか」


「アルベルト様は?」


「……私もだ」


短い言葉。不器用な言葉。

でも、嘘のない言葉。


私の「氷の公爵」は、今日も少しだけズレている。

褒め言葉は棒読みだし、たまに本の受け売りが混じる。


でも、いいのだ。


この人は、一生少しだけズレているのだろう。


不器用で、真面目で、一度「正解」だと思ったことは全力で実行してしまう。

きっと、これからもそう。


でも——


「リリアーナ」


「はい?」


「……愛している」


本には書いていない、夫だけの言葉。


「私も、愛しています」


たぶん、この人は一生、少しだけズレている。

でも——私たちの正解と幸せは、ここにあった。


【完】

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