第9話 刃の代わりに、箸を持つ
店主に「今日はもう上がっていい」と言われ、私は裏口横の休憩スペースで腰を下ろしていた。
身体は、正直に言えばまだ動ける。
浅層とはいえ探索帰りだし、荷運びまでやったのだから疲労がないわけじゃない。でも、それは探索者として慣れ親しんだ程度のものだ。深層から戻った日の、骨に染みるような重さとは比べものにならない。
――ちゃんと、無事に帰ってきた。
その事実を、今さらのように噛みしめる。
第四区画の浅層。
指示された範囲、指定された素材。
深追いせず、無駄な戦闘もしなかった。
かつての私なら、もっと奥へ行けた、もっと狩れた、と考えていたかもしれない。
でも今日は違う。
必要な分だけを、確実に持ち帰る。
それが“仕事”だから。
(……不思議ですね)
探索者としての私は、常に評価と結果に晒されていた。
強いのが当たり前。
できて当然。
命を賭けてでも成果を出すのが前提。
それが崩れた時、私はあっさりと死にかけた。
――けれど今は。
店の奥から聞こえてくる、包丁の音。
規則正しく、迷いのないリズム。
今日の仕込みを終え、夕方の営業に向けて黙々と料理を作る店主の背中を思い浮かべる。
多くは語らない人だ。
褒め言葉も、労いも、ほとんど口にしない。
でも。
軽トラの荷台を見たときの、あの一瞬の沈黙。
地下へ運び込む最中、何も言わずに並んで歩いた時間。
「今日はもう上がっていい」と、当然のように言われたこと。
――全部、言葉の代わりだ。
(ちゃんとやった、ってことですよね)
探索者としてではなく。
最強としてでもなく。
かくりよ亭の“従業員”として、必要な仕事を果たした。
それを、あの人は受け取ってくれた。
ふっと、胸の奥が温かくなる。
外から聞こえてくる客の声が、少しずつ増えてきた。
夕方の営業が始まった合図だ。
今日は、私の獲ってきた素材が、店主の手で料理になる。
誰かの身体を支え、明日の探索を助ける。
刃を振るわなくても、命を賭けなくても。
こうして誰かの役に立てる場所がある。
(……悪くないですね)
私は膝の上で手を組み、静かに目を閉じた。
探索者だった過去も、
今こうしてここにいる自分も。
どちらも、確かに“私”だ。
そして今は――
かくりよ亭の一員としての、この時間が、少しだけ誇らしかった。
包丁の音に耳を澄ませていると、不意に厨房の方から短い声が飛んできた。
「刹那、飯だ」
それだけ。
けれど、その一言で私はぱちりと目を開いた。
(……もう、そんな時間ですか)
壁時計を見ると、確かに夕方のピークは一段落している。
客の声も少し落ち着き、店の空気が次の呼吸に入ったのが分かった。
私は立ち上がり、エプロンの端を軽く整える。
――飯。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく弾むものがあった。
ダンジョンに向かう前。
出発前の腹ごしらえとして食べた、あの定食。
湯気の立つ白米。
染み渡る味噌汁。
派手ではないのに、身体の芯にすっと収まる味。
あの食事のおかげで、私は浅層を最後まで安定して動けた。
空腹を気にすることもなく、集中を切らすこともなく。
(……あれが、仕事の前の“飯”なんですね)
探索者時代は、栄養ゼリーや簡易食で済ませることも多かった。
効率重視。味は二の次。
でも、ここでは違う。
店主の言う「飯」は、ただ腹を満たすだけのものじゃない。
動くための力であり、戻ってくる場所でもある。
自然と、足取りが軽くなる。
裏口を抜け、カウンター裏の座敷へ向かう途中。
厨房から漂ってくる香りが、鼻先をくすぐった。
……分かる。
これは、今日私が運んだ肉の匂いだ。
炙られ、引き出された香ばしさ。
それに、澄んだ出汁の匂いが重なっている。
(ちゃんと、料理になってる……)
胸の奥が、少しだけ高鳴る。
座敷の引き戸を開けると、低い卓の上に膳が置かれていた。
湯気。
盛り付け。
余計な装飾のない、でも目を引く佇まい。
私は正座して、その前に座る。
背筋が、自然と伸びた。
(……楽しみですね)
探索に行く前に食べた、あの美味しさ。
それを作った人が、今も厨房にいる。
今日一日の終わりに、それをまた味わえる。
私は、箸にそっと手を伸ばしながら、静かに息を整えた。
――いただきます。
目の前の膳には、主菜として皿に盛られたホーンボアの炙り焼き。
表面は香ばしく焼き色がついているのに、内側は淡い桜色を残している。肉の繊維が整っていて、脂が重たく見えない。添えられた薬効草の刻みが、ほのかに青い香りを立たせていた。
それから、椀に注がれた澄んだ回復促進スープ。
透き通った琥珀色で、湯気とともに骨出汁の深い香りが広がる。
白米は、いつも通りつやつやで、粒が立っている。
(……見ただけで、分かりますね)
私はまず、肉に箸を入れた。
すっと、抵抗なく切れる。
持ち上げた瞬間、肉の自重でわずかにしなる感触が指先に伝わった。
一口。
――噛んだ瞬間、驚くほど静かだった。
歯が沈み、繊維がほどけ、肉汁が滲み出る。
強い味付けはないのに、旨味が濃い。炙りの香ばしさが先に立ち、そのあとに、じわりと甘みが広がる。
「……」
思わず、言葉を失う。
重くない。
なのに、しっかりと力が満ちていく感覚がある。
噛むごとに、身体の奥が温まっていく。
探索で使った筋肉が、ゆっくりと解れていくのが分かる。
(これは……)
探索中に感じた軽さとは違う。
戦うための昂りではなく、整っていく感覚。
私は次に、スープを口に運んだ。
熱すぎない温度。
舌に触れた瞬間、優しい旨味が広がり、喉を通っていく。
骨のコクがあるのに、雑味が一切ない。
飲み下した後、胸の奥にふわりと残る余韻が、呼吸を深くしてくれる。
(……回復、してますね)
怪我が治る、というほどの即効性ではない。
でも確実に、身体が「休んでいい」と理解している。
白米を一口。
肉の旨味と、出汁の余韻を受け止める役割を、完璧に果たしている。
噛むたびに、胃の奥に落ち着いていく。
気が付けば、箸は止まらなかった。
肉。
米。
スープ。
その順番が、自然と身体に染み付いていく。
最後の一口を食べ終え、椀を置いたとき。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ごちそうさまでした」
声に出す必要はないのに、自然と口をついて出た。
お腹が満たされている。
でもそれ以上に、胸の内が落ち着いている。
畳の感触。
座敷の静けさ。
身体の奥から広がる、穏やかな余熱。
(……幸せ、ですね)
そんなことを考えながら、しばらくぼんやりとしていると――
ふと、気付いた。
(……あれ?)
さっきまで聞こえていた、包丁の音がしない。
人の気配も、少し遠い。
――そういえば。
(店主、もう厨房に戻ったみたいですね)
私は膳を見下ろし、空になった皿にもう一度目を落とした。
言葉を交わさなくても、十分に伝わった気がする。
今日一日。
探索して、運んで、働いて、食べて。
それだけなのに、心地よく疲れている。
私は静かに背筋を伸ばし、満足感の余韻に身を委ねた。




