第6話 この飯を食べて、私はまだ強くなる
座敷に敷かれた畳の匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。
私は正座をして、膝の上に手を置いたまま、目の前に並べられた定食をじっと見つめていた。
白い湯気を立てる茶碗の白米。艶やかに炊き上がった粒が、光を受けてきらきらしている。
香ばしく焼き色のついた魚の切り身は、皮目がぱりっとしていそうで、身のふっくら感が一目でわかる。
小鉢には、さっぱりとした和え物。
味噌汁からは、出汁のやさしい香りが立ち上っていた。
「……普通の、魚定食だな」
向かいに胡坐をかいた悠斗――店主が、いつも通りのぶっきらぼうな声で言う。
「残ったダンジョン食材、無理に奇をてらう必要もないだろ。今日は準備だ。腹に入れて、体を整えろ」
「はい」
私は小さく頷きながらも、内心ではまるで別のことを考えていた。
(普通……? 本当に、これが“普通”なのか)
初めてここで命を救われた日の料理も、決して派手ではなかった。
だが、その一口が、どれほど身体に染み渡ったかを、私ははっきり覚えている。
箸を取る手が、自然と魚に伸びる。
そっと身を崩すと、抵抗もなく箸が通った。湯気と一緒に、香ばしさと脂の甘い香りが広がる。
口に運んだ瞬間――
「……っ」
思わず、声が漏れた。
外側は香ばしく、中は驚くほどしっとりとしている。
噛むたびに、淡白なはずの白身から、じんわりと旨味が溢れ出し、舌の上に広がった。
(なに、これ……)
焼き魚という、どこにでもあるはずの料理。
けれど、塩加減、焼き加減、火の入り方――そのすべてが、完璧だった。
さらに、遅れてくる感覚。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
重傷から回復したとはいえ、まだ残っていたはずの微かな違和感が、溶けるように消えていく。
(これが……バフ、料理……)
私は無意識のうちに、次の一口を求めていた。
白米を口に含む。
魚の余韻を受け止めるように、米の甘さが広がり、噛むほどに幸福感が増していく。
「……おいしい」
気づけば、はっきりと口にしていた。
悠斗は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を外す。
「そうか」
それだけ。
なのに、その短い返事に、私はなぜか胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
味噌汁を啜る。
深みのある出汁が喉を通り、身体の芯にまで染み込んでくる。
(ああ……戦う前の食事って、こんなに落ち着くものだったんだ)
探索者だった頃、私は効率と栄養だけを考えて、無理やり食事を詰め込んでいた。
味を感じる余裕も、こうして腰を落ち着ける時間もなかった。
それが今はどうだろう。
畳の上で、温かい料理を前に、明日――いや、これから向かうダンジョンのことを考えているのに、不思議と心が静かだった。
「店主」
箸を置き、私は顔を上げる。
「……行く前に、こんな食事をいただけるなんて、思ってませんでした」
「腹が減ったまま潜るな。それだけだ」
相変わらず、そっけない。
けれど。
(この人なりの、準備なんだ)
そう思うと、胸の奥がじんと熱くなる。
最後に、もう一度魚を口に運び、私は静かに噛み締めた。
身体は軽く、心は満たされている。
刀を振るう前に、まず“生きる”ための食事をしたのだと、はっきり実感できた。
茶碗が空になる頃、私は自然と背筋を伸ばしていた。
「……ごちそうさまでした。行けます」
悠斗は立ち上がり、調理場の方へと踵を返す。
「じゃあ、準備しろ。第四区画だ」
その背中を見送りながら、私はゆっくりと息を吸った。
この店で、この人の料理を糧に。
私は、食材を取りに行く。
――そう、次の一歩を踏み出すために。
――――――
ダンジョン第四区画。
武骨な鉄製ゲートをくぐった瞬間、空気が変わる。
湿り気を帯びた石の匂い、ひんやりとした温度、足裏に伝わる硬質な感触。
(いつものダンジョン……のはず、なのに)
私は一度、深く息を吸った。
腰には愛刀。軽く手を添えただけで、しっくりと馴染む。
だが、違和感はない。むしろ――
(体が、軽い)
足取りが驚くほど自然だった。
呼吸も乱れず、視界がやけに澄んでいる。
出発前、座敷で悠斗――店主から言われた言葉が、脳裏によみがえる。
『深追いするな。浅層だけだ』
『素材は指定したやつだけ。余計なもんは取るな』
『戦闘は最小限。無駄に体力削るな』
『異変を感じたら、即戻れ』
探索者としてなら、どれも当たり前の注意。
けれど、最後に付け加えられた一言が、妙に印象に残っていた。
『今日は試運転だ。無茶すんな』
(……はいはい)
心の中で軽く返しながら、私は浅層へと足を進める。
壁面に苔が生え、松明の代わりに発光鉱石が埋め込まれた通路。
視界の端が、やけに広く感じられた。
――来た。
低い唸り声。
角を曲がった先から、ゴブリンが二体、こちらに気づいて駆け出してくる。
反射的に、刀を抜いた。
その瞬間。
(……速い)
自分でも驚くほど、体が自然に前へ出た。
踏み込み、横薙ぎ。
キン、と軽い手応え。
刃が骨を断ち、血が床に散る前に、一体目は崩れ落ちる。
間髪入れず、返す刀で二体目。
抵抗らしい抵抗もなく、首が落ちた。
静寂。
私は刀を振って血を払いながら、眉をひそめた。
(今の……力、入れてない)
全力どころか、半分も使っていない。
それなのに、切れ味も、踏み込みの鋭さも、いつも以上だった。
次の通路でも、スライムが数体現れる。
これも同じだ。
刀を通す感覚が、まるで水を切るように軽い。
動きに迷いがなく、無駄がない。
(視界が……広い)
敵の動きが、手に取るようにわかる。
次に何をしてくるか、直感的に理解できた。
――そうだ。
今までの私は、常に“限界”を意識していた。
この動きをしたら疲れる、この距離は危険だ、これ以上踏み込めば消耗する。
だが今は。
(余裕が、ある)
心にも、体にも。
指定されていたダンジョン食材――浅層魚型モンスターの肉と、魔力を帯びた根菜。
それらを回収しながら、私は淡々と進んでいく。
――通路が少しだけ広くなった場所で、私は足を止めた。
鼻先をかすめる、獣特有の生臭さ。
壁際に散った爪痕と、床に残る引きずったような跡。
(来る)
次の瞬間、影が跳ねた。
浅層に出現する中型モンスター、ホーンボア。
猪に似た体躯に硬い角、肉質が良く、討伐後は食肉として使えることで知られている個体だ。
だが同時に、力任せに斬れば筋肉が硬直し、血が回って肉が台無しになる――
店主から、耳にタコができるほど言い含められていた。
『食う前提のやつは、殺し方考えろ』
『急所一撃、出血は最小限だ』
『潰すな。焦がすな。切り刻むな』
(……はいはい、覚えてますよ)
私は心の中で返事をしながら、刀を構え直す。
ホーンボアは突進を得意とする。
真正面から迎え撃てば簡単だが、それでは内臓を傷つけ、肉質も落ちる。
だから――
私は、わざと半歩、横にずれた。
突進の軌道を見切り、角が通り過ぎる瞬間を待つ。
呼吸は静か。体は驚くほど落ち着いていた。
(……今)
踏み込み。
狙うは首の付け根、神経の集中する一点。
刃を“振る”のではなく、“滑り込ませる”。
ほとんど抵抗はなかった。
血は最小限。致命の一線だけを断ち切る。
ホーンボアは、短く鳴き声を上げ、そのまま崩れ落ちた。
静寂。
私は刀を抜き、軽く血を拭う。
(……完璧)
肉に余計な力は入っていない。
暴れた形跡もなく、筋肉は柔らかいままだ。
私は誰もいない通路を見回し――
それから、ふっと口角を上げた。
「……流石は、私」
思わず、胸を張る。
誰も見ていない。
褒める人も、拍手する人もいない。
それでも。
(ちゃんと、できてる)
探索者として培った技術。
そして、それを“料理のため”に使っているという事実。
それが妙に誇らしかった。
解体用の簡易ナイフを取り出し、手早く処理を施す。
内臓を傷つけないよう慎重に、だが迷いなく。
(店主なら、この肉……どう料理するんでしょうね)
香草焼きか、煮込みか、それとも――
そんなことを考えながら、私は丁寧に肉を回収した。
荷袋に収めた瞬間、ずしりとした重みが伝わる。
(これも、ちゃんと“仕事”)
そう自分に言い聞かせ、私は再び通路を進んだ。
足取りは軽く、気分は上々。
バフ料理の恩恵か、それとも――
(両方、ですね)
心の中で小さく笑いながら、
私は次の素材を求めて、浅層の奥へと歩みを進めていった。
襲ってくるモンスターは、ことごとく斬り伏せた。
苦戦する場面は、一度もない。
それどころか、戦闘を“作業”として処理できている自分に、少し戸惑いすら覚える。
(……これが、あの定食一食の効果?)
焼き魚、白米、味噌汁。
あまりに普通の食事。
なのに、体の奥で何かが確かに底上げされている。
筋肉の反応。
集中力。
持久力。
どれもが、無理なく、自然に引き上げられている。
(自己強化スキルとも違う……これは)
自分の力が“増えた”というより、
“本来の力を、最初から最後まで使える”感覚に近い。
だから、消耗しない。
だから、余裕がある。
浅層の区切り地点に辿り着いたところで、私は足を止めた。
まだ行ける。
そう思える体力は、十分に残っている。
けれど。
『深追いするな』
店主の声が、頭の中で静かに響いた。
「……今日は、ここまで」
私は小さく呟き、踵を返す。
十分すぎる成果。
それ以上に、確信を得た。
(この料理があれば……)
私は、もう無茶をする必要がない。
力を誇示する必要も、限界を超える必要もない。
“支えられながら戦う”という選択肢が、確かにここにある。
帰路につきながら、私は思わず口元を緩めていた。
「……帰ったら、ちゃんと報告しないとですね、店主」
あのぶっきらぼうな顔を思い浮かべながら、
私は、かくりよ亭への道を静かに歩き出した。




