第50話 突入一歩前
朝の空気は、ひどく澄んでいた。
九州奪還作戦の前線基地――その簡易キャンプの外れに立つと、遠くの空がうっすら白み始めているのが見える。
夜と朝の境目。探索者が動き出すには、ちょうどいい時間だ。
私はゆっくりと息を吐いた。
胸の奥が、妙に静かだった。
緊張がないわけではない。
けれど、恐怖も焦りも、不思議なほど感じない。
体の奥底――骨や血や、もっと深いところが。
静かに燃えている。
「……これが、店主の料理か」
小さく呟く。
昨日の夜のことを思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
――あれは、料理なんて言葉で呼んでいいものじゃなかった。
舌に残る味。
体の奥へ溶けていく熱。
そして、理解してしまった確信。
あれは、人を強くする食事だった。
ただの一時的なバフなんかじゃない。
もっと根本――人間の土台そのものを書き換えるような。
そんな食事。
思い出すと、自然と笑ってしまう。
あの人はきっと、いつものぶっきらぼうな顔で言うのだろう。
『飯作っただけだ』
……本当に。
困った店主だ。
「鷹宮さん、準備できてます」
背後から声がかかった。
振り返ると、早乙女澪が弓を背負って立っていた。
迷彩の戦闘装備に身を包み、すでに完全な臨戦態勢だ。
「ええ、今行く」
私は刀を腰に差し直しながら答える。
少し離れた場所には、今回の突入メンバーが集まっていた。
氷室龍也。
久遠寺恒一。
アレクサンダー・“グリム”・ハワード。
趙天嵐。
そして、私。
人類側の戦力としては、間違いなく最高峰の面子だ。
……昨日までなら、そう思っていた。
でも今は違う。
この六人は、もう昨日までの人間じゃない。
店主の料理を食べた。
それだけで、わかる。
身体の感覚が違う。
重心。
呼吸。
魔力の巡り。
すべてが、以前よりも滑らかで、強くて、静かだ。
氷室さんがこちらに気づき、軽く顎を上げた。
「おう、鷹宮。体調はどうだ」
「問題ありません」
そう答えると、氷室さんは少し笑った。
「だろうな」
氷の魔法使いは腕を組んだまま、空を見上げる。
「俺もだ。むしろ……調子が良すぎて困るくらいだ」
「Same here.」
横からグリムが肩をすくめる。
「I feel like I could punch a mountain apart today」
「山なら壊せるかもしれませんね」
久遠寺さんが苦笑した。
そして、静かに言う。
「……皆さん、感じているでしょう?」
その言葉に、全員が少しだけ黙った。
言葉にする必要はなかった。
みんな、同じことを理解している。
昨日の料理。
あれは――
ただの強化食ではない。
趙天嵐がぽつりと呟く。
「人を作り替える料理……か」
低い声だった。
それ以上、誰も何も言わなかった。
だが、心の奥では全員が理解している。
今日、深層へ潜る。
原因個体を討伐する。
それは、ただの戦いではない。
人類の境界線を押し広げる戦いだ。
「……店主」
ふと、視線を向ける。
少し離れた場所。
仮設キャンプの端。
そこに、見慣れた男が立っていた。
大崎悠斗。
かくりよ亭の店主。
料理人。
そして――
この戦いの、最大の支援者。
腕を組んで、こちらを見ている。
相変わらずの無愛想な顔だ。
私は歩いて近づいた。
「店主」
「おう」
短い返事。
「行くのか」
「はい」
私は頷いた。
「今から、ダンジョンへ」
店主はしばらく何も言わなかった。
ただ、じっと私を見ていた。
料理人の目だ。
客の体調を確かめるような目。
やがて、小さく息を吐いた。
「……問題なさそうだな」
「ええ」
私は笑った。
「店主の料理のおかげです」
「そりゃよかった」
本当に、それだけだった。
いつも通りの反応。
だけど。
私は知っている。
昨日の夜――
あの料理を作る前。
店主がどれだけ真剣な顔をしていたか。
厨房で。
火の前で。
まるで、戦う人間みたいな顔で包丁を握っていたことを。
「店主」
「なんだ」
「……昨日は、ありがとうございました」
少しだけ頭を下げる。
店主は眉をひそめた。
「やめろ」
「?」
「そういうのは帰ってきてからにしろ」
ぶっきらぼうに言う。
「飯は前払いじゃねぇ」
私は、思わず笑った。
まったく。
本当に。
「そうですね」
頷く。
「じゃあ、帰ってきたら」
「ああ」
店主は顎でダンジョンの方向を示した。
「土産話、持ってこい」
「はい」
私は背を向ける。
ダンジョン第四区画。
巨大な鉄のゲートが、朝の光を浴びて鈍く光っていた。
あの向こうに。
深層がある。
原因個体がいる。
そして――
人類の未来がある。
歩きながら、ふと思う。
昨日の夜。
あの料理を食べたあと。
私たちはそのまま解散したわけじゃない。
作戦前の最終確認。
簡単なブリーフィングが行われた。
でも。
あれは――
普通の作戦会議とは、少し違った。
なぜなら。
店主の料理を食べた直後だったからだ。
人が変わる瞬間。
その場にいた六人全員が、それを理解していた。
あの空気。
あの沈黙。
そして――
最初に口を開いたのは、誰だっただろうか。
確か。
氷室さんが、グラスを置いて言ったのだ。
「……さて」
静かな声で。
「飯も食ったことだし」
そう言って。
彼はテーブルの中央に広げられたダンジョンマップを指差した。
「明日の話をしようか。」
――昨夜。
あのブリーフィングの場面へ、記憶は静かに戻っていく。
――――――
昨夜。
店主の料理を食べ終えたあと、私たちは前線基地の簡易会議室に集まっていた。
……とはいえ、会議室といっても仮設テントだ。
折り畳み机に、簡易照明。
中央には大きく広げられたダンジョンの地図。
九州第十八区画。
今回の作戦の舞台だ。
だが――
正直に言えば。
その場にいた全員の意識は、地図よりも自分の体の変化に向いていた。
静かだった。
誰もが、黙っている。
その理由は単純だ。
体の調子が良すぎた。
それも、異常なほどに。
氷室さんが、テーブルに肘をついて言った。
「……まず確認しておくが」
氷の魔法使いは、ゆっくりと周囲を見回した。
「今、外で全力出したらどうなると思う?」
誰もすぐには答えなかった。
代わりに、グリムが低く笑う。
「Heh……good question」
拳を軽く握る。
「Probably break something expensive」
「同感です」
久遠寺さんも苦笑していた。
「先ほど試しに魔力を巡らせてみましたが……制御を間違えれば、この基地の通信設備くらいは簡単に壊せそうでした」
私は小さく息を吐いた。
みんな、同じ感覚なのだ。
それはつまり――
地上で力を確かめるのは危険すぎる。
ということだった。
だが。
人間というのは、どうしても試したくなる生き物だ。
私は席を立った。
「少しだけ、いいですか」
誰にともなく言う。
テントの端に、訓練用の木製パーテーションがあった。
基地の中を簡単に区切るためのものだ。
もちろん、ただの板だ。
モンスター素材でも何でもない。
私は刀を軽く抜いた。
ほんの少し。
本当に軽く。
手首の感覚を確かめるように。
スッ――
空気を撫でる程度の一振り。
……の、はずだった。
パーテーションが、静かに崩れた。
「…………」
板が、斜めに滑り落ちる。
切断面は、まるで紙を裂いたみたいに綺麗だった。
私は固まった。
「……すみません」
小さく謝る。
氷室さんが吹き出した。
「ははっ! おいおい、マジかよ!」
グリムも腹を抱えて笑っている。
「That was NOT a full swing」
「全くです」
久遠寺さんが額を押さえていた。
「今のは、剣術の確認というより……事故ですね」
私は刀を鞘に戻した。
深く反省しながら。
「……やはり、地上では試すべきではありません」
「だな」
氷室さんが頷く。
「今の鷹宮の一振り、普通の建物なら壁ごと抜けてる」
つまり。
能力が上がりすぎている。
それも、予想以上に。
店主が言っていた。
――人間をやめるレベルの進化。
あの言葉は、冗談でも比喩でもなかった。
早乙女澪が、少し呆れた顔で言う。
「……これ、ダンジョンの外で暴れたら普通に災害ですよね」
「だから確認はダンジョン内だ」
氷室さんが地図を指で叩いた。
「幸い、明日は原因個体の討伐だ」
そこで久遠寺さんが手を上げた。
「その件ですが」
静かな声だった。
「一つ、試してみたいことがあります」
全員の視線が集まる。
「探査魔法です」
久遠寺さんは椅子から立ち上がった。
「食事のあと、魔力の感覚が大きく変化しました。もし私の予想通りなら……」
彼は外を指さした。
「ダンジョン内部まで、かなり広い範囲を捕捉できる可能性があります」
氷室さんが顎を上げる。
「試してみろ」
「はい」
久遠寺さんはテントの外へ出た。
私たちも後に続く。
夜の前線基地。
空には星が見えていた。
久遠寺さんは、静かに目を閉じる。
足元に魔法陣が展開された。
淡い光。
だが――
その魔力量は、はっきりわかる。
以前とは段違いだ。
「……行きます」
小さく呟く。
次の瞬間。
魔力の波が広がった。
音もなく。
だが、確実に。
まるで水面に落ちた雫みたいに、世界へ波紋が広がっていく。
久遠寺さんの探査魔法。
それは本来、広範囲の魔力反応を捉えるものだ。
だが今回のそれは――
規模が違った。
数秒。
静寂。
そして。
久遠寺さんの目が、ゆっくり開いた。
「……なるほど」
静かな声だった。
氷室さんが腕を組む。
「どうだ」
久遠寺さんは、はっきりと言った。
「見つけました」
その言葉に、全員が息を止めた。
「原因個体です」
彼はダンジョンの方向を指さす。
「深層。かなり下層ですが……位置を捕捉できています」
「マジか」
氷室さんの目が鋭くなる。
「どれくらい正確だ?」
「かなり」
久遠寺さんは頷いた。
「そして、もう一つ」
そこで少しだけ笑った。
「今も、捕捉し続けています」
空気が変わった。
グリムが口笛を吹く。
「Permanent radar, huh」
「正確には、私が魔法を維持している間だけですが」
久遠寺さんは地図を広げた。
そして、指で一点を押さえる。
「ここです」
ダンジョン深層。
通常ルートから外れた位置。
氷室さんが目を細める。
「……なるほど」
そして、地図の上をなぞった。
「なら話は早い」
私たちを見る。
「案内役は久遠寺だ」
誰も反対しなかった。
「最短経路で進む」
氷室さんは続ける。
「ただし――」
そこで少し笑った。
「途中で少し寄り道する」
「寄り道?」
私が聞くと、氷室さんは肩をすくめた。
「能力確認だよ」
グリムが笑う。
「Yeah, I was hoping you'd say that」
氷室さんは言った。
「今の俺たちは、昨日までの俺たちじゃない」
静かな声だった。
「なら、その力を把握してからボスに行く」
久遠寺さんも頷く。
「合理的です」
早乙女澪が弓を握る。
「つまり」
彼女は小さく笑った。
「ダンジョンを進みながら、レベルアップの確認をするってことですね」
氷室さんは地図を叩いた。
「そういうことだ」
そして、静かに言った。
「――明日は、最短ルートで深層に突入する」
その瞬間。
全員が理解していた。
これはもう。
ただの作戦じゃない。
人類の新しい力の、初実戦になる。




