第45話 均衡の三週間、そして囲い込みへ
前線基地が「前線」として機能し始めたのは、あの氷の防壁が完成してから半日ほど経った頃だった。
最初は、ただの臨時拠点だった。
負傷者を寝かせ、飯を食わせ、最低限の物資を置くだけの場所。
だが、戦線が安定し、死線を越える回数が減るにつれて、そこは明確に拠点へと変わっていった。
「……ようやく、土台ができたな」
俺は鍋の火を落としながら、遠くに見える防壁の向こうを眺めた。
刹那たちが押し上げた戦線は、もう「一時的な前進」じゃない。
継続可能な位置まで、確実に押し出されている。
探索者たちの動きも変わってきていた。
これまでは、数人単位での突撃と撤退の繰り返し。
だが今は違う。
小隊規模――いや、遠征と呼んでいい人数が、まとまって動き始めている。
「前線基地を、もう一つ増設する」
准将の判断は早かった。
後方――つまり海路からの補給ラインと、最初の上陸拠点はすでに安全圏。
ならば、次は前だ。
無理に距離を詰めない。
一気に押し切ろうともしない。
周辺をきっちり掃除し、危険因子を潰しながら、
牛歩でもいいから、確実に前へ進む。
俺が会議で言った通りのやり方だった。
「急げば死ぬ。止まれば詰む。
だから、続けられる速度で行くしかない」
その言葉を、軍人たちは意外なほど素直に飲み込んだ。
九州は、もう「取り返せる場所」じゃない。
取り戻すまで生き残れるかどうかの話に変わっている。
増設予定地は、現在の前線基地からさらに数キロ先。
氷室が地形を読み、久遠寺が探査で「群れが再集結しにくい空白地帯」を割り出した場所だ。
刹那、アレクサンダー、趙天嵐。
この三人が先行して道を開き、
中距離・長距離の火力が周囲を削り、
最後に工兵と補給部隊が入る。
その間、俺の仕事は変わらない。
「次、回復強化。疲労抜きも入ってるから、無理すんな」
器を受け取った探索者が、苦笑しながら頷く。
「無理しないで済むのが、一番ありがたいっすよ……」
それを聞いて、少しだけ胸が軽くなった。
誰も英雄気取りじゃない。
生きて帰るために戦っている。
新しい前線基地は、最初から「完成形」を目指さない。
簡易壁、通信中継、医療と炊き出し。
それだけでいい。
そこを起点に、また周囲を削り、
また一歩、前へ。
氷の壁が、少しずつ移動していく。
地図の上で引かれる線が、ほんのわずかに南へ伸びる。
派手さはない。
だが――確実だ。
俺はヒースの背に手を置き、前を見た。
「……行けるな」
ヒースが小さく喉を鳴らす。
戦場の空気は、まだ重い。
だが、崩れる気配はない。
次の基地が完成したとき、
戦いは、また一段階進む。
――その先に、何が待っているのかを考えるのは、
もう少し後でいい。
俺は鍋に、次の仕込みを始めた。
――――――
三週間。
長いようで、短い時間だった。
九州北部は――地図の上では、完全に人類側の色に塗り戻された。
港、幹線道路、主要な市街地。
すべてに人が戻り、補給線は安定し、前線基地は“前線”という言葉すら曖昧になる位置まで前進した。
それでも、誰一人として「終わった」とは言わなかった。
理由は単純だ。
ダンジョンは、まだそこにある。
「……出てくる数と、殺してる数が、釣り合ってやがるな」
俺は炊き出し用のテントの外で、戦況報告を聞きながらそう呟いた。
モンスターは、確かに湧いている。
だが、以前のように群れを成して押し寄せてくることはない。
小規模。
断続的。
まるで、こちらの戦力と消耗を測るかのような出現頻度。
「全身……いや、全面には来ていませんね」
久遠寺が念話越しに補足する。
彼の探査網は、九州北部一帯を覆っているが、
それでも“決定的な動き”は観測されていない。
刹那も、刀を肩に担いだまま首を傾げていた。
「静かすぎます。
逃げている、というより……待っている感じがします」
アレクサンダーは鼻で笑った。
「モンスターに戦略なんてあるのか?
まあ、金にならねえなら、どっちでもいいが」
趙天嵐は何も言わない。
ただ、闇色の剣を地面に突き立て、動かない。
全員が感じていた。
これは“停滞”じゃない。
均衡だ。
出てくる分だけ倒される。
倒されるから、それ以上は出てこない。
――まるで、ダンジョンそのものが、こちらの出方を見ているかのように。
「進めば、反応する。
止まれば、何も起きない」
准将の言葉は、冷静だった。
そして、その冷静さが逆に不気味だった。
俺は鍋をかき混ぜながら、探索者たちの顔を見る。
疲労はある。
だが、恐怖や焦燥はない。
ここ三週間、誰も無理をしていないからだ。
「……今、無理に踏み込む理由はないな」
俺の言葉に、何人かが頷いた。
前に進める。
だが、進まなくても死なない。
それが、いちばん危険な状態だと、俺は知っている。
ヒースが、低く唸った。
幼体化したままの小さな体で、落ち着きなく尾を揺らしている。
「ヒースも、同じこと感じてるか」
ダンジョンの“向こう側”。
そこにある何かが、力を溜めている。
あるいは、こちらが自滅するのを待っている。
どちらにせよ――
「この均衡は、長くは続かない」
誰かが、そう呟いた。
否定する者はいなかった。
北部は取り戻した。
だが、核心には、まだ触れていない。
戦場は静かだ。
静かすぎる。
俺は次の仕込みをしながら、心の中でだけ覚悟を固める。
――ここから先は、
本当に“原因”を叩きに行く段階だ。
均衡の三週間は、決して“待ち”の時間じゃなかった。
前線が静かだからこそ、上は動けた。
いや――動かざるを得なかった、が正しい。
「現有戦力を、これ以上貼り付け続けるのは限界だ」
准将の言葉は重かった。
刹那や氷室、早乙女、アレクサンダー、趙天嵐。
今の前線は、どう考えても“豪華すぎる”。
彼らがいるから押し返せている。
だが同時に、彼らがいなければ次に進めない状況でもある。
だから、上層部は手を打った。
探索者ギルド。
各国の準精鋭クラン。
自衛隊予備役の高練度部隊。
関係各所に話を通し、
「今の前線を維持するだけなら可能」
そう断言できるだけの応援を、かき集めた。
質は落ちる。
だが、量と継続性は確保できる。
「主力は、抜く」
それは、撤退じゃない。
再配置だ。
さらにもう一手。
俺が正直、舌を巻いたやつだ。
「転移系スキル持ちを、正式雇用する」
単独で使える者。
条件付きだが人員と物資を運べる者。
距離制限がある代わりに、精度が高い者。
国が金を出し、危険を承知で雇い上げた。
輸送専用。
戦闘には参加しない。
「別行動体を作るためだ」
地図が広げられる。
現在の前線から、半円――いや、弧を描くような進路。
正面突破じゃない。
裏へ回る。
「ダンジョンを……挟む?」
誰かが、資料を見ながら小さく息を呑んだ。
「そうだ。
正面で均衡を維持しつつ、裏から回り込む」
ダンジョンは“点”じゃない。
周囲一帯に影響を及ぼす“領域”だ。
なら、その外縁を切り取る。
封鎖し、逃げ場をなくし、
内側に閉じ込める。
そのための、別行動体。
刹那は黙っていたが、目は完全に戦場のそれだった。
氷室は静かに頷き、
久遠寺はすでに探査範囲を計算している。
そして――
「……俺も、行くんだな」
俺の名前が、作戦表にあった。
「はい」
准将は、はっきり言った。
「あなたのスキルは、この別働隊にこそ必要です。
補給が切れる。
孤立する。
想定外が起きる。
その全部を前提に動く部隊です」
転移は万能じゃない。
回数制限もある。
瘴気で失敗する可能性も高い。
つまり――
帰れなくなる可能性が、常にある。
「戦闘はしない。
だが、最悪の場合、現地で持ちこたえる必要がある」
俺は、少しだけ考えてから頷いた。
「……飯と回復と、正気を保つ役なら、専門だ」
ヒースが俺の足元で鳴いた。
幼体のまま、だが、瞳は鋭い。
刹那が、ちらりと俺を見る。
「店主。
無理はしないでください」
「そっちこそだ」
言葉は短い。
だが、十分だった。
別行動体は、静かに準備を始める。
夜明け前。
転移地点は、ダンジョン影響圏の外縁。
そこから、弧を描くように進み、
正面部隊と噛み合う位置まで到達する。
挟撃。
封鎖。
そして――核心へ。
俺は装備を確認し、
調理器具と食材を詰め直した。
これは遠征じゃない。
探索でもない。
――囲い込みだ。
ダンジョンを、逃がさないための。
ヒースの頭を撫で、前を見る。
次に進めば、
もう戻れないかもしれない。
それでも。
「行くぞ」
俺たちは、裏側へ向かって動き出した。




