第5話 刃を置き、エプロンを受け取る日
かくりよ亭の昼営業が終わり、暖簾が裏返された後の店内は、不思議なほど静かだった。
油の匂いも、出汁の湯気も、すでに落ち着いている。食器は洗い終え、カウンターには一切の客の気配がない。
悠斗はカウンターの内側に立ったまま、腕を組んで刹那を見ていた。
刹那はカウンター席に背筋を伸ばして座り、膝の上に両手を揃えている。探索者としての装備はなく、私服姿だというのに、その佇まいには未だに戦場の気配が残っていた。
沈黙を破ったのは、悠斗の方だった。
「……で。働かせてほしい、って話だが」
「はい」
刹那は即答した。迷いのない声だった。
「私は、ここで働きたいです。探索者としてではなく、一人の人間として」
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の脳裏には昨夜の光景がフラッシュバックする。
血の匂い。骨が折れる鈍い音。内臓をやられた身体を無理やり繋ぎ止めるために、全神経を料理に注ぎ込んだ時間。
「……正直に言う」
悠斗はため息混じりに言った。
「鷹宮刹那を“完全に探索者やめさせる”なんて、現実的じゃねえ」
刹那の眉が、わずかに動いた。
「世間が放っておかねえ。協会も、スポンサーも、ファンもだ。
あんたはもう個人の意思だけで動ける存在じゃない」
それは、かつて探索者だったからこそ分かる現実だった。
最強格と呼ばれる存在は、本人の都合とは関係なく「資源」として扱われる。
「……はい」
刹那は否定しなかった。
「私も、それは分かっています。
探索者を“辞めました”と言ったところで、名前が消えるわけではありません」
むしろ、と刹那は続ける。
「だからこそ、ここで働きたいのです。
逃げるためではなく、立ち位置を変えるために」
悠斗は視線を逸らし、カウンターの木目を見つめた。
——立ち位置を変える。
それは、かつて自分が選んだ道でもあった。
「……問題は他にもある」
今度は、カウンターの端から声がした。
「店長」
理央だった。帳簿を抱えたまま、いつもの冷静な表情で立っている。
「現実的な話をしますね」
悠斗は頷いた。刹那も姿勢を正したまま、理央を見る。
「現在、かくりよ亭のバフ料理は不定期提供です。
理由は単純で、ダンジョン食材の安定確保ができていないからです」
「……だな」
「店長一人で仕入れに行くのは危険ですし、時間的にも無理があります。
外注するとコストが跳ね上がり、品質も落ちる」
理央は帳簿を一度閉じ、はっきりと言った。
「鷹宮さんを“食材調達担当”として雇用する。
これは、経営面では非常に合理的です」
刹那は驚いた様子も見せず、静かに言った。
「探索者として潜る、ということですね」
「ああ。ただし——」
悠斗は言葉を区切り、刹那を真正面から見据えた。
「条件がある」
空気が、ぴんと張り詰める。
「ダンジョンに潜るのは、食材調達のためだけだ。
ランキング維持だの、深層攻略だの、名声稼ぎだのは一切なし」
刹那は黙って聞いている。
「それから」
悠斗の声は低く、だが強かった。
「無茶はするな」
一瞬、刹那の目が見開かれた。
「最強だろうが何だろうが関係ねえ。
死にかけた奴に、次も同じ真似させる気はない」
料理人としての言葉だった。
命を“素材”として見ない人間の、譲れない線。
「……約束できるか?」
悠斗は問いかけた。
刹那は、数秒だけ目を伏せた。
そして、深く一礼する。
「はい。約束します」
顔を上げた刹那の表情は、探索者のそれではなかった。
「食材を持ち帰ることを最優先にし、無理な戦闘は避けます。
命を賭けるような潜り方は、もうしません」
その言葉に、理央が小さく息を吐いた。
「……では」
悠斗は腕を解き、ゆっくりと口を開く。
「鷹宮刹那。
探索者としてじゃなく、かくりよ亭の従業員として迎える」
刹那の肩が、わずかに震えた。
「仕事内容は、食材調達がメイン。
店が忙しい時は、雑用もやってもらう」
「構いません」
「給料は、理央と相談して決める。
最強だからって特別扱いはしねえ」
「それで、十分です」
悠斗は最後に、短く言った。
「……ようこそ。かくりよ亭へ」
その瞬間、刹那は初めて、探索者としてではなく、一人の“働く人間”として笑った。
「はい、店主」
小さな定食屋で、静かに。
だが確かに、最強探索者の居場所が決まった瞬間だった。
ひと区切りついた空気の中で、理央が小さく手を叩いた。
「では……せっかくですし、改めて自己紹介をしましょうか」
そう言ってから、彼女は刹那に向かって柔らかく微笑む。
店の空気を切り替えるのが、彼女は昔からうまかった。
「新しく一緒に働く以上、形式的でも大事ですから」
まず一歩前に出たのは、悠斗だった。
エプロン姿のまま、腕を組み、相変わらずぶっきらぼうに言う。
「……店主の大崎悠斗だ」
それだけ言って、ちらりと刹那を見る。
「料理担当。
細かいことは理央に聞け。俺は厨房にいることが多い」
歓迎の言葉らしきものは特にない。
だが、その態度がこの男なりの“平常運転”であることは、二人とも分かっていた。
次に理央が一歩進み、軽く頭を下げる。
「改めまして」
声には、ほんのりとした温かさが滲んでいる。
「高瀬理央と申します。
かくりよ亭では、ウエイトレスと事務全般を担当しています」
そして、少しだけ声の調子を柔らかくした。
「店では私の方が先輩になりますので、分からないことがあれば何でも聞いてくださいね。
探索者としてではなく、“従業員の鷹宮さん”として、これからよろしくお願いします」
その言葉に、刹那の背筋がわずかに伸びた。
最後に、刹那が立ち上がる。
一瞬だけ呼吸を整えてから、深すぎない角度で頭を下げた。
「鷹宮刹那です」
その声には、かつての戦場での鋭さはない。
だが、芯の通った真面目さがあった。
「これからは探索者ではなく、かくりよ亭の従業員として働かせていただきます」
一拍置いてから、少しだけ口元を緩める。
「ダンジョン食材の調達が主な仕事になると思いますが、
それ以外のことも……できることは何でもやります」
そして、視線を悠斗と理央に順番に向ける。
「まだ慣れないことばかりで、ご迷惑をおかけするかもしれませんが……
仲間として、どうぞよろしくお願いします」
その言葉には、ほんのわずかな硬さが残っていた。
それでも、“最強探索者”の自己紹介ではなく、“店の仲間”としての言葉だった。
「……よし」
悠斗が短く言った。
「じゃあ、自己紹介も終わりだ。
まずは、まかない食っていけ」
理央がくすっと笑う。
「ふふ、では鷹宮さん。
かくりよ亭の一員として、最初のお仕事は“ちゃんと食べること”ですね」
「はい」
刹那は素直に頷いた。
こうして、かくりよ亭に新しい名前が加わる。
探索者でも、客でもない——
同じ屋根の下で働く、“仲間”として。




