第38話 遠くで、嵐が
数日後――かくりよ亭は、いつも通り開店していた。
朝の仕込みを終え、暖簾を出す。
油の温度、出汁の香り、炊き上がった米の艶。
どれも変わらない。変わるはずがない。
――それなのに。
店内の空気だけが、妙に重かった。
「……なあ、これ見たか」
カウンター席の探索者が、スマホをテーブルに置いた。
画面には、見慣れたニュースアプリの速報表示。
《九州地方・全域に避難指示》
《第18区画ダンジョン スタンピート防衛失敗》
その文字が目に入った瞬間、俺の手が一瞬だけ止まる。
――やっぱり、か。
嫌な予感は、外れてくれない。
「マジかよ……全域って」
「シャレにならねえだろ。あそこ、人口どれだけいると思ってんだ」
「ギルドは何してたんだ? スタンピートなんて今まで――」
「いや、過去にもある。大陸ごと飲まれた例」
声が、自然と低くなる。
「……取り戻せてねえ場所も、まだある」
店内に、沈黙が落ちた。
箸の音が止まり、湯気の立つ定食だけが、取り残される。
画面の向こうでは、ヘリ映像と共に、黒く染まった街並みが映し出されていた。
「九州か……」
別の客が、絞り出すように呟く。
「知り合い、いるんだよな」
「俺もだ。探索者、何人か」
「……無事だといいが」
喧々諤々。
意見も、憶測も、不安も、全部が混ざり合って、店内を満たしていく。
そのやり取りを、カウンター裏からじっと聞いている影があった。
理央だ。
トレイを胸に抱えたまま、足を止めている。
いつもなら、客の会話に耳を傾けることはない。
だが今は違う。
視線が、落ち着かない。
ニュースの単語一つ一つを、逃がさないように追っている。
「……全域、避難……」
小さく、そう呟いたのが聞こえた。
理央は探索者じゃない。
だからこそ、数字や制度の意味が分かる。
全域避難指示が、どれだけ異常な事態か。
どれだけ長期化する可能性があるか。
そして――金も、人も、物流も、全部が揺らぐ。
不安げに唇を噛む理央の横顔を見て、俺はフライパンを置いた。
ここは、定食屋だ。
戦場じゃない。
だが、戦場の影響は、確実に日常を侵食してくる。
俺は鍋をかき混ぜながら、胸の奥で静かに考えていた。
――九州が、飲み込まれた。
それが、遠い出来事で済むはずがない。
理央が、こちらをちらりと見る。
何か言いたげで、でも言葉が出てこない、そんな目だ。
俺はそれに気づかないふりをして、次の注文を受けた。
「はいよ、次」
平静を装う。
料理人として、店主として。
だが――この静かな店内に流れ込んできた“外の現実”が、
いずれ、かくりよ亭を無関係ではいさせない。
そんな予感だけが、確かにそこにあった。
――その時だった。
店内に、異音が走った。
客のスマホでもない。
テレビでもない。
店のスピーカーでもない。
空気そのものが震えるような、強制的な割り込み音声。
『――こちらは、緊急速報です』
一瞬で、全員の動きが止まった。
聞き慣れた声だ。
地震速報や、弾道ミサイル警報と同じ、思考を挟ませないための音。
『探索者協会より、全国の皆様へお知らせします』
俺は、反射的に包丁を置いた。
理央も、トレイを握りしめたまま動けなくなっている。
『九州地方全域において発生した第18区画ダンジョン由来のスタンピートについて――』
店内の誰もが、息を詰めた。
『当協会は、本日〇時〇分をもって、九州地方全域をモンスターの領域――【魔境】として正式認定しました』
――ざわり。
小さな声にならない声が、店内に広がる。
『本認定は、人類による即時奪還が不可能であると判断された場合にのみ適用される、最高度の危険区分です』
俺の背中を、冷たいものが這い上がった。
魔境。
それは、ただの「危険地帯」じゃない。
人類が、そこを“諦めた”という宣言だ。
『九州地方への立ち入りは、探索者・民間人を問わず全面禁止とします』
『海路・空路・陸路、いずれの侵入も想定していない行動であり、発見次第、救助は保証されません』
誰かが、喉を鳴らした。
当然だ。
魔境に踏み込むということは、救助対象外になるという意味でもある。
放送は、淡々と続く。
『現在確認されている懸念点は、以下の通りです』
まるで、事務的な報告のように。
『第一に、九州地方に存在していたダンジョン資源の完全喪失』
探索者向け素材。
薬師連盟の薬草供給地。
一部の希少鉱石。
――全部、消える。
『第二に、物流・発電・通信インフラへの長期的影響』
九州は、ただの地方じゃない。
発電所、港湾、海底ケーブル。
失われれば、本州にまで影響が及ぶ。
『第三に、魔境拡大の可能性』
ここで、店内の空気が一段重くなった。
『過去の事例において、魔境は周辺地域へ侵食する傾向が確認されています』
つまり――
放置すれば、九州で終わらない。
『なお、過去に魔境認定された地域の一部は、現在も人類の管理下には戻っていません』
――未奪還。
その単語を、放送は使わなかった。
だが、意味は同じだ。
戻らない土地。
地図から消えた生活圏。
放送が終わると同時に、店内に現実が落ちてきた。
「……魔境、って」
「マジで……九州、終わったってことか?」
「いや、終わったとか……そんな簡単な話じゃ……」
誰もが、言葉を探している。
理央は、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
数字も、制度も、未来予測も――全部、頭の中で繋がってしまったのだろう。
人口。
税収。
復興費用。
長期避難者。
そして、終わりの見えない負担。
俺は、胸の奥で静かに理解していた。
――これは、災害じゃない。
戦争でもない。
人類が、世界の一部を失ったという話だ。
かくりよ亭は、今日も営業している。
温かい飯を出し、腹を満たす場所だ。
それでも――
この瞬間、確かに一線を越えた。
九州は、戻らないかもしれない。
その事実が、音もなく、だが確実に、
この小さな定食屋の中にまで入り込んできていた。




