第37話 定食屋の平穏と、九州を呑む黒い奔流
三ヶ月――ヒースをテイムしてから、気が付けばそれだけの時間が経っていた。
最初の頃は、正直な話、ここまで順調にいくとは思っていなかった。
ドラゴンパピー。
名前の通り“子犬サイズのドラゴン”を想定していた俺の認識は、一ヶ月目で早々に裏切られた。
「……おい、ちょっと待て」
仕込み前の早朝、かくりよ亭の裏手。
俺はまな板を置く手を止めて、目の前の存在を見上げていた。
そこには、もはや“パピー”という単語が冗談にしか聞こえないサイズ感のヒースがいる。
頭を下げてくれなければ、天井に角が引っかかりかねない。
尻尾が一振りされるたびに、物干し竿がガタガタと揺れる。
「……三メートル、超えたよな。どう見ても」
低く唸るような声でそう呟くと、ヒースは「?」という顔で首を傾げた。
その仕草だけは、まだ子犬の名残を色濃く残しているのが余計にタチが悪い。
この三ヶ月、俺がやってきたことは単純だ。
ヒースに食わせる飯を、《かくりよの手》で最適化し続けただけ。
成長促進。
体力強化。
骨格安定。
魔力循環の正常化。
どれも“探索者にとっては誤差レベル”のバフを、永続化の形で薄く、慎重に重ねていった。
結果――ヒースは、想定以上にすくすく育った。
育ちすぎた。
「……まずいな」
誰に聞かせるでもなく、俺はそう結論づけた。
このサイズで街を歩かせるのは論外。
かくりよ亭の裏に繋いでおくにも限界がある。
何より、探索者ギルドに目を付けられかねない。
だから俺は、やることにした。
《かくりよの手》を、もう一段階だけ踏み込んで使う。
――幼体化。
成長を止めるのではない。
戻すのでもない。
“成体の能力を保ったまま、外見と体格だけを幼体相当に調整する”。
本来なら、スキルですらない。
理論も前例も存在しない領域だ。
だが、この三ヶ月の修行で、俺は理解していた。
《かくりよの手》は、「スキルを付与する力」じゃない。
食べるという行為を通して、状態を定義し直す力だ。
なら――できる。
厨房に戻り、俺はヒース用の飯を用意する。
使うのは、中層産の肉と骨。
香味野菜は最低限。味付けも薄い。
狙うのは、効果だけだ。
「いいか、ヒース。今日はちょっと、いつもと違う」
声をかけると、ヒースは嬉しそうに尻尾を振った。
無警戒。全面的な信頼。
それが、少しだけ胸に刺さる。
皿を置き、《かくりよの手》を発動。
意識を研ぎ澄まし、バフを重ねる。
――外見的幼体化。
――体格制限。
――成長速度の抑制。
――必要時解除可能。
疑似スキルとして成立させるイメージを、最後にそっと“味”として馴染ませる。
「……よし」
ヒースが飯を食い終えた瞬間、変化は始まった。
音も光もない。
ただ、ゆっくりと――しかし確実に。
骨格が縮み、翼が畳まれ、尻尾が軽くなる。
数分後、そこにいたのは、最初に出会った頃より一回り大きい程度のドラゴンだった。
「……成功、か」
思わず息を吐く。
これで、表向きは問題ない。
問題があるとすれば――これだ。
疑似的とはいえ、スキルの付与すらできるようになったという事実。
《かくりよの手》の有用性は、また一段階跳ね上がった。
だが、それを公にするつもりは一切ない。
刹那にも、理央にも、麗華にも。
説明はこうだ。
「ヒースが、いつの間にか覚えたみたいだ」
それだけ。
幸い、誰も深く突っ込まなかった。
ドラゴンという存在そのものが、イレギュラーの塊だからだ。
三ヶ月の間、ヒースは順調に“店の一員”になっていった。
朝は仕込みの横で丸くなり、
昼は常連に撫でられ、
夜は座敷で寝息を立てる。
刹那は最初こそ警戒していたが、今では普通に餌をやっている。
理央は帳簿を付けながら、時々写真を撮ってはため息をつく。
麗華に至っては、「まあ……! なんて素敵な番竜さんですの!」と、なぜか誇らしげだ。
誰も知らない。
この穏やかな日常の裏で、どれだけ危うい綱渡りをしているのかを。
俺は料理人だ。
探索者じゃない。
だからこそ、これ以上――踏み込む場所を、間違えるわけにはいかない。
ヒースが俺の足元にすり寄ってくる。
その頭を軽く撫でながら、俺は次の仕込みに手を伸ばした。
――だが、この三ヶ月の“静かな成長”が、
やがて外の世界を巻き込むことになるとは。
この時の俺は、まだ知らなかった。
――――――
九州地方――第18区画ダンジョン。
警報が鳴り響いた瞬間、俺は反射的に歯を食いしばった。
「……スタンピート、か」
探索者ギルドの簡易アラートが、ヘルメット内に赤文字で踊る。
予兆レベルは最大。
発生源、深層寄り。
数――未確定。
胸の奥が、嫌な形で冷えた。
俺は、これが初めてじゃない。
五年前。
まだ若手だった頃、別のダンジョンでスタンピートを経験している。
あの時は――ひどかった。
前線は崩れ、連携は乱れ、それでも探索者たちは必死に踏みとどまった。
結果、犠牲は出たが、鎮圧はできた。
だからこそ、分かる。
あの時のスタンピートは、「止められる範囲」だった。
だが、今回は違う。
地面が揺れている。
魔力の濃度が、肌を刺す。
遠くから聞こえてくるのは、数体分では済まない咆哮。
「……嫌な予感しかしねえな」
喉が渇く。
それでも、足は止まらない。
周囲には、同じように駆け出す探索者たち。
誰もが無言だ。
冗談を言う余裕なんて、最初からない。
過去の記憶が、否応なく蘇る。
仲間が押し潰される音。
通信が途切れた瞬間の静寂。
撤退命令が出た後に残った、取り返しのつかない現実。
――それでも。
「……それでも、行くしかねえだろ」
誰に言うでもなく、俺は呟いた。
探索者をやっている理由なんて、今さら語れるほど立派じゃない。
金だ。生活だ。意地だ。
それでも、ここで背を向けたら――二度と前に進めなくなる。
前線が見えてきた。
壁役が並び、魔法職が詠唱を始め、
近接組が歯を食いしばって武器を構える。
その向こうから、黒い奔流が押し寄せてくる。
モンスター。
数が、異常だ。
「……多すぎる」
過去のスタンピートと、どうしても比べてしまう。
あの時は、波があった。
今回は――途切れが見えない。
これ、下手をすれば……
思考を、無理やり切り捨てる。
考えるな。
今は、目の前だ。
剣を握り直し、俺は一歩前に出た。
「今回も……」
息を吸う。
肺が痛い。
「――生きて、帰ってみせる」
それは祈りであり、誓いであり、
自分自身を奮い立たせるための、ただの言葉だ。
それでもいい。
轟音とともに、最初の衝突が始まる。
俺は歯を食いしばり、迫りくる影へと斬りかかった。
――この時点では、まだ誰も知らなかった。
第18区画で起きたこのスタンピートが、防衛線を突破し、九州全域を呑み込む災厄の始まりになることを。
そしてそれが、人類史上すでに幾度か起き、今なお奪還できていない土地が存在する現実を、再び突きつける出来事になることを。




