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探索者を辞めた俺は、ダンジョン飯で最強を支える定食屋になる  作者: 悪癖


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第36話 朝の仕込みと、小さな竜の居場所

 目覚ましが鳴るより少し早く、俺は目を覚ました。


 天井の木目に走る細い傷をぼんやりと眺めながら、深く息を吸う。瘴気はない。魔力のざらつきも感じない。ここはダンジョンの外、深縁市の片隅にある俺の家で、そして――俺の店だ。


 布団から体を起こし、軽く首を回す。包丁を握るにはちょうどいい具合の目覚めだ。眠気が残ったまま料理をすると、味も仕上がりも鈍る。探索者を辞めてから、こういう感覚だけはやけに研ぎ澄まされた。


 顔を洗い、作務衣に着替えると、そのまま一階へ降りる。まだ朝日が完全には差し込んでいない店内は静かで、カウンターの木肌が薄暗い中に沈んでいる。


 ――いつもの朝だ。


 シャッターを半分だけ開け、換気のために裏口も開放する。冷たい外気が流れ込み、鍋や鉄板の匂いを押し流していく。これでいい。朝は匂いを溜めない。朝食目当ての客は、鼻よりも腹を空かせて来る。


 手早く炊飯器のスイッチを入れ、味噌汁用の出汁を引く。今日は煮干しと昆布を控えめに。朝は重くしすぎない方がいい。探索者はこれから潜る者も多いし、一般客だって出勤前だ。


 包丁を握り、まな板にキャベツを置く。トントンと一定のリズムで刻みながら、頭の中では同時進行で献立を組み立てる。


 普通定食は、焼き魚と卵焼き。バフ盛りは……今日は控えめに中層食材の粉末を合わせた滋養系だな。刹那が店に立つ日だ。無駄に刺激を強くする必要はない。


 ――そう。


 今日は、刹那もウエイトレスとして入る。


 普段、彼女が朝この時間にいる時は、ダンジョンへ向かう準備をしている時だ。刀の手入れをし、装備を確認し、瘴気に身を晒す前の静かな集中をまとっている。あの時の刹那は、鋭くて、張り詰めていて、どこか遠い。


 だが今日は違う。


 店の床を拭き、客に水を出し、注文を取る。そのためにここにいる。戦うためじゃない。支えるためでもなく、働くためだ。


 ――それだけで、空気が柔らかくなる。


 別に本人が何か変えたわけじゃない。俺の中の認識が変わっただけだ。ダンジョンに向かう背中を見る時の、あの微かな緊張がない。代わりにあるのは、朝の忙しさをどう回すかという現実的な段取りだけ。


 フライパンを温め、卵を割る。黄身の色は悪くない。理央が昨日まとめて仕入れた分だ。あいつの選球眼は相変わらず安定している。


 「おはようございます、店長」


 背後から聞こえた声に、俺は振り返らずに応じる。


 「おはよう。理央、早いな」


 「帳簿の整理が少し溜まってましたので。朝のうちに片付けてしまおうかと」


 カウンター席の端に鞄を置き、手早くエプロンをつける音がする。理央の動きは無駄がなくて、見ていて安心する。探索者になれなかった代わりに、店の土台をきっちり支えてくれる存在だ。


 少し遅れて、別の足音。


 「おはようございます、店主」


 凛とした声。でも硬すぎない。刹那だ。


 「おはよう。今日は頼むぞ」


 「はい。接客は……まだ勉強中ですが」


 そう言いながらも、彼女は自然な動きでカウンターを拭き始める。刀を持つ手とは別の、慎重で丁寧な所作。客に向ける視線も、戦場のそれとは違って柔らかい。


 ――悪くない。


 むしろ、こういう姿の方が新鮮だ。最強探索者として知られる彼女が、朝の定食屋でエプロンをつけている。そのギャップを売りにするつもりはないが、客が驚く顔は目に浮かぶ。


 調理を進めながら、俺は自然と頭を切り替えていく。今日は戦力としての刹那じゃない。スタッフとしての刹那だ。危険を想定する必要はない。段取りと回転率、それだけ考えればいい。


 味噌汁を温め直し、焼き魚を並べる。湯気が立ち上り、朝の匂いが店内に満ちていく。


 ――いつもの朝だ。


 そう思った、その時だった。


 ふと、足元に違和感を覚える。いや、正確には「いない」ことへの違和感だ。カウンターの裏、普段なら小さな気配がうろちょろしている場所が、やけに静かだった。


 ……ああ、そうだ。


 俺は包丁を置き、思い出す。


 今のかくりよ亭には、もう一匹――いや、一人分の仲間が増えている。


 テイムしたドラゴンパピー。

 名前は――ヒース。


 「……そうだったな」


 朝の仕込みに集中しすぎて、すっかり忘れていた。


 あいつ、今どうしてる?


 座敷か、それとも……。


 俺は鍋の火加減を確認しながら、自然と視線を店内へ向けた。

 そこに、見慣れた小さな存在がいるはずだと思いながら。


 座敷の隅で、控えめな音がした。


 布の擦れる音と、爪が畳に引っかかる感触。視線を向けると、そこには丸くなった赤茶色の塊――ヒースがいた。ドラゴンパピーという呼び名通り、まだ子犬ほどの大きさだが、鱗の艶と背中の小さな翼の主張は、間違いなくドラゴンのそれだ。


 「おい、ヒース」


 声をかけると、ぴくりと耳――いや、角の付け根が動く。次の瞬間、勢いよく顔を上げ、短い尻尾をぶんぶん振り始めた。


 ……反応が露骨すぎる。


 俺は苦笑しながら、厨房に戻って小鍋を火にかけた。中身はヒース用に仕込んだ特製の餌。人間用のまかないとは別枠だが、作り方そのものは料理と変わらない。


 違うのは、混ぜているものだ。


 《かくりよの手》を発動させ、意識を集中する。

 対象はヒース。

 成立条件は「食べる」という行為そのもの。


 ――親愛。

 ――主従の繋がり。

 ――進化を促すための基礎的な身体強化。


 それらを、永続化する前提で薄く、だが確実に重ねる。


 人類に対して無条件で敵意を持たない精神バフは、最優先だ。ダンジョン内でならともかく、店の中で暴れられたら洒落にならない。次に俺との関係性を固定するバフ。これは上下関係というより、帰属意識に近い。最後に、モンスターとしての成長を阻害しないための進化促進系。


 ――やりすぎない。


 これが一番難しい。効果を強くしすぎれば歪むし、薄すぎれば意味がない。永続化バフは特に、あとから修正が効きにくい。


 鍋の中身が程よく温まったところで、火を止め、小皿に移す。


 「ほら」


 床に置くと、ヒースは一瞬だけこちらを見上げた。許可を待つような仕草。これも、すでにバフの影響だろう。


 「食っていい」


 その一言で、ヒースは皿に顔を突っ込んだ。夢中で食べる姿は、どう見ても子犬だ。だが、食べ進めるにつれて、体表の鱗がわずかに光を帯びる。魔力が内部で循環している証拠だ。


 ――順調だな。


 食べ終わると、ヒースは満足そうに喉を鳴らし、よたよたと俺の足元まで来て、ぺたりと腹を見せて転がった。


 「……誰に教わった」


 撫でると、気持ちよさそうに目を細める。完全に人馴れしている。というより、人間という種族そのものに対して、好意的に固定されつつある。


 これは、俺が意図してやっていることだ。


 永続化バフを作れるようになってから、ヒースだけが特別というわけじゃない。仕事が終わった後の夕食や、定休日には、俺たちも同じように――ほんの少しずつ、それを食べている。


 理央には精神安定と集中力の底上げ。

 刹那には回復効率と疲労耐性。

 俺自身には、包丁を握る感覚を鈍らせないための微調整。


 どれも劇的な変化はない。だが、積み重なれば確実に差になる。


 ……だからこそ、外には出せない。


 普段の仕事は、あくまで一時的なバフありきだ。食べて、時間が経てば抜ける。その前提でメニューを組み、客を迎えている。それを削ることは難しいし、何より危険だ。


 永続化バフは、管理できる範囲でしか使わない。


 かくりよ亭の身内。

 信頼できる仲間。

 責任を取れる相手だけ。


 店の外で提供するつもりは、一切ない。


 ヒースの頭を軽く叩きながら、俺はそう改めて胸の中で線を引いた。


 この力は、便利すぎる。

 だからこそ、振るう場所を間違えない。


 ヒースはそんな俺の足元で丸くなり、安心しきった顔で眠り始めていた。



――――――


 開店の札を出してから、しばらくは戦争だ。


 焼き魚の皮が弾ける音、味噌汁をよそう音、食器が重なる乾いた響き。朝のかくりよ亭は静けさとは無縁で、腹を空かせた客の気配が店内を満たす。


 だが、その波も永遠じゃない。


 八時を少し回ったあたりで、潮が引くように客足が落ち着いた。カウンターの半分が空き、テーブル席も一つだけ。残っているのは、常連の探索者が二人と、近所の工場勤めらしい男が一人。


 俺は厨房でフライパンを洗いながら、ふっと息をついた。


 ――ようやく、一息だ。


 カウンター越しに視線を向けると、店内の空気はさっきまでとは別物になっていた。がやがやした音は消え、箸が皿に触れる音や、湯呑みを置く小さな音が、妙に心地よく響く。


 そして、その中心に――ヒースがいた。


 畳敷きの座敷から這い出るようにして、カウンター前まで来ている。丸い目をきょろきょろさせながら、尻尾をふりふり。完全に「かわいい生き物」の振る舞いだ。


 「お、おい……触っても大丈夫なのか?」


 常連の探索者が、おそるおそる指を伸ばす。


 ヒースは一瞬だけ首を傾げ――次の瞬間、ぺろりと指を舐めた。


 「っ!?」


 「はは……大丈夫そうですね」


 理央がくすっと笑いながら、伝票をまとめる。刹那は水を配りつつ、その様子を横目で見て、ほんの少しだけ口元を緩めていた。


 ヒースはというと、調子に乗ったのか、今度は床に転がって腹を見せた。短い前脚をばたばたさせる様子は、ドラゴンパピーというより完全に子犬だ。


 ……モンスターの自覚、あるのか。


 厨房からその光景を眺めながら、俺は思わず苦笑する。

 牙も爪も、確かに鋭い。魔力反応だって、浅層モンスターとは比べ物にならない。それでも、今目の前にいるのは、撫でられるのを待っている生き物にしか見えなかった。


 「かわいいな……」


 工場勤めの男が、思わずといった様子で呟く。


 ヒースはその声に反応したのか、よちよちと近づき、椅子の脚に頭をこつんと当てた。撫でてほしい、というより――一緒に遊べと言わんばかりだ。


 刹那がしゃがみ込み、指先で顎の下を軽く撫でる。


 「……あ」


 小さく息を漏らして、すぐに姿勢を正す。だがヒースは気にせず、喉を鳴らしながら彼女の指に頭を押し付けていた。


 最強探索者が、ドラゴンパピーに懐かれて動けなくなっている。


 ……この光景、誰が信じる。


 俺は皿を拭きながら、そんなことを考える。

 ヒースの動きには、警戒心の欠片もない。人間の手を恐れず、声に怯えず、むしろ好奇心を向けてくる。


 モンスターとは思えないくらい、愛嬌がある。


 それが自然な振る舞いとして成立しているのが、何より異常だ。

 そして――その異常を、俺が作った。


 客たちは食事を終え、名残惜しそうにヒースを一撫でしてから席を立つ。

 店内は、また少し静かになった。


 俺は厨房の奥からその背中を見送りながら、次の仕込みの段取りを頭の中で組み立てる。


 この穏やかな時間も、そう長くは続かない。

 昼になれば、また別の忙しさが来る。


 だが今だけは――この店に流れる、少し変わった日常を、悪くないと思っていた。

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