第4話 定食屋に、最強探索者が居座る理由
朝の仕込みが一段落し、かくりよ亭の店内にようやく落ち着きが戻った頃だった。
カウンター席には常連の探索者が二人ほど残っているだけで、テーブル席は空。理央は帳簿を片手にレジ前で小さく電卓を叩き、俺は厨房で包丁を研ぎながら次の仕込みの段取りを頭の中で組み直していた。
店の奥、カウンター裏の座敷から、控えめな足音がする。
「……店主」
振り返ると、そこに立っていたのは鷹宮刹那だった。
昨夜までの瀕死の状態が嘘のように、顔色はだいぶ戻っている。だが、無理をしているのは一目でわかった。包帯で固定された肩、動かすたびに微かに歪む眉。若手最強の探索者という肩書きが先に立つ彼女だが、今はただ、怪我を負った一人の客に過ぎない。
「どうした。無理に立つなって言っただろ」
ぶっきらぼうにそう告げると、刹那は小さく首を振った。
「体は……大丈夫です。ええ、店主の料理のおかげで。ですから、その……」
一瞬、言葉を探すように視線が揺れる。その仕草が妙に人間臭くて、俺は包丁を置き、刹那の方を正面から見た。
「話があるなら、座れ」
短くそう言うと、刹那は一礼してから座敷の縁に正座した。理央も異変を察したのか、帳簿を閉じて少し距離を取る。
刹那は背筋を伸ばし、深く息を吸った。
「……改めて、命を救っていただき、ありがとうございました」
その言葉と同時に、畳に額がつくほど深く頭を下げる。
静まり返る店内。探索者が頭を下げる音は、意外なほど重く響いた。
「よせ」
俺はすぐに言葉を返す。
「金は取った。料理を出した。それだけだ。礼を言われる筋合いじゃない」
いつも通りの距離を保つための言葉だった。探索者時代の俺が、どれだけ才能の差と善意の裏側に苦しめられてきたか、今さら説明する気もない。
だが、刹那は顔を上げなかった。
「……それでも、です」
畳に向けたままの声は、驚くほど静かで、強い意志を帯びていた。
「私は探索者です。命のやり取りの中で生きてきました。だから分かります。あの状況で、あの料理がなければ……私は、確実に死んでいました」
拳が、ぎゅっと畳を掴む。
「回復魔法でも、ポーションでもありませんでした。食事で、命を繋がれた。そんな経験、初めてです」
そこで一度、言葉を切り、ゆっくりと顔を上げる。
「……恩返しをさせてください、店主」
真っ直ぐな瞳が、こちらを射抜く。
「恩返し?」
「はい」
刹那は一拍置いてから、はっきりと言った。
「私を、かくりよ亭で働かせてください」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」
思わず素の声が漏れる。理央も目を丸くし、カウンターに残っていた探索者たちが一斉にこちらを見る。
「働くって……お前、自分が何言ってるか分かってるのか」
「分かっています」
刹那は一切揺らがない。
「皿洗いでも、配膳でも、雑用でも構いません。探索者としての肩書きも、若手最強という評価も、ここでは不要です。ただの一人の人間として、店主の店で働きたい」
その言葉は、あまりにも真剣で、逃げ場がなかった。
「恩返しなら金で――」
「お金ではありません」
被せるように、刹那が言い切る。
「命を救われた借りは、命の重みでしか返せない。私はそう教えられてきました」
その瞬間、胸の奥で、かつての自分が小さく軋んだ。
探索者時代、俺も同じような理屈を信じていた。だからこそ、壊れた。
「……」
沈黙の中、理央がそっと口を開く。
「店長……」
困惑と心配が混じった視線。それを一度だけ受け止め、俺は刹那に視線を戻した。
「刹那」
「はい」
「ここは定食屋だ。戦場じゃない。探索者の理屈は通用しねぇ」
言葉を選びながら、続ける。
「働くってのは、生活だ。責任も、継続もいる。怪我人の思いつきでどうこうできる場所じゃない」
刹那は、少しだけ目を伏せた。それでも、すぐに顔を上げる。
「……それでも、です」
声は、先ほどよりも低く、しかし確かだった。
「探索者として命を懸けてきた私だからこそ、店主の料理がどれほど危うく、どれほど価値のあるものか分かります。だから――ここを支えたい」
かくりよ亭。
俺が探索者を辞め、料理人として選び取った場所。
その名を、若手最強の探索者が口にする。その事実が、妙に胸に引っかかった。
「……考えとく」
しばらくの沈黙の後、俺はそう言った。
「今すぐ答えは出さねぇ。まずは怪我を治せ」
刹那の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「それでいい」
そう付け加えると、彼女はゆっくりと息を吐き、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、店主」
恩返しを求める探索者と、過去を断ち切った料理人。
その距離は、まだ確かに店と客のままだった。
だが――その線が、ほんのわずかに揺らいだことを、俺ははっきりと自覚していた。
――――――
刹那が座敷へ戻り、再び静けさが店内を満たしたあと。
昼の仕込みまでにはまだ少し時間があり、かくりよ亭は一時的な空白の時間に入っていた。カウンターに残っていた探索者たちも会計を済ませ、暖簾が揺れて店内には俺と理央だけが残る。
俺は厨房の流しに手を突き、深く息を吐いた。
「……とんでもねぇ話になったな」
独り言のように呟くと、理央が控えめに頷く。
「はい。正直、私も驚きました」
それでも理央の表情は、完全な困惑ではなかった。事務員として、店の現実を常に見ている顔だ。
「若手最強、だぞ」
俺は包丁を布で拭きながら続ける。
「探索者の中じゃ、知らねぇ奴の方が少ない。そんなのを……ただの定食屋で雇う? 笑えねぇ冗談だ」
口にしてから、胸の奥が少し痛んだ。
探索者時代、才能ある連中を遠くから眺めていた自分。刹那は、その象徴みたいな存在だ。
「店長が気にされているのは……世間体、ですか?」
「それもある」
否定はしない。
「うちは小さい店だ。客は常連が中心、回転だって限られてる。そこに探索者の注目が集まったら、碌なことにならねぇ」
俺は一度言葉を切り、低く続ける。
「それに――」
理央が、じっと俺を見る。
「俺は、探索者を辞めた。ここは、探索者の居場所じゃねぇ」
はっきりと告げると、厨房の空気が一段重くなった。
理央はすぐには返事をせず、カウンターの椅子に腰掛けてから、静かに口を開いた。
「……店長のお気持ちは、分かります」
優しいが、逃げ道を与えない声だった。
「ですが、現実的な話をしてもいいですか?」
「言ってみろ」
「かくりよ亭の“売り”は何でしょうか」
一瞬、答えに詰まる。
――ダンジョン飯。
――バフ料理。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
「……分かってます」
理央は小さく頷く。
「店長の料理は、本来、探索者にとって喉から手が出るほど欲しいものです。でも」
そこで一度、間を置く。
「安定して提供できていません」
淡々とした指摘だった。
否定できない。
ダンジョン食材は高価で、危険で、何より仕入れが不安定だ。俺自身、無理をしないと決めてからは、第四区画にもほとんど足を運ばなくなった。
「今は、運良く仕入れられた時だけ、ですね」
「そうだ」
「では、その問題を解決できる人材がいるとしたら、どうでしょう」
理央の視線が、自然と座敷の方へ向かう。
「……刹那、か」
「はい」
理央は、事務員らしく冷静に続ける。
「探索者としての実力、経験、信用。ダンジョン第四区画はもちろん、深層にも顔が利く。危険な素材の調達を“日常業務”として任せられる人材です」
俺は、思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。
「それは……」
合理的だ。
あまりにも。
「ただし」
理央は、ここで言葉を強めた。
「探索者としてではなく、かくりよ亭の従業員として、です」
その一言が、胸に落ちる。
「仕入れ担当。必要に応じて、簡単な下準備や運搬。接客は最小限にすれば、店の雰囲気も崩れません」
「……」
「それに」
理央は、少しだけ微笑んだ。
「店長は、ダンジョンに戻るつもりはないのでしょう?」
図星だった。
「だったら、その“戻らない覚悟”を守るためにも、誰かに任せる必要があります」
沈黙。
脳裏に浮かぶのは、血の匂いと鉄の感触。探索者を辞めた日のこと。そして、今の厨房の静けさ。
「……最強の探索者を、仕入れ担当にする定食屋か」
自嘲気味に呟く。
「贅沢すぎますね」
「馬鹿だとも」
だが、不思議と笑えた。
料理人としての俺が、店を守るために出せる答え。
それがこれなら――。
「分かった」
短く、だがはっきりと言う。
理央の表情が、わずかに和らぐ。
「刹那を雇う。ただし条件付きだ」
「条件、ですか?」
「探索者の看板は置いてくる。ここでは、かくりよ亭の従業員だ。怪我が治るまでは無理はさせねぇ。ダンジョンに入るのも、俺が必要だと判断した時だけだ」
一つ一つ、言葉にして腹を括る。
「それで納得できねぇなら、この話はなしだ」
理央は深く頷いた。
「分かりました。契約関係と給与体系は、私の方で整理します」
「頼む」
厨房に、いつもの静けさが戻る。
だが、その奥で。
かくりよ亭は、確実に次の段階へ踏み出そうとしていた。




