第32話 その弁当、モンスターも欲しがります
――私、鷹宮刹那は、もう何度もこの準備をしてきた。
探索者ギルドの更衣スペース。
慣れた手つきで装備を確認し、最後に刀を腰へ差す。
軽量化した防刃インナー。
可動域を優先した近接用装甲。
瘴気対策の護符と、予備の回復薬。
どれも、いつも通り。
ソロで中層を潜る時と、まったく同じ装備だ。
私は日常的に、バフ料理を食べている。
かくりよ亭の料理を。
それはもう、特別なことではない。
毎日のように弁当を受け取り、そのままダンジョンへ向かい、
食材を確保して店に戻る――それが、今の私の役割だ。
ただし。
私が普段持っている弁当は、私専用だ。
筋力、反射、持久力、瘴気耐性。
剣を振るう前提で、戦闘時間を伸ばす構成。
過剰な回復は入れない。
判断力を鈍らせるような高揚系も抑えてある。
“最適化”。
店主が、私のためだけに組んだ配分だ。
毎日食べても、身体に無理が出ないように。
深層へ行かない私の、今の立場に合わせて。
それが理由か、私が探索している時にモンスターの異常行動は起きていないと断言できる。
――だからこそ。
今日、私が持っている弁当は、いつもと違う。
一般販売用。
誰が食べても効果が出るよう、癖をなくした構成。
そして、体毛が青く変色する副次バフ付き。
腰のポーチに入れたそれを、軽く叩く。
「……これを持っていけば、どうなるか、か」
呟きは、誰に向けたものでもない。
ダンジョン第四区画。
浅層入口のゲートをくぐると、空気が変わる。
湿った石の匂い。
瘴気が肌にまとわりつく感覚。
私は、歩き出す。
普段と同じ速度。
普段と同じ足運び。
違うのは、弁当だけだ。
もし、モンスターが反応するなら。
もし、匂いに気づくなら。
それは、すぐにわかる。
私は刀の柄に指をかけたまま、
何事もない顔で、ダンジョンの奥へと足を進めていった。
――開封していない弁当を持ったまま、しばらく浅層を歩いた。
床に溜まった砂利を踏み、壁際を流れる微かな魔力の揺らぎを感じながら進む。
弁当はいつもと同じように腰のポーチに収まっている。ただ一つ違うのは――中身だ。
(……特に変わりはない、か)
封を切っていない状態では、モンスターの反応はいつも通りだった。
通路の先でうろつくゴブリンは、こちらを一瞥しただけで興味を失い、天井に張り付いたスライムも擬態を解く様子はない。
普段、私が持ち歩いている弁当は完全に“私用”だ。
栄養配分、魔力の乗せ方、バフの持続と発現タイミング――すべてが、ソロで中層を回る私の身体能力と戦闘スタイルに最適化されている。
それを毎日持って潜り、素材を取っては店に返す。
それが私の日課で、呼吸みたいなものだった。
(でも、これは一般販売用……)
あの人が作った弁当だ。
私専用ではない。誰が食べても効果が出るように調整された、いわば“汎用品”。
それを持ち込んだら、どうなるのか。
私は足を止め、ポーチから弁当を取り出した。
指先で蓋をつまみ――ほんの数ミリだけ、ずらす。
次の瞬間だった。
――ぞわり、と。
背中の産毛が一斉に逆立つ。
空気が変わった。いや、正確には“気配”が変わった。
(来た)
視界の外。
壁の向こう。
天井の影。
さっきまで曖昧だった魔力の流れが、一本の線になる。
こちらに向かって、はっきりと“意志”を持って伸びてくる。
獲物を見つけたときの、それだ。
私は静かに蓋を元に戻し、弁当をポーチへしまう。
同時に、足運びをわずかに変え、戦闘時の間合いへと意識を切り替えた。
(……なるほど)
匂い。
正確には、バフが乗った食事が放つ“魔力の匂い”。
未開封では問題ない。
でも、少しでも漏れれば――モンスターは、はっきり反応する。
若手最強、なんて呼ばれている理由の一つは、こういう違和感を見逃さないことだ。
そして今、この弁当は。
(餌として、十分すぎる)
私は唇をわずかに吊り上げ、通路の奥へと歩き出した。
気配は、確実に増えている。
――実験開始、ね。
浅層。
中層に比べれば魔力の密度も低く、モンスターの動きも単純だ。
だからこそ、こういう実験には向いている。
(……追ってきてる)
私は歩調を少しだけ速めた。
全力ではない。普段、浅層を抜けるときよりも、ほんの一段階だけ軽く。
背後。
さっきまで壁際で身を潜めていたはずの気配が、はっきりとこちらを向く。
――一体、二体。
(匂いは……辿れてる)
直線的ではない。
でも確実に、私が通ったルートをなぞるように動いている。
私は角を一つ曲がり、そこで一度だけ立ち止まった。
数秒、息を殺す。
……遅れて、足音。
(完全な索敵じゃない。残り香、って感じね)
再び走る。
今度は少し距離を取るように、軽く跳ねるような足取りで。
結果は同じだった。
反応は鈍るが、消えない。
(嗅覚依存。視界に入らなくても追尾は継続……)
浅層のゴブリン程度でも、これだ。
スライムは遅れて動き出し、犬型の魔獣は明確に反応が早い。
私は通路の途中で、わざと岩陰に身を寄せた。
匂いが滞留しやすい場所。
――数拍遅れて、魔獣がそこへ集まる。
(……完全に餌扱いね)
ここで弁当を取り出すことはしない。
蓋も開けない。
それでも、匂いを漏らした直後の“私”を追っている。
調査項目を頭の中で整理する。
・未開封状態:反応なし
・微量の匂い漏れ:索敵開始
・距離を取っても追尾は継続
・嗅覚優位の個体ほど反応が早い
・視界遮断後も、一定距離までは追う
(……これ、モンスターに食べさせたらどうなるんだろ)
ふと、ギルド職員の言葉が脳裏をよぎる。
――万が一、モンスターに食べられた場合のリスク。
私は足を止め、背後の気配を正確に把握する。
浅層。数も、質も、コントロールできる。
(もう少し、試せる)
弁当の重みを腰に感じながら、私はゆっくりと振り返った。
次は、距離と時間。
どこまで追わせられるか。
そして――どこで、切れるのか。
実験は、まだ終わらない。
(……よし、ここなら)
通路が少し広がり、視界の悪い岩柱が点在する浅層エリア。
私は弁当の蓋を、今度は完全に外した。
匂いが、はっきりと広がる。
(……反応、早い)
さっきまで散発的だった気配が、一斉にこちらを向いた。
足音が増える。数は三。犬型魔獣が二、ゴブリンが一。
私は弁当を岩の陰にそっと置き、そのまま距離を取って身を隠した。
手渡しなんて論外だ。
あくまで“落ちている餌”。
……数秒。
最初に飛び出してきたのは、犬型魔獣だった。
鼻を地面に擦りつけるようにして匂いを確認し、迷いなく弁当へ向かう。
(食う……)
躊躇はない。
蓋の外れた弁当箱に顔を突っ込み、がつがつと食べ始めた。
次の瞬間。
(……来た)
体毛の色が、じわりと変わる。
黒褐色だった毛並みが、インクを流したように青へと染まっていく。
(視覚的変化、確認)
ゴブリンも遅れて弁当に群がり、同じように体表が変色した。
(じゃあ……次)
私はあえて姿を現した。
武器は抜かない。間合いも、少し甘く。
――即座に反応。
さっきより速い。
踏み込みが鋭く、地面を蹴る音が重い。
(身体能力上昇。筋力か、敏捷か……両方ね)
軽く受け流す。
一撃、二撃。わざと浅く当てる。
(防御は……変化なし。でも――)
こちらの動きに対する追従が明らかに向上している。
反応速度が、ワンテンポ早い。
(確かに、バフが乗ってる)
十分だ。
私は一歩踏み込み、今度は本気で振るった。
青く染まった体毛ごと、魔獣の首を断つ。
ゴブリンも同様。
抵抗はあったが、結果は変わらない。
――あっさりと、終わった。
血の匂いが薄れるのを待ちながら、私は深く息を吐いた。
(結論)
弁当の匂いは、索敵を誘発する。
実際に食べれば、モンスターにもバフは付与される。
そして。
(……弱い個体が、強くなる)
浅層でこれだ。
もし中層以上で、群れ単位で起きたら――笑えない。
私は残った弁当箱を回収し、静かに踵を返した。
(……早く、伝えないと)
この結果は、かくりよ亭だけの問題じゃない。
探索者ギルドが動く理由としては――十分すぎる。
私は浅層の出口へ向かって歩き出した。




