第29話 刹那、包丁を握る
――スタンピートから、少し時間が経った。
店の定休日。
かくりよ亭のシャッターは最後まで下ろされ、外の通りには人影もまばらだ。
この静けさに包まれるのは、久しぶりな気がする。
私は今、カウンターの内側――いつも店主が立っている場所のすぐ前に立っていた。
理由はひとつ。
決意したからだ。
「……よし」
小さく気合を入れる。
戦場で刀を握る時より、心拍数が早い気がするのは気のせいじゃない。
スタンピートを乗り越えて、仲間たちも無事で。
あの後の宴会で、私は“守る側”としての役目を果たした。
でも――それだけじゃ、足りないと思った。
いつも私は、支えられている。
店主の料理に、理央の采配に。
なら、今度は私が二人をもてなしたい。
「……店主、理央さん」
座敷で帳簿を片付けていた二人が顔を上げる。
店主は相変わらずぶっきらぼうな目つきで、理央さんはきちんと姿勢を正したまま、にこりと微笑んだ。
「どうした、刹那。今日は休みだぞ」
「はい。なので……その、提案があります」
声が少しだけ硬くなる。
深層でイレギュラーと対峙した時より、よほど緊張している自覚があった。
私は一度、深呼吸をしてから続ける。
「今日は定休日ですし……私が、手料理を振る舞いたいと思いまして」
一瞬の沈黙。
そのあと、店主が目を瞬かせた。
「……お前が?」
「はい。刹那が、です」
念を押すように言うと、理央さんがぱっと表情を明るくした。
「まあ、それは素敵ですね。刹那さんが料理を」
「い、いえ。大したものはできませんが……」
慌てて首を振る。
剣の扱いなら自信がある。
でも包丁は、まだ初心者だ。
「でも、ちゃんと考えてます。危ないことはしませんし、無理もしません。店主の邪魔にもならないように……」
そこまで言って、はっとする。
いつもの癖で、前線に立つ時と同じ説明をしていた。
店主は短く息を吐いて、腕を組む。
「……別に邪魔だなんて思ってねえよ」
「え」
「やる気があるなら、好きにやれ。ただし、今日は“料理人”じゃなくて客だ。口出しはしない」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
認められた、という感覚。
それが何より嬉しかった。
理央さんも、頷きながら言う。
「私も、とても楽しみです。刹那さんの料理、どんな味になるのか」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。作る人の気持ちは、きっと味に出ますから」
その優しい声に、自然と背筋が伸びる。
「……期待されると、緊張しますね」
「期待するに決まってるだろ」
「はい……! 頑張ります」
思わず、拳をぎゅっと握った。
刀の柄じゃなく、決意を掴むために。
厨房はまだ静かだ。
火もついていない。
でも、この場所で――私は初めて、“戦わない役目”に本気で挑もうとしている。
まずは食材を取ってくる。
地下へ続く階段を、一段ずつ降りていく。
ひんやりとした空気が、足元から這い上がってきて、自然と背筋が伸びた。
戦場の瘴気とは違う。
けれど、この空気もまた――「備え」の匂いだ。
(……改めて見るのは、久しぶりですね)
私はこれまで、運ぶ側だった。
どこに何を置くか、どの箱がどの棚に入るか。
それは理解していても、「料理の材料」としてじっくり見ることは、ほとんどなかった。
防湿扉を閉め、明かりを点ける。
地下貯蔵庫は、想像以上に整然としていた。
広く取られた通路。
高さのある棚。
温度帯ごとに分けられた区画。
……これだけで、この店がどれほど本気で料理をしているのかが伝わってくる。
まず目に入るのは、浅層素材のエリア。
密閉パックに収められたグラスウルフの腿肉。
角張った筋は丁寧に処理され、色もいい。
触れなくても分かる――これは、扱いやすい。
(焼く……のは、私には難しいでしょうか)
焼き加減を考えるだけで、少し不安になる。
なら、煮る?
火を通しすぎないように注意すれば、失敗は少ない。
隣には、籠に入ったスライムオニオン。
半透明の皮の奥に、しっかりとした芯が見える。
(刻んで……炒めて……)
頭の中で包丁の動きをなぞる。
剣とは重心も感覚もまるで違う。
でも――想像するだけなら、できる。
さらに歩みを進める。
中層素材の棚。
ここは、少しだけ緊張する。
ロックバイソンの肩肉。
ずっしりとした存在感。
これは……私には、難易度が高い。
(下処理が大変そうですね……)
無理はしない、と決めた。
今日の私は、最強探索者ではなく、初心者の料理担当だ。
その下段に、木箱に収められた雷茸が並んでいる。
箱には注意書きと、簡単な調理メモ。
(……汁物、向き)
短い文字だけど、店主の癖が見える。
必要なことしか書かない。
でも、ちゃんと道は示してくれる。
自然と、口元が緩んだ。
中央の作業台の横には、日付札の付いた保存食材。
仕込み途中のもの、すぐ使えるもの、少し寝かせるもの。
すべてが、役割を持って並んでいる。
(……すごい)
私はただ、集めてきただけだ。
でもそれを、ここまで「使える形」に整えるのは、店主と理央さんの仕事。
そして――
一番奥。
空気が、はっきりと変わる。
結界付きのコンテナ。
深層素材。
西園寺グループからの預かり品。
ラベルに書かれた文字を、私は読むだけに留める。
触れない。
触れてはいけない。
(今日は、関係ありません)
視線を外し、踵を返す。
私が作るのは、もっと……素朴でいい。
もう一度、浅層素材の棚へ戻る。
グラスウルフの肉。
スライムオニオン。
それから、乾燥保存された香草。
(煮込み……ですね)
決まった瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
剣を抜く前に、構えが定まった時の感覚に似ている。
派手じゃなくていい。
強化も、回復も、いらない。
ただ――
「おいしい」と思ってもらえたら、それでいい。
私は、そっと素材の位置を覚え、階段へ向かった。
(……よし)
次は、厨房。
戦場ではない場所での、私の初陣だ。
私は必要な材料を抱えて、地下から厨房へ戻った。
両腕に収まる量。
探索の成果として見れば、あまりにささやかだ。
でも今日は――このくらいがちょうどいい。
調理台に材料を並べる。
グラスウルフの腿肉。
スライムオニオン。
乾燥香草と、塩、胡椒。
油は……ここ。
(まずは、下処理からですね)
エプロンをきちんと締め直し、包丁を手に取る。
ずしりとした重み。
刀とは違うけれど、刃物であることに変わりはない。
……なのに。
「……あ」
肉を押さえる左手と、包丁の角度が噛み合わず、最初の一太刀が少しだけずれる。
致命的ではない。
でも、店主なら、もっと迷いなく引いていただろう。
(……落ち着きましょう)
深呼吸して、やり直す。
今度は、きちんと繊維に逆らわずに切れた。
刻んだ肉をボウルに移し、次はスライムオニオン。
皮を剥くとき、指先が少しぬるりと滑って、皮が余計に残る。
「……っ」
小さく舌打ちしそうになるのを、ぐっとこらえる。
包丁で丁寧に取り除き、形を整える。
(店主なら……もっと早いですね)
比べても仕方がないと分かっているのに、自然と意識してしまう。
鍋をコンロに置き、油を引く。
火を点けると、静かに青い炎が立った。
(強すぎない……中火、ですね)
自分に言い聞かせるように、呟く。
オニオンを入れると、じゅっと音がして、甘い香りが立ち上る。
それに少し安心してから、肉を加える。
箸でほぐしながら、焦がさないように。
でも、ほんの一瞬だけ目を離したせいで――
「……あ、ちょっと」
鍋底に、薄く色が付き始めていた。
慌てて火を弱め、水を少し足す。
幸い、焦げ付く前だ。
香りも、問題ない。
(……危なかったですね)
胸をなで下ろしながら、香草を入れ、塩で味を整える。
煮込みに切り替え、蓋をして、しばらく待つ。
……この「待つ」時間が、落ち着かない。
戦場なら、状況は常に動いている。
でも料理は、手を出しすぎてもいけない。
(……信じましょう)
鍋を、ではなく――
自分を。
頃合いを見て、蓋を開ける。
湯気と一緒に、やさしい香りが広がった。
色も、悪くない。
味見をしてみる。
「……うん」
派手さはない。
でも、ちゃんとした――煮込みだ。
盛り付ける。
少しだけ、器の縁に跳ねてしまったのを、布巾で拭き取る。
その動作すら、ぎこちない気がして、少しだけ頬が熱くなる。
それでも。
私は、出来上がった皿を見下ろして、背筋を伸ばした。
「……ちゃんと、できました」
小さく、でもはっきりと胸を張る。
そして、座敷の方を向いて、声をかける。
「店主、理央さん。
……おいしいって、言ってもらえると、嬉しいです」
凛々しく刀を振るう時とは違う。
でも今の私は、確かに――この料理の主だと思えた。
――――――
私は深く息を吸ってから、盆に料理を乗せた。
丼に盛った煮込み。
湯気は落ち着き、香りだけがやさしく残っている。
見た目は……うん、悪くない。少なくとも、逃げ出したくなるような出来ではない。
「……お待たせしました」
そう言って、座敷の低い卓に料理を置く。
店主と理央さんの視線が、同時に丼へ向かった。
(……どうでしょう)
心臓が、妙にうるさい。
イレギュラー個体と相対した時より、よほど緊張している気がする。
店主は無言で箸を取り、まずは一口。
噛む。
ゆっくり、飲み込む。
……沈黙。
理央さんも、同じように箸を伸ばし、慎重に口に運ぶ。
「…………」
(ながいです……)
思わず背筋を正しすぎて、肩がこわばる。
視線の置き場が分からず、丼と二人の顔を行ったり来たりする。
そして。
「うまい」
店主が、短く言った。
「え……?」
「ちゃんと、料理だ。味も通ってる」
続けて、理央さんが微笑む。
「とてもおいしいです。優しい味ですね」
「本当ですか……?」
思わず、声が裏返りそうになる。
「はい。火の入れ方も、味付けも、丁寧だと思います」
「……ああ。変に欲張ってねえのがいい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
「……よかった」
気が抜けたように、肩が下がる。
でも次の瞬間、自然と笑みがこぼれていた。
「おいしいって……言ってもらえて……」
「当たり前だろ。ちゃんと作ってたの、見てた」
「努力が、そのまま出ていますね」
二人がそう言って、もう一口、もう一口と箸を進める。
それを見るだけで、胸がいっぱいになる。
(……ああ)
この感じ。
戦場で勝った時とは、まるで違う。
私は自分の分の丼を取り、三人で卓を囲んだ。
「……いただきます」
自分で作った料理を、改めて口に運ぶ。
少しだけ塩が強い気もする。
でも――悪くない。
店主が何気なく言う。
「次やるなら、オニオンはもう少し小さく切ってもいい」
「はい。次は、そうします」
「でも、今日のはこれで正解です」
理央さんのフォローに、思わず頷く。
三人で、静かに食事を続ける。
箸の音だけが、心地よく響く。
戦いはない。
命のやり取りもない。
でも――
この時間を守るために、私はまた、明日もダンジョンへ向かえる。
そう思いながら、私は最後の一口を噛みしめた。




