第3話 俺はもう探索者じゃない
――刹那が“峠を越えた”その翌朝。
店のシャッターを引き上げると、金属が擦れる乾いた音とともに、商店街の朝が一気に流れ込んできた。
まだ低い位置にある太陽の光が、通りのアスファルトを斜めに照らし、昨日と同じ、変わり映えのしない風景を作り出している。
「いらっしゃい、今日の大根安いよ!」
八百屋の親父の張りのある声。
少し先のパン屋からは、焼き上がりを知らせるベルの軽やかな音。
コーヒー豆を挽く香りが、どこからか微かに漂ってくる。
ダンジョンが出現してから、もう十年以上が経つ。
街の外縁には巨大な管理ゲートが築かれ、探索者や行政の仕組みは何度も作り替えられてきた。
それでも、この商店街だけは、まるで時間が取り残されたかのように、変わらずそこにあった。
変わったものがあるとすれば――
通りの突き当たり、視線の先に見えるダンジョン第四区画の管理ゲートくらいだろう。
無骨な金属の塊は、ここが“日常”と“非日常”の境界であることを、嫌でも思い出させる。
「……今日も平和、っと」
独り言のように呟き、店先に看板を立てかける。
【探索者歓迎/バフ料理あります】
手書きの文字は少し掠れていて、端のほうは油染みで黄ばんでいる。
それでも、この看板を目当てに訪れる客は、後を絶たない。
――昨夜の出来事が、まるで嘘だったかのようだ。
……いや。
嘘なわけがない。
店内に戻り、厨房へ足を踏み入れた瞬間、鼻を突く微かな消毒液の匂いが現実を引き戻す。
どれだけ拭いても完全には消えなかった、床の隅の血の染み。
昨夜、ここで何が起きたのかを、黙って物語っている。
そして、奥の座敷。
今は、カーテン一枚で仕切られたその先に――。
「……おはようございます」
不意に、背後から静かな声がかかった。
振り向くと、理央が立っていた。
いつものようにきちんと整えたシャツだが、眼鏡の奥の目元は赤く腫れていて、明らかに寝不足だとわかる。
「刹那さん、まだ眠ってます。呼吸も安定してますし、熱も下がりました」
「そうか」
それだけで、胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しだけほどけた。
「医療班からも連絡がありました。あの傷……“治療不能”の判定、正式に取り下げだそうです」
「……だろうな」
理央は一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、俺を見た。
「店長」
「ん?」
「……昨夜のこと、どう説明するつもりですか」
正直、その話題は避けたかった。
探索者社会には、明文化されていないものも含めて、厳格な“空気”がある。
回復不能と診断された致命傷が、一晩で、しかも定食を食べただけで改善したなど――
信じられるはずがない。
いや、信じられてしまったら、それはそれで面倒だ。
「説明しない」
即答だった。
「え……?」
「偶然だ。奇跡だ。刹那の生命力が化け物じみてただけ。それで終わりだ」
理央は、納得していないのがありありとわかる表情で、眉を下げる。
「……それで、通りますか?」
「通らなくていい」
包丁を取り、まな板の上に置く。
その重みと感触に、かつて何度も繰り返した動作の記憶が、指先に蘇る。
「俺はもう、探索者じゃない」
言葉にした瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
「ライセンスも返した。ギルドにも、国にも、義務はない」
探索者であるということは、この国では“力”であり、“責任”であり、
同時に、逃げ場のない呪いでもある。
「……逃げたって、思われませんかね?」
理央が、ぽつりと零す。
少し考えてから、答えた。
「思うやつはいるだろうな」
それでも、と続ける。
「俺は、限界を知っただけだ」
Dランク。
それ以上、どうやっても上がれなかった。
才能の差。
感覚の壁。
努力だけじゃどうにもならない現実。
ダンジョンの中で、何度も突きつけられた答えだった。
――俺は、前線に立つ器じゃない。
「だから、ここにいる」
鍋、フライパン、並べられた調味料。
ダンジョン産の食材が収まった冷蔵庫。
「前で戦うやつがいるなら、俺は後ろで支える。それでいい」
理央はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いて笑った。
「……本当に、ずるい人ですね」
「何がだ」
「そうやって、自分の居場所をちゃんと作ってるところです」
「料理人なんて、そんなもんだ」
そのとき。
奥の座敷から、畳がきしむ音がした。
俺と理央は同時に視線を向ける。
カーテンが、ゆっくりと、慎重に開かれた。
そこに立っていたのは、白い包帯を胸に幾重にも巻いた女。
長い黒髪は少し乱れているが、その眼差しは鋭く、澄んでいる。
若手最強と謳われる探索者――刹那。
「……おはようございます」
声は掠れているが、確かに芯があった。
死の淵から戻ってきた人間の、それでも折れていない声。
「目、覚めたか」
彼女は一瞬だけ周囲を見渡し、それから俺に視線を向ける。
そこには、感謝とも警戒とも取れる、微妙な距離感が滲んでいた。
「……昨日は、世話になりました」
どこか他人行儀な口調。
命を救われた相手に向けるには、少し硬すぎるくらいだが、それが彼女なりの線引きなのだろう。
「別に。空いてた座敷貸しただけだ」
刹那は小さく頷き、そして、少し言いにくそうに続けた。
「……朝食は、提供されていますか」
一瞬、間が空く。
「ある」
短く答えると、彼女の肩から、わずかに力が抜けた。
「それなら……お願いできますか」
あくまで客として。
それ以上でも、それ以下でもない距離。
俺はエプロンを締め直し、コンロに火を入れる。
「席、座っとけ。無理すんな」
「はい」
刹那は素直に従い、座敷へ戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は思う。
昨夜の奇跡は、終わっていない。
むしろ――ここからが本番だ。
若手最強の探索者が、命を拾い、
料理人である俺の店に腰を下ろした。
この朝定食が、
何を呼び込むのかも知らないまま――。
コンロの火が、静かに音を立て始めていた。
コンロの火力を中火に落とし、フライパンを乗せる。
金属が熱を帯びていく感触が、手のひら越しに伝わってきた。
油は使わない。
ダンジョン産の魔猪ベーコン――脂の質がいいから、温めるだけで十分だ。
包丁を入れると、繊維の詰まった肉が心地よい抵抗を返してくる。
「……今日は、少し軽めだな」
独り言のように呟きながら、切り分けたベーコンをフライパンへ落とす。
じゅう、と低く、腹に響く音。
立ち上る香りは強すぎず、それでいて食欲を確実に刺激する。
続いて、ダンジョン第四区画産の根菜。
外見は地味だが、魔力の通りがよく、消化効率が異常に高い。
刹那の身体は、まだ完全じゃない。
回復を“促す”程度でいい。
鍋には出汁。
昆布と魔獣骨を一晩寝かせた、かくりよ亭の基本。
沸かしすぎず、香りが逃げない温度で火を入れる。
そのとき、店の入り口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませー」
理央の声が、いつもの調子で響く。
さっきまでの重たい空気が嘘みたいに、店内が少しだけ賑やぐ。
「お、もう開いてたか」
「朝定食、やってる?」
見慣れた探索者たちだ。
装備は軽装、たぶん低層に潜る前の腹ごしらえだろう。
「はい、空いてる席どうぞ。今日は通常の朝定食になります」
理央は慣れた手つきで水を出し、注文を取っていく。
声色は柔らかいが、無駄がない。
長年この店を回してきた人間の動きだ。
「……昨日、閉まるの早かったよな」
「なんかあったんですか?」
探るような視線が、厨房の奥へ向く。
理央は一瞬だけ間を置いてから、笑った。
「さあ? 店主の気まぐれじゃないですか」
「はは、相変わらずだな」
それ以上、踏み込ませない。
この店の“線”を、理央はよく理解している。
俺はと言えば、フライパンを返しながら、客の会話を背中で聞いていた。
焦げ目がついたところで、火から外す。
これ以上焼くと、回復促進よりもスタミナ寄りになる。
次は卵。
ダンジョン鶏の卵は黄身が濃い。
白身を軽く切るように混ぜ、ふんわりと火を通す。
「……よし」
仕上げに刻みネギ。
魔力を中和する役割があるから、入れすぎない。
刹那の体には、刺激が強すぎても逆効果だ。
味噌汁を椀によそい、湯気を立たせる。
具は豆腐と根菜。
胃に優しく、それでいて芯から温まる。
定食用の盆に、すべてを揃える。
見た目は、ただの朝定食。
だが、意図はすべて詰め込んだ。
「理央」
「はい」
「座敷の客、出すぞ」
「了解です」
理央は一瞬だけこちらを見て、何も言わずに頷いた。
余計な確認はしない。
それが、この店のやり方だ。
俺は盆を手に取り、座敷へ向かう。
刹那は、背筋を伸ばして座っていた。
表情は落ち着いているが、目の奥はまだ鋭い。
「待たせた」
「……ありがとうございます」
盆を置くと、刹那は料理を一つ一つ確認するように見つめた。
それから、小さく息を吸う。
「いい匂いですね」
「冷める前に食え」
それだけ言って、踵を返す。
厨房に戻ると、また鈴が鳴った。
理央の声、客の笑い声、食器の触れ合う音。
いつもの朝だ。
コンロの火を落とし、鍋に蓋をする。
今日の仕込みは、ひとまず終わり。
――さて。
あの若手最強の探索者が、
この定食を食べて、何を感じるのか。
それは、まだ俺にもわからない。




