第21話 バフ盛り定食の限界更新
夕方のかくりよ亭は、戦場だ。
カウンター八席は満席、テーブル席も埋まり、入口の引き戸は開いている時間より閉まっている時間の方が短い。油の弾ける音、鍋の湯気、皿が重なる乾いた音。鼻腔をくすぐる出汁と焼き魚の匂いが、外の通りにまで漏れているはずだ。
「バフ盛り定食、三つ!」
「普通定食、二つ!」
「はい、少々お待ちください!」
理央の声が店内を通る。俺は返事をせず、フライパンを振った。ここで言葉を返す余裕はない。火を落とし、盛り付け、次の鍋へ。身体が勝手に動く、いつもの夕方だ。
――そのときだ。
引き戸が開いたまま、閉まらない。
ざわり、と店の空気が一瞬だけ揺れた。探索者特有の、瘴気を抜けてきた直後の気配。何度も嗅いだ、何度も見た、それでいて一般客には分からない違和感。
俺は顔を上げた。
そこに立っていたのは、刀を背負い、軽く埃を払っている鷹宮刹那だった。
「……おかえり」
思ったよりも低い声が出た。ぶっきらぼうなのは、いつも通りだ。
「ただいま戻りました、店主」
刹那は小さく頭を下げる。表情はいつも通り落ち着いているが、夕方の逆光の中で見ても分かる。顔色がいい。呼吸も安定している。血の匂いも、無理をした気配もない。
無事だな。
胸の奥で、ほんのわずかに力が抜ける。
「怪我は」
「ありません。かすり傷すら」
「……そうか」
それだけ言って、俺はまた鍋に向き直る。が、刹那はそのまま店先をどかない。
「店主、あの……」
「後だ。今、見りゃ分かるだろ」
俺は顎で店内を示した。刹那は一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑して頷く。
「はい。では、外で待っています」
引き戸が閉まる。だが、店の外がやけに騒がしい。探索者ギルドの軽トラが止まった、なんてレベルじゃない。
数分後、ようやく一段落ついたところで、俺は理央に目配せをした。
「五分、任せる」
「はい、店長」
エプロンのまま、俺は外に出た。
――思わず、足が止まった。
「……は?」
店の前の通りを、完全に塞いでいる。
大型トラックが、二台。
荷台には、魔物の解体済み素材、瘴気を抜いた植物系素材、魔力処理済みの鉱物類。分別は完璧で、シートの掛け方もプロのそれだ。
刹那が、少しだけ誇らしげに言う。
「今回の成果です」
「……いや、待て」
俺は額を押さえた。
「前に浅層から戻った時、覚えてるか」
「はい。軽トラック一台分でしたね」
ああ、そうだ。あの時ですら、俺は十分すぎると思った。仕入れが安定したと、胸を撫で下ろした。
それが、今はどうだ。
「二台分、だぞ。大型の」
「中層までです。深層には行っていません」
行っていない、の問題じゃない。
通りすがりの客や近所の商店主が、遠巻きにこちらを見ている。そりゃそうだ。定食屋の前に大型トラックが二台も停まっていれば、嫌でも目立つ。
「……無茶はしてないな」
「はい。引き際は守りました」
その言葉に、嘘はない。刹那の目を見れば分かる。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「で、これをどうする」
「その件ですが」
刹那は振り返り、トラックの後方を示す。
「地下の食料貯蔵庫へ運ぶため、人を雇ってきました」
「は?」
「信頼できる、荷運び専門の方たちです。探索者引退組で、口も堅い」
そう言って、トラックの影から数人の男たちが姿を現した。年齢はまちまちだが、全員、身体つきがいい。目が、仕事のそれだ。
俺は一瞬、言葉を失い――そして、口の端がわずかに上がるのを止められなかった。
「……準備、良すぎだろ」
「店主が困ると思いましたので」
刹那は、いつもの真面目な顔でそう言った。
夕方の喧騒の中、かくりよ亭の前に積み上がった“成果”を前にして、俺は改めて理解する。
この女は、もうただの客でも、ただの探索者でもない。
――店を支える、柱だ。
「分かった。順番に運ぶぞ」
そう言った俺の声は、忙しさの中に、確かな手応えを含んでいた。
「……理央」
俺はトラックと人員を一瞥しただけで、最低限の判断を下す。
「地下。食材ごとに区画分け。魔物素材は奥、植物系は手前。冷却が要るやつは先に運べ」
「了解しました。皆さん、こちらです」
理央が即座に動く。刹那も無言で頷き、荷運び役に指示を出し始めた。
それ以上、俺は口を出さない。
今の時間帯に、俺がやるべき仕事は決まっている。
――厨房だ。
引き戸をくぐった瞬間、熱気と匂いが全身を包み込む。鉄板の上で肉が焼け、鍋の中で出汁が踊っている。客は待っている。俺がいなくなった時間は、もう十分だ。
「お待たせ」
それだけ言って、俺は包丁を握った。
夕飯時のピークは、嵐のように過ぎていった。
最後の客が暖簾をくぐり、引き戸を閉めたときには、外はすっかり夜の気配を帯びていた。椅子を上げ、床を拭き、火を落とす。いつもの閉店作業。
そのまま、俺と理央はカウンター裏の座敷に向かい、帳簿を広げた。
「では、本日の出納を確認しますね」
「ああ」
理央の指が軽快に動く。売上、原価、人件費。数字が整然と並び、ズレはない。……相変わらず、安心感のある仕事ぶりだ。
「今日も問題ありません。むしろ、少し余裕が出ています」
「そうか」
帳簿から目を上げたところで、自然と話題は地下へ移る。
「それにしても……」
理央が苦笑しながら言った。
「地下貯蔵庫、拡張してもらって本当によかったですね」
「ああ」
俺は率直に頷いた。
「正直、最初は――こんなにいらないだろ、って思ってた」
西園寺グループの提案で増設された地下区画。冷蔵、冷凍、常温、魔力遮断。やりすぎじゃないかと、本気で思った。
だが、今日の光景を見て考えを改めた。
「大型トラック二台分だ。あれを全部収めても、まだ余ってる」
「はい。現状でも、空きスペースはかなりあります」
理央は帳簿を閉じ、指で地下の区画図をなぞる。
「ただ、その“まだ空きがある”という状態が、今後は重要になりそうですね」
「……だな」
これ以上増えたらどうする、なんて心配を、現実的に考えている自分がいる。
俺は背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
「まったく。定食屋の悩みじゃない」
そう呟くと、理央は小さく笑った。
「でも、店長の料理があってこそ、です」
その言葉に、俺は何も返さなかった。
ただ、胸の奥で静かに火が灯るのを感じながら――次に起きる“仕事”の気配を、ぼんやりと予感していた。
――――――
帳簿を閉じ、座敷に静けさが戻る。
外はもう夜だ。商店街のシャッターが降りる音が、遠くでひとつ、またひとつと響いている。厨房の余熱だけが、今日一日の忙しさを名残惜しそうに残していた。
「……で、だ」
俺は畳に胡坐をかいたまま、理央に向き直る。
「メニューの話をする」
「はい」
理央は即座に姿勢を正し、ペンを取った。分かってる。こういう話をするときの俺は、もう決めている。
「まず前提からだ」
俺は指を一本立てる。
「うちのメニューは、全部――日替わり定食」
理央は頷いた。確認するまでもない事実だ。
「元々、ダンジョン食材の仕入れが安定しなかった。
だから内容を固定できず、日替わりにするしかなかった」
だが、今は違う。
違うが――やり方は変えない。
「今となっては、そういう店だって認識されてる。
『今日は何が出るか分からないけど、外れはない』ってな」
理央の口元が、わずかに緩む。
「ですから、これからも続ける。
料理名で区別しない。
判別は、バフ効果の有無と量だけだ」
俺は指を折っていく。
「普通の日替わり定食。
ダンジョン食材を少しだけ使った、バフ盛り定食。
ダンジョン食材をふんだんに使った、バフどか盛り定食」
ここまでは、もう定着している。
そして。
「――そこに、もう一つ足す」
理央が顔を上げる。
「中層のダンジョン食材を使った、バフ爆盛り定食」
一瞬の沈黙。
だが、理央はすぐに理解した顔になった。
「量と質、どちらも一段階上、ですね」
「ああ」
中層産は、浅層とは別物だ。
魔力密度も、素材としての“芯”も違う。
「使う量に見合った強度のバフを、ちゃんと出す。
誤魔化しはしない」
理央はペンを走らせながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……常設、ですか?」
「常設だ」
迷いはない。
「中層の食材については、不安視しない」
理央の視線が、俺に向く。
「刹那が確保してる。
無理をしてる様子は一切ない」
元探索者として、そこだけは断言できる。
「引き際を選べてる。
深層に踏み込まず、中層で止めてる。
あれは“無理しない探索”だ」
俺は軽く息を吐いた。
「だから、仕入れの前提として問題はない」
理央は納得したように、深く頷く。
「では、メニュー構成としては――
すべて日替わり定食。
バフなしの普通定食、バフ盛り、バフどか盛り、そしてバフ爆盛り」
「そうだ」
そして、俺はもう一歩、踏み込む。
「その上で、だ」
地下貯蔵庫の広さを思い出す。
あれだけ拡張してもらって、なお余っている空間。
「この量を、今のペースで仕入れられるなら」
理央が、息を呑む。
「――バフ弁当も、始めてもいい」
「……!」
「店で食う時間がない探索者向けだ。
効果は抑えめ。
バフ盛り定食と同等か、それ以下」
だが、確実に“違いが分かる”もの。
「うちは、日替わりの店だ。
弁当だろうが、同じだ」
内容は日替わり。
判別は、バフの強さだけ。
理央は、完全に仕事の顔になっていた。
「……運用、できますね」
「ああ」
数字も、人手も、もう見えている。
「このやり方は変えない。
今まで通り、日替わりでいく」
俺は背もたれに身体を預け、静かに言った。
「それが、かくりよ亭だからな」
夜の店内に、確かな決意が落ちる。
――そしてこの“当たり前”が、やがて外の世界を揺らすことになる。




