第2話 死にかけの私が、最後に思い出した味
――音が、遠ざかっていく。
いや、正確には違う。
遠ざかっているのは音ではなく、私自身の意識だ。
耳鳴りのような低い魔力振動の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いている。
吸うたびに肺の奥が軋み、吐くたびに喉から鉄の味がこみ上げた。
(……やばいな、これ)
冷静に、そう思ってしまった自分に、ほんの少し苦笑する。
私は鷹宮刹那。
探索者ランキング上位。
同世代では最強と呼ばれ、刀一本で前線に立ち続けてきた。
深層ダンジョンであろうと、未知の魔獣であろうと、致命的な失敗は一度もなかった。
――少なくとも、今日までは。
視界の端で、仲間たちが必死に後退しているのが見える。
回復役の少女が転び、盾役の男が歯を食いしばって彼女を庇っていた。
「……っ、刹那さん!」
誰かが叫んだ。
その声が、やけに遠い。
ここは地下第七層。
薄暗い空間に魔力灯の淡い光が揺れ、湿った岩壁からは粘つく水滴が滴り落ちている。
鼻を刺すのは血と腐臭、そして深層特有の、肌を直接撫でるような濃密な魔力圧。
その中心に――“それ”はいた。
イレギュラー個体。
本来、この階層に出現するはずの魔獣ではない。
記録にも残っていない異常進化体。
想定より一段階どころか、明らかに二段階は上の存在。
黒曜石のような外殻。
再生を繰り返す赤黒い核。
斬撃を与えるたびに、魔力が悲鳴のように跳ね返ってくる。
「……チッ」
舌打ちし、刀を構え直す。
本当なら撤退判断を下すべきだった。
仲間の消耗も激しい。
この個体を相手に、全員を無傷で連れて帰るのは――ほぼ不可能。
それでも。
(ここで、下がらせるわけには……)
仲間の背後には、まだ通路がある。
逃げ切るには、誰かが足止めをしなければならない。
だから私は、踏み込んだ。
本来なら使うべきではない距離。
魔力消費を無視した、全力の一閃。
刃が核を捉え、確かな手応えがあった。
――はずだった。
「なっ……」
次の瞬間、砕いたはずの核が脈動し、信じられない速度で再生する。
魔獣の前脚が、空間を歪めるほどの勢いで振り抜かれた。
衝撃。
視界が白く弾け、身体が宙を舞う。
骨が、砕けた。
胸郭が内側に潰れ、内臓がずれる感覚がはっきりと分かる。
呼吸が、できない。
喉から空気ではなく血が溢れた。
(……あ、これ……)
壁に叩きつけられ、床に転がる。
指先が、まったく動かない。
回復役がこちらに向かおうとしているのが見えた。
必死な顔。
でも、駄目だ。
(……来るな……)
今の私に使える回復量では、間に合わない。
それどころか、彼女まで巻き込まれる。
冷静に、そう判断してしまう。
(……致命傷、だな)
死を前にして、思考がやけに澄んでいた。
焦りも、恐怖も、薄れていく。
仲間の叫び声が、だんだん遠くなる。
魔獣の咆哮すら、もうただの振動にしか感じられない。
視界が暗く狭まり、天井の岩肌だけがぼんやりと残る。
(……守れた、なら……それで……)
そこで、意識が――ぷつりと、途切れた。
――――――
――暗い。
いや、違う。
暗いのではなく、目を開ける力が残っていないだけだ。
全身が、重い。
鉛を流し込まれたように、手足が自分のものとは思えない。
呼吸をするたび、胸の奥が鈍く軋み、焼けた鉄片が肺に突き刺さるような痛みが走る。
(……生きて、る……?)
生きている、という実感よりも先に、痛みだけが確かだった。
骨が砕け、内臓が傷ついた感覚が、はっきりと残っている。
回復魔法を受けた記憶はない。
それなのに、意識が完全には途切れていないという事実が、どこかちぐはぐだった。
そのとき。
鼻先を、ふと――懐かしい匂いが掠めた。
(……あれ)
血の生臭さ。
土と湿気。
ダンジョン特有の、魔力が焦げつくような匂い。
そのすべての奥に、あり得ないはずの“温かさ”が混じっている。
味噌の、柔らかな香り。
香ばしく焼かれた肉の脂。
湯気と一緒に立ち上る、炊きたての白米の匂い。
(……定食……?)
思考が、一瞬止まった。
馬鹿な。
こんな場所で、そんな匂いがするはずがない。
今の私は、深層ダンジョンで致命傷を負った探索者のはずだ。
それでも。
匂いは、確かにそこにあった。
夢や幻覚にしては、あまりにも具体的で、生々しい。
そして、否応なく――思い出してしまう。
数か月前。
長期探索を終え、身体を引きずるように地上へ戻った日のこと。
特別な理由はなかった。
ただ、腹が減っていて。
なんとなく、路地裏の小さな店の暖簾が目に入っただけだった。
カウンターだけの、古びた定食屋。
無駄な装飾はなく、清潔ではあるが華やかさもない。
厨房に立っていたのは、愛想がいいとは言えない、無口そうな男が一人。
「探索者?」
顔を上げもせず、そう言われた。
「じゃあ、今日はこっちの定食な」
理由も聞かれず、説明もなく。
ただ、それだけ。
運ばれてきたのは、どこにでもありそうな定食だった。
味噌汁、焼き肉、小鉢、白米。
派手さは、ない。
珍しい素材も、魔獣肉も使っていない。
それなのに。
一口、口に運んだ瞬間――
冷え切っていた身体の奥に、熱が灯った。
疲労が、溶ける。
筋肉の強張りが、ほどけていく。
傷ついていたはずの身体が、内側から“満たされていく”感覚。
回復魔法とは違う。
即効性も、眩い光もない。
ただ、生き物として正しい場所に、正しい力が戻ってくる。
(……なんだ、これ……)
そう思いながら、無言で食べきった。
食べ終えた後、身体は驚くほど軽くなっていた。
店を出るとき、ふと見た暖簾の文字。
――かくりよ亭。
(……もう一回、食べたいな……)
そのときは、ただの気まぐれな感想だったはずなのに。
今。
重傷を負い、死の淵に沈みかけた意識の底で。
その匂いが、はっきりと蘇っている。
(……食べたい……)
かすれた声が、確かに自分の喉から零れた。
次の瞬間。
――熱。
舌が。
喉が。
胃が。
はっきりと、“何かを受け取った”感覚。
(……あつ……)
味噌汁が喉を通る。
その瞬間、身体の奥で何かが弾けた。
魔力が、巡る。
止まりかけていた血流が、再び動き出す。
冷え切っていた四肢に、じわじわと感覚が戻ってくる。
(……なに、これ……)
傷が消えたわけじゃない。
砕けた骨の痛みも、内臓の違和感も、まだ確かにある。
それでも。
――確実に、死に向かっていた流れが、止まった。
「……うま……」
驚くほど素直な言葉が、口から漏れた。
次に口に運ばれた、焼き肉。
噛んだ瞬間、肉汁と一緒に、力が滲み出す。
(……は?)
筋肉が、熱を帯びる。
折れたはずの骨が、軋みながら位置を戻していく感覚。
無理やり修復されるのではなく、あるべき形へ“戻っていく”。
回復魔法ではない。
ポーションでもない。
(……“飯”だ……)
生きるための、食事。
ゆっくりと、瞼が持ち上がる。
見慣れない天井。
木の梁。
どこか落ち着く、温かな匂い。
そして――
視界の端に、エプロン姿の男が映った。
呆然とした顔で、こちらを見下ろしている。
(……ああ)
間違いない。
数か月前、あの定食を作った男だ。
「……まだ、死んでない……?」
その呟きが聞こえた瞬間。
胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
同時に気づく。
胸の傷の、さらに奥。
何かが、静かに光っている。
魔力でも、呪いでもない。
もっと、根源的な――生きることそのものに近い何か。
(……この人……)
ただの料理人じゃ、ない。
そう直感したところで、
私の意識は――完全な覚醒の手前で、静かに踏みとどまった。
――この先に、何が待っているのか。
それを知るには、まだ少し、時間が必要だった。




