第17話 西園寺グループとの商談
暖簾が持ち上げられ、外の光が一瞬だけ店内に差し込んだ。
きい、と控えめな音を立てて引き戸が開く。
その向こうに立っていたのは、やはり――場違いなほど完成された存在だった。
西園寺麗華。
腰まで届く縦ロールは一切の乱れもなく、室内に入った瞬間ですら崩れない。
ドレスの裾をわずかに持ち上げ、汚れた床を避けるように一歩、二歩。
その所作の一つ一つが、まるで舞台の上の演技のように洗練されていた。
後ろに続く黒服たちは、彼女が完全に店内へ入ったのを確認してから足を止める。
入口付近、邪魔にならない位置に立ち、会話に割り込む気配は一切ない。
視線だけが、静かに周囲を把握していた。
――重たい空気。
普段なら、食器の触れ合う音や咀嚼音が支配する店内が、嘘みたいに静まり返っている。
常連たちも、探索者たちも、ただ固唾を呑んでその様子を見守っていた。
俺はエプロンで手を拭き、カウンターの中から一歩前に出る。
「……いらっしゃい」
自然と、いつもの言い方になる。
丁寧語に切り替える気はなかった。ここは俺の店だ。
麗華は、俺を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「はじめまして、ですわ」
すっと背筋を伸ばし、両手を腹部の前で揃える。
そして、わずかにスカートの裾を摘まみ、優雅に頭を下げた。
「わたくし、西園寺麗華と申します。
この度は、お忙しい中お時間を頂戴し、誠にありがとうございます」
声は柔らかいが、芯がある。
形式的な挨拶の中に、相手を値踏みしない誠実さが感じられた。
「大崎悠斗だ。
……遠いところ、ご苦労さん」
短く名乗ると、彼女は目を細め、くすりと笑った。
「噂に違わぬ方ですのね。
店長さん」
その呼び方に、店内の何人かが小さく息を呑む。
大企業の令嬢が、下町の定食屋の店主を、自然にそう呼んだ。
麗華は、ゆっくりと店内を見回す。
カウンター八席。
壁に貼られた手書きのメニュー。
年季の入った柱と、磨き込まれた床。
「……思っていた以上に、素敵なお店ですわ」
「そうか?」
「ええ。
“作られていない”ところが、とても」
一瞬だけ、彼女の視線が俺の手元――料理人の手に向いたのを、見逃さなかった。
「本日は、まずはご挨拶をと思いまして」
そう言って、彼女はカウンター席の一つを指差す。
「こちら、よろしいかしら?」
「好きに座れ」
言いながら、内心では少しだけ意外に思っていた。
個室を求めるかと思っていたが、そんな素振りは微塵もない。
麗華は静かに腰を下ろす。
その背後に、護衛たちが自然に位置取りをするが、誰一人、口を開かない。
「改めまして」
彼女は俺をまっすぐに見つめた。
「かくりよ亭の店長さん。
わたくし、西園寺グループを代表して――本日は、あなたにお話があって参りましたの」
その言葉に、店内の空気が、ぴんと張り詰める。
――さて。
俺は小さく息を吐き、カウンター越しに彼女と向き合った。
ここから先が、本題だ。
麗華は背筋を正したまま、穏やかな微笑みを崩さずに言った。
「まず、前提として――ですわ」
その一言で、店内の空気が切り替わる。
これは世間話ではない。交渉の席だ。
「西園寺グループとして、ダンジョン食材の調達体制は、すでに全国規模で整っておりますの」
全国。
その言葉を、さらりと使う。
「各地のダンジョン管理組合、探索者ギルド、提携パーティ。
正規ルートで集められる食材は、量・種類ともに問題ございません」
麗華の背後で、護衛の一人がわずかに頷いた。
肯定の合図だろう。彼女の言葉が誇張でないことを、無言で裏付けている。
「ですから、店長さん」
麗華は、こちらをまっすぐ見つめる。
「お伺いしたいのは一つだけ。
――あの“バフ調味料”を作るためには、どの程度のダンジョン食材が必要なのか、ですわ」
来たか。
俺は腕を組み、少しだけ考えてから口を開く。
「量だけ言えば、料理一食分よりは多い。
鍋一杯分を仕込むなら、浅層素材だけじゃ足りねえ」
麗華はすぐにメモを取らない。
まず理解しようとする目だ。
「ただし――」
俺は続ける。
「調味料として加工するなら、正直、食材の“種類”はあまり関係ない」
その瞬間、麗華の瞳がわずかに見開かれた。
「……種類が?」
「ああ。肉でも、植物でも、魔石の副産物でもいい。
重要なのは“どこから取れたか”だ」
俺は、指で段階を示すように空中をなぞる。
「浅層の素材は、ほぼ意味がない。
最低でも中層。安定させたいなら、深層由来が欲しい」
ざわ、と小さく客席が揺れる。
深層。
その言葉が持つ重みは、探索者なら誰でも知っている。
「なるほど……階層、ですのね」
麗華は、今度ははっきりと頷いた。
「では、食材の産地や属性は問わず、
“中層以上で採取された量”が重要、と」
「そうだ」
ここで、俺は一つ、はっきり言っておく必要があった。
「それともう一つ。
調味料に落とし込むなら、バフの種類はある程度、融通が利く」
「……まあ」
麗華が、はっきりと驚いた声を出す。
「疲労回復、筋力強化、反応速度の底上げ。
その辺りなら、配合と手順で調整できる」
《かくりよの手》の核心に近い部分だ。
だが、ここを隠しても意味はない。
「回復特化にするか、戦闘補助にするか。
万能型にする代わりに効果を薄めることもできる」
言い切ると、麗華はしばらく黙り込んだ。
その沈黙は、計算の時間だ。
数秒後、彼女はゆっくりと息を吐き、口元に手を添えて微笑んだ。
「……想像以上、ですわ」
その声には、隠しきれない高揚があった。
「食材の種類に縛られず、階層基準で集められる。
なおかつ、用途別にバフを調整可能……」
彼女は顔を上げ、俺を真正面から見据える。
「店長さん。
それが事実でしたら――西園寺グループとして、供給面でお力添えできる余地は、非常に大きいですわ」
護衛たちは、相変わらず沈黙を保ったまま。
だが、その気配が、さきほどよりも一段引き締まったのを感じた。
俺は、カウンターに手を置く。
「勘違いすんな。
俺は、何でもかんでも量産する気はねえ」
「ええ」
麗華は即答した。
「ですからこそ――今日、直接お会いしに来たのですもの」
その言葉に、嫌な感じはしなかった。
むしろ、ここからが本当の話し合いだと、腹を括らされた気がした。
――さて。
俺は、次に出す言葉を選びながら、彼女の目を見る。
この先をどう線引きするかで、
かくりよ亭の未来は、決定的に変わる。
俺は、しばらく黙って考えたあと、厨房の方へ視線をやった。
火口の位置。動線。今の広さ。
そして――もし、視界の端まで全部が“俺の管理下”に入るとしたら。
「……条件がある」
低く言うと、麗華は即座に姿勢を正した。
「お聞かせくださいませ」
「店で出す料理をしてる最中でも、目が届く位置に増設してくれるなら、だ」
俺は、カウンター越しに指を立てる。
「大鍋を――百」
空気が、一瞬止まった。
「同時に管理できる」
言葉の意味が浸透するまで、ほんの一拍。
次の瞬間。
「……ひゃ、百、ですの?」
麗華が、思わず聞き返した。
さっきまでの余裕の笑みが、完全に消えている。
「朝、昼、夜。
一日三回仕込めば、合計三百」
俺は、平然と続ける。
「俺の能力で、無理なく回せる上限がその辺だ」
――ざわっ。
今度は、店内全体が揺れた。
常連の探索者が、思わず声を上げる。
「おい……今、聞いたか?」
「大鍋百って……一個何人分だよ……」
「工場でも無理だろ、それ……」
麗華は、完全に言葉を失っていた。
目を見開き、俺を見つめたまま、瞬きすら忘れている。
「……あ、あり得ませんわ……」
ぽつりと、素の声が漏れた。
「通常の調理師でも、十が限界。
それも、補助人員と自動化設備があって、ようやく……」
「知ってる」
だからこそ、数字を出した。
「普通の人間なら、な」
俺は、自分の手を見下ろす。
包丁を握り、鍋を振り、何千食も作ってきた手だ。
「俺は元探索者だ。
しかも――」
視線を上げ、麗華を見る。
「毎食、バフ盛り定食を食って生活してる」
一瞬、静寂。
次の瞬間、理解が追いついた。
「……あ……」
麗華の口から、息の抜けた声が漏れる。
「基礎身体能力、集中力、疲労回復……
常時、底上げされている状態、ですのね」
「そういうことだ」
《かくりよの手》を使うために、俺自身の身体が耐えられなきゃ意味がない。
だから、食う。
俺自身が、実験体みたいなもんだ。
「無理はしてねえ。
最初から、普通の基準じゃ測れないだけだ」
麗華は、しばらく黙り込んだまま俺を見つめていた。
やがて、ふっと息を吐き――そして、笑った。
それは、今までで一番、楽しそうな笑みだった。
「……なるほど」
小さく、しかし確かな声。
「店長さん。
わたくし、ようやく分かりましたわ」
彼女は、胸の前で手を組む。
「あなたが“量産できない職人”ではなく、
量産という概念そのものを塗り替える存在だということ」
そして、きっぱりと言い切った。
「でしたら、その三百鍋――
すべて、活かせる土台を、必ず用意いたします」
護衛たちが、無言のまま一歩だけ、足を引く。
これはもう、確信の撤退ではない。覚悟の布陣だ。
俺は、カウンターに肘をつき、麗華を見返す。
「……言っとくが」
ぶっきらぼうに、だが本音で。
「それでも、俺は定食屋だ」
麗華は、即答した。
「ええ。
だからこそ――ですわ」
下町の定食屋で。
三百の大鍋を操る料理人。
その異常さに、ようやく――
西園寺麗華は、完全に飲み込まれていた。
しばしの沈黙のあと、俺は深く息を吐いた。
覚悟は、もう決まっている。
「……いい」
短く、だがはっきりと言う。
「正式に契約しよう。
西園寺グループと、かくりよ亭で」
その瞬間、店内の空気が一段階、変わった。
“決まった”のだと、誰の目にも分かる。
麗華は、すぐには笑わなかった。
代わりに、静かに背筋を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとうございます、店長さん」
そして――深く、深く頭を下げた。
「西園寺グループを代表し、
このご縁を、最大限に尊重することをお約束いたします」
形式張った言葉。
だが、その声音に嘘はなかった。
「ただし」
俺は続ける。
「工事に入るなら、しばらく時間をくれ。
店の都合がいい日を指定する」
麗華は一瞬だけ考え、即座に頷いた。
「承知しましたわ。
かくりよ亭の営業を最優先に」
「それと――」
俺は厨房の奥を親指で示す。
「現場を分かってる人間がいい。
探索者上がりなら尚更だ」
麗華の口元が、わずかに緩む。
「ご安心くださいませ」
背後に控えていた護衛の一人が、無言で一歩前に出る。
が、口は開かない。
「西園寺グループには、引退後に建築へ転じた元探索者の大工がおりますの。
ダンジョン素材、空間拡張、魔力干渉――すべて経験済み」
それを聞いて、胸の奥が少し軽くなった。
話が早い。
「……なら問題ねえ」
俺は、ふっと肩の力を抜く。
「じゃあ、契約の話は今日はここまででいい」
「まあ?」
麗華が、少しだけ意外そうな顔をした。
俺は、カウンターの奥へ向き直り、エプロンを締め直す。
「折角だ。
夕飯、食っていけ」
店内が、再び静まり返る。
「工場生産じゃ不可能な――
本気のバフ盛り定食だ」
刹那が、小さく息を呑むのが分かった。
理央は、もう帳簿のことを忘れている顔だ。
麗華は、ほんの数秒、俺を見つめていた。
その目には、交渉相手としての光ではなく――一人の客としての期待が宿っている。
やがて。
「……ええ」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「ぜひ、いただきたいですわ」
下町の定食屋で。
西園寺グループ総帥の一人娘が、夕飯を待つ。
――かくりよ亭の夜は、これからだ。




