第15話 弁当という名の戦略兵器
昼のピークが過ぎた店内は、潮が引いたあとの海みたいに静かだった。
さっきまでカウンターを埋め尽くしていた探索者たちの熱気も、油と出汁の匂いに混じって、ゆっくりと抜けていく。暖簾はまだ出したままだが、テーブル席は空き、カウンターにも二人だけ。どちらも食後の茶を啜りながら、無言でスマホを眺めている。
俺はシンクに向かい、包丁を洗っていた。
昼営業がひと段落した、この時間が一番好きだ。忙しさの余韻と、次の仕込みまでのわずかな隙間。料理人として、ちゃんと今日もやり切ったって実感できる。
「店長」
背後から、理央の声。
いつも通りの落ち着いた敬語だが、ほんの少しだけ、硬い。
「どうした」
振り返らずに答えると、足音が近づいてくる気配がした。カウンターの端に立ち、手にしたタブレットを胸に抱えているのが、気配だけで分かる。
「昼の売上確認をしていたんですが……その途中で、公式アカウントに届いているメールを整理していまして」
「営業の問い合わせか?」
「はい。……その、少し毛色の違うものがありまして」
そこで、言葉が一拍、止まった。
俺は包丁を伏せ、手を拭いてから振り返る。理央はタブレットの画面をこちらに向けていたが、まだ表示は切り替えていない。表情は平静を装っているが、目だけが妙に真剣だ。
「業務提携の、打診です」
「……は?」
一瞬、意味が頭に入らなかった。
「業務提携、です。共同での取り組み、食材供給、もしくは商品展開を見据えた協力関係を築きたい、と」
「うちと?」
「はい。かくりよ亭と、先方との、です」
思わず、鼻で笑いそうになるのを堪えた。
「冗談だろ。どこの物好きだ」
「私も、最初はそう思いました」
理央はそう言って、ようやくタブレットを操作し、メール本文を表示する。
差出人名を見た瞬間、背筋が、僅かに伸びた。
「……西園寺?」
姓だけで、十分だった。
「正式には、西園寺グループ・対外戦略部名義です」
店内の静けさが、やけに耳につく。
西園寺グループ。
探索者向け装備、消耗品、ダンジョン関連サービスの最大手。知らない探索者の方が少ない、業界の巨人だ。
「……なんで、そんなところが、うちに」
「文面を見る限り、先日のダンチューバー配信と、その後の探索者界隈での反響を注視していたようです」
理央の声は淡々としている。だが、そこに滲む興奮と緊張は、隠しきれていなかった。
「バフ料理の効果再現性、価格帯、供給体制。それらを含めて、一度正式に話がしたい、と」
「話って……」
「オンラインではなく、できれば直接お会いしたい、とも書かれています」
俺は、無意識のうちにカウンターに手をついていた。
かくりよ亭は、ただの定食屋だ。
ダンジョンの近くにあるだけの、カウンター八席とテーブル二つの、小さな店。
確かに、料理には自信がある。
《かくりよの手》で作るバフ料理が、本物だってことも。
だが、それでも。
「……で、どう思う」
自分でも意外なほど、低い声が出た。
理央は一瞬だけ視線を落とし、それからはっきりと言った。
「経営的には、大きな転機になり得ます。良くも、悪くも」
逃げ道は用意しない、という顔だ。
「ただ」
そう前置きして、続ける。
「店長が大事にしてきたものを、壊される可能性もあります。条件次第では」
俺は黙ったまま、タブレットの画面を睨む。
西園寺。
その名前の裏にある資本と影響力は、嫌ってほど知っている。
同時に――
この店が、ここまで積み上げてきたものも、簡単には譲れない。
「……返信は、まだしてないんだな」
「はい。店長の判断を仰ごうと」
理央は、そこで少しだけ柔らかく笑った。
「ですから今は、報告までです」
店内の時計が、カチリと音を立てた。
俺は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
「……分かった。少し考える」
そう答えながら、頭の中ではもう、次の一手を探し始めていた。
この話が、ただの営業メールで終わるはずがないことだけは――
嫌というほど、分かっていた。
――――――
暖簾を下ろし、入口の鍵を閉めた瞬間、かくりよ亭は完全に“内側”の空間になった。
外の通りを行き交う探索者の足音も、遠くで鳴るダンジョン第四区画のゲート警告音も、壁一枚隔てただけで別世界みたいに遮断される。残るのは、店に染み付いた出汁の匂いと、今日一日の疲労だけだ。
俺はカウンターの中でエプロンを外し、フックに掛けた。
「座るか」
「はい」
「了解です」
返事は二つ。
理央はいつものようにカウンター裏の座敷に回り、帳簿とタブレットを並べる。刹那は一瞬だけ遠慮する素振りを見せたが、すぐに正座で腰を下ろした。探索者としての彼女を知っていると、この店で見せるその姿勢は、未だに少し不思議だ。
簡単なまかない――今日は鶏ガラと野菜のスープだけを用意し、それぞれの前に置く。
「昼に話した件だ」
そう切り出すと、二人の視線が揃って俺に向いた。
「業務提携、ですよね」
理央が先に口を開く。
「西園寺グループからの打診。正式な文面ですし、調査不足や誤解という線はまずありません」
「刹那は?」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ考える素振りを見せてから、素直に答えた。
「私は……正直、驚きました。でも、不思議ではないとも思います」
「理由は」
「店主の料理が、探索者の常識を変え始めているからです」
即答だった。
「回復も、強化も、“高価な装備か危険なスキル”が前提だと思われていました。でも、ここでは食事でそれが叶う。しかも、安定して」
刹那はスープを一口飲み、続ける。
「大手が放っておく理由が、ありません」
理央も頷いた。
「西園寺グループは、探索者市場の変化にとても敏感です。特に“食”は、これまで軽視されがちだった分野ですから」
「メリットは?」
俺は短く問いを投げる。
理央は指を折りながら整理するように話し始めた。
「まず、資金力。設備投資や人手不足の解消が見込めます。次に流通網。ダンジョン食材の保存・運搬技術を共有できれば、ロスは確実に減ります」
「宣伝効果も大きいです」
刹那が補足する。
「西園寺の名前が出るだけで、探索者の信頼度は段違いですから」
そこまで言って、刹那は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「ただ……」
「ただ?」
「店主の料理が、“商品”として扱われることになります」
その言葉は、重かった。
理央も、同じ点を気にしているのだろう。珍しく、即座に肯定はしなかった。
「提携内容次第では、メニューや価格、提供方法に制限がかかる可能性はあります」
「最悪の場合」
刹那が静かに言う。
「かくりよ亭は、店主の店じゃなくなるかもしれません」
スープの湯気が、ゆらりと揺れた。
俺は黙ってそれを見つめる。
否定もしないし、肯定もしない。ただ、二人の言葉を一つ一つ、頭の中で並べていく。
「……刹那は、どうしたい」
意見ではなく、感情を問う。
「私は」
彼女は少しだけ、視線を伏せた。
「この店が好きです。ここで働くのも、料理のためにダンジョンに潜るのも」
それだけ言って、口を閉じた。
理央もまた、静かに言葉を添える。
「私は、店長が決めた道を、事務と数字で支えます。それが私の役目ですから」
店内に、短い沈黙が落ちる。
答えは、まだ出さない。
出す必要も、ない。
ただ一つだけ確かなのは――
この業務提携の話が、かくりよ亭の未来を大きく左右する分岐点だということだった。
俺は何も言わず、残ったスープを一口飲み干す。
まかないの鍋は空になり、座敷には湯気の名残だけが漂っていた。
理央は帳簿を閉じ、刹那は湯飲みを両手で包んだまま、俺の次の言葉を待っている。
さっきまでの話で、この店の未来が軽いものじゃないってことは、全員が分かっていた。
だからこそ――ここで言うべきだと、腹を括る。
「……一つだけ、まだ話してないことがある」
二人の視線が、同時に俺に集まった。
「《かくりよの手》のことだ」
刹那の背筋が、ぴしりと伸びる。
理央も、ペンを置く指を止めた。
「これまで使ってきたのは、料理そのものにバフを乗せるやり方だ。出来立てを食わせて、最大効率を叩き出す」
「はい」
「でもな……それだけじゃない」
少しだけ、言葉を選ぶ。
誇示じゃない。可能性の話だ。
「条件は厳しいが、調味料を作れる」
「……調味料、ですか?」
理央が聞き返す。
「味を決めるためのもんじゃない。バフを“足す”ためだけの調味料だ」
刹那の目が、僅かに見開かれた。
「それって……」
「単体で食っても意味は薄い。料理の途中で混ぜることで、完成品にバフが乗る」
俺は、鍋をかき混ぜる仕草を、空中でなぞる。
「工場生産のラインでも使える。最初から最後まで俺が料理しなくてもいい。途中工程で放り込めば、最低限だが、確実に効果は出る」
理央の思考が、目に見えて加速する。
「……つまり」
「大量生産が、可能になる」
そう告げると、座敷に一瞬の沈黙が落ちた。
刹那が、慎重に口を開く。
「でも、条件が厳しい、と言いましたよね」
「ああ」
誤魔化さない。
「材料が要る。しかも、かなりの量だ。普通の調味料感覚じゃ無理だな」
「ダンジョン食材、ですね」
「そうだ」
俺は頷く。
「刹那に集めてもらえれば、時間を見つけて作れる。鍋いっぱいにな」
イメージは、はっきりしている。
厨房の奥、業務用の大鍋。そこに、ダンジョン食材を惜しみなく放り込み、《かくりよの手》で“意味”だけを抽出する。
「味は、ほとんど残らない」
「……でも、バフは残る」
刹那が、確信を込めて言った。
「ああ」
俺は短く肯定する。
「そうなれば、うちで弁当を大量に作る必要はなくなる。全部を俺の手で仕上げる必要もない」
理央は、静かに息を吸った。
「つまり……提携先が弁当や保存食を作るとしても、店長は“核”だけを担えばいい、と」
「そういうことだ」
数字も、現場も、両方を知っている理央だからこそ、その意味を正確に理解したはずだ。
「……すごいですね」
それは、感嘆というより、畏怖に近い声音だった。
刹那は、俺をじっと見つめる。
「店主。それがあれば……」
「まだ、決める話じゃない」
被せるように言うと、刹那は口を閉じた。
「可能だ、って話をしてるだけだ」
事実だけを並べる。
選ぶのは、まだ先だ。
俺は立ち上がり、空になった鍋を流しに運ぶ。
「とりあえずだ」
背を向けたまま、続ける。
「ダンジョン食材を、余裕がある時でいい。多めに集めておいてくれ」
刹那が、力強く頷く気配がした。
「食材が用意できたら、試作する。あとのことは改めて話そう」
水をひねる音が、静かな店内に響く。
まだ答えは出さない。
だが――選択肢は、確実に増えた。
かくりよ亭の未来は、今、静かに形を変え始めていた。




