6話 『大将の願い』
星月夜、橋の上で落ち合う二人。川が穏やかに流れ、そよ風が頬を伝う。
「静かだな、仁慈」
「ああ……。昼の騒ぎが嘘のようだ」
昼間の軽口を叩き合っていた彼らはもういない。ここにいるのは、戦支度を終えて闇に目を凝らす、二人の武人。
与助は背に巨大な鉄板を背負い、腰にはもう一振りの刀を差している。
「此度はそちらも帯刀しているのか」
「おうよ」
背負った武骨な鉄塊を、与助は親指でくいっと指した。
「こいつは愛刀じゃねえ。稽古用のただの鉄板だ。無許可で刀抜いたらまた謹慎が伸びるからな」
どこまでも律儀な男だ。
「だが今回に限り本気解放だ。……オレの黄竜館を襲った悪党に容赦はしねえ。オレが必ず報いを受けさせる」
昼間よりも明らかに殺意の純度が高まっている。もはや瞳は獲物を狩る鷹そのものだ。巨大な鉄板であれほどの剣速ならば、通常の刀であればどれほど速いのか。
仁慈は想像するだけで高揚した。それと同時に、自分との戦いは本気ではなかったのだと察する。
二人は歩いて道場に着く。そこは藤見町を橋で跨いだ更に奥。
周囲には月明かりに照らされた山と川があるばかりで、民家はない。虫の声や草木のそよぐ音といった自然の静寂のみが満ちている。
「そっちの師範には言わなくていいのか?」
「話は既に済ませてある。挨拶は不要だ。先生はもうお休みになられる頃だからな。あとは存分に警護するまで」
道場に併設された別々の離れに住まう仁慈と師範。近頃の師範は夕餉を終えると、基本的に仁慈と関わることはない。大抵は寝ているか、夜な夜な精神統一の稽古をしている。
「よーく考えりゃ、待ってりゃ来るなんて上手くいくもんかねぇ。剣が欲しいだけなら、寝静まった頃にひっそり来そうなもんだが」
「……そうだな。そこは辛抱強く待つしかない」
「つーかオメエの道場に霊剣あんのか? 無きゃ辻斬りは来ねんじゃねえか?」
「霊剣かは定かではないが、業物は何本かある。何せ、免許皆伝の儀でその内の一振りを頂けるらしいからな」
「そのことを知る奴は?」
「以前、兄上が不埒者を成敗した時に我が大倉道場が少し話題になったことがあってな。兄上は苦手だがその時は誇らしくて、つい業物の話を何人かにした気がするよ」
「じゃ、それを人づてに聞いた辻斬りが来る可能性は十分あるって訳だな」
とはいえ早々に来てくれるわけもなく、月を眺めて待つしかない。二人は道場の庭にある大きな岩に並んで腰掛けた。
「話題になったと言ったが、栄えた隣町の黄竜館では我が道場の存在すら知らなかろう。そちらと違って門弟の募集もなければ、大した看板もないからな」
屋敷には〝大倉道場〟と書かれた、古びた小さい木彫りの看板が置かれていた。
「いーや、知ってるぜ」
「本当か?」
「ああ。何せオメエの兄上に成敗されたっつう不埒者は、このオレだからな。……不埒なこたぁしちゃいねんだが、町の連中には乱暴に見えたんだろうよ」
仁慈は返答に困った。
「ま、誠士とはそれより前から見知りだけどな。結構前に『ご指南お頼み申す』とかぬかして道場破りに来やがってよ。あっちゅう間に黄竜館の門弟達が粗方倒されて、オレが駆けつけて誠士と立ち合った。……ありゃ強かった。引き分けだった。そっから互いに意識してよ、会うと何度かやり合ってる。今じゃ腐れ縁みてぇなもんだ」
「……兄上の道場破りなど聞いたこともないぞ」
「はっ。最初に〝血濡れ〟って呼ばれ出したのは誠士とやり合って血みどろになったからなんだぜ?」
「そんなこと先生が知ったら……」
元々誠士は仁慈に対して危うい技を繰り出す男ではあったが、他流にまでやっているというのが仁慈には驚きである。それでも誠士の仇討ちが大倉道場に来ていないということは、相手は選んでいるのだろう。
「弟弟子がいるのは知ってたが、まさか仁慈だったとはな」
いずれ兄弟子が取り返しのつかないことをしまうのではないか、という仁慈の不安が星々の輝きを霞ませた。
「うちの者が道場破りで迷惑を掛けた手前言いにくいのだが、我が大倉道場もそういった類いのことをされることがある。奴らは他流を倒した実績が欲しいのだろう。うちの道場は小さいから狙われるのだ。何せ門下生は兄上と私だけだからな」
対して黄竜館は田舎にしては規模が大きい。道場にろくに顔も出さない与助には、仁慈の悩みがいまいちぴんと来なかった。
「オメェと誠士がいりゃ負けねえだろ」
「勝てばいいという話ではない。侮られていることが問題なのだ。先生ほどの御方を見ず知らずの者達に笑われるのは、私にとって何よりの屈辱だ。故に『なぜもっと弟子をお取りにならないのですか』とお伝えしたことがある。……『金も名誉も要らん。お前も侍なら技以外の邪念は捨てろ』と叱られた」
けたけたと与助が笑うと、静謐な夜にはよく響いた。
「ごもっともだが頑固な師範だな」
「まあ、今となっては弟子が少ない分、ご指導いただける時間が増えて良かったと思っている」
「その割に不服そうじゃねえか」
「……先生とご一緒できる時間は長いはずだが、私は一向に認めてもらえないのだ。此度の辻斬りの話も、碌な対策を講じてはもらえなかったからな」
認められない男と、力によって認められすぎた男。
「オレも五、六回説明されたが、霊剣云々はまだ半信半疑だから仕方ねんじゃねえか? 辻斬りの目的もいまいち分からねぇしな」
「それもそうだが、それ以前に私の話はあまり取り合ってもらえない。兄上の方から伝えてほしいと頼んではみたが、まず兄上が私の話を聞いてくれなかった」
「おい、誠士最低だな。あの野郎兄弟子の風上にも置けん。今度あったらオレが――」
「言い過ぎだ。……これも全て私のせいだから気にするな」
「お、つーとなんかやらかしたのか? オレみたいに」
「そうだな……。剣が弱い、というのは、門弟として致命的なやらかしかもしれんな」
またしても与助が笑うので、怒ってやろうと顔を勢いよく向けると、逆に両肩を掴まれる。
「テメェは強ぇ。無敵のオレが認める」
日も暮れているというのに、仁慈は思わず眩しさから目を背けた。
「オメェはオレに勝ったんだぜ? 自信持てよ」
自信の裏付けを実力で補える者の言葉は、励ましにならないことがある。
「与助には分からんよ。お前は強いから」
仁慈は褒められることに慣れておらず、素直に受け止められなかった。
「まー、オレは道場じゃ向かうとこ敵なしで、一番強かったからな」
与助もまた、自信のない者の褒め方を心得てはいなかった。
「なら道場での稽古はさぞ楽しいだろう。負けないのだから」
「それがよ、免許皆伝に怪我負わすぐれぇ強くてな。オレはいるだけで皆の誇りを砕きまくって嫌われちまった。竹刀の一太刀で名人の骨を数本折っちまった時、ここに居場所はねえと思った。得るもんはもうなかったしな。……それからろくに稽古も出なくなった。行くのは他流試合に呼ばれた日ぐれえだ」
強すぎて妬まれる男の苦労。一度は味わってみたかったが、きっとそれなりに大変なのだろうと仁慈は想像を飛ばす。
「新参者からすれば、稽古にも出ない与助が大事な試合で大将に選ばれたりすれば妬ましく思う者も出てくるか」
「ま、大将になったことはねえがな」
「ほう、流石は聞きしに勝る黄竜館だな。与助を差し置いて大将になれる剣客がいたか」
与助は物思いに耽るように、伏し目がちに語り始めた。
「すげぇ人がいたんだよ。オレの大将だ。大将だけが唯一、オレを気に掛けてくれる人だった。大将は他流相手にゃ無敗。黄竜館でも屈指の免許皆伝者だった。百戦錬磨、それに驕らず礼節を重んじる、正にオレの理想だった」
「だった?」
「大将は辻斬りに殺された。道場で祀ってる宝刀を守ろうとして死んだ。死に際も男前だろ? 大将のおかげで多くの門弟が命拾いしたらしい。……一生敵わねぇ男だよ」
黄竜館で起きた辻斬りの下手人は、灯りを消して夜に紛れたため、誰一人として顔を見た者はおらず、その圧倒的な威圧感から「大男だった」という噂だけが広まった。
そして、大将格を倒せる男として真っ先に挙げられたのが、与助であった。
「オレが下手人呼ばわりされるのは今までのツケだ。辻斬りに遭った日は他流試合だった。その日はオレを嫌う奴が大勢いて、オレは行かなかった。顔出してたら何か変わったかもしれねえ。……大将の死はオレのせいだとは思わねえ。でも、悔しいもんは悔しいんだ。……だから、仇はオレが討つ」
「……なるほど。今日会ったばかりの私についてきた理由が、よく分かったよ」
肌を刺すような、冷たい追い風が吹く。
「辻斬りが来たら、オレと一騎討ちさせてくれねえか?」
「多勢でもか?」
「ああ」
「気合いが入りすぎではないか? お前の大将を倒せた奴だぞ?」
返答はない。強情な奴だということは既知の事実だった。
「オレの最後の戦いよ。……この敵討ちが済んだら、もう剣は捨てるって決めてんだ」
仁慈も返答はしない。
「理由、聞かねんだな」
「どうせ『侍のケジメ』とか言うのだろ?」
「ちっ、釣れねえ奴だぜ」
「よく言われる」
「……死んだ大将がよ、オレに『大将継いでくれ』ってよく言ってくれたんだよ。でもオレは、あの人が大将だから道場が好きだった。だからそんなこと言わせねえように、親しみも込めてずっと『大将』って呼んでたんだ。……もしオレが大将になってりゃ、あの日他流試合に出てたのもオレで、あの人は……」
「――じゃあこの仇討ちが終わったら、与助が大将になれよ」
「馬鹿言え。オレはもう剣を握る資格ねえんだよ」
「駄目だ」
「はあ?」
「お前、剣を捨ててこれからも鉄板を振り回すつもりか? 私は今度こそ、剣を握った本気のお前と戦いたい。本気のお前に勝ちたいんだよ」
「……痺れるねぇ」
それは心の底から出た声だった。
「そうこなくては」
「でも、今更オレが黄竜館に帰ったって居場所は無い。大将がいなきゃ、オレはもう誰からも呼ばれねんだからよ」
仁慈が気の利いた言葉の一つでもと考えたその時、二人の肌が気配を感じ取る。夜気の冷たさとは違う、異質な圧。町を繋ぐ橋に自然と目がいく。
闇の向こうから男が一人、ゆっくりとこちらへ渡ってくるのが見えた。




