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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
序章 燻り(くゆり)
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5話 『ただの治太郎』

「今のを見ていただろう。与助は一度死んだのだ」

「大倉殿、戯言(たわごと)が過ぎますぞ! 我らを愚弄するおつもりか!」

「なんだァ。今のオレはちぃとばかし気が荒ぇぜ」

「覚悟しろ下手人、豪野谷与助ッ!」

 

 またしても、一触即発の空気が場を支配する。


 仁慈と与助の間に生まれた剣士としての静かな敬意も、門弟達の燃え盛る憎悪の前では意味をなさない。今度こそ本当に死人が出る、誰もがそう思った。


 その時だった。茶屋の奥から芝居の口上さながらに響き渡る声が、その場全ての視線を集めた。


「オーイ!! こっち見やがれってんだ! 野郎共ッ!」

 

 あまりの声量に、殺気立っていた門弟達も、与助でさえも驚いて声の主を振り返る。

 

「何奴!」

「誰かって? 色男に決まってんだろッ!」

「なんだあいつは……」

 

 門弟達が困惑していると、仁慈は羞恥心でそっと人混みに紛れて消えようとした。

 

「なあ。テメエのこと見てるが、知り合いか?」

「……さあ?」

「色男のこの俺に平伏しろッ!」

 

 治太郎はチラチラと仁慈に熱い視線を送る。

 

「おい仁慈。指差されてんぞ。知り合いだろ」

「知らぬ!」

 

 指差すどころか、自信満々のキメ顔をしている。

 

(治太郎頼む。引っ込んでくれ……)

 

 懇願虚しく、輪の真ん中に躍り出てきた治太郎は、両の手を大きく広げ、自らの着物の紋を見せつけては高らかに言い放った。

 

「俺はお武家だぞ! しかもそんじょそこらの家じゃあねえ。……聞きてぇか? そうだろうとも。何を隠そう、四行家の、四行(しぎょう)重國(しげくに)様よっ!」

 

 仁慈ですら聞いたことのある幕府の重鎮の姓。そして一度も聞いたことのない、やけに格式高い名。仁慈は戸惑いを隠せない。途端にざわざわと野次馬達が騒ぎ出した。

 

「四行って、あの幕府の役人の四行家か!?」

「それもただの役人じゃねえ。老中だぜ! ちっとばかし偉ぇなんてもんじゃねえぞ!」

(いや、お前はただの治太郎だろ――ッ!)

 

 町人が騒がしくする中、仁慈だけが頭を抱えた。

 

「そうなのか?」と、与助が大剣を背に仕舞いながら仁慈に尋ねてくる。

「いや初耳だ……」

 

 治太郎は疑いの目を向ける門弟達に、懐から取り出した家紋入りのありとあらゆる品を見せびらかし、皆々を納得させていく。


 偽物であれば、謀反とも取られかねない。流石の治太郎も、そこまで命知らずな馬鹿ではないだろう。

 

「いやまさか、あの治太郎が……? でもあの紋。これは本当に……」

 

 仁慈にしてみれば、幼き頃から知る治太郎の嘘などすぐに見抜ける。こればかりはどうにも真実らしい。

 

「だからな? おめえら俺の言うこと聞いとけ、悪いようにはしねえから。俺の一言でどうにでもなるからよっ。……道場に迷惑かけたくねえだろ?」

 

 門弟達は絶対的な権力を前に、悔しそうに顔を歪めながらも、ついには剣を鞘に収めた。

 

「よーし、一件落着だな! あ、俺お偉いけど、(かしこ)まるのはやめだぜ? 俺はお偉い上に優しいからな。今回に関しては切腹とかなしだ。でも人殺しは許さん。それさえ分かってくれりゃお咎めはなしだ。いいよな?」

 

 こうして、大騒ぎになった事件は一人の男の登場によって収まりがついた。蕎麦屋の修繕費は、治太郎の独断で四行家が持つと約束した。


 これでは仁慈と与助の決闘に一体何の意味があったかは定かではない。けれど、二人は剣の中で確かに心が通じ合ったようだ。彼らは連れ立って治太郎の元へ向かう。

 

「おい四行重國」

「ばっ、仁慈! 流石におめえにそう呼ばれると、こそばゆくてしょうがねえから勘弁だぜ」

 

 四行重國こと治太郎に対して、仁慈はもちろんのこと、既に町人達にもそこそこ愛されていたことから、その扱いは今までとさして変わらなかった。

 

「お前、大層な名前じゃねえか」

「安心しろよ。字も覚えてねえ名だ。俺はずっとただの治太郎よ」

 

 特に〝重國〟の〝國〟の字がどれだけ書くことが難しいかを、治太郎は熱弁した。

 

「んだそれは。よかったな、粋な二つ名ができて。〝血塗れの与助〟のような異名持ちになった気分はどうだ?」

「よせやい。父ちゃんの前ではその異名を名乗ってんだからよ」

「流石にこれからは父上と呼んだらどうだ。私でさえ元は父上と呼んでいたのだぞ」

 

 今もそう呼びたいけど、と仁慈は小さく続けた。

 

「というか最初から教えろよ。四行家なんて初めて聞いたぞ」

「言えたら言ってるっつの。父ちゃんから駄目って言われてんだよ。黙れってさ」

「だろうな。お前が倅では一家の恥となろう」

「んだと? 俺今偉ぇんだぞ? いいのかそんな口利いて」

「なんでお前が偉いとこに拾われてんだよ。……四行家の当主が夢枕で仏様に『馬鹿を拾え』とでも言われたのか?」

「あああッんだと!? こらァ!!」

 

 側にいた与助は、「テメエら本当に仲良いな」と手を叩いて呵呵大笑(かかたいしょう)した。

 

「なんで〝血塗れの与助〟がいるんだよォ!」

「悪ぃか?」

 

 巨体に威嚇され、すぐに仁慈の背に隠れた治太郎は「怖い。体でか」とぶつぶつ呟いている。呆れた仁慈だが、改めて見ても屈強な体躯が着流しの上からでもありありと感じ取れた。

 

「〝血濡れ〟って、おいこら。へっぽこ鼻垂れ太郎。さてはテメエだな? 変な噂流してる奴」

「…………」

「おい、こっち見ろ。血塗れてねえだろ」

 

 治太郎は仁慈の背から顔すら出さず、「すんませんした」と蚊の羽音ような声で囁いている。仁慈は「最強色男だろ。早く出てこい」と後ろのマヌケの頭を叩いて引っ張り出し、謝罪をさせた。


 お武家なのに、とへそを曲げてはいたものの、仁慈と仲の良い治太郎もまたすぐに与助と打ち解けた。

 

「テメエが広めたの、野盗に襲われた話だろ? あれただ真剣振り回したんじゃなくてな? 手ぶらで襲われたから刀奪ったんだっつの。命狙われたから加減はしなかったがな。あと、正確には破門じゃなくて謹慎だ。最近じゃ門弟まで『破門だ』って息巻いてるがな。尾ひれが付きすぎだ」

「被害者なのに可哀想だな。こいつに変な噂流されたせいで」

 

 俺は聞いたこと言いふらしただけだし、と治太郎がまだほざく。

 

「ま、オレも悪いとこあっから、お互い様ってことにしといてやらぁ」

「悪いとこ?」

「あー。盗賊から奪った刀が、これまた偉い切れ味でよ。気分良くなって、仮で貰うことにしたんだ。もちろん、持ち主見つけたら返すつもりだったぜ? ありゃすげえ業物だ。今までで一番の技が出せた。まるで剣に操られてんじゃねえかってぐらいの霊気が――」

「「それ霊剣だろ!」」

 

 仁慈と治太郎の声が重なる。彼らの中で、点と点が一本の線に繋がった。

 

「息ぴったりだな。マジもんの兄弟かテメエら」

「いやそんなことはいい! その剣どうした!」

「あー、持って帰ったんだけどよ。返り血で手が滑って、川に落としちまった」

「やっぱ血塗れの与助じゃねえか!」

 

 心なしか治太郎は嬉しそうだった。

 

「もし霊剣がほんとにあるんなら……。与助の剣を拾った奴が、その霊力で血に飢えて人を襲い、辻斬りになった。そして次なる霊剣を求めて、道場にある宝剣を片っ端から集め、今もどっかで彷徨(さまよ)ってるってわけだ――」

 

 想像力豊かだな、と与助が感心している。


 与助は道場の仇である辻斬りを探しているらしく、仁慈の師範の話では道場の周辺を怪しい男がうろついているという。次の標的は仁慈の道場ということで、今晩仁慈は与助と行動を共にすることとなった。治太郎は怖いので来ないという。

 

「与助がいれば心強いというもの」

「おう! テメエとオレなら百人力よ!」

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