45話 『私だけの「王子」』
今宵の流鏑馬は、全て的を外して終わった。
治太郎は自室に帰ると、双姫から貰った文を開く。すると淡い、ほんの僅かな花の香りがした。女中の身分では香を焚きしめることも難しい。ましてや監視の中では書くことすら難儀したはずだ。治太郎はそう思うだけで胸が苦しかった。
文に書かれた字は、あまり時間が無かったのか、書く場所が悪かったのか、所々乱れていた。それでも、か細くも凛々しい。丸みを帯びた可愛らしい女筆で、所々漢字も見受けられる。
文の中盤から、特に息づいたものがあった。
――重國兄様。こうして面と向かって話さずとも思いを届けられる文というものは素晴らしいですね。私はよく遠い里にいる母に文を書いておりますので、何を書けばよいのか、わかるのでございます。あれやこれやと、書きたいことを考えていると、お務めはとても楽しいものです。本日も、兄様がお手に触れるものやご覧になるものを丁寧に清めてまいりました。
若様、と誤って書かれた箇所には斜線を引くことすら烏滸がましいと思ったのか、読み仮名のように『兄様』と書かれていた。
――やはり、兄様とお呼びするのは慣れないものですね。されど、慣れてしまっては、きっと皆様がおられる際にも口をついてしまいますね。いつか誰の目にもはばかられず兄様とお呼びする日を、心より待ち望んでおります。
文を読み終えると、治太郎は一粒の涙を流した。自分の宿命も、双姫の運命も、呪いだと思った。
「こんな可愛い妹を……。王の子である俺でさえ、守ることができないなんて……。こんな情けない話があるか……」
翌日。朝早くから治太郎は馬屋へと向かった。するとなぜか常影が身支度を済ませて佇んでいる。行動の全てを先回りしている恐ろしい男だ。
「おめえ、忍者?」
「はい。忍びの修行も受けておりました」
朝風を肩で切りながら、二人は広大な馬場を馬に乗って並走する。これは中々に気が晴れるもので。常影の隠れた左目も顔を出す。
流れる景色の中、治太郎の頭は自然と冴え渡った。
「なー! 双姫さー。養子にして、本当の妹にするってのはダメかー?」
「無理ですよー。上様のお許しが必要になりますー。話を通す際に祖母上に止められますよー」
治太郎の白馬と、常影の漆黒の駿馬は戯れるようにひた走る。
「……いっそ、妾にするってのはどうだ? 名目上だけどよ。丁重に扱われるんじゃねえか?」
「……若様の妾であれば上様のお許しはご不要だとは思われますが。……『呪いの王子と女中の間に出来た娘を、若様ともあろう御方の妾……許しませぬ!』とか言われるのでは?」
「言いそー。常子言いそー。あのババア〜。考ぇるだけで頭来たぜー」
実際、妾にしたとて女中達はまた別の陰湿なやり口をするだろう。簡単に解決する話でもない。けれど側妻ともなれば常子や治太郎の権限で今よりは守れることも事実である。
しかしもう父・神子太郎との謁見、流鏑馬の儀まで半月とない。神子の流鏑馬は通常とは異なり距離が遠く、弓も巨大なものとなる。的を当てるのは、神子でも訓練を超えなければ至難の業。
治太郎は、双姫の事で悩んでいる場合ではなかった。
「うっし。稽古始めっぞー!」
「承知!」
そうして、着々と治太郎は技術を上げていく。けれどその空元気を常影は見抜いていた。
ある日、庭園にいた常子を見かけて常影が駆け寄る。
「常影。流鏑馬には間に合いそうですか?」
「はい。若様は日々励んでおられます。……ただ、双姫殿のことで悩んでおられるご様子……」
「そればかりは仕方がないと何度も申しているでしょう」
常子は切ない眼差しで、遠くで掃き掃除をする双姫を眺めた。
「ですので、若様を元気付ける別のご提案を」
「別ですか?」
「はい。流鏑馬の会に若様の市中のご友人をご招待するのはいかがでしょうか? さすればさぞや――」
「なりません。上様やご来賓の方々もお見えになるのですよ? 常人と仲睦まじいところを見られては、何と噂されるか……」
この頃、治太郎は市中にも出向かず稽古に励んでいた。常影は町で一度だけ仁慈や与助と親しげに話す治太郎を見ており、これならばと意気揚々に提案したのである。
「でも、市中で羽を休める若様はさぞ楽しそうで――」
「常影。貴方はまだ若く、寿命を奪った経験が浅いのやもしれませんが、我々は人を殺して生き永らえるのですよ? 神子の場に常人を招くというのは、狼の群れに兎を放つのと同義です。……それが若様の大切なご友人ならば、尚のこと」
「これはご無礼を。某の考えが足りませんでした。……しかし意外です。てっきりご友人の方々をお嫌いなのかと思っておりました」
常子は大きなため息を吐いた。
「そのようなことを若様の前で口にすれば大変お怒りになられますよ。……それに、屋敷を抜け出してまでお会いしたいご友人方です。きっと若様にとって家族も同然。ならば、礼節を尽くさねばなりません」
「祖母上……」
「ですが覚えておきなさい。若様とは身分が大きく異なります。いずれ仲を引き裂かねばなりません。……市中で若様のお側にいても、貴方までご友人方に気を許してはいけませんからね」
「……承知」
また一つ、常影の悩みの種が増えた。
夕暮れになると、離れの屋敷には双姫と常子の姿があった。双姫が左腕の骨を折る大怪我を負っていたのである。双姫は神子の血が薄く、力で治癒をすることもできない。けれど辺りに女中達はおらず、常子自らが手当てをしていた。
神妙な面持ちで包帯を巻く常子は、しばらくの沈黙の後に言葉をこぼす。
「……我慢なりません。あまつさえ手を出すなど、目に余る行為です。誰にやられたのです」
「階段で転んでしまいました」
「馬鹿おっしゃい‼︎」
双姫は返答もせず、決死の眼差しを向けた。
その静寂から常子は悟る。
「……よろしいのですね?」
覚悟を問われ、双姫は深く頷く。
そこへ、常子の声を聞きつけた常影が駆けつけた。
「これは……! 若様のお耳に入られればなんと仰るか――」
「常影。決して若様に知られてはなりませんよ」
「しかし!」
「流鏑馬の儀は目前です。若様の心労を増やしてはなりません」
冷たい言葉に目もくれず、常影が双姫を振り向くと、彼女は深々と礼をしていた。
そして常影もまた、彼女の意向を汲み取ることとした。
その夜、薄ら寒い風が馬場の土をさらう。流鏑馬の儀は明後日に控えている。けれど、稽古をする治太郎達の元に、双姫が来ることはなかった。
こういう時、治太郎は勘の働く男であった。
「なあ常影、双姫に何かあったか?」
「……いいえ、何も」
「あったんだな――」
治太郎が彼の反応を窺うと、四行家棟梁の訃報を聞いた時から鋭利になっていく直感が疼く。見えぬ報せは、彼の繊細さを物語っていた。
すぐさま治太郎は白馬を降りて、屋敷へと駆け込む。
常影も即座に手綱を括り付けて後を追うと、既に治太郎は常子と双姫の元にいた。もう、双姫の痛々しい腕を見てしまっていた。
「――今回ばかりは見過ごせねえ‼︎」
治太郎の声の怒号と共に、常子は彼の背後の常影を見た。
「常影、貴方という人は!」
「こいつは関係ねえ。俺が主として来ただけだ」
それでも常子はきつい視線を常影に送る。本当に何も言ってはいないのだが、常影自身も己の失態であると悔い改めた。
「若様。私は転んだだけで――」
「――分かってるよ。……常子、双姫を俺の妾にしてくれ」
「妾……」
呟いた双姫の表情は春を宿すように明るく芽吹き、瞬く間に萎んだ。
そして彼女は厳かに前へ出る。
「若様。お言葉、大変嬉しゅうございます。されど私は太郎家の汚点。女中として置いていただけるだけで、この上ない光栄なのでございます。若様の顔に泥を塗るようなことは、私は――」
「……控えなさい。双姫」
常子は横にいる双姫を一瞥した。
「どうしてもダメなのかよ。俺はもう双姫を――」
「何を誤解なさっているのです。わたくしは一度も『駄目』とは言っておりませんよ」
治太郎と双姫の目が見開いた。
「え……いいのか?」
「わたくしも常々考えておりました。……双姫は大事な女中の一人です。命を奪われてからでは遅いですからね」
「命……?」
「虐めで人は死ぬのですよ。それも、閉ざされた場所では。牢で罪人同士の虐めで死ぬ者もおれば、屋敷で女中の虐めで死ぬ者もおります。逃れられないというのは、恐ろしいことにございます」
辺りに沈黙が響く。常子の脳裏には今まで命を絶った女中達の顔が浮かんでいた。
「若様が晴れて元服なされましたら、妾として双姫のお部屋をご用意いたします」
聞き届けた双姫は、ゆっくりと意味を咀嚼して、ぽたぽたと涙を流す。
「……常子。ありがとな」
「元服を済ませるには、流鏑馬の儀を成功させねばなりません。お気張りなさいませ。上様をお認めさせるのです」
そうして、治太郎と常影は馬場へと戻った。
双姫は常子に丁重に礼を述べた後、胸のはやりを抑えられず二人の元へ走っていく。常子はその若い背中を見ながら、「はしたないですよ」と注意することはなかった。
双姫が馬場に着く頃には、治太郎は騎乗していた。
「双姫! よかったな!」
「兄様のおかげでございます」
「……つーか、勝手に決めて悪かったな。別に妾っつっても名ばかりだから、そういうの気にすんなよ? 美味しい飯とあったかい寝床があるってだけよ」
白馬から見下ろす治太郎は、彼女には空に浮かぶ三日月よりも輝いて映る。
邪魔だと思ったのか、常影は陰に隠れることにした。
「そうだ。ちょっくら一周しねえか? 凄え速えからすぐ終わるぜ」
「よろしいのですか?」
「たりめーよ」
双姫が常影の了承を得ようと左右を振り向いても彼の姿はなかった。
治太郎は朗らかに笑って、双姫に手を差し伸べる。その手を取ると、彼女はふわりと羽のように浮き上がって、治太郎の前に腰を下ろした。
「馬に乗るのは初めてか?」
「はい……!」
「んじゃ、速えからしっかり掴まりな」
双姫はぎゅっと彼を抱いて、体を預けた。委ねられたのは綿毛一つ程の重み。今しも飛ばされてしまいそうな彼女を離さぬように、両手を前に手綱を握る。
彼女は抱きしめられて安心するように、少し寄りかかった。
――手綱を引くと白馬が駆け出した。
これがまた聡い馬で、全速力など出さずに絶妙な揺れで二人を導く。
「不思議な心地です。気分まで浮いてしまうような。……少しだけお月様に近づいて。……これが、兄様の見ている景色なのですね」
「面白えよな〜」
月がよく見える辺りで、白馬を止めた。
夏の夜風が梔子の甘い香りを運ぶ。体の内まで匂いに満ちて、吐かれた息は熱を帯びていた。
「兄様……。私は、本当に何とお礼を申し上げればよいのやら……」
「礼は要らねえよ。むしろ怒ってくれて構わねえ。双姫って立派な名前なんだからよ。姫様が丁重に扱われるなんて、至極あたりめぇだろ?」
彼女が見上げると、治太郎の穏やかな顔がそこにあった。
「私は姫と扱われるような者ではありません。……この名は二子様のお力にあやかったもの。けれど私には、何もなかったのですから」
「――いいや、姫様だぜ? 俺が言うんだから、姫様だよ」
双姫の頬は、夜に紛れて華やいだ。胸の奥で傘をさしていた感情が、晴れを告げていた。彼女はそれが恐ろしかった。
「私は……ただの女中なのです……。きっとこれからも、そう言われ続けるのです」
「んなこと言ったら俺だって町人だ。吉原の捨て子、『若様』って呼ばれたって根っから町人育ちだ」
「…………」
「屋敷の陰で、『恥』だの『穢れ』だの言われてるのも知ってんだ。これに関しちゃ全部俺が悪ぃんだけだよ。……でもだから、双姫は同じだと思った。生き別れた妹みてぇだろ?」
双姫はふと涙を流した。逞しい彼の生き様は、誰よりも王子に相応しいと心から思った。
双姫は女中から酷い仕打ちをされる時、わざと治太郎の陰口まで吐かれることが多かった。今日はそれが我慢ならず口を出したところ、大怪我を負わされてしまった。
治太郎は何も気付かない馬鹿のように元気に振る舞っていた。変えられない生い立ちは執拗に言われ続ける。それでも、彼は全て知った上で逃げずにいたのだ。
「私は……兄様がお励みになられる様を毎日見ておりました。……そのお姿に、どれだけお力をいただけたことか……」
彼は泣きじゃくる姫を優しく抱きしめた。
「俺らほんと辛ぇよな。双姫は俺よりもっと辛ぇはずだ。……でも、おめえには俺がいるぜ? 誰が何と言おうと俺だけは絶対ぇ味方だ」
「…………」
「俺は町人だからよ、一生頑張っても王子なんて認めてもらえねぇかもしれねえ。けど諦めたくねんだ。……だから双姫も、俺が姫様にしていいか?」
胸の中で、双姫はこくりと頷いた。その涙に震える息遣いが治太郎に伝わる。
「捨て子で町人の兄様って、なんか申し訳ねえな」
彼は笑いながら言った。四行家の頃から誰に対しても『申し訳ない』と思ってきた本音を、冗談のように笑い飛ばした。
「兄様が町人の生まれでも、捨て子でも、どうでもよいのです……。兄様が兄様なら、どうでもよいのです……」
「双姫……」
「……だって私を『姫』と認めてくださる、貴方様は――」
言葉が詰まった。文なら伝えられたのにと、彼女は口をつぐんだ。
「私はこうして、兄様と二人でいられるひと時が……一番の幸せでございます」
彼女が捻り出した言葉を、治太郎は優しく受け取る。
「俺もだよ。……こんなに可愛い妹に言われちゃ、頑張るしかねえな!」
「もう、兄様ったら」
月が雲に溶け始めた。
二人は常影の元へ帰ると、再び稽古を始めるのだった。




