42話 『治太郎解禁』
【登場人物】
治太郎/四行重國(17):仁慈の幼馴染の町人。幕府重役の養子→上様の子供?
常子(50頃):治太郎の傅役(教育係)
常影(16):治太郎の護衛。常子の孫。元神選組隊士。
――太郎家屋敷の庭園。
治太郎が仁慈らと遊び歩き、ようやく市中から帰ってくる。
常子は彼の無事の帰還を見届けた後も一人、庭園に佇んでいた。
「常影。何をしておる。報告をなさい」
常子が木陰に話しかけると、そこから音もなく常影が顔を出す。
「流石は祖母上、恐れ入りました。完全に影に隠れたつもりでしたのに」
「全く。神選組に行かせて少しは引き締まったかと思えば……。これでもわたくしは上様直属の臣下ですよ。――それで。若様の警護は抜かりないですか?」
「はっ。勿論でございます」
常影は遊ぶ子どものような顔でにこやかに返す。伸びた前髪に隠れた左目からも、悪戯っぽい笑みが覗いていた。
「にしても、祖母上の幕府での権力は絶大ですね。神選組を抜けるのは難しいと聞き及んでおりましたが、たった数ヶ月で某を除隊させてしまうとは……」
「厳しい訓練から離れて、安堵している場合ではありませんよ?」
「いえいえ。特に厳しいと感じたことはありませんでした。……して、某は何をすれば?」
得意げな常影を諭してやろうと、常子は一つ咳払いをして言葉を選ぶ。
「上様からの勅命です。わたくしが貴方を次の任務に選出いたしました」
「――勅命⁉︎」
「ええ。『若様をいつまでも屋敷に閉じ込めておくのは忍びない』と、上様が仰せです。よって常影、貴方には市中での若様の護衛、並びに世話役を任せます。これより貴方は、若様の命を預かる従者です」
若干十六歳の常影の顔が引きつる。
「そんな重要な役、某に務まるでしょうか。……祖母上でさえ、四行家屋敷を襲撃した下手人を倒せなかったとお聞きしました。もしまたそのような輩が――」
常影の弱腰を常子の目が鋭く射抜く。
「しっかりおし。……貴方は幕府、もとい太郎家の重鎮、神子常子の孫ですよ。そして貴方には特別な力がある。これ以上ない適任だと、わたくしは思います」
常子が彼を任命したのは、これからの情勢を鑑みて、信頼できるのは己の一族だと結論付けたからである。
「祖母上……」
「貴方はわたくしの誇りです。……若者同士、若様の良き臣下となれるでしょう。天真爛漫な方ですから……少々、骨が折れるでしょうけど」
笑い混じりで告げる常子は、孫の前ならではの柔らかな顔つきだった。
「そうそう。帯刀しているのは人造の霊剣でしたね。真の製法で鍛えられた正真正銘の霊剣を、貴方に用意させましょう」
「よろしいのですか⁉︎」
「ええ、勿論。貴方はこれより、若様の剣となるのですから」
常影の表情は、朝焼けのようにパッと明るくなった。
「近々、神子合議が始まります。ようやく若様のお披露目です。……ですが既に、八姫八君の皆様方は若様のことをご存知でしょう。……皆様の動きには、常に目を光らせねばなりません。礼儀作法も抜かりなく、お願いしますよ」
「……神子合議。年に二度の八姫八君の会合に、某のような位の者が出席してもよろしいのですか?」
「無論です。貴方は若様の側近なのですから。……特に、三代家の動きには警戒が必要です。気を引き締めるように」
常子は周りの目を気にしながら、少し声量を落として続ける。
「……江戸万次郎様には、くれぐれも気をつけなさい」
「――? 万次郎様は、太郎家が総力を挙げて守らねばならぬ御方では?」
「江戸」。神子の正式な名字は、女系は「条」、男系は「行」である。三代家は「三条」、四郎家は「四行」となる。だが、第一王子・太郎だけは法則から逸脱している。太郎家の名字は「江戸」。つまり、常子は公的には「神子江戸常子」となる。
よって、江戸万次郎も太郎家の者。
「……ええ。ですが万次郎様は、元は三代様の次男。上様のお世継ぎを危惧して養子として引き取られた御方です」
すなわち事実上、治太郎にとって唯一の兄である。
神殺しの重五郎は、なぜか養子である万次郎だけは殺さなかった。それは太郎家への私怨か、あるいは三代家の為か、理由は定かではない。
一つ言えるのは、兄である「万次郎」と、実子であり弟の「治太郎」の後継ぎ争いが避けられなくなった、ということである。
よって、三代家は治太郎が公には「隠し子」である今、暗殺を目論む可能性が生まれたのだ。
「若様がいなければ、お世継ぎは万次郎様だったのです。……我々は上様の実の子である若様を、必ずや次の当主にするのです」
この時、常影もまた騒動の渦中に身を置くこととなった。
治太郎が太郎屋敷の二階から花園を見下ろし、そこに佇む常子に大きく手を振る。常影は彼を見上げて、襲われた村を手ずから救助していた若様だと思い出す。
「……あの御方が、某の主君……」
「……はい。若様が真の殿になられるよう、わたくし共が鍛え上げねばなりません」
常子が屋敷へ帰り、治太郎の部屋を尋ねると、彼はまだ年端もいかぬ女中と談笑していた。
常子はそれを見るや否や、落雷の如き怒号を飛ばす。
「――これ双姫ッ! 若様から離れなさい! 何度言えば分かるのです!」
「っ、常子様っ! 申し訳ありません!」
数えで十五歳の双姫は、怯えた様子ですぐに治太郎の後ろへと引き下がる。
「おい常子。ひでえ扱いすんなよ。この子、俺の姪っ子なんだろ? 丁重に扱ってやれよ」
「いいえ、若様。双姫は若様と馴れ馴れしくお話しできる身分ではございません」
「んだよそれ。親父殿の孫なんだろ? 俺と同格の王子の子供なら――」
「ええ。確かに、亡き虎太郎王子の御子です。しかし身分の低い女中との間にできた娘。何より、虎太郎王子は上様の御子で唯一、神子の血が薄き『呪いの王子』です」
双姫の父・虎太郎王子は、王位継承権さえも剥奪された、ただ一人の男である。神の血の濃さを重視する神子社会において、虎太郎は「呪いの血」と蔑まれた。虎太郎が世継ぎとなれば、神子の血は薄まり、孫の代では常人同然の血脈になると予想されていた。
「双姫は上様のご令孫でありながら、神の力を持ち得ませぬ。霊剣さえ扱えず、人の齢で死ぬような弱き女でございます」
常子の淡々とした物言いに、双姫は頭を深く下げる他ない。
治太郎はそれが許せなかった。
「うるせぇ! 俺ァおめえにずっと閉じ込められてっから、友達が欲しかったんだよ! したら双姫が皆からひでぇ扱い受けてたんだ……。ほっとけねえだろ!」
「「…………」」
「おめえがいながら、なんで女中達の虐めを止められねんだよ! おめえらがそんなんだから、俺が甘やかすことにしたんだよ! ……俺だって吉原の捨て子だ。こいつはもう、俺の妹も同然なんだよ!」
「――若様ッ! 貴方様が贔屓にするほど、女中達の間で扱いが酷くなると、なぜお分かりにならぬのですか!」
鋭利な声にハッとしたように、治太郎は我に返った。彼は未だ、自分の影響力を理解していなかったのである。
「……んだよ。……また俺の……独りよがりだったのかよ……」
頭を下げている双姫に伝わる、治太郎の途切れ途切れの哀しみの声音。
「そんなことありませぬっ! 私は若様と、お話する時間が何よりの――」
双姫が思わず体を起こし、分を弁えず治太郎に出過ぎた視線を送る。
それを見て常子は一喝する。
「――これッ! 若様に対して無礼であるぞ! 恥を知りなさい!」
再び頭を下げる双姫。
常子は深くため息をついて、若すぎる二人の身を案じた。
「……もうよい。双姫、下がりなさい」
双姫が黙ったまま部屋を出て、深くお辞儀をした時、治太郎はたまらず声をかける。
「双姫! 誰が何と言おうと、おめえは俺の妹だ。……嫌なことあったら、俺を頼れ――」
曇りがかった双姫の瞳が、星くずを散りばめたように輝いた。
双姫が去った後、常子はそれに関しては一切触れず、話を切り替える。
「もうじき、神子合議が始まります」
「神子ギ?」
「既に学問のお稽古でお教えしましたが、勿論覚えておいでですね?」
治太郎は必死に記憶を探る。
「……おう。……あれだろ? 盆と正月ら辺の、八姫八君のてんやわんや」
「随分と浅いお答えですね。では、盆の神子合議の起源は何ですか?」
「…………」
常子は返答が来るまで、ゆっくりと茶を注ぎ始める。
治太郎は答えられず、常子は無言のまま、茶を静かに彼の前に置いた。
「盆の神子合議は、公には『山王祭』と呼びます。元は第二王子・次郎様が権威を示すべく、京で始められた『復活祭』を起源とします。女王様が人から神へと蘇られたことを祝うもので、今では上様が取り仕切り、『山王祭』と名を改められました。……そこで集まる八姫八君の会合こそ、神子合議」
「……わーってるっつの」
知識不足の治太郎を敢えて叱ることもせず、常子は畳み掛ける。
「若様には、それにご出席していただきます。八姫八君の皆様へのお披露目です。それに際し、まずはお父上様である上様とのご面会を――」
「遂にかッ――‼︎」
食い気味に身を乗り出す治太郎。それを切り捨てるべく、常子は冷ややかに首を横へ振った。
「謁見はまだ早うございます。躾役としてご指導することが山積みですので」
「はぁー⁇ ここひと月、俺だって頑張ってたろ!」
「若様は次代の王となる御方ですよ? 人並みの努力など当然です」
不服そうな治太郎だが、逃げ出そうとしないところだけは成長と言えるだろう。
「若様は、お世継ぎに相応しいお姿をお見せしなければなりません」
「んだよそれ? いつも曖昧だよなぁ、常子は……。もっと『これぞ!』って目標をさあ?」
「ご安心を。そう仰られると思って、舞台を整えてございます」
常子は恐ろしい笑みを浮かべている。
「舞台……?」
「はい。上様の御前で、流鏑馬を披露していただきます。太郎家の皆々様や、各家からの御来賓の方々も、観衆としてお越しになられます。お祭り好きの若様には、これ以上ない舞台かと」
上様お目見えの催し物。神事――流鏑馬。
常子の狙いには、『亡き四行家棟梁から賜りし白馬を乗りこなす次期当主』という筋書きも含まれている。これは日の本、並びに八姫八君を統べる者としての威厳を示す、大舞台であった。
「――おまっ! 何勝手に決めてやがんだよ!」
「泣き言を言っても、後ひと月もありませんよ」
「はァーッ⁇」
「上様のご予定を調整させていただきましたので、お日にちは改められませぬ。陰陽師いわく、晴天の吉日だそうです。……ほら、これで目指すものは明確になりましたよ。さあ、お励みくださいませ」
治太郎は常子を睨みつけたまま黙り込む。もはや、実力でこの女を黙らせるしかないと諦めがついたのだ。
「……チクショウ。でも、俺が死ぬ気で暴れ馬を乗りこなしたら、親父殿には必ず会わせてもらうぞ」
「ええ。勿論でございます」
治太郎は荒い足音で立ち去り、馬屋へと向かった。




