41話 『君が君を捨てて』
――銀山温泉、旅館の一室。
うつ伏せで背中を揉まれる五姫。必死に揉んでいるのは犬吉である。
先刻、犬吉の元に五姫直轄の僧兵から急報が届いた。
社へ赴いた僧兵は、天狐から神子名による襲撃の顛末を聞かされたのだ。
天狐は本来、誰とも交流をしてはならないため、その会話は御簾越しとなった。それにより、その場に居合わせた仁慈は御簾の後ろに隠れたことで、僧兵らに気付かれることはなかった。
犬吉が僧兵の話の中で最も気掛かりだったのは、『社から少し離れた山で、八つ裂きにされた巨人の死骸に無数の動物がたむろしていた』という情報であった。
「――はあああ? ダイダラボッチと妖怪祭りぃ? ……嘘だぁ〜」
「いえ、誠にございます」
犬吉は背中をつねるように揉んだ。
「痛いわ! もぉー……。霊剣が妖怪に奪われたって……。つらつら……」
彼女の「つらつら」は「辛い」の意である。
「霊剣は全て三郎家からの預かりものです。ご報告なされますか?」
「するかボケっ! 隠せ隠せ」
「しかし……二年に一度、霊剣の確認がございますし」
「そも愚か。お前ほんと馬鹿。頃合いを見て幕府になすり付けるのよ」
「……上様になすり付けたことが明るみになった後の事を、考えておいでですか?」
若い臣下の口答えが癇にさわった五姫は、うつ伏せのまま犬吉の手を握った。音が鳴る程、これでもかと握り締めた。女王に次いで神の血が濃い八姫八君である五姫は、凄まじい怪力であった。
「ひ、姫様……。手が……」
「いいから! バレないようにやるの! 分かった?」
「……ぎょ、御意」
とはいえ犬吉は愚直も愚直である。彼女は念を押す。
「……いい感じにやるのよ? いー感じに、よ? 分かってるわよね……?」
「お任せあれ」
その真面目な返事が逆に恐ろしい。五姫の心労がまた一つ増えた瞬間だった。犬吉は『いい感じ』を考えながら、黙々と主君の背中のツボを押していく。
「あ……そこ、いいわね。凝ってるかも。続けなさい……」
「……あの。なぜ某が按摩を……」
「うっさいわね! 妾が八姫八君の五姫だって忘れてないかしら? むしろ光栄だと自覚なさいよ」
「ですが某は……三位以下の、下賤の血ですので……」
「仕方ないでしょ! この宿じゃお前が一番位が高いんだから‼︎」
犬吉は腱鞘炎になりかけながら、姫の気が済むまで揉み続けた。
――そうして、犬吉の指示で社に新たな霊剣が届けられた。昼間であったため、稽古中の仁慈が使いの者と出会すことはなかった。
社に安置された新たな御神刀は、前回の折れた御神刀を遥かにしのぐ絶大な霊気を放ち、社を囲う結界もより強固なものとなった。
そして、日が沈む。
稽古を終えた仁慈は師範の夕餉を作り終えると、足早に社へと向かった。
結界まで近づくと、その霊気が今までとは全く異なることを悟る。
「仁慈様――っ!」
天狐は結界の手前で不安そうに佇んでいた。
「天狐殿。わざわざお出迎えとは、嬉しゅうございます。……今宵は望月ですね」
大きな満月が社の真上に居座っている。
数歩で届く距離の二人の間には、結界があった。天狐の神妙な面持ちに仁慈は足を止める。
「どうかされましたか?」
「新しい御神刀が届きました……」
「それは何よりです。……どうりで結界の様子が変わっていたのですね」
天狐は胸の前で両手を握って答える。
「はい。結界は以前よりも遥かに強固なものとなりました。……もし、この結界が仁慈様を拒んでしまったらと……。居ても立ってもいられず……」
「なるほど。そういうことでしたか」
仁慈はためらうことなく結界に歩み寄る。それに呼応して、天狐も仁慈の目の前まで足を進めた。
不安そうな彼女の緊張を解くように、仁慈は朗らかに笑う。
「ご安心を。きっと大丈夫です」
「……誠ですか?」
「誠です。私の勘は当たるのです」
仁慈が右手を見えない結界の壁に沿わせる。天狐の呼吸はまだ荒いままだ。
「あの。もしも、入れなかったら……。仁慈様は、もう……」
「天狐殿。私を信じてください」
天狐は意を決して、小さな手の平を結界越しに仁慈の手へと重ねる。
人肌の温かさが二人を繋ぐ。
――結界は静寂のままに、仁慈を中へといざなった。
二人の手が重なり、彼はそのまま優しく握る。
「ほら、言ったでしょ?」
天狐は泣き出しそうな顔を見せまいと、彼の胸に飛び込んだ。
仁慈は左手で彼女の頭をそっと撫でる。
「もし結界が私を拒んだとしても。私は毎日会いに行きますよ」
「仁慈様……」
そして二人は、天狐が用意したささやかな夕餉を食べた。魚の塩焼きや味噌汁といったもので、仁慈はそれはそれは大いに喜んだ。
「お口に合いましたでしょうか?」
「とても美味しゅうございます!」
仁慈が子供のように満面の笑みで食べ終えたので、天狐はほっとした。
「……差し出がましいことかもしれませんが、先生とのお食事はよろしいのでしょうか?」
「どうぞ、お気になさらず。事情をお話したところ、先生は二つ返事で了承してくださいました。……というか、そもそも先生とのお食事は会話も一切ありませんので……私がいる必要はないのです」
天狐は気に障るようなことを聞いたのではないかと反省する。
「そうでしたか……。これは余計なことを申しました」
「いえいえ。……むしろ私が毎夜来ることの方が、ご迷惑ではないですか?」
「もう。それだけはないとお伝えしているではありませんか」
彼女の少しだけ拗ねた顔や語気が愛しくて、仁慈はくすっと笑ってしまう。
「わたくしがずっと一人だとご存知ですよね。もしや、いじわるですかー?」
「そうではなくて……。私が先生の夕餉をお作りした後に社へ向かうのでは、どうしても天狐殿の夕餉の時間が遅れてしまいますから」
天狐は不思議そうに仁慈の顔を見て、当たり前なことのように答える。
「わたくしがお待ちしたくてしているのですよ? たとえどれほど遅い日があろうとも……仁慈様がお越しになるまでお待ちしたいのです」
ほころんで告げる彼女を目の当たりにして、仁慈はどうしようもない嬉しさと共に、改めて事の重大さを覚えた。
誰にとっても自分の存在など大したことはない。そう思い込んでいた彼にとって、天狐は間違いなく「自分だけ」を待ってくれる。
そして自分の存在が、彼女の生活まで大きく変えさせてしまっている。それを彼女は喜んでしている。自分の今までの行いが影響を与え、これからの行いはどう転んでも彼女の喜怒哀楽を左右してしまう。
そう、彼は重く尊い「責任」を改めて自覚したのだ。
「仁慈様……?」
「……天狐殿、私は貴女を……」
仁慈は自分の行動に責任を取ろうとした。
だが同時に、行動が伴わなければ無責任な言葉になると踏みとどまった。彼女は神に仕える者。そして、斬るべき神子の姫宮司に選ばれた、神子である。
彼は神子の話など切り出せぬまま、本殿を出た。天狐は何も言わず、何も聞かず、ただその隣に寄り添う。
二人の沈黙を見守るように、満天の空と欠けることのない望月が夜空を照らす。近頃の仁慈が天狐と会うのは決まって夜である。それでも、この夜景に飽きることはなかった。
「誰かと見る……いいえ、仁慈様と見る夜空は、こんなにも特別に感じられるのですね」
「ずっと眺めていたいものです。……社の夜は、まるで私達だけだと言うようで」
「……ええ。……他のことは何も、考えなくていいのですよ」
不意に仁慈は彼女に手を差しのべて、結界へと向かう。
「仁慈様……?」
仁慈は結界の前で、彼女の両手をそれぞれ手に取る。
「先程、貴女と手を合わせた時に感じたのです。私と共になら、天狐殿も結界に阻まれないのではないか、と」
天狐は戸惑うように首を横に振った。それはまるで、鳥かごの鍵が開いているのに、「自分は出られない」と諦めてしまった小鳥。
「……試してみませんか?」
仁慈の真摯な瞳が天狐の心を打つ。彼女は恐る恐る仁慈の手に導かれながら、結界へ一歩ずつ歩む。
両手を引く仁慈の背中が結界に触れると、結界はそれを許す。
次に仁慈の肩を許し、腕を許し、そして繋いだ手が結界の狭間に来る。
天狐の指先は、禁忌に触れようとしていた。
「――大丈夫」
仁慈が手を引くと、重ねられた天狐の両手は結界の外へ出る。
「えっ……」
天狐のか細い声が漏れた。
しかし、天狐の肩が結界に触れた時、見えない壁に阻まれる――。
「――あっ」
仁慈は自然と天狐の体を迎えに行った。
強く抱きしめた。
それは天狐の体にぴったりと体を重ねることで、結界を抜けられると思ったからではない。ただ、淡い希望から濃い絶望へと一瞬で塗り変わる彼女の表情が、あまりにも切なかったからだ。
不意に抱きしめられた天狐は体勢を崩し、仁慈の胸へと倒れる。体を沿わせたまま、仁慈がゆっくりと二歩下がると、天狐は完全に結界の外へ出ていた。
立ち止まったまま数秒、二人は顔を見合わせる。
すると次第に、天狐の目が大きく開かれていく。
「――仁慈様っ」
仁慈は再び彼女を強く抱きしめた。
「ようやく、貴女を連れ出せましたね」
「……はい。……初めて……初めて外に出ました」
胸の中で静かに泣き出す彼女。涙の温度が着物越しに沁み渡ると、仁慈は自分まで泣かぬよう、空を見上げた。
すると一筋の光が夜空を駆け抜ける。彼が一度だけ瞬きをすると、その流星はどこかへ去っていた。
二人はひとしきり話した後、近くを流れる川まで歩き、再び社へと帰った。
「――今宵はもう遅いので、日を改めて。……私と町へ行きましょう」
「はい。よろしくお願いいたします……」
それはもう叶えられない約束ではない、ただの予定。
「では、また明日――」
仁慈の背中が、山の闇へと消えていく。
そうして天狐は一人、眠れない夜を過ごした。濡れ縁に腰をかけると、一羽の小鳥がそっと彼女の元へ降り立った。
「あら? あなたも眠れないの?」
ちゅん。と眠そうな声で小鳥は鳴いた。
「……聞いてくれますか。わたくしの気持ちを――」
小鳥は心得たように、天狐の手にすり寄ってくる。
「……ここを出ていけば、天罰が下るという夢を視ました。『誰かの背中に涙を流す』という夢を……」
冷たい風がそよいだ。
林が揺れて、月が雲へと顔を隠した。
「でも、初めてでした。誰かがここに来て、連れ出してくれることが……。もう二度とないと思うのです。……わたくしの、運命の人」
天狐の手が小さく震える。
「ずっと、ここに居ることが務めだと、そう信じてきました。……でも、初めて悩みというものを知ったのです。……仁慈様は因果を断ち切る特別な力をお持ちです。わたくしの運命さえも解き放つ、特別な神秘。だから、きっと……」
いつの間にか、小鳥は手の中ですやすやと眠っていた。
天狐は仁慈を想うと、頭に鋭い矢が刺さるような感触を覚えることがある。痛くはない。でもそれが、あまりに悲しい結末を予感させてならない。
天狐は仁慈と出逢ってから、夢が色づいた。今までは漠然とした、会ったこともない人々が逃げ惑う、灰色の夢ばかりを視ていたのに。
「――でも今は、仁慈様の夢ばかり視るの」




