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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
第二章 熾盛(しじょう)
41/44

40話 『第五王女 五姫』

 ――奥州、山中の温泉郷。

 夜気(やき)に冷える石灯籠(いしどうろう)に照らされる、老舗旅館の立て看板には、「五条家様御一行」と墨痕(ぼっこん)鮮やかに書かれていた。


 磨かれた長廊下には、桃色の絹のような長髪を揺らす、二十代頃の女――姫宮司・神子五姫(かみごのいつひめ)


 その後を足早に追う、(まげ)を結った生真面目そうな若侍――犬吉(いぬきち)がいた。


「――次は?」

「はっ。次の(やしろ)巡りは出羽国(でわのくに)最上(もがみ)の社にございます。こちらは第三王女、三代(みつよ)様の御令孫(ごれいそん)の――」

「違う。次の温泉と効能を聞いておる」

「これはご無礼を。……かの銀山温泉にございます。肌や髪艶に良いとの評判が――」

「へぇー、銀山ね。明日出立よね? 準備は?」

「はっ。万事済んでございます。ご面会に際し――っ」

「なら、よし」


 バタンッ。


 犬吉が本題を持ち出した時、五姫はお構いなしに戸を閉めた。残された犬吉は溜め息をついて、その場に黙って座り込む。


 こうして、彼は主君の長湯をひたすらに待つこととなった。


 戸の向こう側では、五姫が女中を一人も入れずに豪奢(ごうしゃ)な浴衣を颯爽と脱ぎ捨てる。そして一人、鼻歌を歌いながら湯船へと向かった。


 そこは彼女のために貸し切られた、広大な露天風呂。自然が作り上げた岩の浴槽で、その身を浸してみると柔らかな泡がぷくぷくと耳を楽しませる。月明かりに照らされた山々と、荘厳(そうごん)な滝による景色が何よりの贅沢であった。


 湯船に浮かぶ酒桶(さかおけ)から徳利(とっくり)を取り出し、ぐいっとあおる。まるで大仕事を終えた風格を醸す五姫の元へ、戸の向こう側から犬吉のか細い声が聞こえてきた。


 彼は叫んでいたのだが、温泉があまりにも広すぎて声が遠いのである。

 

「――なんね。(みそぎ)の最中であるぞ」

「……姫様! 一大事にございます!」

「聞こえぬ!」


 何度声をかけても聞こえず、痺れを切らした犬吉が戸に手を掛ける。

 

「ご無礼つかまつ――」

「――来るなッ! 三位(さんみ)以下の者が我が神域(しんいき)に入ることは、断じて許さぬ!」

 

 怒鳴り声が旅館全体に響き渡る。

 言葉通り、五姫は自らの身分を重んじて、女中達に触れられることすら許さない女であった。

 

「……しかし、この広さでは」

「声を張れ」

「……御意。――社から霊剣が失われッ‼︎ 結界が壊れてございますッ‼︎」

 

 バッッッシャーーーン。


 五姫は驚きのあまり水飛沫を上げて立ち上がった。手にしていた酒まで落としている。

 

「……社の神子(みこ)は誰ぞ?」

「『天狐(あまね)』にございます」

「……なんと? あの子は順調だったはず。そうであろう? ……え、そうよね?」

「――左様にございますッ!」

 

 犬吉は戸に耳を当てて姫の言葉を一言たりとも聞き漏らさず、大声で相槌を打った。

 

「……え、まって? 遂に叶ったの? 五姫家の野望が……?」

「いいえ……。残念ながら、要因は他にあるかと」

 

 やはり犬吉の声が遠い。

 

「くっ! 勿体つけて、話しおって! もういい、中に入れ! 手早く話してすぐに出ていけ!」

「御免ッ――」

 

 犬吉が戸を開ける。


 そこに佇んでいたのは、十廻齢(じっかいれい)――五百歳を過ぎても二十代と変わらぬ美貌を持ち合わせる姫。いくら不老の神子といえど、赤子のような肌や、絹のような髪(つや)を持ち合わせる者は多くない。


 犬吉はつい見惚れてしまうのだが、五百年以上もの歳月を生きる五姫にとって、二十そこらの犬吉に対して羞恥心など微塵もなかった。

 

「――で、続きは?」

「はっ。神子天狐(みこのあまね)が住む社の霊峰(れいほう)にて、ひと月程前、『神子名(かみごのめい)』と名乗る逆賊が山火事を起こしております」

「あー、そんな話あったわね。神選組が対処したってオチじゃなかった?」

「左様にございます。山火事は鎮火されました。しかし、逆賊神子名(かみごのめい)の消息は不明のままでございました」

「はいィ⁉︎ そんな話、この(わらわ)にした?」


 桃色の長髪を優雅に撫でていた彼女は、動作をぴたりと止めて犬吉を睨む。


(それがし)からはしておりませぬが、報告書には……。てっきり目を通されているものと……」

「愚か者ッ‼︎ 妾は神子の神社全てを管理してるのよ? 一々見切れるかっ! 大事なことは口で言いなさいよ!」

 

 犬吉は小声で、「申し上げようとしましたが、温泉巡りでお忙しそうでしたし、何よりご気分を害されると大変お怒りに……」と、弱々しく吠えている。

 

「――聞こえぬわッ‼︎」

 

 聞こえてはいた。

 

「これだから人の(よわい)を超えておらぬ者は……」

「……申し訳ありませぬ」

 

 頭を下げて明らかに落ち込んでいる犬吉を前に、五姫は聞こえない程度にチッと舌を鳴らす。

 

「起こった事を言っても仕方がないわ。……では我が側近、神子五条犬吉かみごのごじょういぬきちとして、五姫家はどうすれば良いと考える?」

「はっ。すぐさま上様の元へ早馬を送り、社に神選組派遣の勅命(ちょくめい)をいただきます」

 

 現在、ダイダラによって結界が破壊され、社に安置されていた霊剣が転げ落ちた直後である。

 五姫家の妖術により、結界と霊剣に起きた異常のみが即座に伝達されていた。

 

「そも、違う。太郎兄上に借りを作るなど愚の骨頂よ」

「しかし……」

「いい? 犬吉。お前は建前上の五条家の者ではない。……五姫家として。この五姫の忠臣として、お前はどうすればいいと思う?」

 

 その言葉に犬吉の顔つきが変わる。

 

「……神選組ではなく、姫様直轄(ちょっかつ)の僧兵を向かわせます」

「良し。――それで?」

神子天狐(みこのあまね)の容態も心配です。念の為、七郎様にお伺いを立てましょうか?」

「そも、駄目よ。七郎は太郎兄上の下で研究を任されているのよ? 神選組も七郎の息が掛かってる。問題があるまで余計な事はするでない」

「御意」

 

 彼女は濡れた髪を締め上げ、息の根を止めるように水を切った。

 

「……全ては、内密に終わらせなさい。神選組さえも逃した逆賊の首を太郎兄上に献上して、格の違いを見せつけてやるのよ。行け――ッ」

「はっ。承知!」



 ――そうして、ダイダラを倒した翌朝。


 大倉道場では、仁慈がいないことの説明をするべく、誠士が普段より早めに駆けつけていた。師範に昨夜の訳を話すと、案の定、特に気にする様子はなかった。むしろそれすら知っていたかのような含みのある喋り方で、誠士の話を途中で区切らせた。

 

「――そして、俺は戦いの中で痛感しました。俺はまだ、霊剣を握るには早いと」

「……ほう。それは廻国(かいこく)修行への恐れではなく、現状の限界を正しく悟った上での判断か?」

「……はい」

「ならば正しい判断だ。私もそう思っていたところだ。お前の奥義は未だ荒削り。道半ばで神子に殺されては困る。近いうち、私と共に神子を殺しに行くとしよう」

 

 誠士は安堵の表情を浮かべる。彼の霊剣への漠然とした不安。それは間違いなく天狐が口にした、不吉な予言によるものだった。

 

「何を澄ました顔をしている。兄弟子として、危ういとは思わぬのか?」

「これはご無礼を。お許しください」

「ふん……。仁慈は山火事の下手人を斬った。神子を斬ったのだ。真に〝斬る〟という意味を学んだはずだ。……奴は伸びるぞ」

「ご安心を。決して、決して負けませぬ」

「ならば良い」

 

 そこへ仁慈が息を切らしながら駆け込んでくる。訳を説明しようと早口でまくし立てる彼を、師範が制止した。

 

「話は誠士より聞き及んでおる。……神子を斬ったそうだな。でかした」

「ありがたき――っ」

「――だが始まりに過ぎない。ようやく、といったところだ。では、稽古を始める」

 

 師範は稽古の中で、以前よりも格段に磨きあげられた仁慈の技を視る。誠士を置き去りにして、仁慈に何度も斬りかかる。師範が想定する技量の太刀筋を仁慈は軽々といなしていく。師範はそれに合わせて更に力量を近づけていった。


「――よし」

「え……?」


 剣道場の中央へ、師範が座す。弟子二人は呼吸を合わせたようにそれに続いた。

 

「お前達は神子を斬るという実戦を経た。よって改めて、廻国(かいこく)修行が何たるかを話す」

 

 師範の気迫に気圧されぬよう、二人は刮目(かつもく)する。

 

「……各地に潜む神子を殺すのが当初の目的だが、今や残っておる神子は強き者ばかりだ。……私の弟子である覚悟はあるか?」

 

 次に口を開いたのは仁慈だった。

 

「……歴代の兄弟子の皆様は、どちらにおられるのですか?」

「安心せよ。皆、廻国(かいこく)修行を経て免許皆伝となった」

「「…………」」

「神子は鉄砲も効かねば、毒でも死なぬ。神の血脈によって肉体は強靭であり、実戦経験も生ける年数と共に増えている。故に、これほど修行の相手になる者もまたおらぬ」

 

 この脅しに打ち勝てというのが真意なのだと弁えながら、仁慈は先立つ誠士への心配が勝る。

 

「……いくら兄上と言えど、お一人ではお命が危ぶまれませぬか……」

「私を愚弄する気か。私の弟子で帰らなかった者はおらぬ。神子を斬る為のあらゆる技を、お前達二人だけに叩き込んできたのだ。私が極めた奥義を習得した後の誠士であれば、必ず帰ってくる。……そうでなくては困るのだ」

 

 仁慈は〝殺める〟ことの恐ろしさを理解してしまった。故に震えた。

 

「仁慈。お前もいずれその道を歩むのだ。それが嫌だというのなら、今すぐ道場から出ていけ」

 

 天狐ともし二人で抜け出せたなら。そんな夢物語が仁慈の頭をよぎった。けれど師範は命の恩人であり、たった一人の父である。

 

「……私が神子を全て倒せば。私を認めていただけるのでしょうか?」

「無論だ」

「――ならばやります。私は先生の一番の弟子になると誓ったのです」

 

 師範は大いに喜び、「お前はどうだ」と誠士に目を向けた。

 

「俺が先に全ての神子を狩り尽くすだけですよ」

「良し。……お前達は歴代の弟子の中で、最も強くならねばならん」

 

 礼、始め。

 再び稽古が始まった。それは普段よりも数段厳しい、地獄のような稽古だった。



 昼休憩になると、仁慈は酷く疲労した顔で藤見町へと足を運ぶ。


 彼が思い詰めながら音無川(おとなしがわ)の橋を渡ると、町から懐かしい賑わいの風が吹き抜ける。


 治太郎だ。彼が静かな町に、再び風を吹き込んだのだ。


 町の中心には柑子(こうじ)色を(まと)う、いつもの彼がいた。仁慈を誰よりも早く見つけ、手を広げて駆け寄る彼。それは仁慈が何より求めていた姿。あの頃と変わらぬ治太郎だ。

 けれど、その雰囲気はどこか……。

 

「よっ、仁慈。元気してたか?」

 

 治太郎が橋まで迎えに来てくれたのは、仁慈のためではない。喧騒に満ちた賑わいから少しだけ離れたかったのだ。


 川を見下ろす治太郎の横顔は、やつれていた。

 

「久しいな治太郎。相変わらず親より見飽きた(つら)しやがって」

「ばか言え。俺達ゃ親なんざいねえだろ?」

 

 二人の決まった挨拶。

 それだけで仁慈には分かってしまう。

 

「また空元気か」

「……ったく。おめぇの目は誤魔化せねぇか」

「当たり前だ。全く似てないが兄弟だからな」

 

 治太郎は苦笑いをやめた。本当は仁慈の前だからこそ元気でいたかった。

 

「大事な人達を殺されちまったからよ……。流石に隠せねえな……」

「……そうか」

 

 励ましは不要。そこにいるだけでいいのだと、仁慈は知っている。

 

「……おめぇこそ。顔付き変わったろ」

「流石は、エセお奉行様だ」

「聞かせろよ。俺がいねぇ間、何あった」

「……初めて人を殺めた。山火事の、下手人を」

「そうかぁ……。俺の村に酷ぇことした、あいつか……」

 

 互いに、大きな山を乗り越えた。

 二人は今まで何度か同じような、調子の狂う空気になったことがある。けれど今回は、最も重たい沈黙だった。


 黙ったまま、彼らは同じ空気を吸った。(よど)んだ空気だ。それでもお構いなしにお天道様は光を注ぎ続ける。じりじりと。日照りの強い季節がもう、すぐそこまで来ていたのだ。

 

「しみってぇ話はやめだぜ! 今日は色々解禁祝いだからな!」

「脱獄成功か」

「べらんめぇ。許しはもらってるっつの。ずーっとババアに閉じ込められてたからよ。隙あらば逃げる気だったんだぜ?」

「ったく、あまりお婆さんを困らせるなよ?」

 

 二人はようやく目が合って、ようやく落ち着く。

 

「……チキショー! 俺があの暴れ馬を乗りこなせたらなァ! おめぇとどこまでも走って気晴らししたってのによっ!」

「はっ。なんだそれは。お前の背中は命がいくつあっても足りないというものだ」

 

 川のせせらぎが耳を優しく撫でて、治太郎はふっと空を見上げた。

 

「――なあ仁慈。いつか遠くへ旅しようぜ。きっと俺達なら、すげえ楽しいと思うんだ」

「……ああ。それはとっても、楽しいだろうな」

 

 この静けさを壊す大男が背後から現れる。

 その男、与助はどかどかと橋を揺らしながら歩いてきた。

 

「オーイ! 治太郎! 元気してたか‼︎」

「もちのろんだろ!」

 

 バチンッと二人は阿吽(あうん)の呼吸で手の平を叩く。

 

「よっしゃ、おめぇら飯行こうぜ! この重國(しげくに)様が奢ってやるよ!」

「よっ! 若様‼︎」

 

 与助の掛け声に乗らない仁慈の懐を、治太郎の観察眼が見抜いた。

 

「ってお〜い〜! おめぇその弁当! まーた天狐ちゃんのかよ! チキショウ!」

「ふっ、悪いな。だが今日は……奢られたい気分だ」

「いーや、そいつぁいけねえだろ」

「安心しろ。後で残さず食べるとも」

 

 治太郎が得意げに前へ出てくる。

 

「いやぁ? 弁当はすぐ食べた方がいいぜ? 腹下すからよ。……まっ、俺なんか下水が混じってた井戸水飲んで、皆がぶっ倒れた時も――」

「はいはい。お前だけなんともなかったな」

 

 その井戸水を飲んで腹を下したのが仁慈であった。その際、治太郎だけが喜んで飲み干している。

 

「きッッたねぇな! 流石はオレらの庶民派若様だぜッ!」

「はぁー。食べる気失せただろ。謝れよバカ舌郎(じたろう)

「んじゃ! 俺が天狐ちゃんの弁当食べちまうからなーっ!」

 

 彼らは笑みを浮かべながら、賑わう町へと歩んでいった。

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