40話 『第五王女 五姫』
――奥州、山中の温泉郷。
夜気に冷える石灯籠に照らされる、老舗旅館の立て看板には、「五条家様御一行」と墨痕鮮やかに書かれていた。
磨かれた長廊下には、桃色の絹のような長髪を揺らす、二十代頃の女――姫宮司・神子五姫。
その後を足早に追う、髷を結った生真面目そうな若侍――犬吉がいた。
「――次は?」
「はっ。次の社巡りは出羽国、最上の社にございます。こちらは第三王女、三代様の御令孫の――」
「違う。次の温泉と効能を聞いておる」
「これはご無礼を。……かの銀山温泉にございます。肌や髪艶に良いとの評判が――」
「へぇー、銀山ね。明日出立よね? 準備は?」
「はっ。万事済んでございます。ご面会に際し――っ」
「なら、よし」
バタンッ。
犬吉が本題を持ち出した時、五姫はお構いなしに戸を閉めた。残された犬吉は溜め息をついて、その場に黙って座り込む。
こうして、彼は主君の長湯をひたすらに待つこととなった。
戸の向こう側では、五姫が女中を一人も入れずに豪奢な浴衣を颯爽と脱ぎ捨てる。そして一人、鼻歌を歌いながら湯船へと向かった。
そこは彼女のために貸し切られた、広大な露天風呂。自然が作り上げた岩の浴槽で、その身を浸してみると柔らかな泡がぷくぷくと耳を楽しませる。月明かりに照らされた山々と、荘厳な滝による景色が何よりの贅沢であった。
湯船に浮かぶ酒桶から徳利を取り出し、ぐいっとあおる。まるで大仕事を終えた風格を醸す五姫の元へ、戸の向こう側から犬吉のか細い声が聞こえてきた。
彼は叫んでいたのだが、温泉があまりにも広すぎて声が遠いのである。
「――なんね。禊の最中であるぞ」
「……姫様! 一大事にございます!」
「聞こえぬ!」
何度声をかけても聞こえず、痺れを切らした犬吉が戸に手を掛ける。
「ご無礼つかまつ――」
「――来るなッ! 三位以下の者が我が神域に入ることは、断じて許さぬ!」
怒鳴り声が旅館全体に響き渡る。
言葉通り、五姫は自らの身分を重んじて、女中達に触れられることすら許さない女であった。
「……しかし、この広さでは」
「声を張れ」
「……御意。――社から霊剣が失われッ‼︎ 結界が壊れてございますッ‼︎」
バッッッシャーーーン。
五姫は驚きのあまり水飛沫を上げて立ち上がった。手にしていた酒まで落としている。
「……社の神子は誰ぞ?」
「『天狐』にございます」
「……なんと? あの子は順調だったはず。そうであろう? ……え、そうよね?」
「――左様にございますッ!」
犬吉は戸に耳を当てて姫の言葉を一言たりとも聞き漏らさず、大声で相槌を打った。
「……え、まって? 遂に叶ったの? 五姫家の野望が……?」
「いいえ……。残念ながら、要因は他にあるかと」
やはり犬吉の声が遠い。
「くっ! 勿体つけて、話しおって! もういい、中に入れ! 手早く話してすぐに出ていけ!」
「御免ッ――」
犬吉が戸を開ける。
そこに佇んでいたのは、十廻齢――五百歳を過ぎても二十代と変わらぬ美貌を持ち合わせる姫。いくら不老の神子といえど、赤子のような肌や、絹のような髪艶を持ち合わせる者は多くない。
犬吉はつい見惚れてしまうのだが、五百年以上もの歳月を生きる五姫にとって、二十そこらの犬吉に対して羞恥心など微塵もなかった。
「――で、続きは?」
「はっ。神子天狐が住む社の霊峰にて、ひと月程前、『神子名』と名乗る逆賊が山火事を起こしております」
「あー、そんな話あったわね。神選組が対処したってオチじゃなかった?」
「左様にございます。山火事は鎮火されました。しかし、逆賊神子名の消息は不明のままでございました」
「はいィ⁉︎ そんな話、この妾にした?」
桃色の長髪を優雅に撫でていた彼女は、動作をぴたりと止めて犬吉を睨む。
「某からはしておりませぬが、報告書には……。てっきり目を通されているものと……」
「愚か者ッ‼︎ 妾は神子の神社全てを管理してるのよ? 一々見切れるかっ! 大事なことは口で言いなさいよ!」
犬吉は小声で、「申し上げようとしましたが、温泉巡りでお忙しそうでしたし、何よりご気分を害されると大変お怒りに……」と、弱々しく吠えている。
「――聞こえぬわッ‼︎」
聞こえてはいた。
「これだから人の齢を超えておらぬ者は……」
「……申し訳ありませぬ」
頭を下げて明らかに落ち込んでいる犬吉を前に、五姫は聞こえない程度にチッと舌を鳴らす。
「起こった事を言っても仕方がないわ。……では我が側近、神子五条犬吉として、五姫家はどうすれば良いと考える?」
「はっ。すぐさま上様の元へ早馬を送り、社に神選組派遣の勅命をいただきます」
現在、ダイダラによって結界が破壊され、社に安置されていた霊剣が転げ落ちた直後である。
五姫家の妖術により、結界と霊剣に起きた異常のみが即座に伝達されていた。
「そも、違う。太郎兄上に借りを作るなど愚の骨頂よ」
「しかし……」
「いい? 犬吉。お前は建前上の五条家の者ではない。……五姫家として。この五姫の忠臣として、お前はどうすればいいと思う?」
その言葉に犬吉の顔つきが変わる。
「……神選組ではなく、姫様直轄の僧兵を向かわせます」
「良し。――それで?」
「神子天狐の容態も心配です。念の為、七郎様にお伺いを立てましょうか?」
「そも、駄目よ。七郎は太郎兄上の下で研究を任されているのよ? 神選組も七郎の息が掛かってる。問題があるまで余計な事はするでない」
「御意」
彼女は濡れた髪を締め上げ、息の根を止めるように水を切った。
「……全ては、内密に終わらせなさい。神選組さえも逃した逆賊の首を太郎兄上に献上して、格の違いを見せつけてやるのよ。行け――ッ」
「はっ。承知!」
――そうして、ダイダラを倒した翌朝。
大倉道場では、仁慈がいないことの説明をするべく、誠士が普段より早めに駆けつけていた。師範に昨夜の訳を話すと、案の定、特に気にする様子はなかった。むしろそれすら知っていたかのような含みのある喋り方で、誠士の話を途中で区切らせた。
「――そして、俺は戦いの中で痛感しました。俺はまだ、霊剣を握るには早いと」
「……ほう。それは廻国修行への恐れではなく、現状の限界を正しく悟った上での判断か?」
「……はい」
「ならば正しい判断だ。私もそう思っていたところだ。お前の奥義は未だ荒削り。道半ばで神子に殺されては困る。近いうち、私と共に神子を殺しに行くとしよう」
誠士は安堵の表情を浮かべる。彼の霊剣への漠然とした不安。それは間違いなく天狐が口にした、不吉な予言によるものだった。
「何を澄ました顔をしている。兄弟子として、危ういとは思わぬのか?」
「これはご無礼を。お許しください」
「ふん……。仁慈は山火事の下手人を斬った。神子を斬ったのだ。真に〝斬る〟という意味を学んだはずだ。……奴は伸びるぞ」
「ご安心を。決して、決して負けませぬ」
「ならば良い」
そこへ仁慈が息を切らしながら駆け込んでくる。訳を説明しようと早口でまくし立てる彼を、師範が制止した。
「話は誠士より聞き及んでおる。……神子を斬ったそうだな。でかした」
「ありがたき――っ」
「――だが始まりに過ぎない。ようやく、といったところだ。では、稽古を始める」
師範は稽古の中で、以前よりも格段に磨きあげられた仁慈の技を視る。誠士を置き去りにして、仁慈に何度も斬りかかる。師範が想定する技量の太刀筋を仁慈は軽々といなしていく。師範はそれに合わせて更に力量を近づけていった。
「――よし」
「え……?」
剣道場の中央へ、師範が座す。弟子二人は呼吸を合わせたようにそれに続いた。
「お前達は神子を斬るという実戦を経た。よって改めて、廻国修行が何たるかを話す」
師範の気迫に気圧されぬよう、二人は刮目する。
「……各地に潜む神子を殺すのが当初の目的だが、今や残っておる神子は強き者ばかりだ。……私の弟子である覚悟はあるか?」
次に口を開いたのは仁慈だった。
「……歴代の兄弟子の皆様は、どちらにおられるのですか?」
「安心せよ。皆、廻国修行を経て免許皆伝となった」
「「…………」」
「神子は鉄砲も効かねば、毒でも死なぬ。神の血脈によって肉体は強靭であり、実戦経験も生ける年数と共に増えている。故に、これほど修行の相手になる者もまたおらぬ」
この脅しに打ち勝てというのが真意なのだと弁えながら、仁慈は先立つ誠士への心配が勝る。
「……いくら兄上と言えど、お一人ではお命が危ぶまれませぬか……」
「私を愚弄する気か。私の弟子で帰らなかった者はおらぬ。神子を斬る為のあらゆる技を、お前達二人だけに叩き込んできたのだ。私が極めた奥義を習得した後の誠士であれば、必ず帰ってくる。……そうでなくては困るのだ」
仁慈は〝殺める〟ことの恐ろしさを理解してしまった。故に震えた。
「仁慈。お前もいずれその道を歩むのだ。それが嫌だというのなら、今すぐ道場から出ていけ」
天狐ともし二人で抜け出せたなら。そんな夢物語が仁慈の頭をよぎった。けれど師範は命の恩人であり、たった一人の父である。
「……私が神子を全て倒せば。私を認めていただけるのでしょうか?」
「無論だ」
「――ならばやります。私は先生の一番の弟子になると誓ったのです」
師範は大いに喜び、「お前はどうだ」と誠士に目を向けた。
「俺が先に全ての神子を狩り尽くすだけですよ」
「良し。……お前達は歴代の弟子の中で、最も強くならねばならん」
礼、始め。
再び稽古が始まった。それは普段よりも数段厳しい、地獄のような稽古だった。
昼休憩になると、仁慈は酷く疲労した顔で藤見町へと足を運ぶ。
彼が思い詰めながら音無川の橋を渡ると、町から懐かしい賑わいの風が吹き抜ける。
治太郎だ。彼が静かな町に、再び風を吹き込んだのだ。
町の中心には柑子色を纏う、いつもの彼がいた。仁慈を誰よりも早く見つけ、手を広げて駆け寄る彼。それは仁慈が何より求めていた姿。あの頃と変わらぬ治太郎だ。
けれど、その雰囲気はどこか……。
「よっ、仁慈。元気してたか?」
治太郎が橋まで迎えに来てくれたのは、仁慈のためではない。喧騒に満ちた賑わいから少しだけ離れたかったのだ。
川を見下ろす治太郎の横顔は、やつれていた。
「久しいな治太郎。相変わらず親より見飽きた面しやがって」
「ばか言え。俺達ゃ親なんざいねえだろ?」
二人の決まった挨拶。
それだけで仁慈には分かってしまう。
「また空元気か」
「……ったく。おめぇの目は誤魔化せねぇか」
「当たり前だ。全く似てないが兄弟だからな」
治太郎は苦笑いをやめた。本当は仁慈の前だからこそ元気でいたかった。
「大事な人達を殺されちまったからよ……。流石に隠せねえな……」
「……そうか」
励ましは不要。そこにいるだけでいいのだと、仁慈は知っている。
「……おめぇこそ。顔付き変わったろ」
「流石は、エセお奉行様だ」
「聞かせろよ。俺がいねぇ間、何あった」
「……初めて人を殺めた。山火事の、下手人を」
「そうかぁ……。俺の村に酷ぇことした、あいつか……」
互いに、大きな山を乗り越えた。
二人は今まで何度か同じような、調子の狂う空気になったことがある。けれど今回は、最も重たい沈黙だった。
黙ったまま、彼らは同じ空気を吸った。淀んだ空気だ。それでもお構いなしにお天道様は光を注ぎ続ける。じりじりと。日照りの強い季節がもう、すぐそこまで来ていたのだ。
「しみってぇ話はやめだぜ! 今日は色々解禁祝いだからな!」
「脱獄成功か」
「べらんめぇ。許しはもらってるっつの。ずーっとババアに閉じ込められてたからよ。隙あらば逃げる気だったんだぜ?」
「ったく、あまりお婆さんを困らせるなよ?」
二人はようやく目が合って、ようやく落ち着く。
「……チキショー! 俺があの暴れ馬を乗りこなせたらなァ! おめぇとどこまでも走って気晴らししたってのによっ!」
「はっ。なんだそれは。お前の背中は命がいくつあっても足りないというものだ」
川のせせらぎが耳を優しく撫でて、治太郎はふっと空を見上げた。
「――なあ仁慈。いつか遠くへ旅しようぜ。きっと俺達なら、すげえ楽しいと思うんだ」
「……ああ。それはとっても、楽しいだろうな」
この静けさを壊す大男が背後から現れる。
その男、与助はどかどかと橋を揺らしながら歩いてきた。
「オーイ! 治太郎! 元気してたか‼︎」
「もちのろんだろ!」
バチンッと二人は阿吽の呼吸で手の平を叩く。
「よっしゃ、おめぇら飯行こうぜ! この重國様が奢ってやるよ!」
「よっ! 若様‼︎」
与助の掛け声に乗らない仁慈の懐を、治太郎の観察眼が見抜いた。
「ってお〜い〜! おめぇその弁当! まーた天狐ちゃんのかよ! チキショウ!」
「ふっ、悪いな。だが今日は……奢られたい気分だ」
「いーや、そいつぁいけねえだろ」
「安心しろ。後で残さず食べるとも」
治太郎が得意げに前へ出てくる。
「いやぁ? 弁当はすぐ食べた方がいいぜ? 腹下すからよ。……まっ、俺なんか下水が混じってた井戸水飲んで、皆がぶっ倒れた時も――」
「はいはい。お前だけなんともなかったな」
その井戸水を飲んで腹を下したのが仁慈であった。その際、治太郎だけが喜んで飲み干している。
「きッッたねぇな! 流石はオレらの庶民派若様だぜッ!」
「はぁー。食べる気失せただろ。謝れよバカ舌郎」
「んじゃ! 俺が天狐ちゃんの弁当食べちまうからなーっ!」
彼らは笑みを浮かべながら、賑わう町へと歩んでいった。




