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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
第一章 投木(なげき)
32/44

32話 『重國、新居へ』

 十日前。

 四行家棟梁の葬儀が終わると、治太郎は常子の案内によって太郎家屋敷に赴いた。屋敷は第一王子宮(だいいちおうじぐう)に隣接しており、その全てが深い(ほり)で囲われている。


 太郎家屋敷は四行家屋敷にも引けを取らない荘厳さを誇る、物珍しい洋館であった。けれど治太郎は、四行家屋敷の初訪問のような無邪気な反応を示さなかった。


「若様。これよりは、こちらにお住まいいただきます」


 屋敷の前は色とりどりの美しい庭園が広がる。咲き誇る花達の淡い赤に、鮮やかな黄色が目に映るも、治太郎の表情は灰色のまま色づかなかった。


「常子。案内……いや、護衛ありがとな」

「滅相もございません。わたくしは若様の手足でございますれば。……右手に見えますは、上様がお住まいになられる第一王子宮にございます」

「流石は日の本随一の厳重な御所だぜ。こりゃ……もう、襲われる心配もねぇな……」

「左様にございます」


 心ここに在らず。

 虚ろな治太郎の横顔を見た常子は、切なげに目を伏せた。じっとりと湿った風が吹く。運ばれた花の香りすら、今の彼にとっては鬱陶しかった。


「若様。ここは日差しが暑うございます。中へ入りましょう」


 それでも治太郎は歩みを止めたままだ。


「父ちゃんも……この景色見たことあんのかな」

「勿論でございます。四行重九郎(じゅうくろう)様も幾度となくお目見えになられていました」


 返答もできぬまま、彼は花園を目に焼き付けた。普段好んで着る小袖に似た柑子(こうじ)色の花びらが舞う。それが今の地味な藍色の小袖を染めるようにうので、ただ目で追ってしまった。


 しばらく経ってから、常子は治太郎の近くへ寄る。


「参りましょう。これからは毎日ご覧になれますから」


 屋敷内に足を踏み入れると、そこは和と洋が見事に調和していた。ガラス窓からカーテン越しに差し込む陽光は、柔らかい白色に濾過(ろか)されている。対照的に、畳敷きの部屋はどこか呼吸の落ち着く匂いがした。


 治太郎がおもむろに客間の座布団を敷いて座ると、何かを察した常子が女中達を手振りで部屋の外に出させる。


 四行家の生き残りである二人だけが広い座敷に残った。


「……常子。なんで吉原の捨て子の俺みてぇな奴が、四行家に拾われたんだ」


 常子は音もなく治太郎に茶を出して、その前で何も敷かずに正座する。

 風通しは良いものの、彼の周りの空気だけが重く(よど)んでいた。


「俺ぁ、お偉いお武家にいていい人間じゃねえと思うんだ」

「…………」

「俺にゃ重國(しげくに)なんて大層な名は似合わねぇ。……俺はただの治太郎がいいんだよ」

「実に素敵なお名前と存じ上げておりました」

「だろ……? 結構気に入ってんだよ。誰かの傷を治せる優男って感じでさあ……」


 喉に引っ掛かったような掠れ声。

 彼が持ち上げた湯呑みの水面は、震えを映してゆっくりと波紋を広げた。じっと俯く彼に、常子はただ穏やかに「左様でございますね」と答える。


「……なんでだよ」

「…………」

「なんで……今更拾われたんだよ。なんで盗んで暮らしてたガキの頃じゃなくて! 今になって拾われたんだよ!」

「――はい」

「こんなことなら……俺は〝ただの治太郎〟でよかった……ッ!」


 荒々しく言い放つも、治太郎の腹の虫は治まらなかった。それでも常子は、表情一つ変えずに冷たく返事をする。


「されど、若様は初めから重國様としてお生まれになったのでございます」

「違ぇだろ! なんで俺なんだよ!」

「重國様だからでございます」


 また誤魔化そうとしている、彼はそう思った。丸め込もうとしているのだと、人を疑うことを心の底から思い出した。


「俺ぁなァ! 昔、銭貸(ぜにかし)の取り立てさせられたことがあんだよ! ありゃ捨て駒だ。危ねえ時に死んでもいいように都合よく選ばれたのさ。俺は所詮捨て子だからな。……四行家だって、その為に俺を養子にしたんじゃねえのかよッ!」


 ――バチンッ。


 弾ける音が、静まり返った部屋に響き渡る。

 手を上げたのは常子だ。その鋭い眼光が治太郎を射抜く。


「しっかりなさいませ。……あの日、若様が屋敷におられれば、皆同じように命を賭して若様をお守りしました。貴方様の為に命を賭けたのです。……我らが若様を『捨て駒』呼ばわりなど、若様ご自身であってもこの常子が許しませぬ」


 熱く熟れるように赤みがかる頬の痛み。それよりも、短い間であれど自分に尽くしてくれた女中達や、あの優しき棟梁の顔が脳裏に響き渡る。


「……なら、やっぱり俺が悪ぃじゃねえかよ。俺が皆を危険に晒したんだろ? ……馬鹿には荷が重すぎるじゃねぇか。……頼むよ。治太郎でいさせてくれよ!」

「無理な相談でございます」

「うるせえ! お武家なんか辞めてやらぁ。こんなとこ出てくッ――」


 立ち上がる治太郎。

 常子は物思いに(ふけ)るように、静かに(すだれ)の外へ目をやった。


「『治太郎』とは、どなた様がお名付けになったか、ご存知でございますか?」

「……俺を捨てた母ちゃんだろ」

「――いいえ。上様です」


 治太郎の動きが止まる。

 目を見開いたまま瞬きを忘れた彼に、常子は言い聞かせるべく念を押す。


「『治太郎』というお名前は、国を〝治める〟べく、上様から直々に賜ったものなのです」


 言葉が耳に届いても、頭が理解をしなかった。


「……待て待て。待てって。名付けられたのは俺が生まれてすぐのことだろ?」

「左様にございます。――即ち若様は、初めからただの町人ではありませぬ」

「なんだよ、それ……! 分かんねぇって!」


 常子の沈黙。お話しするのでお座りください、と物言う目つき。治太郎はこれまで彼女に口酸っぱく、誰に対しても耳を傾ける姿勢は礼儀であると(しつけ)られてきた。


 治太郎の体に染み付きつつある武家の所作が、彼自身を再び座らせる。


「本来であれば元服の儀の際に、上様ご自身からお話しされる手はずではありましたが……。こうなっては致し方ありませんね」


 彼に備わる野生の本能が鼓動を早めていく。これ以上聞いてはいけない。後戻りができなくなる。そんな予感がした。


「……若様は日の本、ひいては神子の王である上様――神子太郎(かみごのたろう)様の御子(おこ)でございます」


 差し込む陽光。揺蕩(たゆた)う埃すら金粉を散りばめた後光として、治太郎を残酷なまでに照らす。


「……馬鹿言うんじゃねえ。俺が四行家の養子になったのは最近だろ……」

「左様にございますね。――されど、四行家の養子となられた事も全て見せかけにございました。危険を避ける為の仮初の名でございます」


 処理しきれない言葉の数々。全てを知りたがる噂好きの彼にとって、勝手に決められていた裏の真実は嫌な余韻がするのである。


「……はァ? ふざけてんのか? ならなんで上様の子である俺が捨て子のまま生きてきたんだよ!」

「上様の子であると公にして生活させてしまう方が、遥かに危険だからです。その偽装として四行家の養子としましたが、それでも襲撃に遭ってしまったのが現状でございます。上様のお世継ぎ争いは苛烈を極めているのでございます」

「……ならいっそ、そのまま生活させてくれりゃいいじゃねえか! 最初に全部話してくれりゃ、俺は後継ぎなんざ降りて、黙って変わらず暮らしてたってのに!」

「誠にそのようにお考えでございますか? 初めから知っていれば、決して公言しなかったと」


 町の騒ぎを収める為とはいえ、禁忌を破って「四行重國」だと高らかに言い放った己の顔が浮かぶ。


「…………」

「とはいえ、上様は幼き頃より若様を見守っておられました。そして懸命に生き、町に溶け込む若様のお姿を見られて、『何事もなければ、ただの人の子として自由に生きさせたい』と仰っておりました」


 治太郎は力なく俯いた。


「上様が俺に……」

「しかし、〝神殺し〟の重五郎という者によって、上様の御子は若様を除き、皆様お命を落とされました。……よって若様が、王位継承第一候補として浮上なさいました。その手始めとして、元服を済ませ、王としての教養を身に付けていただくまでは四行家の養子とされたのです」


 彼の瞳孔は開いては縮み、視線を移しては戻す。それを何度も繰り返す。息遣いすら乱れていく。


「……神子殺しってなんだよ。神子ってなんなんだよ。神子ってのは……大層な名前ってだけなんだろ……?」

「それにつきましては、いずれ上様とお目通りの際に……。上様、いいえ。お父上様直々に語られる、と仰せつかっております」


 知らされる事実の大波が頭に押し寄せる。


 けれど治太郎は全て真実だと確信していた。捨て子として生き抜く為の勘。何より、人生が知らせていたのだ。あの時も、あの時も、あの時も、全ての幸運がそうであったのだと訴えていた。


「俺は……今まで自分が強運だと信じて生きてきたんだ。ヤバい時も全部、なんとかなってきたんだよ」

「はい」

「全部だ……。『マジかよ! 俺どんだけ運いいんだよ!』ってさ。でも、気づいたんだ。どんだけ精一杯頑張っても、飢えて死んだり、騙されて殺されたりする奴らが大勢いたんだ。俺だけは生まれついての神様に愛された男なんだって、思うことにしててさ」

「はい」

「……それも全部、お前達が裏で守ってくれてたからか? 俺の力じゃなくて、助けてくれてたから、なんとかなってたのか……?」

「……はい」


 慟哭(どうこく)。彼は畳に両手を突いた。人生を否定された。唯一の取り柄であり最大の武器である〝自信〟は、〝他人〟によって与えられただけの、借り物であったと突きつけられたのだ。


「……馬鹿みてぇじゃん。なのに俺……。俺がいりゃ何とかなると思って、町で名乗りを上げて……。それが皆を危険に晒したのか?」


 常子は沈黙した。


「俺が名乗らなきゃ襲撃もなかった。そうだろ?」

「…………」

「俺が四行家の養子になってもすぐに屋敷に引っ越さなかったのは、急に名前を変えて住処まで変えりゃ怪しまれるから……だったってことか?」

「…………」

「でも俺が町で名乗ったから、引っ越さざるを得なかった。……そうなんだろ!」

「――町の人気者である若様のお噂は、すぐに広まってしまいますから。お住まいが宮大工の宿舎のままであれば、確実にお命はなかったかと存じます」


 治太郎は泣き崩れ、大粒の涙で畳を濡らした。

 

 どちらの道を選んでも大勢が死んでいた。宮大工の皆が死ぬか、四行家の皆が死ぬか。治太郎の一挙手一投足が、知らず知らずに命を選んでいた。

 逃れようのない事実が彼を苦しめる。


「俺ぁ……屋敷に引越したばっかだったけどさぁ。……好きだったんだ。ああいう家族みてぇなの。……襲った奴、許せねぇよ。あんないい父ちゃんだぞ……。捨て子の俺の……初めての父ちゃんを……」


 肩を丸めてうずくまる彼を、常子は慈愛に満ちた目で見つめた。


「――ご無礼をお許しください」


 大工の棟梁(おやじ)のように頭を叩かれるものと彼は思った。

 治太郎が涙に濡れた顔を上げると、常子は初めて見せる菩薩(ぼさつ)のような優しい面持ちで静かに抱きしめた。


 それは神子全員分の懺悔(ざんげ)

 町でただ穏やかに暮らしていたであろう少年に、大いなる宿命を押し付けてしまったことに対する懺悔である。


「上様より、言伝(ことづて)を賜っております。……『()す事、即ち天命とせよ』」


 治太郎はそれを勅命(ちょくめい)として聞き届け、深々と頭を下げるのだった。

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