3話 『真剣勝負』
「けっ。命拾いしたな、仁慈」
「……馬鹿は放っておくとして、どうされた?」
息を切らした壮年の男は、仁慈達もよく知る蕎麦屋の店主だ。彼の額からは玉のような汗が吹き出し、顔は恐怖と焦りで青ざめている。
「お侍様! 若いのが数人で店の前で喧嘩をおっぱじめやがったんだ!」
「相変わらず騒がしい街だなぁ。よし来た! 俺が止めてやるよ」
店主の目線は明らかに侍である仁慈に向いているのだが、無手の治太郎が自信満々に出しゃばる。
「まあ隅っこで、俺のでかい背中を見物してな」
「ただの喧嘩じゃない、真剣の斬り合いだ!」
「真剣!? くそ、熊にやられた古傷が開いてきやがった。こんな時だってのに! もう一歩も歩けん。仁慈、代わりに行ってやれ」
最低の小芝居を打つ治太郎を無視し、仁慈は店主に話の続きを促す。
「どういうことでしょうか」
「行きゃわかるよ。それよりあんた、大倉先生のお弟子さんだろ? 今日は誠士さんはおらんのかい?」
「兄上は道場かと」
ちっ、と店主から舌打ちが聞こえたような気がした。空耳だろう。
「しゃあねえ、あんたでいいや!」
しゃあねえとはなんだ。
「しゃあねえってよ」
「お前は黙れ」
治太郎が腹を抱えて呵呵大笑する。この街の者は無礼者しかおらんのかと捨て台詞を吐いて帰りたいところだが、斬り合いとあらば捨ておける話でもない。三人は野次馬で膨れ上がった人垣をかき分け、現場へ向かう。
しかし野次馬ばかりで中々そこには入れそうもない。
「皆さま昼間からご苦労なことで――」
「気張れよ~仁慈。俺はこっから声で助太刀しとく」
「それを助太刀とは言わん」
「念仏唱えとっからよ」
「死んでからにしてくれ」
早くしないと本当に人死にが出るかもしれない。覚悟を決めた仁慈が、刀の柄に手を掛ける。
すると不意に、人垣の中から一人の侍が砲弾の如く派手に吹っ飛んで、屋台の暖簾を突き破っては野菜の木箱を粉砕して地面に転がった。人々が悲鳴を上げて道を作ったことで、仁慈の視界が一気に開ける。
人混みの中心。そこに佇むのは六尺を一回りも超える巨躯の男。はだけた着流しからは岩のように隆々の筋肉が覗いている。その立ち姿から、仁慈は一目で彼がただの喧嘩師ではなく本物の武人であると悟った。同じくして、巨躯の男もまた仁慈の放つ静穏ながら鋭利な殺気を人混みから嗅ぎ分け、強引に道を作ったのだ。
「――次はお前か?」
投げ掛けられる言葉には鋼の響きが宿っていた。仁慈は瞬時に状況把握をし、柄頭に軽く触れたままゆっくりと前へ出る。
「見ない顔だ。新参か? 剣士であれば名乗れ」
「……お前こそ誰だ」
「何ぃ? オレを知らんのか」
長身の青年は不敵な笑みを浮かべ、自ら名乗りを上げる。
「オレは豪野谷与助だ」
その名に最も衝撃を受けたのは、人混みに紛れて高みの見物を決め込んでいた治太郎であった。
「お前が〝血塗れの与助〟かよォ!」
驚きのあまり馬鹿が叫んだ。すると与助がグルッと首を曲げ、鷹の如く鋭い視線で治太郎を刺した。治太郎はしまったとばかりに手で口を覆ったが、もう遅い。すでに頭に血が昇っている様子の与助を止めるべく、仁慈は彼との間合いを一歩詰める。
「私は大倉仁慈」
殺気を放つ仁慈の研ぎ澄まされた剣の才を感じ取り、与助はもはや治太郎には目もくれず、目の前の仁慈を警戒した。
「仁慈か……。聞いたことがあるような気もするな。流派は?」
「活殺自在流だ」
見栄を切るように言い放つ。だがその実、流派に名前などない。師範の意地で数多の流派を不完全な邪道とし、唯一無二である我が剣に名称は不要とした。師範がよく「活殺自在の剣」と呼んでいたため、仁慈はその場でこれを拝借した。
「聞かんな」
(だろうな)
仁慈は視線の移動のみで辺りを見渡すと、怪我や泥で汚れながらも真剣を構える男達が与助を囲う形で五人。一人は先ほど吹っ飛んでいるのだから、計六人で与助を討ちに来たと分かる。彼らの打ち合いが始まってからしばらく経過しているはずだというのに与助は傷一つなく、汗一滴流れていない。実力差は火を見るより明らかだろう。
仁慈を加勢だと勘違いした男の一人が声を上げる。
「大倉殿、助太刀傷み入る! こいつが我ら志士の黄竜館を襲った男。近頃の辻斬りを行ったならず者だ!」
(助太刀に来たわけではないが、両者共に話を聞くどころではないな)
どうすれば事が収まるかを悩むも、口で言って済みそうもない。ここで下手に首を突っ込めば師範にも被害が及ぶのではないかと考えが巡る。
「自分達じゃ勝てねえからって侍の矜持を捨てて他流に頭を下げるたぁ、我が黄竜館も落ちたもんだ」
「よそ者が我らの流派を語るな!」
「……これは良心で言ってやるが、真剣で事を起こせばお前らも破門は免れんぞ」
目は仁慈を見据えたまま、言葉では背後の門弟を警戒する与助。
「これは仇討ちだ! 義は我らにある」
「義の在処を定めるのは本人じゃねぇんだよ」
口ぶりには冷静さが窺え、仁慈は与助が話の通じる人間かもしれないと淡い期待を抱く。
「お咎めがあらば我ら全員、切腹覚悟だ」
門弟達の瞳には燃えたぎる魂が宿り、その決死の心構えは敵であるはずの与助の胸を打った。
「ったく頭の悪ぃ連中だ。が、いいねぇ……。覚悟の出来た武士なら話は別だ」
与助の全身から空気が震える程の鋭い闘気が一帯に立ち込める。呼応するように、怪我で伏せていた門弟達もよろりと立ち上がっていく。
「与助殿、待たれよ。これだけ人に見られた状況で殺し合えば、貴方もただでは済まされまい」
「漢が全部覚悟してる真剣仕合だぜ? 他流が口挟むもんじゃねえ」
「……冷静になってくれ」
仁慈は必死に野次馬達の存在を目配せで訴える。
「ああァ? オレは至って冷静だぜ。こいつらは闇討ちをせず、言い逃れもできねえ白昼堂々、オレと殺ろうってんだ。愚かな門弟だがその忠義は見事なもんだ。なら、真っ向から受けて立ってやるのが侍であり、元兄弟子の務めだろうがよ」
与助の長髪と瞳は、紅白の錦鯉の紅だけを掬い取ったように淡く透き通った赤茶をしており、その瞳を陽光が照らし烈火を宿らせる。
「……ひとまず皆の者、剣を納めてはくれまいか」
仁慈の訴えに、門弟達は首を振ることすらせず拒否の姿勢。与助は高らかに笑って広い背中に隠れた巨大な得物を見せつける。
「オレは剣なんて一度も抜いてねえぞ」
仁慈は驚きのあまり目を見開いた。真剣試合と聞いていたことや門弟達の様子を見て、与助が抜き身で戦っていると疑いもしなかった。背負われたそれは明らかに日本刀ではない。鞘もなく、ただ黒く角張った巨大な鉄の板。長方形に無骨な柄が付いただけの代物。重量のあるそれを背負ったまま、未だ抜いてすらいないのである。
(真剣相手に無手だと……?)
ならば、門弟達の剣を収めさせれば事は済む。
「黄竜館の方々、なぜ彼が下手人だとお思いか? まさか、動機があるというだけで、証拠もなく命まで奪おうとしていたわけではありますまい」
野次馬達が仁慈の問いかけに「あれが理由だろ?」「いやこれだな」と好き放題喋っていると、それを斬り捨てるように仁慈は続ける。
「近頃辻斬りが多いようだ。黄竜館以外でも行商人まで斬られたと聞く。道場への私怨ならば、わざわざ日を改めてまで無関係の人間を斬るか?」
またしても野次馬は各々で「そう見せ掛けるためだ」「辻斬りの噂に紛れて殺したんだろ」と好き勝手の減らず口。仁慈にすればどれも憶測の域を出ない。
「断定できない妄想で真剣を向けるのが黄竜館のやり方か?」
溜め息を吐き、静かな声でそう告げた。この侮辱は罪が重いことを仁慈本人も理解している。けれど門弟達は怒ろうとはしなかった。門弟の一人が哀愁を帯びて淡々と答える。
「大倉殿。仇討ちは途中で止められるものではないのです。討ち損じれば切腹、末代までの恥。斬って死ぬか、斬られて死ぬか、道は二つに一つなのですよ」
仁慈には余りに切なく聞こえた。
(犯人を決め付け、殺さなければ気が済まず、きっとそれが愚かな行為だとも自覚している。なんて馬鹿な話だ。でも、外から石を投げる野次馬達より堂々と戦う彼らの方が、余程気高い)
与助も唸る。
「――よく言った。オレだってここで剣を収められたって終われる話じゃねえんだよ。売られた喧嘩は買うって決めてんだ。特に、覚悟の決まった喧嘩はな」
話の通じない男達が、敵同士でありながら魂では確かに通じ合っていた。
「文句あるならテメェもかかってこいよ」
普段ならそんな挑発に乗る仁慈ではない。けれど、真剣を構えた多勢相手に与助が大きく手を広げ、大真面目に無手で戦おうとしている様が、どうしても嫌いになれなかった。
(血塗れの与助。噂に反して竹を割ったような男。なんと高潔な侍か。……まさか破門になった今でも許可なく流派の剣術を使わぬように、この多勢の剣士相手に無手で挑んでいたのか……。お前のような誠の侍が、辻斬りなどするわけがない)
如何なる理由があろうとも揺るがぬ意志の強さ。同じ侍として敬意を抱かざるを得なかった。その敬意が、仁慈に剣を握らせる。
「そうそう、それでいい。剣士なら剣で語れ。剣で示してみろ、テメェの正しさを、テメェの覚悟を」
「どうして侍は誰も彼も、剣でしか語れぬのか」
口ぶりとは対照的に、仁慈の口元には笑みが浮かんでいた。
「はっ。テメェだって今、その侍のツラしてるよ」
「与助、お前の誘いに乗ってやるんだ。剣士の仕合に無手で挑もうなどと無礼な真似はしてくれるなよ」
「……ああ、そうだな」
ドンッ!
与助は背負った鉄の板を地面に落とす。あまりの重量でめり込み、土煙が立ち上がる。それを彼は強靭な片手で軽々と持ち上げた。この異様な光景に仁慈すらも息を呑む。
男達は乱世に戻ったような威勢で剣を構えた。
その頃治太郎は遠巻きに、「こりゃまた兄上に怒られるぞ~」と呑気に笑う。蕎麦屋の店主は仁慈が騒動を止めず、むしろ火に油を注いだため、とぼとぼと裏手から店の中へ帰っていくのだった。




