26話 『神選組』
落ちながら、仁慈は遠巻きに燃ゆる森を見た。滝壺の水面が煮えたぎる釜の如くに揺らめいている。
(火は、いつも私を燃やすのだな)
仁慈は目蓋をゆっくりと閉じて冷たい引力に身を委ねる。メイと共に死ねば、天狐が狙われることはもうないのだから。
――仁慈の目蓋、その裏には忘れられぬ幼き頃の大火事。
厄災とはまるで生き物だ。業火は貪欲に大きな手を広げ、幼き私と母を襲った。
母は燃える家の中で逃げることも叶わず、足手まといの私をただ強く抱きしめた。熱くて息もできず、徐々に母の背中が焼けていく。肉が焦げる匂い。母の額から流れる血が私の額にぽたっとった時、私は絶望に目を背けた。
もう、何も聞こえない。何も見えない。何も感じないものとした。すると気づいた時には、見ていないのに、〝視えてはいけないもの〟を視た。……立ち昇る火の粉が大きな翼と化し、ゆらりと震えて私達を包むと、駆けつけた父がその全てを庇った。
意識を取り戻した時には先生が私を背負っていた。命を救ってくれたのだ。
――『これからは私を父と思え』
あの日の背中を、私はずっと追い続けた。
(貴方に救われた理由を、知りたかったのです)
私はずっと貴方を理解したかった。なぜこんな私を助けたのですか?
(……いや、もういい。初めから生きる意味など知る由もない。ならばもう、いつ死んでも……)
――まだ死ねない。
凍える火の中、私の袖を誰が引いた。ほのかな甘い花の香りと、鈴の音色。
――天狐殿にお弁当の感想を、お伝えしていない。
(もう本当は、父なんていないのに。まだ生きるのか?)
――また一緒に食べたい。今度は私がお作りするのだ。
(……そうか。そうだ。もう私には、生きる理由があったのだな)
ぼんやりと目が覚めた。滝が耳元で騒々しく音を立てている。
(天狐殿のお弁当……箱を開ける度にあの人の笑顔が浮かぶのだ)
仰向けのまま仁慈は笑った。
「ふざけるなッ! なんなの⁉︎ 何なのですお前はッ! どこまでわたくしを馬鹿にするおつもり――ッ⁉︎」
仁慈は寝ぼけている場合ではなかった。首元に鋭い痛みが走る。
馬乗りになったメイが獣の如く歯を突き立てて喰らい付いていたのだ。肉を噛みちぎる勢いのメイに、仁慈は咄嗟に目潰しを喰らわせた。
不快な感触が指に残る中、怯んだメイを突き飛ばした。仁慈は体勢を立て直し、すぐさま近くに落ちていた剣を手に取る。
「アーハハハッ! 雪のように白い髪! そして盲! 遂に私は女王になったわッ! アハハハッ!」
仁慈は好機と見て斬り掛かる。だがメイの両目は陽炎に揺らめいてはすぐに修復し、後方へ跳躍して距離を取った。
いつの間にか夜は更けていた。
「お互い体は丈夫だったようだな。神子のメイ」
「お黙りッ! わたくしは女王となり二子様の悲願を叶えるというのに! なぜ霊剣無しに命を奪えないの⁉︎ 何故ッ!」
やはり滝に落ちたとて話は通じない。仁慈はもう殺す他ないとして、中段に構える。
「なゼッ! 皆わたくしを祝福してくれた! 選ばれた女子なのに――ッ‼︎」
濡れた着物を脱ぎ捨てたメイは、焼け焦げた襦袢の姿で仁慈に襲い掛かる。
その手には短刀が握られていた。刃長でいえば仁慈に分がある。落下で腰を痛めているとはいえ、炎の術を封じられたメイなど敵ではない。
メイは並外れた脚力で縦横無尽に飛び回り、仁慈の首を狙う。変幻自在の間合いに翻弄された仁慈の隙を突いて、メイが刺突を繰り出す。
それこそが仁慈の狙いであった。いくら予測不能の動きといえど、狙う場所は仁慈ただ一人。故に、メイの攻撃をただ待てばいい。刺突という差し出された小手に、寸分狂わず一撃を喰らわせた。
仁慈はメイの手から落ちた小刀を滝壺へ蹴飛ばす――。
「ああああああああぁぁぁ――‼︎」
メイは発狂した。仁慈を警戒することもなく小刀を追う。あまりに無防備な様。隙を見逃さず、仁慈がトドメを刺さんと首を断ち切ろうとした時だった。
(……なんだ。この違和感は)
彼女の背から、あれほど感じられた霊気が急速に失われている。足運びも見るからに遅くなっていた。そこにいるのはもはや神子ではない。ただの非力な少女である。
「ああああっ! わたくしの証がっ!」
メイは取り乱しながら滝壺に入り、必死に手探りで短刀を探す。
「あれがないと……わたくしは……。もし川へ流れたら、三途の川に流れてしまったら……わたくしは……もう」
「あれも霊剣なのだな」
「……何故このような酷いことを……」
メイは大粒の涙を流し、仁慈は呆然と立ち尽くした。荒木は霊剣を握らずともその身から霊気が漂っていた。けれどメイからは何も感じられない。
――むしろ、今感じている禍々しい霊気はメイの頭上からである。
「見つけたぞッ! 滝の下だァ!」
仁慈が見上げると二人の侍がこちらを見下ろしていた。悪寒がした。武人の勘が仁慈に逃げろと半鐘を鳴らしている。その予想は的中した。
バッシャンッ‼︎
その内一人の侍は臆することなく滝の上から飛び降りて、滝壺に大きな飛沫を立たせる。すると後からもう一人、断崖絶壁を鹿の如く軽々と渡って華麗に着地した。
波打った滝壺から短刀が浮上する。メイはすぐさま拾い上げて霊気を取り戻し、岸辺に跳躍した。滝に落ちた侍も水を滴らせながら岸に上がる。
岸辺には、侍二人、メイ、仁慈が並んだ。侍二人が放つ圧はメイを越えて仁慈まで届く。揃えられた真白の装束を着た侍二人は、何らかの組織の者であることは明白であった。
張り詰めた空気の中、仁慈が口火を切る。
「御二方……神子のメイのお仲間か……?」
濡れた金髪を森の炎に照らされた侍が、せせら笑って答えた。
「何を申す。この落ちこぼれが神子などと。片腹痛いわ」
その言葉にメイは金髪侍を呪い殺す勢いで睨みつける。
「……貴殿こそ何者ですか? 此度の神選組の新人は某のみと聞いております。……本件の隊士の顔と名は全て記憶しておりますが貴殿は……」
「常影、冗談だろ? お前は家柄に優れ、武芸にも秀でると聞いていたが、あの若侍を見て一目で分からねえのか?」
「いえ、あの霊気は神子ではないと存じておりましたが。念には念をと……」
常影と呼ばれた美少年。長い黒髪で左目が隠れ、年頃は仁慈と同じく十六、七といったところ。
「おッ前さあ? 呑気なこと抜かしてんじゃねえぞ。神子相手に殺し合うのが俺達神選の仕事だ。見りゃ分かること一々確認してっと死ぬぞ」
「……痛み入ります」
「じゃあ。この後はどうすりゃいいと思う?」
「……神子に襲われた民を守ります」
「バーカ。まずは裏切り者を叩き潰して、今までの事を全部吐かせんだよ――ッ」
金髪侍が剣を抜き、メイを目掛けて走る。
「二子様の穢れがッ!」
鋭利な切先をメイに向けながら言い放つ。メイは森へ逃げようにもすぐそばまで火の海が迫っていた。滝から続く下流を飛び越えてもすぐに追いつかれると悟り、咄嗟に仁慈の元へ走る。
「わたくしは八姫八君、二子様の生まれ変わりぞ! 助けよッ!」
彼女の顔は、仁慈との戦闘では見せたことのない恐怖に染まっていた。
「神子の出来損ないがッ! 当の二子家がお前を余所者だと仰せだ。……お前が試衛館を抜け出した日にゃ、お前を殺せと二子家直々のお達しだ!」
「嘘ッ‼︎ 許さぬ……。許さぬぞ。……わたくしは神子を許さぬ。神子は全員呪い殺してくれるッ!」
仁慈は向かってくるメイを斬るか、見逃すかを迫られる。もはや戦意のない彼女を斬るのは心苦しい。それはどうやら、立ち止まっている常影も同様であった。
「どうした常影ッ! お前も近頃まで試衛館にいたらしいな。この女と見知りだったか?」
「……話したことはありませぬ。ただ――」
「じゃあお前が殺せ! さっさとついて来やがれッ!」




