23話 『茜空』
西の空が、不気味に赤く染まっていた。
三人が峠に近づくにつれ、鼻を突くのはただ木々が燃える匂いだけではない。草木の爆ぜる乾いた音に混じり、生臭い鉄のような匂いが風に乗って届く。
目の良い仁慈が異変をいち早く悟った。
「村から煙は出ているが、山火事とは火元が違う。村は家の釜戸から燃え移ったものだろう。……だが、人が大勢倒れている。まずい。血を流しているな」
疾走しながらも仁慈の息は大して上がっていない。日頃の苛烈な訓練の成果だ。彼の隣で治太郎が犬さながらに鼻をひくつかせる。
「村の火はまだ上がり始めたばっかみてえだな。煙の匂いが新しい。今消しゃ収まる」
「チッ。気味が悪りィな。向こうはあんだけ荒れた山火事だってのに、鳥の声一つしねェ……」
与助が辺りを見回し、その異様な静けさに眉をひそめる。
やがて峠の麓にある小さな村に辿り着くと、三人は言葉を失った。そこにあったのは一方的な蹂躙の跡。燃え盛る家屋、血溜まりの中に倒れ伏す人々。そして全てを支配する死の静寂。与助は燃える家へと走り、治太郎はまだ息のある者へ駆け寄った。
「こりゃ野盗の仕業なんかじゃねえぞ……」
与助が呻くように呟く。その時、仁慈の元へ瓦礫の影から一人の老婆が這い出ては震える声で絞り出した。
「鬼じゃ……鬼が出た! 山姥じゃあっ!」
「ご老体、何があったのです!」
「山から傷を負った若い女が……。手当てをしようと皆で近づいたら……突然、獣の如く村の者達を噛みちぎったのじゃ! 『これも駄目、これも駄目』と泣き叫びながら肉を食らい、終いには小刀で斬りつけて……!」
仁慈は、盲目の老爺に聞いた〝神子〟の仕業であると覚悟する。
「その者は今どこへ!」
「五人ほど斬ると、見る間に傷が塞がって……人とは思えぬ速さで山へ消えおった……!」
老婆が指差す先、山の斜面は巨大な松明の如く燃えていた。仁慈の呼吸が荒れる。天狐の社はその山の裏手。ここからでは見えない。幸い、老婆の話では村人達はまだ息があるようだった。だが、その事実が仁慈を苦しめた。
(天狐殿の元へ今すぐ向かいたい。けれど――ッ)
眼前には助けを求める人々がいる。侍として、人としての仁義がそれを見捨てることを許さず、足を地面に縫い付けた。どうすればいい。焦りと使命感の間で仁慈の心が引き裂かれそうになった瞬間、二人の漢が声を上げた。
「ここはオレらに任しやがれ‼︎」
「俺の村は俺が守んだよッ‼︎ この四行重國様がなァ‼︎」
与助の鞘から閃光が迸る。至極の居合斬りが風を裂き、燃え盛る家屋の炎を吹き消した。
治太郎の声は、まだ息のある村人達には聞き覚えがあった。先日、町を救ったという若様だ。「若様が、自らお助けに!」という声が上がり、絶望に沈んでいた村に一筋の光が差す。
「「さっさと行きやがれッ‼︎」」
二人の声が、仁慈の背中を強く押した。もう迷いはない。信頼のおける者達がここにはいる。『もういるだろう。お前が剣を捨てたとしても、そばにいてくれる者達が』、誠士の言葉が確信に変わった。仁慈は胸の中で二人の友に何度も感謝を告げながら、煙が渦巻く山奥へと駆け抜けていった。剣士ではなく、ただ好きな人を救うために。
一方その頃、大倉道場では――。
「おかしい。今日はいつにも増して愚弟が遅い。今までは誰よりも早く来て稽古場の掃除をしていただろう」
稽古の刻限を過ぎても仁慈は道場に帰ってこない。近頃、天狐の社へ通うようになってから、仁慈が早くに来ることは少なくなった。だがそれでも、稽古そのものに遅れるということは一度もなかった。
道場の庭にいた誠士が、どこか不安そうに藤見町の街並みを眺めている。
すると遠くの喧騒が風に乗って微かに届いていることに気がつく。
「先生。藤見町で、何かあったみたいですよ」
師範は縁側で書状を読んでいた。
「いや、町ではない。遠くの山で火事が起きているらしいな。それも恐らくは神子が起こし、すでに神選が止めに向かっている」
「シンセン…?」
「『神選組』という幕府直轄の組織だ。どうやら、神子絡みらしいな」
「神子……?」
「誠士、お前も奥義が身に付いてきた頃だ。……〝皆伐〟と〝鉄火〟。二つの奥義を完全に会得した時、お前の廻国修行を開始とする」
「その廻国修行で、俺は何を斬ればよいのですか?」
「心して聞け――」
誠士もまた、仁慈と与助が茶屋で聞いたのと同様の神子の真相を、師範の口から知らされることとなった。全てを聞き届けた時、誠士の鍛え上げられた両手が己の意思に反して微かに震えた。
「まだ、信じられぬか」
「……違います。その神子というのは、どれほど強いのですか?」
「神子は人殺しを生活の一部とする。腹が減れば食う為に殺す。至極当然の理だが、当世の人間が忘れた獣の本能を宿している。……そして生まれついての強靭な肉体と、お前と比較にならぬ戦歴を持つ」
「……免許皆伝の奥義で、太刀打ちできる相手なのですか?」
「案ずるな。私はこの奥義で殺してきた」
その言葉は淡々としていて、誠士の不安をより一層掻き立てた。
「山へ向かうぞ。お前の奥義が通用するかを試す時だ。私の予想が当たれば、肩慣らしに丁度良い神の落ちこぼれと相対することとなろう。……これよりは、神子狩りだ」
誠士は神子を殺すという本当の重みを理解し切れないまま、静かな覚悟を持って刀を手にした。
――仁慈はひたすら走っていた。獣道を駆け、岩を飛び越え、枝葉で肌が傷つくことも構わずに。山の深くに行けば行く程、煙の匂いは濃くなり、熱を帯びた灰が雪のように降り注ぐ。呼吸を妨げるのは煙か、あるいは焦りか。進めば進むほど理解してしまう。火元は天狐の社の辺りであると。
やがて、社を囲うように整列した神木の近くまで辿り着く。
そこはもう、火の海だった。
神木まで近寄ることさえ出来ない。凄まじい火炎が巨大な壁となって、天高くそびえ立つ。激しい音を立てて焼け落ちる木々。仁慈の目には絶望が広がっていた。社は黒煙で見えないが、もう灰と化していてもおかしくはなかった。
(……天狐殿は社から出られない)
呼ぼうにも、声が出なかった。かつて両親を焼き尽くした炎と同じ匂いがしたのだ。横を見渡しても、どこまでも、どこまでも広がる烈火。まるで火の神が嘲笑うかのように火炎が手を広げている。このままでは、仁慈が山の麓へ帰ることすら困難になるだろう。
「……嘘だ」
むせ返りながら、熱で霞む目を何度も擦りながら、彼は声を上げた。
「天狐殿ッ! 天狐殿ッー‼︎」
叫ぶ度に焼けるような煙が喉を刺し、肺が痛む。劫火による幾重もの壁を突破する術はない。ただ燃え盛る炎を眺めることしかできなかった。
「嫌だ……。嫌だ……。私は貴女のためなら剣を握れると……。貴女は……私の」
初めて仁慈は平静を喪失した。思考を諦めた。全身から力が抜けていく。もう、死んでもいい。そう思った仁慈が心中する覚悟で己が剣を抜き、火の海へその身を投じようとした、その時。
「アハハハッ――‼︎」
甲高い少女の嘲笑が、炎の悲鳴を突き破って仁慈の耳に届いた。彼が立ち止まって横に目を向けると、傷だらけだったあの日の娘がいた。
「神子のメイ……?」
メイが、両手にそれぞれ抜き身の剣を持って、業火の前で舞っている。その舞に呼応するかのように、炎が意思を持って狂い出す。何が起こっているのかは仁慈には分からない。ただ、メイがこの世の終わりのような光景を、心の底から楽しんでいるように映った。
なぜだか、その舞を見ていると涙が溢れ出した。きっと、あの姿に似ていたからだ――。
◆◆◆
あれは、初めて天狐殿と食事をした日のことだった。
社に行くと、天狐殿は清浄な焚き火の前で一人、舞を踊っていた。その一糸乱れぬ所作に、私は声を掛けるのも忘れてただ見惚れた。すると、どこからか飛んできた一羽の小鳥が私の肩に乗り、まるで私と共に彼女の舞を見守っているようだった。やがて、天狐殿の動きが止まる。
「まあ、いつからそこにいらっしゃいましたの?」
「つい、先程……。舞をなさる天狐殿は、また一段とお綺麗でしたので」
「まあ!」
頬を赤らめる彼女。その額には玉のような汗が光っていて、恥ずかしそうに乱れた前髪を気にする素振りを見せた。
占いや予知を得意とする天狐殿が、私の存在にさえ気が付かない程の熱心な舞。私はそれを見るのが何より好きだった。見ていると、詩を書きたくなる。絵を描きたくなる。
そして気が付けば、貴女と過ごすこの先の一年を想像しているのです。季節の変わり目を貴女の側で迎えたかったのです。
天狐殿はご馳走を用意してくれていた。本膳料理。一の膳には、白いご飯にお味噌汁、そしてお漬物。二の膳には、旬の焼き魚と野菜の煮物。三の膳には、繊細な作りのお吸い物。それらが美しい漆の器に盛られ、行儀よく並んでいる。とても格式高い食事だった。
「こちら、天狐殿がお一人でお作りに……?」
「はい!」
私は夢心地で、すぐに感想を述べることができなかった。
「あれ? 何か変でしたか? 書物でしか知らず、見様見真似で――」
「――日本一です」
これが夢ではないと悟った時、堰を切ったように多くの言葉が溢れ出した。
「え?」
「天才ですよ。天狐殿! 誰にも教わらずに? 我流とは恐れ入りました。……もう完璧です。美しすぎて、手をつけることすら恐れ多い」
ふふっと、彼女は袖で口元を押さえて、はにかむように微笑んだ。
「褒めすぎです。仁慈様」
「いえ、本当です。私の正月よりも豪勢です」
多めに用意してくれたのにも関わらず、私はあっという間に平らげてしまった。その時、最近は味を楽しんで食事をしていなかったことを思い出した。腹にじんわりと温もりが広がる感覚。ふと笑みが漏れてしまう、幸福な感情。胸まで満たされる満腹感。
多分、上手く感想を言えなかったと思う。あまりの温かさに、泣いてしまいそうだったから。それなのに、天狐殿は全てを心得ているかのように、ただ優しい眼差しで、私の食べる様をじっと眺めていた。
「天狐殿は、あまり召し上がらないのですか?」
「はい。仁慈様に手料理を食べていただけることが、何より嬉しくて……。見ているだけで満たされてしまって」
照れる彼女。その肌はまるで、雪山の奥深くで太陽を知らずに育ったかのように白い。それでいて、その頬にだけ落とされた淡い赤みは太陽よりも熱く、艶やかだった。
「わたくし、初めて知りました。こうして誰かが食べているところを見るのが、好きだったのだと」
そう言って彼女が嬉しそうに目を閉じて笑うと、綺麗に揃えられたまつ毛が、夜空に浮かぶ半月を思わせる美しい輪郭を描いていた。
私は品の良い食べ方を学んでおくべきだったと心底反省した。食事を終えて、拝殿の濡れ縁に並んで腰をかけて話していると、天狐殿は「実は、味見で失敗した料理を先に沢山食べていたので、あまり食べられなかったのです」と、悪戯っぽく笑っていた。
帰り際。天狐殿は何かを背中に隠すような素振りで私に近づいた。隠し切れているつもりなのだろうが、華奢な体の後ろに回した小さな手元が見え隠れしている。それが何とも言えず、可愛らしかった。彼女が何かを持っていると知りながら、知らない体を装った。
「仁慈様。お渡ししたいものがございます」
「おや? なんでしょうか?」
「ふふっ。なんだと思いますか?」
彼女は期待に満ちた瞳で、私の顔を覗き込んでくる。私は考える振りをして、色々と言ってみた。その度に彼女は「違います!」「それは少し惜しいですよ」「もう、ふざけておられますね?」と、ころころと表情を変えて、たまに困った顔をするのも愛らしい。
「文ですか?」
「あっ……書けばよかったです……」
「新しい占いの結果?」
「えー……。それもすればよかったです……」
「では、もしや恋文?」
「えっ――!」
「……え」
目が合ったまま、時が止まった。
胸が高鳴った。
ふざけたつもりだった。
なぜ、そんな図星のように照れた顔をなさったのですか。
残念ながら、もちろん恋文ではなかった。冷静に考えれば、「文」で違うのだから恋文である訳がない。でも、冷静さすら抱けない貴女との時間を大切に抱きしめておきたかった。会話が永遠に続けばいい、そう思った。
天狐殿に貰えるものなら、本当に、何でも嬉しかった。
初めて、体に染み付いているはずの稽古のことが頭から抜け落ちた気がする。
「では……正解は?」
「お弁当でございます!」
「ええっ! あれほどのご馳走をいただいたばかりなのに」
「なんと、中身はおむすびです」
「おむすび! 天狐殿ともあろう御方が……ご自分の手で握ってくださったのですか?」
「はい! 心を込めて、頑張っちゃいました!」
一点の曇りもない無邪気な笑み。それがいつの間にか、私の生きる理由になっていた。
本当に、至れり尽くせりだった。お食事も、お弁当も、神聖な舞も、他愛もない会話も。貴女がくれた全ては、何度感謝をしても、決して返しきれるものではなかったのです。
◆◆◆
もう社は黒煙が渦巻き、見ることすら叶わない。
「弁当箱……お返しに、来ました。……急だったので、まだ……洗いそびれて、いるのですけど……」
仁慈は止めどなく流れる涙を拭うこともできぬまま、懐にある空っぽの弁当箱を、ただ強く、強く抱きしめた。
「天狐殿……」
膝から力が抜け、彼は熱い灰の上へと崩れ落ちる。
「……そうか。私は貴女を、お慕いしていたのですね」




