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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
序章 燻り(くゆり)
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2話 『血濡れの与助』

 道場の庭から見下ろせる町――藤見町(ふじみちょう)

 月を(おぼろ)げに(よど)んだ水面(みなも)が映す。

 橋を渡る男は、空夜の静寂を裂くように乱暴な足音を立てると、忌々(いまいま)しげに刃の折れた剣を闇へと放り投げた。


 真下に浮かんでいた小舟の一隻に音もなく突き刺さる。切っ先を失った刀身が、ただひたすらに冷たい月光を蓄え続けていた。


 翌朝から藤見町(ふじみちょう)は人で溢れかえる。噂話に叫ぶ口もあれば不安げな顔もある。仁慈が昼頃に軽い気持ちで寄ってみると、橋を渡るのも一苦労なほど町人達がひしめき合っていた。


 何度か人混みに揉まれ、熱気と喧騒にうんざりした仁慈が中心で引き返そうとした時、何かが彼の右手首を強く掴む。

 

(なんだこいつ⁉︎ 熊のような怪力! 町の方へ引っ張られる! 盗っ人か? 盗っ人だな!)

 

 仁慈も負けじと手首を握り返して全力で反対方向へ逃げようとするも、いとも容易く人混みから引きずり出された。


 鍛え上げた体幹が倒れ込むことを許さず、前のめりの体勢で踏み止まる。引っ張った謎の男に右手を塞がれたまま、師範の教え通り間髪入れずに左手で目潰しを繰り出した。

 

曲者(くせもの)ッ!」

 

 流れるが如く滑らかな攻撃だったが、すんでのところで謎の男が左手で豪快に振り払うと、二人は目が合う。

 

「治太郎⁉︎」

「おめぇ! いきなりあぶねえだろ!」

 

 彼らはいつものように喧嘩になったが、最終的に盗人だと間違えたことを笑って許される。よく見れば盗人にしては一段と派手な装いだ。

 

「しかしお前相変わらず目がいいな。この人混みでよく私を見つけるものだ」

「目じゃなくて鼻が利くんだっての。おめえいつも線香みてえな匂いすっからよ」

 

 不本意な匂いに仁慈は着物の裾を嗅ぐ。両親の仏壇に毎朝線香を供えてはいるものの、染み付いているというのはいい気がしない。

 

「がっかりすんなよ。その匂い案外安心するぜ?」

「余計なお世話だ」

 

 そういうお前は、と仁慈が治太郎の派手な柑子(こうじ)色の着物に鼻を近づけるも、ただ陽の光を吸った温かい布の匂いがするだけだった。

 

「俺の匂いはどうだい」

「臭い方の猫だな」

「あぁ? 臭ぇ方だと? 野良と一緒にすんな!」

 

 再び馬鹿な言い合いをした後、仁慈は昨夜道場をうろついていた不審な男の話をした。

 

「私とて霊剣だのは信じちゃいないが、近頃辻斬りもいるらしいからな。何か臭うか? 鼻の利く野良犬」

「おめっ、野良犬はてめぇだろ! 先生の忠実なワンコロめ! 尻尾の代わりに棒切れ振り回しやがって。俺は自由な野良猫様よ」

「野良猫でいいのか……」

「んなことより、それ辻斬り本人じゃねえのか? いや、十中八九辻斬りだぜこりゃ。弱小道場のくせに人斬りのお眼鏡に適ったみてえだな」

 

 他人事のように、治太郎は膝を叩いてけたけたと笑う。

 

「てめえこの野郎……」

 

 すると治太郎は思い出すかのようにニヤっと右の眉を吊り上げた。得意の自慢話が始まるのだと覚悟しながら仁慈が少しばかり聞く耳を持つと、大変に勿体ぶった仕草で声を潜めて話し始めた。

 

「霊剣の話……もとい辻斬りの話か。……また一つ面白ぇのが入ってきたぜぇ?」

 

 胡散臭い面、まるで情報屋のような話ぶりだ。

 

「あれは、そう……辻斬りなんだよ。そう、辻斬り……」

「…………」

「そうそう、辻斬りよ。……辻斬りってどうやって書くんだろな、まあいいや」

「ええい、早よ話さんか! 大した話でもなかろう」

「慌てんなよ。先生みてえなジジイ口調になってんぞ」

「ジジイだと? 撤回しろ、先生はまだお若い」

「わーってるよ。武者修行のし過ぎで若作りなんだよな、おめえの先生はよ」

 

 仁慈の額に青筋が浮かび、平静を保つために深く、深く息を吸った。心技体、治太郎は図らずもよく武道の心得を学ばせてくれる。日常茶飯事であるため仁慈の怒りの制御は並みの人間を超えていた。

 

「……それで霊剣の話は?」

「昨日、馬鹿でけえ道場の免許皆伝がやられたって話したろ? あれどうやら〝与助(よすけ)〟って暴れん坊の仕業らしいぜ?」

 

 彼の噂話は基本取るに足らないが、仁慈は聞いてやることにした。

 

「なぁ? この話聞いたことねえか?」

「ない。いつもそれを聞くがないだろ」

「はははっ、そりゃそうだ。あったら話せなくて困る」

「なんなんだお前」

「でな?」

「おう……」

「与助ってのは、ここ近くの山で有名な野盗の一団に襲われて、半殺しにして暴れ回ったっつう免許皆伝の剣士でよ。〝血塗れの与助〟って異名有りだ。長え髪を返り血で染め上げて真っ赤らしい。……〝血塗れの与助〟かぁ。俺も欲しいぜ、(いき)でいなせな異名がよ」

「それ(いき)でいなせか?」

「でな?」

「おう……」

「野盗相手に真剣でもって許可なく流派の剣術を使ったから、免許皆伝でも破門同然に扱われてたんだとさ。なんか可哀想だろ? きっと襲われたから身を守りたかっただけだぜ? 護身術学んでんのに使ったら怒られるって、世知辛ぇよなぁ。俺は侍にならなくてよかったぜ」

「いやお前今は武家だろ。……まあでも、侍は常に切腹覚悟で刀を握るものだ」

「でな? その与助がいたのがあの馬鹿でけえ道場だったって話よ。破門にした私怨で道場を襲った! つまり辻斬りの正体は〝血塗れの与助〟だって訳だッ!」

 

 意気揚々、『治太郎犯人見つけたり』と顔に書いてあった。仁慈は自分の道場の門弟が二人だとそうした面倒事も起こらないものだな、と他人事のように聞き続ける。

 

「今日騒がしいだろ? 今朝、橋の下で折れた剣が見つかったらしいぜ。それが馬鹿道場が代々後生大事に守ってきた宝剣で、霊剣らしい。道場の師範代達が束になっても護りきれなかった霊剣が持ち出された上に、折られて捨てられたってんで、道場の門弟共は犯人探しに躍起になってるって訳よ」

 

 恐怖驚嘆の感想待ちをしている彼に対し、仁慈は冷めた目を向ける。

 

「霊剣なんて大層なものが、そう簡単に折れるか?」

「……そりゃあ、錆びはしねえだろうが……頑張れば折れるんじゃねえか?」

「折れるならただの剣ではないか」

「お前野暮だね、野暮わんこ。霊剣ってことにした方が面白えんだからいいんだよ、こんちきしょう」

 

 辺りを見渡すと未だ騒ぎが収まる気配はない。むしろ人通りは増えているように見えた。

 

「それで今日は辻説法(つじせっぽう)のご隠居が普段いる場所も揉みくちゃなわけか」

「ああ。流石に今日は来ねえだろ。こんな騒ぎじゃなあ? 目が見えねんじゃ歩くのも危ねぇだろうしよ」

「……ならば骨折り損か」

「何ジジイ目当てみてえに言いやがって。俺に会いに来たんだろ」

「なわけあるか」

「ああ? そんなジジイの小話が好きなら本でも読みゃいいだろ。おめえは文字読めんだからよ」

「本もいいが、人伝(ひとづて)に聞くというもの乙なものだ。というか読み書きに関してはお前も小さい頃から同じ道場で習っていただろ鳥頭」

 

 ここでいう道場とは仁慈のいる道場ではなく、辻斬りのあった大きな道場――黄竜館(こうりゅうかん)のこと。


 そこではかつて、武家の子から孤児まで分け隔てなく迎え入れる学び舎を開いていた。早くに親を亡くした二人はそこで出会い、仁慈は武家の出ではないものの幼少からそこで剣の手ほどきを受けていた。


 治太郎はというと、剣術はもちろん、学問に対しても飽き性で仮名文字すら真面目に覚えようとはしなかった。

 

「俺は腕っ節が強えから学問なんざいらねんだよ」

「お前がそう言って師範を困らせ、武家の者達に喧嘩を売ったせいで私まで行けなくなったんだろうが」

「いいじゃねえか。今じゃ俺はお武家の仲間入りで、お前は拾われた先でまた剣を学んでんだから」

 

 これまで何度も勉強しろと言ってきた仁慈だが、今ではすっかり諦めている。なぜこんな男を武家が拾ったのかは不思議でならないが、底抜けの明るさがあることだけは確かだろう。

 

「お前が羨ましいよ」

「おいおいおい、照れるだろ。どこが羨ましんだ? 顔か? そりゃ無理な相談だぜ。祈祷しても無駄だ。神も仏も俺の虜。俺以外の口説き文句は聞き入れちゃくれないのさ」

「羨ましいのはその馬鹿さ加減で十七まで生きてこれた強運のことだよ、色男」

「んだとォッ!」

 

 往来の真ん中で二人は取っ組み合う。


 しかし、普段なら火事と喧嘩を騒ぎ立てる町人でさえ誰一人として集まらない。誰も止めてくれず互いにどうしたものかと迷っていると、血相を変えた壮年の男が大声上げながら二人に割って入る。

 

「てーへんだ! てーへんだ! てーへんだよぉぉ!」

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