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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
序章 燻り(くゆり)
19/44

19話 『町に舞う姫/奥義伝授』

 天狐は慈愛に満ちた表情でただ静かに寄り添った。


「人はなぜ悩める力を得てしまったのでしょうね。……書物でしか知り得ませんが、人の悩みは昔から今に至るまで尽きないものなのですね」

「人と関わるというのは自分の弱さを知ることなのかもしれません」


 すると天狐は思いついたように大きな瞳を輝かせた。


「わたくし、やはり町へ行ってみたいです。仁慈様が普段どんな方と、どんな会話をなさっているのか、この目で見たいのです」


 仁慈が返す言葉に詰まると、天狐は不思議そうに彼の目を見た。


(世の中にはきっと天狐殿が目を輝かせるものが数え切れないほどある。……それでも天狐殿は変わらず私と話をしてくれるのだろうか……)


 あまりに身勝手な独占欲を悟った仁慈は感情に蓋をしてゆっくりと口を開く。


「……私も天狐殿には色んな人に出会ってもらいたいです。ここにはないものが町には沢山ありますから……私以外にも」


 言葉とは裏腹に、声に滲んだ僅かな不安。

 仁慈のそんな心の内を知ってか知らずか、天狐は掟を思い出しては寂しげに微笑んだ。


「申し訳ありません、つい夢のようなことを……。この社を囲むしめ縄の外へ出ることは許されていませんのに」

「どうして天狐殿はそれを守っておられるのですか」


 仁慈が問うと、彼女は静かに空を見上げる。


「神様とのお約束なのです。わたくしの務めが終わる、その時までは……」


 諦めを含んだ声に、仁慈は思わず強い口調で返す。


「あまりにもったいない」

「え……?」

「美味しいものも、綺麗な景色も、人々の営みも……何も知らずに、ただここで務めを終えるのを待つだけなど」


 仁慈の目には華やかな彼女が町を軽やかに歩く姿が見えていた。


「……けれど掟を破れば天罰が下りましょう」

「でも、神様は気まぐれです。もししめ縄の外へ出られたなら、それも神様の思し召しではありませんか?」


 天狐は一度目を見開いた。

 そして何かを証明するように、ふわりと立ち上がってしめ縄の方へ歩み寄る。


 彼女がそっと手を差し出すと、指先が外へ触れる寸前でぴたりと止まる。手のひらの周りに淡い光の壁が浮かび上がり、彼女を阻んでいた。


「ご覧の通り、わたくしではこの結界は越えられませんの」


 儚げなその姿は、美しく飾られた鳥かごの中で飼われた小鳥そのもの。

 

 目の当たりにした光景を前に、天狐が町へ行くことをどこか不安に思っていた仁慈は消えさり、ただ彼女を救いたい意思のみがそこにあった。


「…………」

「仁慈様がしめ縄を越えられることが不自然なのです。それはきっと仁慈様の霊魂によるもので、わたくしにはない特別なものなのです」


 特別、それは仁慈にとって一番かけ離れた言葉で、何より師範に求めていたものだった。


「私如きが特別だというのなら占いを的中させてしまう天狐殿ならば、きっと奇跡も起こせるはず」


 彼女は首を横に振る。


「……その占いが外に行けた後の不幸を視せるのです」

「それはどんな不幸なのですか?」

「あまり詳しいことは視えません。ただ、わたくしが泣いているのです。……誰かのそばで」


 その『誰か』が仁慈であると悟ってしまった彼女は口をつぐむ。


(でも貴女は町での話を楽しげに聞きながら、時折切ない顔を隠していたではありませんか……)


 仁慈の拳に力が籠る。


「ならば私が護ります。貴女の剣となれるのならば、私は剣を握れるのです。……私は貴女の隣で町を歩きたい」


 彼は固い決意を声に込めた。


「仁慈様……」

「そうそう、お気に入りの茶屋があるのです。ぜひご一緒に行きませんか」

「いいですね……叶うことなら行ってみたいです」


 まだどこか来ない夢を語るような天狐に対し、仁慈は言葉を惜しまなかった。


「……必ず貴女をここから連れ出します。方法は皆目見当もつきませんが、どうしてか自信があるのです。……それが叶う日までは、町の賑わいの代わりに、私の他愛もない話にお付き合いいただけると嬉しいです」


 彼女は安らかに一筋の涙をこぼした。それはとても繊細な光に包まれる透き通ったものだった。


「……生まれて初めて、心からのお優しい言葉をいただいた気がします……」


 泣いている女性に何と声を掛ければいいのか仁慈には分からない。すると彼女は続けて言った。


「ご一緒にお食事をしとうございます」

「食事?」

「はい。誰かと会話をしながら食事をするのが、ささやかな夢でございました」

「私でよければいつでも喜んで」

「本当に……? よろしいのですか?」

「もちろんですとも」

「もし、もしよろしければ……朝でも、昼でも、夜でも。仁慈様がいらっしゃる時に、ご一緒にどうでしょうか」


 あまりに切実で健気な姿。仁慈に断る理由などあろうはずもなかった。


「ぜひ。ご一緒させてください」

「よかった……。食べ物ならお供え物のお下がりが沢山ありますの。二人でいただきましょう。新鮮なうちに」


 天狐は満開の花のように笑う。

 二つの約束を大事に抱えるように仁慈は社を後にした。


 一人きりになった天狐の元に、一羽の小鳥がそっと寄り添う。彼女は仁慈が去っていった山道をいつまでも見つめていた。


 先程までの賑やかさが嘘のように、辺りには木々の葉が風にそよぐ音しか聞こえない。


「初めて、知りました。……この場所は、こんなにも静かだったのですね」



 仁慈が道場へと戻る半刻ほど前のこと。

 

 一羽の(とんび)が書状を持って青空を翔るその下、道場の庭には二つの影があった。


 竹刀が空気を切り裂く鋭い音と、激しく打ち合う乾いた破裂音が、やがて来る夏の始まりを告げる、湿った空気を震わせている。師範と誠士による苛烈な稽古であった。

 

 太刀筋はもはや稽古というよりは真剣での斬り合いに近く、一瞬の油断が死に繋がるような気迫が二人を中心に渦巻いていた。


「仁慈はまだ帰らぬのか」


 一際鋭い踏み込みと共に師範が問う。その声は息一つ乱れていない。誠士はそれを紙一重で受け流しながら、額に滲む汗もそのままに答える。


「どうせ町へ出向いているのでしょう。先生も、たまには町へいらしてみては?」

「私は騒がしい場所は好かぬ。……それに、町だけか? 近頃の奴はどこか浮かれておる。何か知らぬか」

「いなことを。奴がこの俺に、剣術以外の話をするものとお思いで?」


 攻防が中断され、誠士は手ぬぐいで首筋を流れる汗を拭う。陽光に照らされたその横顔はどこか遠くを向いていた。


「であるか。――だが最近のお前は、仁慈に甘かろう」

「まさか。あの愚弟にですか?」

「……馴れ合いはするな。このままでは追い抜かれるぞ」


 師範の言葉には確信があった。


「今の仁慈の覚悟では、確かにお前に一歩遅れを取るだろう。だが、奴の剣の才は本物だ。本気で『殺める』意志さえ芽生えれば、必ずお前を超える」

「……是非そのお言葉をあいつにも言ってやってください。俺からの最初で最後のお願いです」

「甘くなったものだな、誠士」


 誠士の軽口も、師範の全てを見透かす眼差しの前では意味を持たない。これは誠士自身が誰よりも身に染みていた。彼は一度、天を仰いで息を吐くと覚悟を決めて師に向き直った。


「免許皆伝の儀、廻国(かいこく)修行が始まれば、俺は当分ここへは帰ってきません。修行を終え、この道場に戻ったとしても先生との仕合で晴れてお認めいただけたなら、俺はすぐに生家に帰って父の道場を立て直します。……ですから、もうあいつと会える日は限られているのです」

「それで、急に仲良しごっこか」

「先生が仁慈に『兄上』と呼ぶよう躾けたのではありませんか。……だというのに、俺は兄らしいことを何一つしてやれませんでした。……遅すぎましたが、最後くらいは兄でいようと思ったのです」


 師範は何も言わなかった。沈黙が何を意味するのか。何年も、何千本と打ち合ってきた誠士には分かる。お前の役割はそんなことではないだろう、という無言の叱責だ。


「『何の為にお前を弟子にしたのか』、とは仰らないでいただけるのですね」

「何?」

「仁慈を焚きつけるための、俺だったのではありませんか?」

「……馬鹿を言え」

「昔、先生は弟子を二人同時に取られたことはないとお聞きしました。……仁慈は、先生にとって特別だったのではないですか」

「ただの拾い子だ。……珍しいな誠士、免許皆伝の儀を前に弱気になっておるのだな」

「……そうかもしれません」 


 肩を落とす誠士に、師範は少しだけばつが悪そうな顔をした。


「……すまぬな。お前たちの不仲は、私の差配のせいだろう。二人の弟子は、私にとっても初の試みであった。元々弟子であった仁慈に、後から来たお主を『兄』と呼ばせたのは、お主の言う通り、競争を煽りたかったからだ。だが、この事に後悔はない。それによって互いにしのぎを削り、切磋琢磨してきたのは紛れもない事実だろう」

「はい。全て、先生の狙い通りでした」


 一礼。

 再び竹刀を構えて向き合うと、風が流れを見失うほど空気が張り詰める。先程までの感傷は戦いの場に持ち込んではいけない。望みや不安といった余分を捨て、本物の技のみが佇む。


「誠士、覚悟を決めろ。お前はこれから、魔を断つための技を会得するのだ」

「魔を?」

廻国(かいこく)修行の真の目的は、道場破りなどという生ぬるいものではない。全国各地に息を潜める、外道に堕ちた神の血族を根絶やしにすることだ。――お前がその手で殺すのだ」


 師範の冷えた眼光が鋭く誠士を射抜いた。


「その旅立ちに際し、たった二つの奥義を授ける――」


 言葉を合図に、轟轟たる竹刀の破裂音が道場に鳴り響くのだった。

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