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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
序章 燻り(くゆり)
18/44

18話 『神子のメイ』

 翌晩。修行を終えて夕餉(ゆうげ)も済ませた頃、仁慈は独り、道場の縁側で静かに月を眺めていた。


 脳裏に浮かぶのは、山奥の社に佇む巫女の姿。天狐の涼やかな声、寂しさを隠すように見せる気丈な笑み、そして別れ際の不安げな瞳。

 

 誠士の言葉が頭をよぎる。『お前が剣を捨てたとしても、そばにいてくれる者達』。彼女も、その一人なのだろうか。


(……とはいえ、すぐ会いに行ってはふしだらな男だと思われるのかもしれないな)


 (はや)る気持ちを理性が押し留める。もう夜も更けてきた。ここからでは社に着く頃には真夜中だろう。きっと彼女は眠っているはずだ。


 仁慈は風に髪を揺らしながら、ただ月を見上げた。


 その頃、社には澄んだ月明かりが静かに降り注いでいた。拝殿の濡れ縁に腰掛ける天狐の膝の上で、一羽の小鳥が気遣うように喉を鳴らしている。

 

「……流石に、昨日の今日ではいらっしゃいませんよね」

 

 月に溶けてしまいそうなほどか細い声。彼女は小鳥の頭を優しく撫でる。


「嫌いになってしまわれたのでしょうか」


 心が弾んだあの時を思い返すほどに、胸の奥から小さな不安が芽生えてくる。長く引き留めすぎたのかもしれない。つまらない話だったのかもしれない。


「初めて人と話せたからとは言っても、きっとはしたない振る舞いでしたね。……ああ、これがきっと、最初で最後の幸運だったのに」

 

 結んだ唇が微かに震える。


「大丈夫。きっとまた、来てくださいます。……来て、くれますよね」


 天狐は懐から占いに使う数枚の木の札を取り出すも、悩んだ末にそっと置いて、月を見上げるのだった。



 あくる日、仁慈は町へ出向き買い物をした後に天狐の社へと向かった。

 

 山を登り、社の周りを囲むしめ縄が遠くで見え始めたころ、仁慈は異様な気配を察知する。


 それに目を向けると、一人の少女が力尽きたように倒れ込んでいた。年は十四、五といったところ。着物は所々が鋭く裂け、血と泥で汚れ、首元ほどの長さの白髪は土と葉が絡まって無残に乱れている。

 

 仁慈はすぐさま駆け寄った。

 

「いかがされた。野盗にでも遭われましたか?」

「――誰っ!」

 

 少女は素早く身を起こして仁慈を睨みつける。痛々しい額の傷から血が伝い、瞳からは恐怖と殺意が(うかが)えた。

 

「怪しい者ではありませぬ。通りすがりの者です」

「……ただの人、でございますか。……これは僥倖(ぎょうこう)。お腹が空いておりまして」

 

 仁慈は咄嗟に手土産に買った大福と水筒を差し出す。少女はそれを一瞥してから、仁慈の腰の刀に視線を落とした。


「どうぞ遠慮なさらず」

 

 すると少女は礼も言わずに(むさぼ)り始める。その食べっぷりに驚いた仁慈は「しっかり噛まねば喉に詰まりますよ」と微笑む。


 あっという間に四つあった大福を全て平げ、終いには水筒の水まで飲み干してしまった。


「余程お腹が空いていたようですね。お口に合いましたか? この大福、麓の町で評判らしいのですが」


 朗らかに伝えたつもりだが、少女は何も言わなかった。


(大福は若い女性にはあまり好まれないのか……?)

 

 落ち着いたのか、彼女は沈黙のままに口の周りに付いた大福の粉を拭う。その所作はどこか気品が垣間見えた。


 少しだけ体力が戻った様子の少女は、体中から血を滲ませてふらつきながらも社の方角へ歩み出した。

 

「どちらへ行かれるのですか。そのお怪我では、手当てをしなければ」

「…………」

「――あの」

「わたくしの求めるものは、あちらに……必ずや……」

 

 仁慈がその腕を掴んで止めようとすると、少女の華奢な体からは想像もつかないほどの力で、手を振り払った。

 

 ただ事ではない。話せないことなのだろうと分かりつつも、心配した仁慈は彼女の後を追う。


 やがて、二人は社を囲むしめ縄の前までたどり着く。少女は何かに引き寄せられるように、縄の内側へ入ろうとした瞬間、閃光が走る。


「痛ッ」

 

 結界の見えざる壁に弾かれたのだ。

 それから何度手を伸ばしても、彼女が内側には入ることは叶わない。

 

「なぜです……。なぜわたくしばかり、このような目に……!」

 

 結界に拒絶された彼女は、憎悪のこもった目で背後の仁慈を睨みつける。瞳はもはやただの少女のものではなかった。


 しかし、彼女は何かを思いとどまるように奥歯を噛み締めると、その場を走り去ろうとする。

 

「お待ちください。貴女は一体」

 

 仁慈の問いに、少女は一度だけ振り返り、言い放った。

 

「――神子(かみごの)メイ」


 彼女の全てがそれに詰められているように仁慈は感じた。

 

(神子……先生の仰った言葉と同じ)


 仁慈が呆然とする間に、彼女は山道へと消えていった。


(あの傷では無事に(ふもと)まで帰ることすらままないだろうに。……あの人はどこか天狐殿と似ている。もしかすると……人ではなく、山の(あやかし)なのかもしれない)

 

 山に踏み入れば不思議なことも珍しくはない。仁慈は天狐を思い出すと、社に視線を戻す。

 

(……手土産も渡してしまった。このまま手ぶらで伺うのは、あまりに無礼だろうか)

 

 引き返そうと(かかと)を返した。が、すぐに思い直す。彼女は待っていると言った。ならば行くべきだと天狐の元へと駆け出した。


 突如としてそよ風が木々を伝い、花の香りがする。


「仁慈様……。お待ちしておりました」

 

 社の鳥居をくぐると、まるで予期していたかのように天狐が微笑みながら佇んでいた。

 

「天狐殿……。こんにちは。このようにお出迎えいただくとは。もしや、占いで私が来ることを……?」

「いえ。仁慈様がいらっしゃらないかと、待ち遠しくてここに立っていただけでございます」

 

 はにかんで微笑む彼女に、仁慈の頬が熱くなる。

 

 先程の出来事を話したところで手ぶらで来たことに変わりはなく、むしろ言い訳に聞こえてしまうかもしれないと仁慈は敢えて話さないことを選んだ。


「申し訳ありませぬ。土産の一つも無しに来てしまいました」

「まあ。そんなこと、どうかお気になさらないでくださいまし」


 天狐は本心でそう語りながらくすりと笑う。


「そういうわけにもいきませぬ。次こそは――」

「礼儀を重んじてくださるお方だとは存じ上げております。けれど、わたくしにそのようなお気遣いは不要なのです」


 彼女は仁慈に一歩近づくと、吸い込まれそうなほど真摯な瞳で告げた。


「それを気にされて、いらっしゃる日が減ってしまう方が、わたくしにはずっと辛いことでございます。ですから、どうか……。どうかいつでも、ご自分のお家のようにお気軽にいらしてくださいね」

「……お家」


 家、と彼女は言った。まるで家族ではないか、と仁慈は勝手に恥ずかしさを覚えた。照れ隠しに、彼は慌てて話題を変える。


「そういえば、前にしていただいた占いの結果ですが、どうやら私ではなく私の友人が的中していたようです」

「え!? まさかそんな……」

「私も驚きました。あいつは白馬を褒美にもらったと大層喜んでおりました」

「わたくしの占いが外れることなど初めてで……。仁慈様ではない未来だったなんて……申し訳ありませんでした」


 俯く彼女に仁慈は慌てて首を横に振った。


「いえいえ!  あいつは私にとって兄弟みたいなものなので、きっとそういうこともあるのでしょう。むしろ、友人とはいえ的中したのですから、やはり天狐殿は人とは違う不思議な力をお持ちなのですね」

「まあ、そんな温かいお言葉をかけてくださるなんて。……ですがそんな大層なものではございませんのよ?」


 天狐は少しだけ頬を染め、嬉しそうに微笑む。その様子に見惚れていると、不意に会話に間が空いた。


「あ! そうそう、面白いことがあったのです。その占いが的中した友人は治太郎といって、いつも運のいい奴でして――」


 それから仁慈は他愛もない町での出来事を語り始めた。与助と誠士の関係や、町で人気者の治太郎が毎度騒ぎを大きくすること。そんな日々の様を話していると、天狐は楽しそうに相槌を打った。

 彼女は天性の聞き上手で、仁慈はいつまでも話してしまいそうになる。


「ふふっ、面白おかしい話ばかりですね」

「誠に飽きない連中ですよ」

「仁慈様の周りはいつも楽しいことばかりなのですか?」

「ええ、楽しいことは沢山あります。……でも、そうですね。人と関わるということは、楽しいことばかりでもありませぬ」


 その言葉と共に、仁慈の脳裏には師範の厳しい顔が浮かぶ。ふと彼の表情から笑みが消えたことに天狐はすぐに気がついた。


「……何か、あったのですか?」


 心配そうに、彼女がその顔を覗き込む。


「……いえ。大したことでは」

「わたくしにとって仁慈様のお話で大したことのないものなどありませんよ」


 そんな彼女の(かぐわ)しい花に似た声。仁慈はこの庭に自分はそぐわないと、分かりつつあった。


「……私はあまりこの場所に不安を持ち込みたくないのです。……天狐殿といると、全てをここの外に置いていけるような気がして」

「全て?」

「……はい。この先どう生きたいのか、とか。剣士を志す身でありながら、剣の才が無いこととか……」


 ぽつりと漏れた己の弱音に驚いた。だが、それが本来の自分なのだとすぐに飲み込めた。


「天狐殿といると、私が生涯を捧げると誓ったはずの剣さえも、忘れてしまえそうな気がするのです。……それがなくては、私には何も残らないというのに」


 彼女はただ静かに仁慈の横顔を眺めていた。


「ただずっと……ここにいたい。そう思ってしまうのです」


 天狐の表情は彼を照らすかのようにふわりと華やぐ。


「……幸せな奇遇でございますね。わたくしも仁慈様にずっとここにいてほしいと、そう思っておりました」


 仁慈は彼女の方を振り向いた。


「ここにいてはいけないのですか? 輝ける火のような心根(こころね)を持つ仁慈様の顔を曇らせるようなことをなぜ続けるのですか? なぜそこまで、お稽古をなさるのですか?」


 その問の答えは最初から一つだった。


「先生の、父上の誉れになりたいのです」

「それはどうしてですか?」

「私の血の繋がった父は火事で亡くなる直前、先生に言ったそうです。『仁慈は任せた』と」


 彼女はあまり理解できていない顔をしていた。まるで死という概念そのものを知らないようにも、死が当たり前で何も意味のないものだと悟ったようにも見える面持ちだ。


「私の父の遺言が先生だというのなら、それが答えだと思うのです」

「…………」

「あの時私は生き残った。この命には、きっと何か意味があるはずなのです。神に拾われたこの命の意味を、私はまだ見出せずにいるのです」


 彼の瞳には焼けて灰にまみれた何もない町が見えていた。何もなくなった幼い自分が見えていた。


「……生き物は皆、何も持たずに産まれてまいりますよ。意味など持たず、裸のままに。……ただ流れるままに生きたとしても、その生涯の意味は後からついてくるものだとわたくしは思います」

「……流されて生きて、呑気に死ぬまでの猶予を潰せるほど、私には心の余裕が無いのです」

「仁慈様は一体何に焦っておいでなのですか?」


 天狐は空を指差すと、流れ行く雲があった。そこへ小鳥が翼をはためかせ、指に止まる。


「小鳥は何も考えずに鳴きますよ。そしてその声はとても綺麗で、どこまでも透き通るのです」

 

 呼応するように小鳥が音色を響かせる。


「……私にとって意味もなくこの命をすり減らすというのは辛いことなのです」


 二人の間を風が抜けた。


「……風は行くあてもなく吹きます。日は何も語らずに沈みますよ。……そして仁慈様が悩み、何を得ようが、何も得なかろうが、それすら大きな理の範疇なのですよ」


 すっと胸が解ける言葉で、彼女は続ける。


「……そうして、神様は気まぐれで、きっと何も考えてなどいらっしゃらない。けれど、神様のなさることですから、その全てに意味があるのです」


 仁慈は天狐という存在を空のように感じた。


 彼女の言の葉は答えではない。だが荒れ狂う心を鎮める静かな風だった。まるで神仏に返事のない祈りを捧げるかのような、安らぎに満ちていた。


 小鳥が唄う。彼女の繊細な髪がたゆたう。鳥はただ気ままに、時に儚げに美しい音を奏でる。ただそれだけで意味があるのだと思えてしまうほどに。

 

 つられて笑みがこぼれる彼女もまた、仁慈にとってそこにいるだけで特別に見えた。


(天狐殿といると私が私ではなくなる……。この僅かな時間に途方もない夢を見て、触れられない時にこそ彼女への想いを募らせる。……笑みが目蓋に染み付いて、寝る前でさえ不意に思い出してしまうのだろう)

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