17話 『迫る、免許皆伝の儀』
それは今にも掴みかからんとしていた誠士と与助の動きさえ止めるほどの、魂からの咆哮だった。二人は「なんだ?」と目を丸くして仁慈を見る。
当の仁慈は、わなわなと肩を震わせ、信じられないものを見る目で治太郎を睨みつけていた。
「な、なんだよ急に。驚かせやがって」
「天狐殿の占いが……お前などと……。駄目だ。ここで私はお前を斬る。私の淡い期待も、運命も、何もかも持っていきやがって……覚悟しろ!」
仁慈の右手が脇差の柄に掛かる。それは冗談ではなかった。本気で柄を握りしめ、カチリと鯉口が切られる音が確かに響く。普段の彼からは想像もつかないほどの冷たい殺気が迸った。
「おいおい、って、ちょ、マジで刀握ってんじゃねえか! お前らしくも……」
治太郎の顔から見る見るうちに笑みが消えていく。
「…………」
「こ、こりゃ本気の目だ! 誰か! 助けてくれ〜!」
情けない悲鳴を上げる治太郎と斬り掛かろうとする仁慈の間に、見兼ねた与助が巨体を滑り込ませた。
「おいおい、落ち着けって。やけに怒ってんじゃねえか。治太郎、お前いったい何したんだよ」
「何もしてねえよ〜!」
仁慈は荒く「ふんっ」と鼻息を立てて顔を逸らす。だが、こういう時だけは妙に察しが良いのが治太郎という男だ。一連の流れと仁慈の反応が、彼の頭の中で一本の線として繋がる。
「……さては仁慈、女だな!!」
世紀の大発見かのように叫ぶ治太郎。
「「女ァァ!?」」
なぜか与助と誠士の驚きが寸分の違いもなく重なった。
「俺の華麗なる推理はこうだ! 仁慈は好きな女に占いをしてもらった。で、その結果は絶対に自分のことだと思い込んでた! ところがどっこい、実際はその幸運の持ち主が、この色男の俺様だったってわけよ!」
かなり図星。
当てられた仁慈は、怒りのあまり言葉もなく治太郎の胸ぐらに掴み掛かる。もうそれが答えだと言わんばかりの剣幕だった。
「うわっ! やっぱ当たりだぜこりゃ! おめぇ、好きな女がいたのかよ! ええ!? どこの誰よ! おいおい教えろって!」
「騒がしい奴ッ……! 与助、どいてくれ。私はこいつのいけ好かないツラを殴る!」
「いーや、そいつはどこの誰かを話してからだぜ、相棒?」
与助は通せん坊をするように、にやりと笑う。
「ちっ、お前もそっち側か!」
仁慈が後ずさると、今度は静観していたはずの誠士までが、じりっと距離を詰めてきた。
「仁慈、今のは誠か? 朴念仁のお前に……好きな女、だと?」
「……兄上まで」
先程までの喧嘩はどこへやら、三方向からの好奇の視線に晒されて仁慈は完全に逃げ場を失い、三者三様の尋問が始まる。
「で、どんな女なんだ」
口火を切った治太郎は、芝居がかった仕草で片肌を脱ぐ真似をする。
「もう割れてんだよ! この名奉行治太郎様の眼は誤魔化せねえぜ? とっとと吐きやがれってんだ!」
すっかりお奉行様気取りだ。
「待て待て。オレが描いてやる」
与助は懐からなぜか持っている筆と木の板を取り出すと、即興で絵を描き始めた。
「こんな女か?」
「違います」
「なんだそのやけに上品なねーちゃんは! こりゃ与助の好みだろ」
「ばっ! ちげーし!!」
「案外年上好きか」
「今はテメェの話だろ仁慈ィ」
それでも中々口を割らない仁慈に対し、誠士が冷ややかに口を開く。
「女にかまけている暇があるなら剣を折れ。そのまま駆け落ちでもして、二度と道場の敷居を跨ぐな」
「兄上お待ちを――」
「その女とやましいことでもあるのか?」
真顔の脅しに観念した仁慈はぽつり、ぽつりと天狐の人となりを語り始めた。だがそれが、彼らの好奇の炎に油を注ぐ結果となる。
天狐がいかに無垢で愛嬌があり、そしていかに美しいか。仁慈が語れば語るほど、三人の顔が険しくなっていく。
「――出会って早々、こんな距離だぁ!? けしからん!」
与助が治太郎の顔面に接吻する寸前まで顔を寄せ、唾を飛ばしながら叫んだ。
「漢なら責任取りがやれ!」
「いや、だから私からではなくて」
「大体、神社で何やってんだボケ! 神社は拝むところだろうがよォ!」
「それはごもっともだが……」
そして唾をかけられた治太郎が女の所作で与助にすり寄る。
「『お待ちになって――』じゃねえよこの野郎! 俺様だって言われたことねえぞコンチキショウ!!」
治太郎は裏声で天狐の真似をしながら、地団駄を踏んだ。
その横で固まっていた誠士は激しく言葉を放つ。
「なんだその女! はしたない! 狂ってる!」
「言い過ぎです兄上」
その後もあーだこーだとうるさい外野を、治太郎が両手を打ち鳴らして制した。
「まあまあ兄さん方、朴念仁慈にようやく来た春だぜ? 最後まで聞いてやろうじゃねえの」
聞いてくれとは一言も言っていない、という言葉を仁慈は押し留める。そしてどうにか天狐の誤解を解こうと、彼女の核心を口にした。
「あの人は、普通の女性とは違う。……言うなれば、精霊というか、仙女というか……人の尺度で語ってはならない尊き御方なのだ」
言葉を最後に、三人の動作がぴたりと止んだ。
彼らは憐れみ、同情するような視線を交わし合う。
「……こりゃダメだ」
「もういっちまってるな」
「恋とは恐ろしいものだ」
と、次々に述べられた。
「女狐だ。山に住んでるっつったろ? こりゃもう女狐に化かされてるに違ぇねえ。もう話自体全部嘘かもしれねえぞ」
「……は?」
「テメェもテメェだぜ仁慈。あれだけの戦いの後だってのによく女に惚れるぜ。大した器だよ相棒」
「…………」
与助が感心したように仁慈の肩を叩く。
「分かっておらんな、与助。命を懸けた戦いの後だからこそ人は愛を求め、恋に溺れるのだ」
誠士が知ったような口を利くと、すかさず治太郎が茶々を入れる。
「へぇ〜。弟分の前だからってカッコつけちゃって〜。誠士の旦那は恋の経験がおありで?」
「ふん」
誠士は顔を背けた。好き放題言われた仁慈の顔が死んでいる。
「まあまあ、まだ一回しか会ってねんだろ? 続きは改めて会ってからたっぷり聞かせてもらうとしようぜ兄さん方」
流石の治太郎も、これ以上は仁慈をいじめすぎると潮時を判断したらしい。この一言でようやく仁慈の尋問は終わりを告げた。
そうして四人は解散し、仁慈は誠士と共に道場への道を歩き始めた。
町の喧騒が次第に遠ざかり、昼下がりの日差しが二人の背を静かに焼く。穏やかで、少し気まずい沈黙と共に汗が流れだす。先に口を開いたのは誠士だ。
「聞いたぞ。昨日、大変だったらしいな」
「……相変わらずお耳がお早いですね」
昨日は昼から晩まで多方面に迷惑をかけた。仁慈はそれを反省し、次の言葉を待つ。
「よくあの与助を倒したものだ。愚弟と言えど、流石は先生の弟子といったところか」
仁慈は驚いた。彼は声音で分かる。それは紛れもない賞賛の言葉だった。
いつもは辛辣で、仁慈の全てを否定する兄弟子からの珍しく温かい言葉。思わず足を止め、誠士の横顔を見つめた。
「なんだ?」
「いえ……すみません。今日の兄上は、やけにお優しいなと」
「ふん。お前はそう思ってしまうのか」
仁慈は相手にとって酷い言葉だったのだと気づく。誠士は足を止めずに歩幅を徐々に狭め、前を向いたまま静かに続けた。
「実はな、もうじきに免許皆伝の儀が始まるのだ」
「遂に、免許皆伝の……!?」
「ああ。……数年苦楽を共にしたお前に、何も言わずに去るというのも素っ気ない。……先に言っておく。免許皆伝の儀には〝上〟と〝下〟がある。〝上〟は廻国修行を指し、各地を巡って己の剣を試す。それが終われば〝下〟だ。先生に旅の成果を見せ、認められれば晴れて免許皆伝となる」
それは、門下生の誰もが目指した頂。仁慈は息を呑んで、次の言葉を待った。
「数年は、ここには戻らないだろう。だから、お前とはちゃんと話しておきたかったのだ」
「兄上が私に、話しておきたいことですか」
「そうだ。……率直に言おう。お前は、人を斬る才が無い。剣の道を外れた方がいい」
(……また、それですか)
心の奥が、慣れた痛みだというのにずきりと疼く。
「またそれか、という顔だな」
「……私は、最後まで兄上には認めてはもらえませんでしたか」
うつむく仁慈の姿に、誠士の目にはこれまでの熱心な愚弟が重なった。朝から晩まで、何かに取り憑かれたように苦悶の表情で竹刀を振り、それでも師範の期待に応えられず、夜な夜なうなされる姿が。
「お前は、先生に固執し過ぎなのだ」
「…………」
「いくらお前が拾い子で、親の代わりを先生がなさったとしても、お前の人生はお前のものだ。確かに先生は剣でお前を見るだろう。だが、お前に剣を握る理由が自分自身に無いと言うのなら、もう握る必要はない」
「……私はそれでも、先生に認められたいのです」
頑なな答えに、誠士は一息をついた。
「もっと視野を広く持て。先生以外の沢山の人や物に触れて、知るべきだ」
「……それは、楽しいのでしょうか」
「――当たり前だ。昔からお前を見てきたが、詩や笛、炊事に学問、お前は様々なことに驚くほど優れている。それは俺以外の人間も認めるほどにだ。お前には、剣以外にも輝ける道がいくらでもある」
「それが何になるというのです」
何を言っても、今の仁慈には届かない。それは今までの誠士が仁慈の心に寄り添えるほどの関係を築かなかった罰だ。誠士はそれを悟り、少しだけ口調を和らげる。
「……よし、こうしよう。お前がいずれ廻国修行で各地を旅する時、必ず俺の故郷に来い。ここよりずっと田舎で、見渡す限り田畑しかない場所だが、楽しいことも沢山ある。そこで俺や俺の家族と、少しだけ羽を休めるといい。きっと、その暮らしも悪くないと思えるはずだ」
「私を……家に、招くのですか?」
驚いて顔を上げる仁慈に、誠士はふっと視線を逸らした。
「お前、俺が嫌いだろう」
「それは、兄上の方では」
「……そう見えていたか。すまなかったな。俺は昔から言葉が足りんのだ。……すまなかった。兄代わりになってやれなくて」
「……いえ、そんなことは」
「いい。いいんだ」
誠士は真っ直ぐに弟の目を見た。
「ただ、これだけは覚えていてくれ。お前が比類なき剣士でなくとも、どんなお前であったとしても、大倉仁慈は大倉仁慈だというだけで価値があり、ただのお前に、ただそばで寄り添ってくれる人がいるのだと」
「……そんな人など」
いるはずがない、と仁慈が言いかけた言葉を、誠士の強い声が遮る。
「馬鹿野郎。もういるだろう。お前が剣を捨てたとしても、そばにいてくれる者達が」
仁慈の脳裏に、馬鹿騒ぎをしていた友の顔が浮かび、言葉を失った。
それから何も返せる言葉がないまま、二人は道場に着いて、相も変わらず稽古を始めた。




