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君捨て山 ~八姫八君の物語~  作者: 切 実り
序章 燻り(くゆり)
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16話 『白馬の男』

【登場人物】

仁慈:若侍  

治太郎(四行重國):仁慈の幼馴染の町人。幕府重役の養子。

与助:赤髪長身の侍。血塗れの与助。 

誠士:仁慈唯一の兄弟子

 陽が昇り始め、山々の輪郭をなぞる頃。

 

 仁慈は風となって朝露の残る山道を駆けていく。懐に手渡された包みの確かな重みと、脳裏には天狐の笑みが焼き付いている。まるで鳥かごの巫女。彼女の境遇を思うと胸が痛むが、約束をした時の華やいだ表情が仁慈の心を温かくしてくれた。

 

(次はもっと上手く話そう)

 

 屋敷に帰ると、幸いにも師範の部屋はまだ静まり返っていた。

 

 息を殺して急ぎ朝餉(あさげ)の支度を始める。天狐から貰った干菓子や果物を膳に並べると、いつもの質素な食卓がまるで祝いの席であった。

 

(先生もお喜びになるだろうか……)

 

 微笑みの一つでもあれば、改めて礼も言えるというもの。そんな淡い期待を抱きながら、師範の起床を静かに待つ。


 しばらくして音もなく不意に現れた師範が、食膳を感情の読めない目で一瞥した。

 

「おはようございます。先生」

 

 師範は挨拶も返さないまま、黙々と食事を始める。

 

「…………」

 

 仁慈の期待は今日もまた空振りに終わった。

 

(『朝から豪勢ではないか』、くらいは言われるものかと思ったが……)

 

 食事中、二人の間に会話はない。食器の触れ合う乾いた音だけが、冷たく響いていた。

 

 昼時。仁慈が午前の稽古を終えて藤見町へ出ると、橋のたもとに大変な人だかりができていた。


 その中心にいるのは言うまでもなく治太郎。昨日の一件で彼はすっかり町の有名人だった。与助との一戦を見ていた者、そして何より彼が幕府の重役である四行家の御曹司だと知った者達が、口々にもてはやしている。

 

 大勢の町人に囲まれ、楽しそうに軽口を叩く治太郎の横顔。

 相変わらずの世渡り上手に、少しの切なさと大きな感心を交えながら、わざわざ割って入るのも野暮だろう、と仁慈が通り過ぎようとした。


「おっ! 仁慈じゃねえか! おーい!」

 

 人垣の中から、治太郎が満面の笑みで手を振ってくる。仁慈はわざとらしく溜め息をついてみせた。


 治太郎は仁慈に駆け寄っては強引に手を引いて、賑わいの中心へ連れてくる。

 

「なーに無視してんだ兄弟」

「これはこれは、四行家の若様。町の見回りですかい?」

「おい、おめえもそのくだりかよ! もういいんだよ、俺はただの治太郎だっつの!」

 

 治太郎はそう言って笑うが、まんざらでもない様子だ。周りから「よっ若様!」「若殿!」と威勢の良い声がする。

 

「おい! 今バカ殿って言ったやつ誰だ!」

 

 その一言で皆の笑いが波のように押し寄せる。

 

(凄いな、こいつは……。昨日の今日だというのに、家柄をからかう茶茶も全て皆が言い尽くしてしまったみたいだ……)


 仁慈の中で、わずかに治太郎が遠くなる気配がした。右を見ても左を見ても誰かが笑っている。大勢に囲まれる人間とはこういう気持ちなのだろう。

 

 すると人混みを割って大柄な男が姿を現す。与助だ。彼は周りの喧騒には目もくれず、仁慈の真ん前にやって来る。


「おお。与助」

「よう。黄竜館に行ってきたとこだ」


 治太郎が間に入って「おめえら昨日あれからどうだったんだよ。気になって酒飲まなきゃ寝れなかったぜ」とこそこそ話す。野次馬達がなんだなんだと聞き耳を立てるので、場所を変えることとなった。


 その三人の去り際、町人達が与助の背に謝罪の声をあげた。


「なんだありゃ。昨日オレのせいで大騒ぎしちまったってのに、案外嫌われてねえな」

「この治太郎様がダチを乱暴者のままにしておけるかっての」


 おそらく瓦版よりも効果のある治太郎の口車が良い噂を流したのだろう。


「礼には及ばんぜ」


 とキメ顔の治太郎。


「ったりめえだ。元はテメエが『血塗れ』の噂広めたんだろうが」

「それにこいつは我らが奮闘しているというのに、その前に呑気に帰って晩酌のうちにすやすや寝ていたらしいしな」

「すやすやだァ?」

「そりゃ〜もう、すやぁっと寝たけどよぉ。ちと待ってくれよ。これでもお前らが心配だったんだぜ?」

 

 申し訳なさが勝ったのか、治太郎がお代を持つということで、三人は少し離れた〝出逢(であい)〟という茶屋の縁台に腰を下ろす。

 

「それで、どうであった」

「まあ案の定、門弟どもには白い目で見られた。けど、オレがいなきゃなんねえって啖呵切っちまった手前、引くに引けねえだろ。しばらくは顔出して、道場の立て直しを手伝うことにしたぜ」

 

 ぶっきらぼうに言う与助だが、その瞳には新たな決意が宿っていた。

 

「それに、まだ諦めちゃいねえ。大将を殺した下手人とか霊剣とか色々、オメエの先生なら何か知ってそうだからな。その答えが見つかるまで、オレも仁慈についていく」

 

 与助は鋭い眼差しを仁慈に向ける。彼の剣はもはやただの復讐のためだけではなく、誇りと名誉を守るためのものに変わりつつあった。


「相分かった。ではたまには私の大倉道場にも顔を出すといい。先生も与助を気に入っていたようだしな」

「おお! あの先生に指南してもらえんならいいねえ!」

「だがくれぐれも、兄上と喧嘩はするなよ?」

「ッあー! そうじゃねえか。クソ誠士がいるんだったな」


 青ざめた顔の与助の前を歩く一人の男が足を止める。


「兄上!?」

「誠士! なんでテメエがいんだよ!」

 

 全てを聞いていた誠士は、仁慈の袖を強く引っ張って自分の背中側へ追いやった。


「話は聞かせてもらった。血塗れの与助が道場の敷居を跨ぐなど、俺が断固として認めん」

「んだとテメエ! クソ誠士ィ!」


 与助の巨体が怒気ではち切れんばかりに膨れ上がる。仁慈が諭したそばから喧嘩を始めた。

 

「俺はこの愚弟の世話だけで手一杯なんだ。お前のような図体だけの汚い男の面倒まで見きれるものか」

「あんだとテメエ! 仁慈は愚弟なんかじゃねえだろ!」

 

 誠士は心底くだらないものを見るかのように、冷たく仁慈を一瞥した。

 

「……ほう。馬鹿同士で仲良くなったらしいな」

「ああッ!? うっし、ならテメエんとこの道場で仕合といこうじゃねえか! 大先生の前で存分に恥かかせてやる!」

「面白い。だが、その前に序列というものを教えてやらねばなるまい。うちの門を叩く以上、お前は俺の弟弟子になるわけだが。構わんな?」

「あ?」

「俺よりも後に弟子入りするのだから当然だろう」

 

 正論だった。正論であるが故に腕っぷしではどうにもならない。決まり事を重んじる性分の与助は、ぐっと言葉に詰まる。

 

(それを言うなら、兄上よりも私の方が先に弟子なのですが……)

 

 仁慈は心の中で、誰に言うでもなく言葉を飲み込んだ。今ここでそれを口にしたところで余計に話がこじれるだけだった。

 

「……ならやめだ! テメエが兄弟子なんざ、死んでも御免だからな!」

 

 与助は吐き捨てると、仁慈に向き直った。


「わりぃな仁慈、何か騒動がある時だけオレを呼んでくれ」

「絶ッ対に呼ぶなよ、愚弟」

「…………」


 そこから再び始まった子どもの喧嘩のような口論に、仁慈が深い溜め息をついた時だった。


 いつの間にか与助の陰に隠れていた治太郎が、こそこそと悪戯っ子のような笑みを浮かべて仁慈の隣にやってくる。

 

「こいつら馬鹿だねぇ〜!」

「こら、聞こえるぞ」

 

 仁慈がたしなめるが治太郎はどこ吹く風だ。馬鹿共に聞こえないよう仁慈にだけ囁きかける。

 

「いやあ、しかし今日は笑いが止まんねえ日だな。よし決めた、記念日に制定しよう。仁慈、お布令を出せ!」

「バカ殿が。お前が殿になったら三日で国が傾く。私がすぐさま倒幕してやる」

「うるせーな、まあ聞けよ。なんで俺の笑いが止まんねえのか、その理由を聞けって」

「嫌だ」

「聞いて? 頼むから聞いて? はちゃめちゃに話したくて、もう口がうずうずしてんの」

 

 あまりの煩わしさに、仁慈は根負けして聞いてやることにした。


「で、なんだよ」

「俺がさあ? 昨日の騒動を収めたってんで、父ちゃん大喜びでよ。宮大工の宿舎まで来てくれてさ。親子水入らずで浴びるほど酒を酌み交わしたんだよ」

「やはり我らの心配なんぞこれっぽっちもしてなかったではないか。楽しく酒盛りとは良いご身分で」

「そりゃ悪かったって! でもよお? この俺が、危うく流血沙汰になりかけた大騒動を丸く収めたんだぜ?」

 

 はいはい、と仁慈が呆れ混じりの相槌を打つのも気にせず、治太郎は得意げに畳み掛ける。

 

「でもって、褒美に今朝な。まだ若い馬を一頭もらったんだ。これがすげえ毛並みのいい白馬でよ。今度乗せてやるよ」

「白馬……?」

 

 ぴたり、と仁慈の全ての動きが止まった。脳裏に、あの社で聞いた天狐の声が雷鳴の如く突き刺さる。


『安らぎをもたらす貴き御方に、気高き白馬が仕え、共に大いなる道を歩む……』


「――はァッ?! 占いの結果ってお前だったのかよ!!」


 仁慈の素っ頓狂な叫び声が、賑やかな町の喧騒を突き抜け、虚しく響き渡るのだった。

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