15話 『山奥の煙景』
彼女の言葉はまるで風に揺れる鈴の音のように軽く、それでいて深い余韻を仁慈の心に残す。しばしの沈黙の後、仁慈は意を決して口を開いた。
「差し支えなければ、お名前をお伺いしても?」
巫女は少し驚くように長いまつ毛を瞬かせた。
「これは申し訳ありませぬ。不躾でしたね」
「いえ、そうではございません。初めて人に名を尋ねていただけた、と……。わたくしの周りの者達は名を聞こうとも、自身の名を明かそうともしませんから」
「ではやはり、私は無礼者ではありませぬか」
「違うのです。昔から残っている風習のようなものですから」
そして彼女は間をおいて、雨上がりの空に似た透き通る声で告げる。
「ミコノアマネと申します。どうぞアマネとお呼びください」
それを号令として社に光が差し、彼女のために蕾が咲き、彼女のために花びらを崩す。山の春が寿いだ。
「アマネとは、どういった字なのですか?」
「天の狐と書いて、天狐です」
「巫女の天狐殿……とても高貴なお名前ですね」
仁慈が噛み締めるように言うと、尋ねておきながら自分が名乗っていないことに気がつく。
「こちらから名乗らずご無礼を。私は大倉仁慈と申します」
天狐は「仁慈様」と小さく繰り返して、楽しげに目を細めた。
「存じ上げておりました。あの日の占いのお方は、やはり貴方様だったのですね」
不思議な霊力に誘われるように、そよ風が舞い落ちた木の葉を連れて、さながら演舞のように二人の周りを小刻みに揺れる。
「占い?」
「ええ。占いを生業とするわたくしが初めて、吉兆を視ることができました。そのお方こそ、貴方様だったのでございます」
彼女は心底嬉しそうに言った。
もっと彼女のことを知りたくとも何から聞けばいいのかと仁慈が悩んでいると、彼女は手招きをする。
「さあ、仁慈さま。立ち話もなんですし、どうぞこちらへ」
天狐は拝殿の奥へと誘う。躊躇いつつも仁慈はその後に続いた。
彼女が世俗の者と会ってはならないという掟は明文化されていない。それは世俗の者と会うこと自体が結界により不可能であったためである。
けれど仁慈という例外を拝殿へ招いたのは、彼女の掟に背く意思、若気の至りであることは確かだろう。
拝殿の中は、外の眩い朝の光が嘘みたいに薄暗く、ひんやりと清浄な空気に満ちていた。
中央には立派な祭壇があり、そこには古びた鞘に収められた太刀が、御神体として厳かに安置されている。磨き上げられた金具だけが、蝋燭の微かな灯りを反射して鈍く光っていた。
「この社では、あちらの刀を御神体として祀っております。わたくしは日々、この御神刀に仕え、祈りを捧げております」
天狐は祭壇に向かい、深々と一礼する。
その横顔は神々しく、あまりにも清らかだった。その刀が発するただならぬ霊気。仁慈はそれを荒木が持っていた霊剣と同質でありつつも、本物には及ばないものであると肌で感じとる。
「ずっと、この社におられたのですか」
仁慈の言の葉には、哀れみや驚きといった感情が織り交ぜられていた。
彼女は静かに振り返って、頷く。
「はい。わたくしはここしか知りません。……そうそう、書物を読むのは好きですのよ。幼き頃に宮司様が残してくださったものが沢山ございますから。古き言い伝えや、遠い都の物語……。わたくしの知らない世のことを、文字だけが教えてくれますの」
部屋の隅にはいくつもの葛籠が整然と積まれていた。
「普段は本をお読みになって過ごされているのですか?」
「お琴も少々嗜んでおります。絵も描きます。詩は鳥たちに聴いてもらっております」
努めて明るく振る舞う彼女の声。その裏には隠しきれない寂しさの色が滲んでいた。
「……外へ出たいと、思ったことは?」
それは踏み込んだ質問だったかもしれない。仁慈は口にしてから少し後悔した。
天狐は一度静止するように目を見開いたが、すぐに悲しげな色を瞳に宿し、力なく首を横に振った。
「この社を囲むしめ縄の外へ出ることは、決して、許されておりません。わたくしの務めが終わる、その時までは……」
「…………」
まるでここは美しく飾られた鳥かご。仁慈は深い同情に胸を締め付けられた。
そんな心の内を察したのか、話題を変えるように彼女はふわりと微笑んだ。すっと仁慈のすぐそばまで歩み寄る。朝露に濡れた白百合のような、涼しげで甘い香りが不意に彼を包み込んだ。
「とはいえ、わたくしは人々の営みが気になってしまいますの」
近い距離に仁慈の心臓が大きく跳ねる。好奇心に煌めく黒い大きな瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
「仁慈様は、麓の町からいらしたのですか? ……町とは、どのような所なのでございますか? 人が沢山おられるのでしょう? わたくし、書物でしか知らないものですから……」
早口に問いかける眼は未知の世界への憧れで、満天の星の如く輝いている。そのあまりの無垢さに、仁慈は目を逸らすことができない。
「そうですね……。人が多くて、賑やかで。騒ぎは多いですし、飽きないですよ」
「……一度でいいから、行ってみたいものです」
切なげな呟きの返事を考えていると、天狐はさらに一歩顔を近づけた。長いまつ毛が触れそうな程の距離だ。
「仁慈様はなぜ? どうして、このような誰も知らぬはずの、結界に守られた社に辿り着くことができましたの?」
上向きに揃えられたまつ毛に縁どられた透き通った瞳が、再び仁慈の魂の奥底まで覗き込むようにじっと見つめてくる。
「偶然と申しますか……。山中に煙を見つけて、ここまで。このような場所だとは知らなかったのです」
「浄火の煙が見えるとは……。そのお導きで仁慈様と巡り会えたことは、わたくしにとって奇跡のようなことでございます。こうして、人と顔を合わせてお話できる日が来るなんて……。ましてや、殿方と……それも、歳の近いお方とお話しするのは、本当に初めてのことで」
その声には万感の思いが込められているように聞こえた。彼女の裏表のない素直さが仁慈の胸を強く打つ。
「天狐殿は、私がここに来ることを占いで知っておられたのですか?」
天狐はこくりと頷き、顔を輝かせる。
「わたくしの占いは、これまでずっと不幸なものばかりを告げておりました……。けれど、初めて良き未来を視たのです。その吉兆こそ仁慈様だったのです。……このような出会いがあるのなら、これからは良い占いばかり視られるようになるかもしれません」
心から嬉しそうに微笑む彼女は、先程の神秘的な巫女というより、年相応の無邪気な少女に見えた。
「そうだ。占ってみましょうか? 仁慈様のことを」
「よいのですか?」
「はい。わたくしが占いたいのですもの。さあ、こちらへ」
彼女に促され、仁慈は拝殿の清められた板間に正座した。
天狐は祭壇の前へ静かに座ると、懐から薄い木の札を数枚取り出し、さらさらと指先で弄ぶ。そして息を吸い込むと、その場の空気が変わった。彼女の周りには目に見えぬ何かが渦巻いているような、濃密な気配が漂う。
天狐は目を閉じ、何かを念じるように唇を動かした後、ぱっと木の札を宙に放った。札は一瞬、複雑な文様を描くかのように舞い、そして静かに畳の上に散らばる。
彼女は開かれた目でそれを見つめ、指先でそっといくつかの札に触れた。
「……視えました」
静まり返った拝殿に、彼女の声だけが凛と響く。
「『安らぎをもたらす貴き御方に、気高き白馬が仕え、共に大いなる道を歩む』……。そう出ております」
「白馬……? それは、本当に私のことでしょうか?」
仁慈は思わず問い返す。そんな大層なことがあるとは信じがたい。彼女はふふっと声を漏らす。
「わたくしの占いは、まだ未熟でございますから。もしかしたら、仁慈様に近しい、気高き霊魂を持つどなたかのことかもしれませんわ。けれど、そのお方の側には必ずや仁慈様もいらっしゃる……そう感じますの」
天狐はどこか遠い目をした。遥か彼方を見据えるような瞳だ。それに吸い込まれるように静止した仁慈は、不意に我に返る。
「そうだ! そろそろ先生が起きてこられるやもしれませぬ。急いで朝餉の支度をせねば……!」
昨晩からの一連の事態を鑑みれば、このままでは間違いなく師範から叱責をされる。
「まあ! それは大変ですわね」
天狐も少し慌てたように立ち上がった。
「昨晩、色々とございまして……今日だけは決して遅れるわけにはいかぬのです」
「でしたら、これを」
天狐は拝殿の隅にあった、葛籠とは別の白木の箱から、丁寧に包まれたものを取り出した。
「お供え物のお下がりですけれど、沢山余っておりますの。わたくし一人ではとても食べきれませんから……。仁慈様の先生もお喜びになればよいのですが」
差し出されたのは美しい干菓子や瑞々しい果物。急いでいたこともあり、仁慈は恐縮しながらもそれを受け取る。
「かたじけない」
「本来、この社を出る際も結界に阻まれますが、きっと、仁慈様ほどの〝気〟をお持ちの方ならば差し障りはないでしょう。さあ、お急ぎくださいまし」
仁慈は深々と一礼し、名残惜しさを感じながらも社を後にしようとする。もう二度と会えないかもしれない。そう思うとなぜか胸が締め付けられた。
ここを出るまであと一歩の時。身の上を知ったからには会いにくるべきではないのだろう、と仁慈は心に問いかける。
「お待ちになって――」
切なさを帯びた声に引き留められる。
仁慈が振り返ると、天狐はただの少女のような不安げな瞳でこちらを見つめていた。
「……天狐殿」
「また……また、来てくださいますか……?」
その問いは懇願と同義であった。
彼女の永い孤独と、初めて見つけた人間との繋がりにすがるような、痛々しいほどの響き。仁慈は迷いなく頷いた。
「必ずや。……私、大倉仁慈は必ずまた、あなたの元へ参ります」
天狐の表情が華やいだ。
仁慈はその笑顔を胸に刻みつけ、朝日の中へと駆け出していった。




