14話 『天の巫女』
与助と別れて床に就いた仁慈。
しかし眠気など訪れるはずもなく、ただ目蓋を閉じた数刻。寝返りと共に体の節々が痛みだして、浅い眠りから目が覚めた。
まだ肌寒い空気が満ちる早朝。ぼんやりとした頭にふと、放置されたままの荒木の亡骸がよぎる。仁慈は血溜まりと化していた野原へ一人で向かった。
するとそこに遺体はなく、踏みしだかれた無数の足跡と、生々しい血痕のみが昇り始めた朝日に晒されていた。
(先生が既に後始末を……? どこへ運ばれたのだろう。西蓮寺? だが公に寺に頼むわけにもいかない。……川? いや、山奥か――)
後方の山々を振り返ると、暁の空を飛翔する一羽の鳥を仁慈の目が捉えた。師範に飼われている鳶だ。好奇心が自然と視線をその一点に注視させ、傷の痛みも忘れて、視界はどこまでも澄み切って冴え渡る。
遠くの鳶はこちらへ真っ直ぐ向かってきていた。
(先生の放し飼いの鳶か。狩りでもしていたのか? ……それとも何かを届けた帰り道か)
仁慈は鳶が飛んでくる方向をじっと凝視していると、山の中腹から一筋の煙が見えた。山火事のような広がりはなく、その箇所だけが静かに煙を立てている。
(まさか、あそこで荒木の亡骸を焼いている者がいるのか?)
師範の日々の習慣を熟知している仁慈は、物の位置や扉の微妙な開き具合で師範の様子が分かる。確実に就寝中である。
(この時間なら当分起きてこないだろう。……私はもう眠れそうにない。気になるのならこの目で見に行くしかあるまい)
仁慈は誘われるように駆け出した。
刀も携えずに野原を走った。
悩みも疲れも全て置き去りにするように、気の向くまま、そよ風のように。
川を飛び越えて息を整えながら林に入ると、朝日がまるで道を示すように都合よく差し込んで、彼を誘う。
木に登っては枝から枝へと乗り移る。修行の一環で近辺の山々は踏破しているが、この場所は知らなかった。
道場からは随分遠くへ来たようだ。
昔は峠を越えるのに半日も掛かった道のりが、今では半刻ほど。疲れも殆どない。
「……先生。兄上は相変わらず手厳しいですが、私も少しは成長したと思うのです」
ぽつりと独り言が漏れた。それすらも木々の澄んだ呼吸と仄かな日差しに濾過され、薫風が明日へと運ぶ。
――ッ。――ッ。
それは風音でも、葉音でもない。耳から胸の奥深くへと直接届く音。
微かにこだましている神楽笛の調べ。神社の祭事で度々耳にしたことがあるような清らかな音色。
「神社……? こんな山奥にあっただろうか?」
音に誘われるように、草木を掻き分けてそこに辿り着くと、壮麗な社が静かに佇んでいた。意図して塵一つ無く、苔一つ生えないほど完璧に清掃されている。それにも関わらず、神社を囲む深い緑と調和している。
空気が変わった。
その感覚に、仁慈は自ずと茂みに身を隠す。見えない精霊を畏怖するかのように。
――シャン、シャン、シャン。
音色に釣られて目線が動く。焦点は石鳥居を抜けて、石畳の参道、その先へと移る。
すると先ほどの煙の正体である、清浄な焚き火があった。
だがそれよりも目を奪ったのは鈴を振る巫女――。
火の周りで舞を披露している彼女は、年頃でいうと仁慈よりも一、二歳若い程度だろう。激しく燃え盛る火炎だというのに、それ以上に彼女にしか目がいかない。
華麗。
空を晴れやかに、大地に命を芽吹かせるような神聖な舞。陽光や風、散りいく火の粉さえも、舞の装飾の一部となる優美な身のこなし。山々に咲き誇るはずだった満開の春を、たった一人に閉じ込めたと思わせる姿形。万物の寵愛を、彼女は一身に纏っている。
見た者を釘付けにする抗いがたい魅惑があるというのに、その舞は誰かが見るでもなく、祭神にのみ捧げられていた。
草陰から覗く仁慈は、知らぬ間に音や気配さえも失くして舞に注目していた。
すると、彼女の動きはぴたりと止まる。
「――どなたですか」
巫女の声と共に、たちまち炎が天を焦がすほど燃え盛った。木々も葉を揺らして騒ぎ立て、先程まで賛美するように鳴いていた鳥達が一斉に空へと羽ばたいた。
緩やかな風が境内を駆け巡っては仁慈を隠していた茂みに直撃し、その葉を散らす。
驚きのあまり立ち上がった仁慈は、彼女と目が合った。
「これは失礼。怪しい者では」
初対面だというのに、巫女は金色の冠を煌めかせながら、恐れることなくこちらへ近づいてくる。彼女の装束は珍しいことに袴までも白く、帯や所々の模様だけが鮮やかな紅で染め抜かれていた。
「まあ……。入ってしまわれたのですのね? 社を囲うしめ縄がございましたでしょうに」
警戒する口振りで彼女が問い掛けると、まるで値踏みをするように仁慈を囲って軽いつむじ風が巻き起こる。しめ縄の心当たりがなかった仁慈は返答に少し迷ってから思い出す。
「……面目ない。木を飛んでいたので見えなかった……やもしれませぬ」
「……木を?」
「はい。枝から枝へと」
こんな返答でいいのかと思いながらも事実をそのまま話すと、彼女は仁慈の全身を見渡して僅かに訝しんだ。
「天狗……ではなさそうですね。もしや忍者ですか?」
「侍です」
「刀がないようですが」
「偶然忘れてきましたが、普段は持っています」
彼女はじっと仁慈の目を見つめる。射抜くような、それでいて包み込むような不思議な眼差し。
透き通った深い瞳に吸い込まれそうで、仁慈は思わず息を呑み、咄嗟に視線を逸らしてしまう。彼女が眼を追うように顔を覗き込むと、それに合わせて艶やかな黒髪が数本、真白の頬にはらりと触れた。
「怪しいお方ですこと……」
「そんな――」
「嘘ですよ」
と、彼女が戯れるように微笑む。それと同時に、あれほど燃え盛っていた焚き火の炎が弱まった。
「悪いお方でないことは分かりました」
「え?」
「わたくしには分かるのです」
清らかで美しい声だった。
それは単に巫女の装束がもたらす印象ではない。声は、彼女自身から湧き出る不思議な言霊を秘めていた。
「それにしても、よくお越しになられましたね。この社には結界がございまして、普通の方には入ることも、見ることさえできぬと聞いておりますのに」
「木を飛んでいたので、結界の上を通り過ぎたのかもしれませぬ」
我ながら突拍子もない返答だと思ったが、他に言いようもなかった。彼女は目を見開いた後、くすりと小さく笑みを漏らした。
「やはり、あなた様は面白き方ですわね」
先程までの張り詰めた空気が和らぎ、仁慈も少しだけ肩の力が抜ける。だが彼女はすぐに表情を萎ませた。
「されど、ここは神聖にして不可侵な場所でございます。みだりに立ち入ることは許されておりません。そしてわたくしは神様に仕える巫女。世俗の方々とお会いすることは、固く禁じられているのです」
声には山びこのような響きがあった。徐々に薄れるような寂しい響きだ。憂いがあるでも、儚さがあるでもない。空が青いように、火が熱いように、ただ決まり切った道理なのだと仁慈は悟った。
「それは大変なご無礼を……。事情を知らず踏み入ってしまったことを深くお詫びします。すぐに立ち去りますので」
仁慈は深く一礼して、立ち去ろうと背を向ける。清浄無垢だが、どこか息苦しい場所に思えた。
(高貴な身の上なのだろう。私のような者が話をしていい御方ではない。もう、会うこともないだろう……)
胸に微かに秘めた名残惜しさを振り払い、一歩踏み出す。
ぴたり、と風が止んだ。
木々の葉擦れの音も、鳥の声も、全てが嘘のように消え失せる。まるで時間が停止したかのような、異様な静寂が境内を支配した。
仁慈は思わず足を止める。
「お待ちになって――」
背後から聞こえた巫女の声。されど神の代弁者ではない、微かな震えと戸惑いを帯びた少女の声だった。仁慈がゆっくりと振り返ると彼女は必死な表情でこちらを見つめていた。
「……わたくしは、ここに一人で住んでおります。物心がついてから、こうして誰かとお顔を見合わせてお話することは、初めてなのです」
仁慈は言葉を失った。
この若さで人里離れた山奥にたった一人。信じられる話ではない。けれど彼女の真摯な瞳は、それが紛れもない真実であることを物語っている。それを裏付けるように、境内には人の気配が全くなかった。
「私が、初めてなのですか?」
彼女は小さく頷いた。
「……幼き頃より姫宮司様から教えを受け、この社に住んで以来、人と直接言葉を交わしたことは一度もございません。……幸い、わたくしは鳥の声が聞こえますから、言葉を忘れてしまわぬよう、日々彼らに話しかけてはいるのですけれど」
慰めるように、肩に止まっていた一羽の小鳥がすり寄ってくる。その鳥に切なげに微笑む姿は、彼女が生きてきた世界を鮮烈に想像させた。
あまりにも純粋で、あまりにも隔絶された世界。
「ずっとお一人で……?」
「はい。食事や身の回りの品は山の麓から使いの者が運んでくださいますが、その方とも顔を合わせることは禁じられております」
「巫女、なのですよね?」
「ええ。ですが、普通の巫女とは少々扱いが異なります。世俗から離れ、ただひたすらに神様のお近くでお仕えするために、このような暮らしをしているのだと……そう教えられてまいりました」
彼女は説明しながらも、瞳にはどこか戸惑いの色が浮かんで見えた。自分自身に言い聞かせるようだった。
「これからもずっと、ここにお一人で?」
「さあ、どうでしょう。この重要なお勤めも、いずれ誰かに引き継がれるというお話をお聞きしたことがございます」
彼女の境遇に言葉を失いつつも、同時に彼女が放つ特別な雰囲気と危うさに、仁慈は強く惹きつけられていた。
「わたくしは、いずれ来る『その時』を待ち続ける巫女なのです」




