12話 『師・大倉大護』
「父上……」
九つの剣が仁慈を斬り刻まんと殺到する時、涙と共に諦念の言葉が零れる。
その瞬間、暗闇は終わりを迎えて無数の白刃が煌めきを見せた。
夜を切り裂いたのは剣の鬼、天下無双の師範であった。
「――父と呼ぶなと言ったはずだ」
師範の居合斬りが起こした凄まじい剣の衝撃波。荒木の作り出した神域を内側から木っ端微塵に吹き飛ばした。
天を舞う九つの白刃が、意思を失ったかのように力なく地面へと墜落していく。すかさず荒木は流れるように全て納刀し、師範もそれに呼応するように剣を鞘に収めた。
師範は仁慈を庇うように前に立ち、抜き身の刀すら構えず、ただ荒木を見据える。仁慈は夢だと疑った。死の間際に見る都合の良い幻だと。
しかし眼前にあるもの、そのあまりに大きく、あまりに孤高な背中は紛れもなく、彼が追い求め続けた師その人だった。
極楽浄土の景色があるとしても、仁慈にとってこれに勝るものはなかった。
「先生ッ……! 来てくださったのですね!」
見れば分かることに返答はせず、師範は荒木の力量を推し量る。つかの間に互いが何者かを悟っていた。
仁慈は自分が救われた状況を受け入れると、涙を拭うこともしないまま、安堵で糸が切れたようにその場に座り込んだ。
「おっさんが仁慈の師匠か! ちと遅かったが、助かったから良しってわけだ」
全身の筋肉や内臓が壊れていた与助もまた、どかっと腰をおろした。
荒木は目の前に現れた男から放たれる、自分と同質、あるいはそれ以上の力量を察すると、異常なまでの殺気を放つ。
師範もまた同様に、仁慈でさえ感じたこともない底なしの威圧でこれを制した。
両雄の間では風すら軋む。場の空気が極限まで張り詰める。
「貴殿、名は」
「名など飾りではありませぬか」
「左様か」
師範が相手に名を尋ねることは、自分と渡り合うに値する強者だと認めた証拠である。故に仁慈は不安だった。
けれど、師範はたった数秒の会話ですら上機嫌に見えた。普段は退屈そうな顔を浮かべている師範とは大違いだった。
ジリジリと間合いを詰め、視線がぶつかり合う。静寂の中、両者の脳内では既に幾千幾万の戦いが繰り広げられていた。
与助にはそれが同種の獣同士の対決に思え、肌に伝うひりつく殺気で再び目が冴える。仁慈は生まれて初めて、無敵の師範を本気で心配していることに気がついた。
「先生! 奴は〝霊剣〟という妖刀を持っています。その効力は本物で、奴の技量は――」
「黙って見ていろ」
既に師範は、先の斬り合いで技量を承知していた。
「……とんだご無礼を」
仁慈は口をつぐんだ。
(恐れ多くも先生に対して助言など……。私は何を焦っているのだ……)
阿吽の呼吸。戦いは、唐突に始まった。
縮地の如き俊足で回り込んだ両雄は、奇しくも鏡に映ったように同じ動きで相対した。地上にいながら縦横無尽の足捌き。異常な速さで巻き上げられた砂塵が二人を包み込む。
闇に紛れる中、尋常ならざる剣戟が交わされる。龍虎の激闘。磨き上げられた至高の技の嵐が、更に土煙を空へ押し上げた。声も遮られる轟音が迸り、仁慈には中の様子が伝わらない。
すると、煙を抜けて両者が姿を現し、一定の間隔を保つ。互いに未だ傷はない。泰然とした佇まいで二人は笑みを浮かべると、再び同時に斬り掛かった。
繰り出すは、必殺の奥義。万物を屠る一撃。
〝黒九曜の陣〟
荒木は九刀を宙に浮かせ、がら空きの無手で隙を誘う。
対する師範はそれに乗ることもなく、ただ中段に構えたままだ。
それを見て、荒木は仁慈を想起する。完全なる一致、仁慈が土壇場で繰り出そうとしていた技に他ならないと。
師範は、数多の想定を一掃する奥義を放つ――。
〝皆伐〟
「技」というより「理」に近い。
これは応用の効く妙技である。
人の各急所を同時に八つ裂きにすることで必ず死に至らしめることを目的とする。だが、型を崩して対象を自在に変更することも可能。
師範は範囲内に九刀も入れることで荒木がどのような技を繰り出すよりも先に剣を散らすことにした。
荒木にとって、剣を浮かせた無手の間に襲いかかるなど悪手も悪手である。手を離れようとも剣を自在に操る荒木では、むしろ離れてる時こそ無限の剣技の余地があり、死の間合いとなる。
敵が如何に両の手を警戒し、九刀に注意を配ったとて、その組み合わせの全てを初見で把握しきることは困難。
だが、例外はある。
荒木は仏の顔など到底できなかった。むしろ、地獄に赴く死者の面持ちだ。
師範の〝皆伐〟は、誠士のそれと比べるにはあまりに鋭利で、至極の仕上がりを誇る。ブレのない剣筋から放つ一刀。
荒木が体の一部のように宙に浮いた九刀を操りきる、ほんの僅かな予備動作。時の最小単位とも言える隙。
――束の間。まるで幾千にも連なった師範の一刀が、荒木の九刀、並びに小手や肩、腹に至るまで同時に斬り裂いた。
荒木はどの剣を取ろうにも、全て間合いの外まで弾き飛ばされ、伸ばした両手さえも筋を断ち切られ、握ることすらままならない。腹を守れるはずもなく、深く横一文字に刻まれる。
為す術もない荒木に対し、師範は袈裟に掻っ捌く。慈悲も情も、何もかも置いてきたような冷徹の剣。
荒木はその場で大の字に倒れた。
「…………」
仁慈と与助は、人の身でありながら神の領域に踏み込んだ、武神の戦いを目の当たりにした。
「大抵はこれ一つで片付いてしまうな……」
荒木の顔をまじまじと見ながら師範はそう漏らした。
年齢故か、荒木の血が激しく流れるわけではなく、たらたらと地面に黒い染みを作っていく。
その様から仁慈は目を逸さなかった。この生々しさが自分に足りない覚悟なのではないかと問いかけ続けた。
与助はどっと疲れが吹き出したように、長い溜め息を一つしながら仰向けに転がった。
「ようやく気が抜けたぜ〜。仁慈、生きてるか?」
「……ああ」
「オレ達、生き延びたっぽいな……。大将の仇をオレが取れなかったのは無念だけどよ」
師範は会話を背中で聞きながら冷笑した。
「お前達で倒せる相手ではないわ。……この者は日の本でも屈指の剣客。それが霊剣でもって襲い掛かってくるなど、余程の運がなければ何十人といたとて命はない」
「……運が良かった、ねェ……」
流石の与助も先程までの戦いを見て、喧嘩腰にはなれなかった。
「先生、その老人をご存知なのですか? その者は一体……」
「――無礼者めッ!!」
頭に響くほどの一喝。疲弊しきっていた仁慈の頭が再び覚める。
「私が来なければ死んでいたお前が、最初に口にするのがそれか!」
「――ッ、大変なご無礼を。お助けいただき誠にありがとうございました」
深々と地面に額を擦り付け、頭を垂れる仁慈に加わるように、与助も「助太刀かたじけない」とゆっくり頭を下げた。
師範は二人を一瞥してから、刀の血を強く振り払ってから納刀した。
仁慈は師範の感情の起伏には誰よりも敏感で、また一つ突き放されたと感じるだけで指先まで凍える。地面についた頭を上げられず、冷やかな土に自分の鼻先から垂れる血をただ眺めた。
「お前、私が来なければどうする気でいた」
「…………」
「最後、私が来る直前に死を受け入れていたな。ここで死ぬことがお前にとって本懐だったのか」
「……それは」
「私の剣技を何一つ完成させずに諦めて死のうなどと……。お前は私の下で育ちながら、技量も知らなければ戦う覚悟も未だに無いのだな。どこまで不出来に育ったのだ……。誠士であればそのような愚行はせぬ。私が何のために、お前をここまで育ててきたと思っている」
仁慈が言い返すことはなく、申し開きもない。さりとてただ謝罪をしても叱責は更に酷くなることを承知しているため、ただ頭を下げ続けることしかできなかった。
「お前はまた、私を失望させるのか――」




