11話 『拾われた命』
――奥義、仁慈は覚悟した。備えるように精神はすっと深い領域に落ち、体がそれに応えようと構える。眼はどこまでも冴え渡った。
されど、予測不可であり回避不能の奥義であった。
荒木の腰と背にあったはずの五刀は、いつの間にか宙に舞い、手に持つ二刀からも手を離していた。
空に浮かぶ、計九刀の凶星。剣が浮いたというより、流れるように荒木が屈んだ。霊剣達は自由落下の最中、意思を持って滑るように荒木の手元に誘われる。繰り出すは、九刀同時の奥義。
――〝黒九曜の陣〟
羅刹の絶技。疾いと言うには短すぎる。時の概念を疑わなければならない。九つの剣が全くの同時刻に仁慈の一寸手前に達する。
刹那。仁慈の脳裏を過ぎるのは、かつて誠士が放った免許皆伝の奥義〝皆伐〟。それを師範が斬り伏せたように、仁慈は真似た。
極限まで集中した目は九つの斬撃を捉え、三太刀を相殺し、二太刀の威力を半減させ、一太刀の軌道を変える。
それでも技量が及ばず、残る三太刀に首を掻っ切られる寸前で、仁慈は緊急の回避を取った。それは荒木の真似だ。与助の究極の刺突を回避した時のように、海老のように腰を曲げて後方へ飛び退く。
とはいえ、このままでは威力を削ったものを含め四太刀には確実に斬られる。一瞬の内に取捨選択を迫られ、仁慈は致命傷を避けて軌道を逸らせるもの、受け流せるものを選び抜き、血反吐を吐きながら後方へ跳躍した。
朱色の血が闇夜に飛び散る。
仏の顔をした荒木の周囲には七刀が墓標のように突き刺さり、残る二刀を手にしていた。仁慈の血がぼたぼたと滴り、土に溜まって草が吸う。
仁慈は鎖骨と左脇腹、右もも、左腕からおびただしい血を流しながらも立っている。中でも、深く斬られても仕方がないと咄嗟に諦めた脇腹と足からは止めどなく溢れ出る。
与助が急いで仁慈を庇う形で脇差を構える。
「おい仁慈。オメェ……」
「……大丈夫だ。見た目はこんなだが、中身なら与助の方が重症であろう。下がっていてくれ」
朦朧とする視界の中、仁慈は自らの圧倒的な実戦経験の無さを痛感した。荒木は必ずまた同じ技で仕留めにくると踏んで、先ほどの反省を直ちに行う。
(まず、あれを喰らって生きてることは上出来……。強張らず動けたことも上出来。目で捉え、ある程度捌けたことも、捨てる部位を選定して諦めを受け入れたことも上出来。だが、その選択が不出来)
師範が淡々と述べるかのような自己反省。仁慈の足は思うように動かない。踏ん張れない。脇腹の深い傷で体全体に力が入らない。
(腕は片方でも深く斬られれば太刀打ちできなくなると思った。それは事実だが、足腰の方が遥かに大事に決まっている。肩を斬られそうになった時、首が怖かった。死を感じて一番に避けた。だから脇腹をやられた。首は既に剣で守っていただろうに、私は――)
仁慈は立つことで精一杯。そんな彼の前を与助は退こうとはしなかった。
「仁慈、もういい。オレに任せろ」
「……駄目だ」
「頑固ももうそこまでだ。見てらんねえよ」
「私は悔しいのだ! 未熟だった。まだ死を恐れていたのだ。命が惜しくなったのだ。甘すぎた……。――もう、恐れぬ」
鬼の剣幕の仁慈に相反して、荒木は穏やかに霊剣に流れる血を振り払って鞘に収める。
「お主、見事であった。女王の子でもなかろうに。ここまで力を引き出せてしまうほど弟子に慕われておるとは、お主の師は余程の人格者のようじゃな」
「…………」
「お主に伝授した師範の技量は、あるいは剣聖の域か。一度手合わせしたいものだ。霊剣であれば儂とて危ういかもしれぬ」
荒木が全て納刀し終える間に、仁慈は必死に呼吸を整えた。
生身で打ち込みに耐えてきたおかげで筋肉による止血もある程度は出来た。だが少しでも動いてしまえば、傷口から血が吹き出すことは必定であった。
「して、お主は師範を慕っているようじゃが、当の本人は薄情なものよな」
「……なに?」
「道場と距離が開けているとはいえ、儂の殺気を見過ごすような技量ではあるまい。剣の達人がここまでの刃音を聞いて、呑気に寝ておるとは考えにくい。お主の悲痛の叫びを聞いたのなら、助けに来るのが人の道であろう?」
「私がお逃げくださいと言ったのだ」
仁慈の心は不思議なほど至って冷静。この無駄話が少しでも長引いてくれたなら、師範が逃げる猶予ができると信じた。
「弟子の危機に駆けつけぬ程の鬼であるか? 人の気配、臭いは終始お主らのみよ」
「私は、あの御方に嫌われていてな」
「残念じゃ――」
荒木が地を蹴り上げて向かってくる。と同時に仁慈もまた前進する。決死の覚悟で地面を蹴り上げて与助を振り切ると、斬られる前に死ぬと言わんばかりの血が傷口から飛び散る。
(不出来な弟子で申し訳ありませぬ)
それは荒木を殺すことはできないと悟ったが故の懺悔。
再び降り掛かるのは、
〝黒九曜の陣〟
既に決着はついていた。一太刀で済む。それでも荒木が奥義を使ったのは〝任務で集めた霊剣を使いたい〟ただそれだけである。
常に一太刀で決着のつく荒木が持ち合わせる全ての剣を一度に使いたいという強欲を叶えた技。それはいつの間にか、予測不能の至極の奥義となった。
故にこの技を披露する時、荒木は満ち足りている。欲を解き放ったが故の解脱に似た仏の顔。
九刀全てを空に浮かべる予備動作に隙はない。
滞空する刀を仁慈が目の当たりにした時、全ての事象が著しく遅延して瞳に映った。傷口の痛みはもう麻痺していて、大量に血が抜けたせいか体は軽かった。
徐々に、それでいて着実に奥義が進んでいく。
一糸乱れぬ剣捌き、一寸の狂いなく刈り取る九刀。
(なぜ……)
一弾指。指を弾くよりも短い猶予を仁慈は〝遅い〟と感じた。
果てしない海の底のような精神の領域から万物の事象を見つめる感覚。
全てが鮮明に、緩やかに流れる。視界がどこまでも広がっているというのに、注意が分散することなく、全体が細かく、己の剣先さえ繊細に息づいているようだった。
(私は拾われた命なのだ。とっくにあの時に死んでいた。それなのに、何を恐れていたのか――)
仁慈は恐れという感情をどこかへ置いてきた。そして思う。今なら打破できると。九つの同時攻撃ならば、こちらも同時に斬り伏せるまで。
(あの奥義、〝皆伐〟ならば――)
師範の背が頭に浮かぶ。
それを受け入れると、師範の構えが体に重なる。技術を乗せ、落とし込む。戦いの顛末を予期した。この技であれば切り抜けられること、この機を逃せば出血で立てなくなることの二つを確信する。
(相討ちまで持っていく)
師範と仁慈の剣の軌道が揃う。
〝皆伐〟
荒木は覚悟を見た。仁慈の佇まい、その異様さ。重圧には不動明王の化身が宿って見えた。得体の知れない技への警戒を強める。
しかし、仁慈の想定は本人が仕留めきれなかった場合にまで及んだ。
(――待て。〝皆伐〟は免許皆伝の奥義。先生にとっても切り札のはず。ここで手の内を明かしてよいものか?)
仁慈の重圧が揺らぐ。
(決め切れるか? 下手に奥義を見せて克服されれば、万一、先生と出会した時に先生が危うくなる。……いや、時は稼いだ。先生はもう遠くのはず。それに私がここで倒し切る方がいいに決まってる。……でももし、万に一つ。先生が私を助けに近くに来ていたら――)
そんなことはないと、仁慈は知っている。けれど、師範の身を案じてしまった。
(あの方に拾われた命。恩を仇で返すわけには――)
〝皆伐〟を解く。
(ここで死ぬのう)
悍ましい剣技が来ると身構えていた荒木であったが、死を悟った仁慈の面構えを見た時、勘違いであったと落胆した。




