1話 『捨て山』
昔から厄災や飢饉に見舞われると、年老いて働けなくなった者を口減らしに山へ捨てることがあるという。その山はやがて姥捨山と呼ばれるようになった。
では、捨てられた姥はどうなるか。大抵は動物に食われるか、病にかかるか、飢えて死ぬか。
しかし万物には神がいる。山には山の神がいる。山の神は捨てられた姥を人からの捧げ物だと思ったそうだ。真白の猪の姿だという山の神は、子を何人も産んでは腰が曲がり皺を何重にも刻んだ姥を見て大いに喜んだという。
神は内のみを愛でる。長寿の者、苦難の多い者の魂は濃ゆく、神に好まれた。捧げ物とはいっても肉体を食べることはなく、魂だけを取り込み体は黄泉へと続く川へ還す。神に取り込まれた魂もまた黄泉へと渡り、体と再び巡り合い、また常世に生まれ変わる。
そうして、亡骸は川へと姿を消す。姥を捨てた家族が悔やんで山へ見に来てももうそこにはいない。家族や村の者達は様々な思いを馳せ、数多くの言い伝えだけが残ったという。
「――さて、今日はこんなところかのう」
盲目の老人は語り終えると、よろよろと杖をついて町の外れへ向かう。
春の盛り、若葉が眩しい頃。真昼間に大きな橋の隅で女こどもが数十人、老人の語りのために集まった。そして最前の真ん中で腕を組みながら真剣に聞き入る男が二人。
「おいおい。今回はなんだか怖ぇ話だったな。山姥ってどんな面なんだろうな? 仁慈」
能天気な声を上げたのは宮大工の手伝いをしている若い男、治太郎。
「ちゃんと聞いてたか? 神様が川に還してくれるから、山姥は存在しないって話だろう? 良い話ではないか」
腰に刀を携えた浪人、仁慈は頷きながら答える。
幼馴染にして同い年の二人は、数え年で十七となる今も用事がなければふらふらほっつき歩くくらいには仲がいい。
「確かにそりゃあいい話だ。……さてと、俺はこっから団子でも食ってくけどおめえもどうだ? 一本くれえなら奢ってやるよ」
治太郎は奢ることが好きな珍しい男で、満面の笑みで仁慈を誘う。
「相変わらず呑気だなお前は。私はこれから先生の元で稽古だよ」
「釣れねえ奴だねおめえは。そんなに先生大好きかよ、チチ離れしろってんだ」
「変な言い方すんな。第一父ではない」
「だぁ? おめえこそ寝言は寝て言え。なーにが父じゃねえって? 『父上! 父上〜!』って昔っから泣きべそかいてたじゃねえか! ええ?」
治太郎は「父上ぇ!」と抑揚を駆使して何種類もの声音で真似て馬鹿にしてくる。
仁慈は怒りで柄に手を掛けるも、小突けば治太郎に侍の命である刀をどうのこうのと更に馬鹿にされるだけだと思い留まる。その戦略をも見越して治太郎は真似をやめなかった。
「お前も稽古に来い。私が叩き潰してやる」
仁慈は平静を装いながらも、額の所々で血管が破裂しそうなほど頭に血が昇っていた。
「稽古だあ? 俺が棒切れぶん回すほど暇に見えるか?」
「暇だろ」
「暇だよ」
いつも同じようなことを話しているな、と仁慈は呆れた表情を浮かべる。
「大体、なぜお前暇なのだ。宮大工はどうした? おっちゃんに叱られるぞ」
「それがおっちゃん俺には甘ぇんだよな」
「なんでだよ……ただの拾い子のくせに」
「そりゃあよ? 俺って結構、色男だろ?」
返答を黙っていると「色男だろ?」と追撃が来る。素直になれよ、と若干低めの声で囁かれると全身に鳥肌が立つ。
「吉原生まれの馬鹿がお武家に拾われて、ちょっと丈夫なだけで偉いとこの宮大工の弟子入りだ? どんな冗談だよ」
「なーんか運だけはいいんだよなぁ? って拾われたのは仁慈も同じだろ」
「まあな」
「――だから俺らは兄弟だったかもしんねえってわけよ。そう思うだけで楽しいってもんよ」
それは幼い頃に出会った時から治太郎の口癖だった。
治太郎が真面目に働いているところを見る機会は初日の出ほど貴重なのだが、それでも何故か金の尽きない男で、身なりも町人にしてはそれなりだ。
かといって幼少期はともかく今は盗みをするような人間でもなく、仁慈は時より博打で大儲けしている治太郎を見て、本当に運のいい奴だと思っている。
「俺ぁ腕っ節は強い方だが、そろそろ仁慈の大先生に稽古つけてもらおうかね」
「高くつくぞ」
「なんでい、おめえ先生に拾われてからタダ飯だろ」
「お前は金払え。不真面目すぎて駄目だ。ま、先生に軽口叩いて破門が関の山か」
けっ、と舌打ちをする治太郎。
「第一に、お前力士相手でも素手で倒したとか豪語してたろ。稽古なんてハナからいらねえだろ色男さんよ」
「たしかに稽古なんかしなくても大抵の男は倒せるくらい最強だ。前なんて山歩いてたら熊に襲われたから張り手で倒して熊に乗って下山してやったぜ」
「金太郎かお前は」
自称最強色男は柑子色の着物の裾をまくって力こぶをこれでもかと見せつける。
自慢をするほどでもなく、特段鍛えてもいる様子のない平均的な腕をしていた。
「でも最近物騒だろ?」
「最強じゃねえのかよ。怯えてどうする」
「だってよ〜? 隣町の馬鹿みてえにでっかい道場の免許皆伝が殺された辻斬りだぜ? 今朝だってこの町に来たばっかの行商人が辻斬りにあったらしいしよ」
仁慈はそういった情報に疎く、治太郎は誰よりも耳が早い。知らないという素振りを見せると治太郎は「おや、知らんのか?」と得意げだ。
「こりゃ今巷を騒がせる霊剣の仕業らしいぜ?」
「霊剣? 妖刀みたいなものか」
「えらい力を秘めた剣のことらしい。なんでも、剣は人を選ぶとか、べらぼうに強くなるとか、不老不死になるとか」
「流石に話を詰め込みすぎだな」
「これが本当だって話だ」
ふーん、と話半分に聞いて視線が合わない仁慈に対し、続きがあるんだよと耳元に近づく。
「どうやら辻斬りと関係あるみたいだぜ? ただの道場破りじゃなくて、そこで後生大事にされてた刀が霊剣で、それ目当てだったらしい。だから仁慈も気ぃ付けろ? ってお前の道場小さすぎて辻斬りにも見つからねえかっ! はっはっは!」
「…………」
「もう一度言うが、これが巷をガッヤガヤ騒がせる話だぜ。どうだ。すごいだろ?」
口元が耳に近すぎてニヤリとした声まで聞こえる。しかも何もすごくない。なぜお前が自慢げにできるのか。
というか、なぜ巷を騒がせるのに私は知らないのだ、と言いたげな顔で治太郎を睨んでいると、後ろから仁慈を呼ぶ声がする。
それは針のように背筋を刺した。
「おい仁慈ッ! 何をほっつき歩いてる。この後に及んで先生を待たせる気か」
「兄上――」と仁慈は驚き、言葉を詰まらせる。
噂をすれば弱小道場の一番弟子じゃねえか、と小声の治太郎は仁慈の脇腹を小突いてそそくさと去っていく。
仁慈に兄上と呼ばれる青年――誠士は「類は友を呼ぶとはこの事だな」と治太郎の背を一瞥した。
「兄上、失礼いたしました。すぐに稽古場へ戻るつもりでした」
「お前が遅れると兄弟子の俺まで先生に叱られる。それでなくとも出来損ないのお前のことで何度も叱責されるというのに」
「失礼いたしました」
頭をこれでもかと下げる仁慈に目もくれず稽古場へ向かう誠士の後を、仁慈は足早に追うのだった。
道場は、師範と仁慈の住居を別々に備えてあるにしてはそれほど大きくもない。けれど清掃は隅々まで行き届いており、鼠一匹といない。内装は洗練されおり、無駄な物は置かれない。
稽古場には五十代頃の師範が凛々しく正座をしていた。
「妙なこともあるものだな。弟弟子と来るとは……仲がいいな誠士」
師範は穏やかな声を誠士に向ける。その第一声で仁慈は自分が一番弟子ではないのだと何度目かの気付きを迎えながら、一礼をして敷居を跨いだ。
「先生。愚弟ではありますが、弟子は俺とこいつしかいないんですよ。竹刀を打ち合うのもいつもこいつ、嫌でも仲は深まりますとも」
「嫌とはなんだ嫌とは」と微笑む師範に誠士は続ける。
「先生がもっと優秀な弟子を沢山お取りになれば、俺はこいつと話などしませんよ」
「私の腕は二本しかないのだ。私が心血を注いで育てられるのはせいぜい二人よ。その分、お前達はどの剣士よりも強く育たねばならないと何度も言っておるな」
はっ、と誠士は頭を下げる。彼の態度が気に入らなかった仁慈は、誰にも気づかれないほどの溜め息を吐いた。
だが師範はその息遣いを見逃さなかった。
「仁慈、お前も言いたいことがあるなら言ってみたらどうだ」
誠士は愚弟を強く振り返る。
「いえ、ただ私は、先生が兄上と呼べと仰ったので兄上と呼んでいるだけです」
「ほう」
「……私は兄上よりも前に先生の弟子であります」
「ならば技で示せ。お前が誠士よりも強いのであればそれが答えだろう。お前が剣士であるのならな」
常に平静で、沈着で、その通りですと返す他ない言の葉を放つ。
そんな師範に対して〝ほら、言っても意味ない〟という返事を仁慈は反芻するように数回噛んで飲み込んだ。
そんなことさえ察した上で、師範は立て掛けられた竹刀を指す。
「剣を取れ。今日こそ勝て」
仁慈の背筋が再び冷える。誠士は「先生もお人が悪い」と笑いを堪えるように口角を上げた。
誠士が竹刀を二本取って使い慣れている方を自分のものとして、もう片方を仁慈に放り投げる。
仁慈は手にした竹刀で素振りをすると、その腰を誠士が竹刀で叩く。
「相変わらず素振りだけは上出来だな。俺の前じゃ逃げ腰のくせに」
「早く構えてください」
「生意気な弟だな。叩き直してやる」
礼、始め。
師範の合図と共に仕合が開幕する。礼をし合った相手とは、ましてや門弟同士とは思えない剣幕、出立ち、覚悟。仁慈は無論、余裕の素振りを見せていた誠士も全身全霊。
まるで命を取り合う真剣試合がここに。
まずは仁慈が先制攻撃を仕掛ける。
袈裟斬り、それを避けるべく誠士が身を引いて仰け反ったところへ、すかさず鋭い突きを繰り出す。
互いが今までの鍛錬で斬り込み方を把握しているからこそ、挨拶を交わすような打ち合いが広がった。
「そんなもんか」
仁慈は煽りに乗らない。どんな時でも自分の底を相手に見せてはいけない、それが師範の教えだった。何人にも乱されない剣、両者がそれであった場合、残るは真の実力のみ。
誠士は掛け声と共に喉元へ斬り上げる。仁慈がすぐさま二歩下がり一歩前へ、空を切った剣の間合いを詰め、胴へ突き刺す。
も、蝶のように華麗に躱す誠士。兄は弟のそれを待っていたかのような、獲物を見据える虎の眼光で大上段から弧を描く。
体勢など無問題にしてしまうその斬り方は剛力にして俊敏、鉄砲玉をも切断する誠士の真骨頂――。
(そんな兄上の技をいつも生身で受けてきた。もう目は慣れて、体はそれを上回る――)
水を払うように剣で後ろへ受け流し、横一文字に斬る。驚く様子のない誠士はどこからともなく剣を差し込んで受け止めてみせた。
それでも仁慈は力でねじ伏せるように更に右足を前へ。誠士が鍔迫り合いに持ち込むも膂力は互角。
「少しは腕を上げたか」
「ええ、兄上が」
二人は頭に血が昇りながらも笑い合う。
一歩引き合って、再び構える。
その距離を寸刻にして怒濤の足運びで詰めたのは仁慈だ。あと一撃で終わらせるという気迫の仁慈の薙ぎを身を、翻して誠士が躱した後、両雄の無数の打ち込みが巻き起こる。
師範は太刀筋をじっと見つめた。
威力は確かに五分と五分、けれど技のキレは誠士が上手だった。彼の一撃が仁慈を後方へと追いやる。
「お前は人に剣を向ける覚悟が足りなすぎる。全くもって向いておらぬ」
「そういう兄上はどうなのですか」
技で優っても口で言えば生意気を返す弟に誠士は竹刀を強く握る。
「生身は痛かろうと優しさで追撃をやめてやった。降参すれば許してやるところだが?」
「降参したことないですよ」
「そうだな。……次で減らず口を叩けなくしてやる」
仁慈は気迫を感じ取る。
「見せてやる。免許皆伝のみが扱える奥義を――」
(免許皆伝? なぜ兄上が)
師範は目を細める。まだ免許皆伝ではない誠士は技を見て覚えたに違いない。
それが本当に扱えるのか、扱えるとすればあまりに危険。弟弟子に向けていいものではない。流派にならい武具は一切付けておらず、竹刀であれ当たり所が悪ければ骨が折れ、最悪死に至ることすらあり得る。
「目を瞑るなよ――」
――〝皆伐〟
瞬刻、あらゆる角度から剣先が交差線を織りなす。
爆竹さながらの鼓膜を打ち付ける破裂音が道場に鳴り響く。仁慈は手も足も出なかった。
しかし決して目を離さなかった。故に一部始終をしかと見届けた。
初見であることを差し引いても目で追うことすら至難の剣筋が上下左右の急所へ向かったのだ。
その必殺の束はどれを取っても無駄がなく、生存の余地を与えない。もし仮に一振りにつき一人が対応したとしても屍が増えるのみだろう。それ程の絶技。
もし生身で受けていたのなら、仁慈はもう二度と剣を握ることは叶わない。だがその技を無に還したのは師範の剣。
師範は飛翔が如く軽やかな足運びで間合いに飛び込むと、竹刀を以て誠士の必殺を瞬時に殺して回り、終いには流れるように斬り返した。
免許皆伝の奥義であるから着地点を先回りできたのか、それとも刹那の間に軌道を捉えたかは定かではない。だからこそ仁慈は恐怖した。
(視るだけはできた。兄上の技は瞬きの間に小手や胴、首さえも同時に飛ばしてしまうほど速かった。されど先生はそれを上回っても余りある速さで斬り伏せた――)
誠士の竹刀が宙を舞い、落ちる。
ガランッ。
「誠士。よく見様見真似であの技を仕上げたな」
「先生……」
「だが免許皆伝にした覚えはない。あれを二度と仁慈に向けるな」
その一言で仕合は幕を閉じた。稽古が始まるも、誠士は満足と不満をかき混ぜた顔を浮かべたままだった。
(兄上の技、見事としか言いようがない。……私はあの人には及ばない。ここまで鍛錬をしても超えられないのなら、なぜ剣を握る? 強くなる理由も、人を斬る理由もない。私はただ、先生に息子であると認めていただければそれで……)
仁慈の剣は今日も軽かった。
夕闇が迫る頃、師範は道場周辺をうろついている男がいると弟子達に語る。
仁慈は治太郎から聞いた噂を話そうとしたが、誠士に妄言だと笑われるのが関の山だと口をつぐんだ。
感情を制するように独りで夜の草原で素振りをしている仁慈の横を、風が通り抜ける。
気配を感じて振り向くと、さざめく林を煌々と照らす弓張月があるのみだった。
仁慈は魅入られるように、ただ眺めた。
少し離れた霊峰。
深山の社の巫女もまた同じ月を眺めていた。揺らめく浄火の前にひとりの巫女が静かに座す。
瞳に映るは燃ゆる月。一際荒ぶる炎が天上の月を炙る。彼女のまつ毛が微かに震え、細い指を重ねて祈りを捧げる。
「……わたくしを解き放つ力を秘めた御方がやってくるのですね」




