表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編集

終わりの煙と終わりの服

「おーい、こっちだ」


 馴染み深い、少し掠れた声が小さな公園に響いた。ついさっき、高校を卒業したばかりの私は、セーラー服の襟元えりもとを一度整えてから、声の主に視線を向けた。公園のベンチに腰掛けて、彼はこちらに手を振っている。私より3歳年上の幼馴染。今日は彼に、最後のセーラー服姿を見せたくて、いつもの場所で待ち合わせをしていた。


 紺色の襟に白い三本線、胸元で結んだスカーフが風に揺れる。袖を通すたびに背筋が伸びるような、そんな特別な服。私にとって、これは単なる服ではなく、かけがえのない三年間の象徴だった。


 駆け寄ると、彼はいつもの優しい笑顔で出迎えてくれた。


「卒業おめでとう。卒業式、良かったか?」


「うん、ありがとう。でも、もう終わっちゃった。本当に、これで終わりなんだなって」


 そう言いながら、彼の顔をじっと見た。わずかな違和感。いつもはもっと、溌剌はつらつとした表情をしているはずなのに、今日はなんだか影があるように見えた。


「そっちはどうかしたの? なんか、疲れてる?」


 私の問いに、彼は少し目を伏せた。


「……まあ、ちょっと、な」


 彼はぽつりぽつりと話し始めた。


「昨日さ、仕事でミスしちまって。結構、大きなやつでさ」


「え、大丈夫なの?」


 思わず身を乗り出す。彼が仕事で弱音を吐くことは滅多にない。


「大丈夫、だった。なんとか、リカバリーはできたんだけど……」


 彼は言葉を選びながら続けた。


「俺、注意されると思ってたんだ。そしたら、上司がさ、注意どころか、優しく励ましてくれてさ」


「……優しい上司さんで、よかったね」


「いや、それが逆なんだ」


彼は苦笑した。


「怒鳴られるより、よっぽど効いた。なんだろう、俺、社会人なのに、まだどこかで、叱られることで反省しようとしていたんだなって気づいて、情けなくなった。だから、思ったんだ。もう、ちゃんと大人にならなきゃって」


 彼は鞄から、見慣れない細長い箱を取り出した。


「で、さっき待っているときに、これを思いついて」


「タバコ?」


 思わず問い返すと、彼は少し照れたように頷いた。


「ああ。子供は吸えないだろ。昔、親父が吸ってるのを見て、大人だなって感じてたんだ」


 彼は買ったままだったタバコの箱を、ごそごそと音を立てて開けていく。


「だから、これ、吸ってみようかと思って。これで大人っぽいことして、俺の中の甘い部分に、区切りをつけようかなって」


 私には、タバコを吸う彼の姿が想像できずにちょっと意外だった。それに、大人っぽいことをするという考えが、子供っぽくないだろうか? まあ、そんな彼を「かわいい」と思ってしまう自分にもツッコミを入れたくなるけど。


 そんな私の思いに関係なく、彼の真剣な眼差しは、彼の決意がどれほど重要なものなのかを物語っていた。


「じゃあ、いくか」


 彼は箱から、一本の白いタバコを取り出した。それを口元に運び、ライターの火を近づける。ヂッと軽い音と共に、タバコの先端に赤い光が灯った。

 どんな顔をするんだろうと、深く吸い込む彼の横顔を、私はじっと見つめた。大人の階段を上る彼の、その瞬間を。


「ゴホッ! ゲホッ!」


 激しくむせた。顔をしかめ、盛大に咳き込んでいる。


「うわ、苦っ! 何これ、想像と全然違う!」


 あまりの反応に、私は思わず笑ってしまった。


「えー、格好良くキメるのかと思ったのに!」


「うるさい! これ、喉が痛いな、おい。なんでみんな平気な顔して吸えるんだ? これが大人の味か……いや、違う。ただ煙たいだけだ」


 彼は眉間にしわを寄せ、再び一口吸おうとしたが、すぐに止めた。


「駄目だ、もう無理。一本も吸いきれない」


 吸いかけのタバコを指で挟みながら、彼はため息をついた。


「大人の象徴だと思ってたけど、ただ煙を吸うだけか。それにしても、こんなに不味いとはな」


 彼は吸いかけのタバコを、携帯灰皿にそっと押し付け、火を消した。たった1回のタバコのために、ライターと携帯灰皿も忘れずに用意していることに、彼の几帳面さと、甘さと決別するための覚悟に感じた。


「一本、というか、一口で十分だ。もういらない」


 彼は、すっきりとした顔で言った。


「甘さを終わらせる儀式は、この一口でもういい。俺はもう、自分の甘さとちゃんと向き合う。この決意が、俺にとっての『終わり』と『始まり』なんだ」


 それから、お互いに何も言わなかった。

 しばらくして、彼は、私のセーラー服に目を向けた。


「お前のそのセーラー服姿も、もう終わりか。でも、新しい始まりだろ?」


「うん」


 私は、セーラー服の襟を、ぎゅっと握りしめた。


「私も、この服を脱いで、春からは大学生だからね。この制服に守られてた自分に終わりを告げて、新しい私になる。タバコの火みたいに、すぐに消えちゃうものじゃなくて、私の未来を照らす光を灯すんだ」


 私たちは、それぞれの「終わり」を迎え、そして新しい「始まり」への一歩を踏み出す。彼にとってのタバコは、甘さが招いた失敗を繰り返さないための、一度だけの不味くて苦い儀式だった。私にとってのセーラー服は、思い出深い、大切な三年間の象徴だが、もう脱ぐべき服でもあった。


 彼の横顔は、もう先ほどの疲労の色はなく、どこか晴れやかな表情をしていた。私もまた、四月からの新しい生活への思いに、胸を膨らませた。


「よし、もう帰るか」


「うん!」


 彼が再びタバコを吸うことは、きっと、二度とないだろう。そして私も、もう二度と、セーラー服に袖を通すことはない。

 けれど、私たちの「終わり」は、決して寂しいものではなかった。

 それぞれの「終わり」は、確かな「始まり」へと繋がっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ