終わりの煙と終わりの服
「おーい、こっちだ」
馴染み深い、少し掠れた声が小さな公園に響いた。ついさっき、高校を卒業したばかりの私は、セーラー服の襟元を一度整えてから、声の主に視線を向けた。公園のベンチに腰掛けて、彼はこちらに手を振っている。私より3歳年上の幼馴染。今日は彼に、最後のセーラー服姿を見せたくて、いつもの場所で待ち合わせをしていた。
紺色の襟に白い三本線、胸元で結んだスカーフが風に揺れる。袖を通すたびに背筋が伸びるような、そんな特別な服。私にとって、これは単なる服ではなく、かけがえのない三年間の象徴だった。
駆け寄ると、彼はいつもの優しい笑顔で出迎えてくれた。
「卒業おめでとう。卒業式、良かったか?」
「うん、ありがとう。でも、もう終わっちゃった。本当に、これで終わりなんだなって」
そう言いながら、彼の顔をじっと見た。わずかな違和感。いつもはもっと、溌剌とした表情をしているはずなのに、今日はなんだか影があるように見えた。
「そっちはどうかしたの? なんか、疲れてる?」
私の問いに、彼は少し目を伏せた。
「……まあ、ちょっと、な」
彼はぽつりぽつりと話し始めた。
「昨日さ、仕事でミスしちまって。結構、大きなやつでさ」
「え、大丈夫なの?」
思わず身を乗り出す。彼が仕事で弱音を吐くことは滅多にない。
「大丈夫、だった。なんとか、リカバリーはできたんだけど……」
彼は言葉を選びながら続けた。
「俺、注意されると思ってたんだ。そしたら、上司がさ、注意どころか、優しく励ましてくれてさ」
「……優しい上司さんで、よかったね」
「いや、それが逆なんだ」
彼は苦笑した。
「怒鳴られるより、よっぽど効いた。なんだろう、俺、社会人なのに、まだどこかで、叱られることで反省しようとしていたんだなって気づいて、情けなくなった。だから、思ったんだ。もう、ちゃんと大人にならなきゃって」
彼は鞄から、見慣れない細長い箱を取り出した。
「で、さっき待っているときに、これを思いついて」
「タバコ?」
思わず問い返すと、彼は少し照れたように頷いた。
「ああ。子供は吸えないだろ。昔、親父が吸ってるのを見て、大人だなって感じてたんだ」
彼は買ったままだったタバコの箱を、ごそごそと音を立てて開けていく。
「だから、これ、吸ってみようかと思って。これで大人っぽいことして、俺の中の甘い部分に、区切りをつけようかなって」
私には、タバコを吸う彼の姿が想像できずにちょっと意外だった。それに、大人っぽいことをするという考えが、子供っぽくないだろうか? まあ、そんな彼を「かわいい」と思ってしまう自分にもツッコミを入れたくなるけど。
そんな私の思いに関係なく、彼の真剣な眼差しは、彼の決意がどれほど重要なものなのかを物語っていた。
「じゃあ、いくか」
彼は箱から、一本の白いタバコを取り出した。それを口元に運び、ライターの火を近づける。ヂッと軽い音と共に、タバコの先端に赤い光が灯った。
どんな顔をするんだろうと、深く吸い込む彼の横顔を、私はじっと見つめた。大人の階段を上る彼の、その瞬間を。
「ゴホッ! ゲホッ!」
激しくむせた。顔をしかめ、盛大に咳き込んでいる。
「うわ、苦っ! 何これ、想像と全然違う!」
あまりの反応に、私は思わず笑ってしまった。
「えー、格好良くキメるのかと思ったのに!」
「うるさい! これ、喉が痛いな、おい。なんでみんな平気な顔して吸えるんだ? これが大人の味か……いや、違う。ただ煙たいだけだ」
彼は眉間にしわを寄せ、再び一口吸おうとしたが、すぐに止めた。
「駄目だ、もう無理。一本も吸いきれない」
吸いかけのタバコを指で挟みながら、彼はため息をついた。
「大人の象徴だと思ってたけど、ただ煙を吸うだけか。それにしても、こんなに不味いとはな」
彼は吸いかけのタバコを、携帯灰皿にそっと押し付け、火を消した。たった1回のタバコのために、ライターと携帯灰皿も忘れずに用意していることに、彼の几帳面さと、甘さと決別するための覚悟に感じた。
「一本、というか、一口で十分だ。もういらない」
彼は、すっきりとした顔で言った。
「甘さを終わらせる儀式は、この一口でもういい。俺はもう、自分の甘さとちゃんと向き合う。この決意が、俺にとっての『終わり』と『始まり』なんだ」
それから、お互いに何も言わなかった。
しばらくして、彼は、私のセーラー服に目を向けた。
「お前のそのセーラー服姿も、もう終わりか。でも、新しい始まりだろ?」
「うん」
私は、セーラー服の襟を、ぎゅっと握りしめた。
「私も、この服を脱いで、春からは大学生だからね。この制服に守られてた自分に終わりを告げて、新しい私になる。タバコの火みたいに、すぐに消えちゃうものじゃなくて、私の未来を照らす光を灯すんだ」
私たちは、それぞれの「終わり」を迎え、そして新しい「始まり」への一歩を踏み出す。彼にとってのタバコは、甘さが招いた失敗を繰り返さないための、一度だけの不味くて苦い儀式だった。私にとってのセーラー服は、思い出深い、大切な三年間の象徴だが、もう脱ぐべき服でもあった。
彼の横顔は、もう先ほどの疲労の色はなく、どこか晴れやかな表情をしていた。私もまた、四月からの新しい生活への思いに、胸を膨らませた。
「よし、もう帰るか」
「うん!」
彼が再びタバコを吸うことは、きっと、二度とないだろう。そして私も、もう二度と、セーラー服に袖を通すことはない。
けれど、私たちの「終わり」は、決して寂しいものではなかった。
それぞれの「終わり」は、確かな「始まり」へと繋がっていた。