【第五章】
【第五章】
僕の意識が戻ったのと、自分の身体が太いバンドで拘束されていると気づいたのはほぼ同時だった。
がたんがたんと揺られているところから察するに、どうやらトラックに乗せられているらしい。
ゆっくり目を開けると、そこには大尉がいた。表面上はいつもの冷静かつ頼れる大人を装っていたが、その内側で複雑な感情が蠢いているのはすぐに察せられた。
「大尉……」
「大丈夫か、ケンイチ」
「カレンは?」
「ああ、今応急処置が終わったところだ。まだ意識は戻っていない」
「そうですか」
僕にとって、自分が拘束されていることなどどうでもよかった。カレンさえ無事でいてくれれば。ユウジは命を落としてしまったけれど。
「もうしばらく待ってくれ、ケンイチ。お前の中枢神経が落ち着くまで、俺はお前の自由を取り上げておかなきゃならん。あんな風に暴れられたらこまるからな」
あんな風に。これは僕が敵の陸戦部隊を全滅させたことを言っているのだろう。
ここで暴れたりはしません、と言ってもよかったのだろうが、説得力など微塵もない。
「どうして僕の仕業だと分かったんです?」
「当然だろう、俺があのアンプルを渡したのはお前だけなんだから」
「それはそう、ですね」
僕はふっと大尉から視線を逸らした。カレンの意識は本当に戻っていないのだろうか? 訝しく思った僕は、テレパシーでの対話を試みた。
(カレン、聞こえるかい?)
(……)
反応なし。
「大尉、カレンは助かるんですよね?」
目だけで大尉を捉えると、大尉は今度こそ感情を露わにした。眉間に皺を寄せ、低い唸り声を上げる。
「楽観はできん。すまんな」
それだけ言って、大尉は腰を上げて助手席に収まった。いつもの大尉なら、ちゃんと話を聞いてくれるはずだけれど。
こんな状態では、流石の大尉とて平静ではいられないか。敵に自軍のゲリラ基地の場所を特定されてしまったのだから。だが、それよりもずっと致命的で感情的な問題を、大尉は抱えている。
あのゲリラ基地の安全確保を大尉たちが行ったとすれば、当然ユウジが戦死したことは分かるはずだ。
大尉にとって、ユウジは息子同然。カレンにも、娘に近い感情を抱いていたかもしれない。そのうちユウジが死亡し、カレンも意識不明の重体となれば、とても落ち込まずにはいられないだろう。
そこまで考えて、僕は再び自分の意識が闇に沈み込んでいくことを許した。代わりに浮かんできたのは、ある少女の過去体験だった。
※
「さあ、荷物をまとめるんだ。例の資料は?」
「ええ、この鞄の中に。あなた、本当にこの家を出るの?」
「そうだ。ヴェルヒルブ陸軍がこちらに向かっていると、アラン大尉から連絡があった。すぐに逃げろと」
「そうなのね。なら急がないと」
少女の両親は、防水性の鞄に紙束を入れながら脱出を試みていた。自分の家からだ。
「ねえお母さん、何があったの?」
当時の少女――カレン・アスミは、母親に尋ねる。
「悪い兵隊さんたちが来るわ。その前に逃げるのよ、あなたも」
「どうして?」
「それは……」
言葉に詰まった母親に代わり、父親がカレンの前にやって来た。しゃがみ込んで目線を合わせる。
「いいかい、カレン。お父さんたちはとんでもない発明をしてしまった。これがあれば、エウロビギナは戦争に勝てる。だが、一度でも使ってしまえば世界のバランスは崩れて、世界大戦に陥るかもしれない。それに、隠し通せるものでもない。だから他の国の兵隊さんに盗られる前に、発明した武器の資料を軍の偉い人たちに預けるんだ。そして破棄するように促して――」
父親の言葉はそこで途切れた。窓ガラスの割れる音と同時にザシュッ、と肉を裂く音が響く。
「きゃっ!」
飛散した鮮血をまともに浴びて、カレンは短い悲鳴を上げた。
「お父さん?」
そこに父親の顔はなかった。
「ッ! カレン、見ちゃいけないわ!」
母親が慌ててカレンを引き離す。父親の首から上は、狙撃によって破砕されてしまったのだ。
「いい、カレン? この地下室に隠れていなさい。お母さんがいいと言うまで、物音を立ててはいけないわ。分かった?」
突然の状況変化についていけないながらも、カレンは母親に背を押されるようにして地下室への階段を下りた。
「あれ? お母さん、お母さんは?」
「すぐにそばに行くから、待っててね」
そう言った直後、ばごん、という衝撃音と共に玄関扉が蹴り開けられた。
「カレン、早く!」
「ま、待って、お母さん!」
ゆっくりと地上階への床板が閉じられる。母親は包丁を構えたが、それがカレンの見た最後の肉親の姿だった。
バタタタタッ、という自動小銃の音がして、頭上からどさり、という音が降ってきた。
「第一・第二目標クリア。第三目標、捜索中」
「相手は子供だが、舐めてかかるなよ。家中の床板や天井を引き剥がしてでも見つけ出せ。発見し次第、射殺しろ」
これらの遣り取りから、カレンは悟った。
母親が殺されたこと。次は自分の番だということ。
涙が出るかと思ったが、そうでもなかった。嗚咽が漏れ出ることもない。これがショックであり、同時に絶望であることを悟るのは、カレンが救出されてからのことだ。
その救出部隊の隊長こそ、アラン・マッケンジー大尉だった。
《ヴェルヒルブ陸戦部隊に告ぐ! 総員武装を解除し、投降せよ! こちらには諸君の生命を保証するだけの用意がある! ただし、ここで回収したアスミ博士の資料は返してもらうぞ!》
メガホンで拡張されたその声は、建物内にも勢いよく轟いた。
「構わん、応戦しろ!」
カレンの捜索を止め、窓越しに銃撃を始めるヴェルヒルブ兵たち。だが、すでにこの家は大尉たちに包囲されており、彼らは呆気なく殲滅された。
その後、クリア、という声が何度も繰り返された。敵勢力が無力化されたことを、大尉たちが確認しているのだ。
「大尉、アラン夫妻の遺体を発見。現在、娘のカレンを捜索中」
「了解」
すると既にバレていたかのように、地下室と地上階を結ぶ床面が引き上げられた。
カレンは尻を冷たい床に擦りつけるようにして、ずるずると引き下がる。
「カレン・アスミさんだね?」
「……」
「怖がらなくていい。私はエウロビギナ陸軍レンジャー部隊のアラン・マッケンジーだ。ご両親の友人だよ。君たちを助けに来た」
陰になってよく見えなかったが、確かに目の前の大男は微笑みを浮かべている。敵ではない。
そう判断したカレンは、伸ばされた丸太のような腕にしがみつき、引っ張り上げてもらった。と同時に、ビニールシートを被せられて運ばれていく二つの遺体が目に入った。丁重に扱われているところからして、敵兵の遺体ではあるまい。ということは――。
カレンは口を開いた。大尉に、自分の両親は死んでしまったのかを確認するために。だが。
「……」
「よし、撤収だ。急げよ」
「……」
「大尉、アスミ夫妻のご遺体、収容完了しました」
「……」
「よし。総員警戒態勢のまま、トラックに乗り込め。即刻離脱する」
「……」
声が、出ない。さっきまで両親と話すのに使っていたはずの声が。
一体自分はどうしてしまったのか?
カレンはいつの間にか自分を負ぶってくれていた大尉の肩を軽く叩いた。
「ん、どうした、カレン?」
すっと息を吸い、発声を試みる。だが、結果は同じだ。荒い呼吸はできるのに、声の出し方が思い出せない。
「カレン、君は喋ることができないのか?」
大尉に向かってこくこくと頷くカレン。彼女の胸中にあったのは、絶望というより不自由感だった。このまま発声ができないのは困る。それに、まだ絶望というものに心が慣れきっておらず、意味不明な不快感としか捉えられていなかった。
「カレン、君は疲れているんだ。少し休んだ方がいい。落ち着いて、冷静にな」
それからカレンは、大尉と同じトラックの荷台に乗せられた。そして味方のトラックの中ですやすやと眠りに就いてしまった。まるでこれが悪夢に過ぎないのだと、自分に言い聞かせるように。
※
「……イチ、ケンイチ!」
「んっ、た、大尉。どうしたんです?」
「どうしたんですって……。お前、ひどい汗だぞ。顔色も悪いし」
「そうなんですか?」
「自覚がないとはな……。お前さんはほぼ無傷だが、何かしらの精神的ショックがあったのかもしれん。話せるか?」
「え、ええ、まあ」
僕は今見た夢の話をした。だが、これが夢でないことは明らかだ。きっと思念の遣り取りができる僕とカレンの仲で、カレンの無意識下の過去が僕の脳内に流れ込んできた、とでも言うべきだろう。
そのことを大尉に話すと、大尉は太くて長い溜息をつき、僕の見た過去の情景が事実であると認めた。
「あの日、アスミ博士と奥方が殺害された日以降、カレンは口が利けなくなってしまった。重度のストレス障害によるものだ」
「ああ、だから防空壕に隠れた時に暴れ出したんですね。トラウマなんでしょうか」
「多分な。流石に俺も、そこまでカレンに尋ねてみたことはないが」
真似をしたわけではないが、僕も大尉同様に行き場のない空気を肺から吐き出す。
それから、大尉は僕にその後のカレンのことを聞かせてくれた。
救出してから一週間ほどは、流石のカレンも放心状態だった。自分の両親が二人共一瞬で惨殺されたのだ。
葬儀は大尉が取り仕切り、アスミ博士夫妻は丁重に葬られた。
だが葬儀が終わった翌日から、事態は急展開を始める。
「カレンのやつ、どっから情報を仕入れたのか知らんが、俺にメモを突き付けてきた」
「メモ?」
「軍事訓練の教本のリストだ。いろんな実戦的格闘術を学ぶ気だったらしい」
そのメモを手にして怪訝な顔をする大尉に、カレンは筆談でこう付け加えた。
自分も敵が憎い。だから殺したい、と。
「正直、我が目を疑ったよ。だが反論できなかった。俺の両親が死んだ時だって、銃殺されたわけじゃない。だから俺にカレンの憎しみの深さを推し測ることは不可能だ。だからカレンの指示通り、教本を用意してやった」
それからさらに一週間が経過し、カレンは軍事施設内をうろつくようになった。その目的は専ら大尉を探してのことだ。
「彼女は大尉に稽古をつけてもらいたかったんですか?」
「いや、違う。お前がさっき使った注射の存在を知って、あれに順応しようとしていた。つまり、自分を実験台にして実戦に投入しろと言いたかったらしい」
大尉はもちろんそれを却下した。カレンはここ一週間のうちに教本の内容を全て頭に叩き入れており、後は身体を鍛えるだけだったが、例の注射は受けさせられなかった。僕に渡したアンプルだって、安全性が確保できた代物ではなかった。
「あれには強力な興奮作用がある。冷静さを失ってしまうんだ。性格も攻撃的、暴力的になると言われていた」
それを丁寧にカレンに語って聞かせた大尉。だが、彼女は諦めなかった。注射を諦めたのと同日に、大尉による稽古が始まった。
カレンは見る見るうちに多くの格闘技、偵察術、火器の取り扱いを覚え、それに耐え得る屈強な身体を造り上げていった。
ああ、だから最初に孤児院で会った時、あんな戦いができたのか。
そう思った時に、僕の頭にふわり、と疑問が浮き上がってきた。
どうしてカレンは軍属でありながら、孤児院などに入れられたのだろう?
「それは彼女が望んでのことだ」
「え? どうしてあんな劣悪な環境にわざわざ……?」
「恐らくお前がいたからだろう、ケンイチ」
「僕が原因、ですか?」
「書置きにあったよ。自分の脳に引っかかるような感覚がある、少し様子を見てくると。その時に彼女は、小型の無線機を持っていった。孤児院に着いた時にはちゃんと連絡を寄越したよ。もちろん音声ではなくモールス信号で、だが」
どうやらテレパシーの感覚を得たのはカレンが先だったらしい。その相手である僕が孤児院にいたことも把握済みで。だが、僕の方のテレパシー能力の開花を見届けるには、しばし時間を要した。
「お前がいた孤児院は、当時俺がいた基地から近くてな。いざという時はカレンを救出に向かえる距離だった。だから黙認することにしたのさ」
「なるほど、それで」
腕を組んで大きく頷く大尉。だから孤児院である教会のそばに、地対空部隊を迅速に配することができたのだろう。
「後はお前が知っての通りだ」
これでお終いとばかりに大尉は腕組みを解き、荷台に設置された無線機に手を伸ばした。
「こちら二号車、カレン軍曹の具合はどうだ?」
《こちら一号車、未だに昏睡状態です》
大尉は復唱する代わりに、再び溜息をついた。冷たい溜息だった。
僕は大尉が顔を上げるのを待って問いかけた。
「ところで大尉、僕たちはどこへ向かってるんです?」
「ペール・オルセン先生のところだ。お前だって覚えているだろう?」
「はい」
ペール先生といえば、孤児院からの脱出途中に瀕死の重傷を負ったカレンを助けてくれた陸軍の医官だ。
「お前たちのいたゲリラ基地から、一番近くて一番信頼できる医療機関だ。国境線にかなり近づくことになるが」
僕は首を動かせないので、了解しましたと答えるに留めた。
《大尉、もうじき密林を抜けて荒野に出ます》
「敵機の偵察ルートは把握しているな? そこに引っかからないように、迂回しながら走行しろ。あと十五分ほどだろう。聞こえたな、ケンイチ?」
僕は再び了解、と告げて、自分の感情が落ち着くのを待った。
それにしても……。
敵の陸戦部隊であるランド・クルーズを殲滅したのは、本当に僕だったのだろうか。
いや、僕以外に応戦できる人間がいなかったのは承知している。だが、本来ならただ追い返せばいいだけのところだ。それなのに、わざわざナイフ一本で殺害していったのは何故だろう? 逃がして堪るかと思ってしまったきっかけは?
まさか、人殺しが楽しいとでも思ってしまったのだろうか?
「ッ……」
「どうした、ケンイチ? 頭痛か?」
「ん……」
大尉に目の動きだけで訴える。
「もうじき到着だ。お前もカレンの処置が終わったら、ペール先生に診てもらえ」
「もしカレンが生きていてくれたら、でしょう?」
ぴくり、と大尉の頬が引き攣った。しかしすぐにそれを顔面から消し去り、ああそうだとだけ言って大尉は黙り込んだ。
もしカレンが生きていたら。今の大尉に向かって、これほどの暴言はなかったと思う。だが、僕の胸中にある、そして注射のせいで目覚めてしまった破壊衝動は、こうでもしなければ押さえつけておけなかった。
※
その医療施設の建物は、山脈に沿って巧みに隠されていた。岩肌が崩れたと思ったら、それがスライド式の大きな扉になっていたのだ。幅も高さも五メートルはあるだろうか。
どうしてそんなことが分かったのかと言えば、その頃には僕は拘束を解かれ、視界の自由が利いたからだ。
まあ、幌付きトラックの荷台から見た情景なので、扉の正確な大きさは分からないが。
その岩肌はトラック二両を呑み込み、がこん、と音を立ててゆっくり封鎖されていった。
前方には、強めの豆電球に照らされたトンネルがしばらく続いている。やがてもう一つの扉を経て、ようやく医療施設の入り口に至った。
床や壁の凹凸がなくなり、車内まで漂う医薬品のつんとした臭いでそれが分かったのだ。
トラックが停車すると同時に、賑やかで懐かしい声が耳に飛び込んできた。
「ほらほらあんたたち! 担架の準備くらいしておかないか! 怪我人が来るのは分かってたんだろう!」
ああ、本当にペール先生だ。
当たりは強い人だが、逆にそのことが僕に大きな安心感を与えた。この人にカレンを助けてもらいたいと思えたのだ。
大尉に促され、僕は荷台から降りた。すると意識のないカレンが、慎重かつ迅速に施設の奥へと運ばれていくところだった。
「やれやれ、最近の若いのは気が利かないね」
「ご無沙汰しております、ペール先生」
「何がご無沙汰だい、アラン。まあいい、今はカレンちゃんを助けなきゃね」
いつぞやと似たような会話を交わし、二人は笑顔を浮かべながらも緊張感を漂わせている。
「ああ、そうそう。カレンの無事が確認できたら、こいつのカウンセリングを頼みます。ほら、ケンイチ」
「お久しぶりです、ペール先生」
「やあ、ケンイチ。ってあんたも酷いね、血塗れじゃないか。取り敢えずシャワーでも浴びて着替えな」
「えっ」
シャワー? 着替え? 何を悠長なことを言ってるんだ?
「そんなことはいいです、カレンのそばにいさせてください!」
「あんた、手術の経験は? もちろん執刀する側で」
「あ、ありません、けど。ああでも、手術室のすぐ外で待たせてもらって――」
「駄目! 駄目駄目駄目!」
先生は凄い勢いで、顔を遮るように手を振った。
「カレンはあんたにとって大切な人なんだろう? 少しくらい見栄え良くしなきゃ。着替えは準備させるから、さっさとシャワーを浴びな」
押されているのにどこから湧いてくるのだろう、この心理的な安定感は。
僕は反論の言葉を失い、おずおずと先生の指示に従うことにした。
※
シャワールームを出てから、数回カレンとテレパシーの遣り取りを試みた。結果はいずれも応答なし。まあ、当然か。手術中だとしたら、全身麻酔を受けているかもしれないのだから。
僕は与えられた自室で、落ち着きなく歩き回っていた。
二、三十分のことにも思えたし、五、六時間も経ったようにも思えた。
すると、全く唐突に扉がノックされた。
「ケンイチ、俺だ。アランだ。ペール先生の手が空いたから、今度はお前がカウンセリングを受けろ。案内する」
「は、はい」
カウンセリング……。大尉がさっき言っていた、先生に診てもらえ、というのはそういう意味だったのか。
「俺が戦友を死なせた時もな、あの先生のお陰で救われたんだ。お前も今は実感がわかないだけで、メンタルがやられている可能性は高い。早めに話を聞いてもらった方がいい」
「そう、ですか」
「そういうもんだ」
※
先生の名前の書かれた扉をノックすると、あいよー、という声と共に忙しない気配が伝わってきた。大尉に軽く背を押されて、僕は声をかける。
「ペール先生、ケンイチです。カウンセリングを受けに来ました」
「カウンセリング? ああ、そんな話だったねえ。まあ入りな」
「失礼します……」
扉を開けると、そこにあったのは白衣を羽織る先生の姿。内科用と外科用で分けているのかもしれない。他にはロッカーやら資料山積みのデスクやらがある。僕の記憶が確かなら、六年前とそう変わらない。
ばたん、と音がしたのに驚いて振り返ると、扉がしっかり閉じられていた。大尉は同行してくれないようだ。
一抹の心細さを感じつつ、僕は先生の指示に従って向かいの丸椅子に腰を下ろした。
「ケンイチ、あたしゃ君に最初に伝えなきゃならないことがある」
「は、はい、何でしょう」
「君はカレンを助けてくれた。彼女は我が軍の貴重な戦力だ。その損失を免れたことに関して、私は礼を言うべきなんだろうね」
「そんな、礼だなんて……」
「その通り。飽くまでも、あたしは礼を『言うべき』であって『言いたい』わけじゃない」
そう言って、先生は僕をキッと睨みつけてきた。
「そ、それってどういう……」
「君は敵の陸戦部隊を一人で殲滅したらしいが、カレンはそんなこと望んじゃいなかった、ってことさ」
「なっ!」
僕は声を上げそうになった。
あなたに何が分かるんだ。カレンはいつも敵は全滅させてきた。自ら人殺しをしたいと言っていた。それに敵を野放しにしていたら、僕たちの方が危なかったのだ、と。
だが待てよ、と胸中にいるもう一人の僕が急停止をかける。
僕がナイフで敵を斬殺していた時、包囲網は完全に崩壊し、敵は這う這うの体で逃げ出すところだった。それを深追いして、無害だったかもしれない人間を殺害したのは間違いなく僕だ。
それも、自分たちにとっての危険を取り除くため、という理由だけではない。人を殺すこと、人体を損壊せしめることに爽快感を覚えてしまっていたのだ。
僅かな言葉でこれほど僕に考えさせるとは、ペール先生という人は確かに凄い人物のようだ。だが、そのわけはすぐに明らかにされた。
「あたしの旦那も陸戦部隊所属でね。十年前に北部戦線で戦死したんだけど」
「えっ? そ、それは」
「ご愁傷様なんて言葉は要らないよ。それに、君はまだ若い。死ぬにはね。だからあたしゃ思ったのさ。カレンはあんたに死んでほしくないと思ってるに違いない、と」
だから責めたのか。執拗な深追いをして、敵を全滅させてしまった僕を。礼を言うには値しないと。
確かにそういう節はあるかもしれない。だが。
「しかし、カレン本人はずっと危険な任務にあたっています。先生の見立てが正しいとしても、カレンの言動は矛盾しています」
「そりゃあそうかもしれんけれどもねえ」
そう言って先生は肩を竦めた。
「大尉からカレンの過去は聞いただろう?」
「はい、ご両親が殺害されたと」
「それはそれはショックだったろうさ。自己矛盾に陥って、憎しみに身を任せてしまう程度にはね」
「だったら僕にどうしろっていうんですか? カレンに過去を忘れさせて、真っ当な女の子らしい生活を送らせろとでも?」
「そこまで言うつもりはないよ。大体、君にゃできんだろう」
僕はぐっと唇を噛み、ゆっくりと俯く。
同時にびくり、と全身を震わせた。憎しみに身を任せていたのは僕だって同じじゃないか。
しかもそこに快楽や爽快感すら覚えて。
その考えに至り、僕は立ち上がった。
「僕は好き好んで敵を倒したわけじゃない!」
「まあ罪には問われんさ。戦争だからね。だが、人を殺したという事実は変わらない」
これには反論の余地もなかった。
戦争だから、か。僕を教会に置き去りにした両親の言葉を思い出す。
戦争という歴史の大きな波に呑まれてしまったという点では、皆が被害者で皆が加害者なのかもしれない。
僕もカレンもユウジも大尉も、僕が斬殺した敵の兵士たちも。
考えがここに至り、僕は酷い頭痛をもよおした。それはキリキリと痛むような生理的なものではなく、頭がずぶずぶと暗闇に沈んでいくような心理的恐怖によるものだ。
軽く先生を一瞥したものの、返ってきたのは無感情な目線だけ。こうやって無関心を装われるのが、お前が受けるべき罰なのだ。そう言われている気がした。
僕はその場にひざまずき、数回顔を拭ってみた。シャワーを浴びてきたばかりなのに嫌に冷たい汗が滴っている。
「とまあ、意地悪が過ぎたかね。許しておくれ。あたしもカレンのことが心配だし、アランのことも気にかけてる。アランは君の所業をつぶさに観察してきたようだし、カレンだって意識が戻って、あの敵部隊を殲滅したのが君だったと知れば落ち着いてはいられないだろう。突然あの子に責め立てられるよりは、ちょっと覚悟を持っといた方がいいと思ってね」
「そ、それは……」
僕はごくりと喉仏を上下させ、思いの丈を述べた。
「僕が責められるのは構いません。たとえ死んだとしても。でも、カレンのことは心配です。せめて僕の代わりに、彼女だけでも生きていてほしい」
「それは何故かな」
「彼女は戦争という魔手に囚われています。そんな生き方、絶対におかしい。僕じゃなくてもいいから、誰かに彼女を救ってもらって、そして幸せにしてあげてほしい。そう思ってます」
「なるほど。君はカレンのことを――いや、こんなことは年寄りが口にする言葉じゃないね。何でもないよ」
何でもないと言われると余計気になるが、僕は黙して頷くに留めることにする。
その時、部屋の天井の隅に配されたスピーカーが声を上げた。
《至急至急。本施設に所属の戦闘員は、直ちに第二会議室に集合せよ。繰り返す――》
「おっと……。一体何事でしょう?」
「さあ? あたしにゃ分からんよ。ケンイチ、取り敢えず君は休んで――」
「いえ」
僕はさっと首を左右に振った。
「敵に関することなら、僕も聞きます。何もできないかもしれないけど」
「まあ引き留めやしないがね。変なことを考えるんじゃないよ」
「了解です。ありがとうございました、先生」
「へいへい」
僕は先生の部屋を出ながら、心が軽くなっていることに気づいた。もしかしたら先生は僕に反省を促す以前に、話をさせて気分を楽にさせたかったのかもしれない。
「人と話すのがこんなに救いになるなんて……」
いや、待てよ。ということは、喋ることのできないカレンは、テレパシーの遣り取りができる僕以外の人間とは会話ができなかった、つまり僕が唯一の救いになっていた、ということであるまいか。
そのことに気づいた僕の心に最初に去来した感覚。それは、心がひび割れるような痛みだ。
僕がもっと、ちゃんとカレンの話し相手、否、テレパシーの遣り取り相手になってあげていれば。そうすれば、カレンはあんな好戦的な性格にならずに済んだのではないか。
ひいては、自分の身に襲い掛かる危険に突っ込んでいくようなことはしないようになっていたのではないか。
「おう、ケンイチ」
「あっ、大尉」
考えに耽っていた僕は、大尉と正面衝突する直前で立ち止まった。さもなくばあの胸板に弾き飛ばされていただろう。
「あの、第二会議室は……?」
「ここだ」
大尉が親指ですぐそばの扉を指す。僕がああ、と呟くと、大尉は自分が説明役だからと言って、さっさと会議室に入っていった。
ただ立ち尽くしているわけにもいかないので、僕も大尉に続いて会議室に入る。テーブルと椅子が並んだ、典型的な会議室だった。
僕は大尉について行ったが、彼が腰を下ろす気配はない。
「大尉?」
「ああ、適当に腰かけていてくれ。俺が説明しなければならん。非常事態だ」
「りょ、了解」
《それでは、アラン・マッケンジー大尉、お願いします》
司会役に促され、大尉は壇上に立った。
※
報告会が終わって席を立った時、僕は顔面蒼白だったと思う。
化学兵器がヴェルヒルブによって開発されていたということは、アルバトル急襲作戦の時点で分かっていたことだ。
だが、それを元々開発したのがカレンの両親だったとは。
大尉の説明によれば、彼が出かけていたのはとある情報源と接触するためだったという。
いわゆる情報工作員、スパイとの密会だ。スパイは言った。
カレンの両親が殺害された時、情報を入手して逃げ延びた敵兵士がいたこと。
その情報を元に開発されているのが現在の化学兵器であること。
そして恐るべきは、その威力であること。
「まさか国土の五パーセントが死の土地になるとは……」
これは最早、戦争の域を超えている。動物はもとより、草木の一本さえも生存できない環境に陥れてしまう。もしそれが市街地上空で使用されたとしたら。
「敵は既にこの化学兵器の実用試験に臨む段階だろう。そのために、エウロビギナ西方のこの山岳地帯を標的にする可能性が高い。もし上手くいってしまったら、次は間違いなく都市攻撃に移る。ここで出鼻を挫かなければならん」
その説明は、大尉が僕に行ってくれているものだ。ようやく概要が頭に入ってきた。
「大尉、この空域を警戒中の戦闘機部隊は? 地対空部隊の展開はどうなっていますか?」
「残念だが、遅すぎたよ」
「え……?」
大尉は露骨に顔を背けた。
「今回、人的被害が出る可能性は低い。だが、かといって化学兵器の実用試験を止め得るだけの戦力もない。もうこの戦争は、後戻りができないんだ」
(だったら前に進めてやればいい。終わりが来るまで)
(そうだね、カレン。って、何だって?)
「どうした、ケンイチ?」
「い、今カレンからテレパシーが」
「馬鹿な! まだ麻酔が利いているはずだぞ」
しかし、カレンは現れた。きゅるきゅると音を立てながら、すっと静かに。
会議室の後方出口で、点滴を吊ったキャスター付きの危惧を片手に、やや息を荒げながら立っている。
皆が訝しげにカレンを一瞥していく。当然だ。カレンの顔かたちは、エウロビギナ軍内でも大っぴらにはされてはいないのだから。
それより問題は、ずかずかとカレンに向かっていく大尉の方だ。心配と、その反動の怒りとで冷静さを失いかけているように見える。
「カレン、さては病室を抜け出してきたな?」
鼻息も荒く責め立てるような口調の大尉に向かい、ぐっと顎を引くカレン。
(カレン、まさか……。君は戦うつもりなのか? そんな大怪我をしているのに?)
(戦うに決まってる。国家存亡の危機でしょ。別にエウロビギナに愛着があるわけじゃないけど。でも、少なくとも両親は愛国者だった。ユウジもね。彼らのために、ヴェルヒルブの連中を血祭に挙げたいのよ)
僕の表情から察するところがあったらしい。大尉は僕たちを手招きし、ふん、と鼻を鳴らしてこう言った。
「ペール先生に出撃許可を要請してやる。そこで申請されなければ、諦めろ」
※
「随分と早いお目覚めだね、カレン?」
回転椅子を回し、先生が僕たち三人を見遣る。
「アラン、あんたが子供たちと同じ側に立ってるってことは、二人の意見を尊重するつもりなんだね?」
「はい、先生」
狼狽するのを止めたのだろう、大尉は明瞭に答えた。やれやれとかどうしようもないとか呟きながら、デスクの裏手に回る先生。そこには鍵が並べて掛けられている。
「これが、この施設の最下層の火器格納庫の鍵だ」
ひょいっと投げられたそれを、僕は我ながら器用にキャッチする。
何があるんですか、と尋ねられればよかったのだろう。だが、先に口を開いたのは大尉だった。
「先生はカレンの出撃に反対なのですね?」
「当り前さね。私の患者だ。重傷の処置は済んだとはいえ、まだまだ万全とは言えない」
「と、いうことは……」
「ちょっとやめなさいな、アラン。自分の思い通りにならないからって、あたしが協力を断るとでも思ったかい? そこまでやんちゃする年頃じゃないよ。ちゃんとケンイチと一緒にナビゲートするさ」
「ありがとうございます」
「ひとまず、あんたたち三人で格納庫に行きな。もしそこの装備が気に食わなかったら諦めるこったね。ケンイチとカレンは、テレパシーに支障が出ないか繰り返し思念の交換をすること。分かったかい?」
「はっ、は、はい、了解です!」
僕が大尉を見習って深々と頭を下げていると、早く行こうとカレンに急かされた。
先生の部屋を出ると、廊下の向かいはエレベーターに直結していた。
「よし、これで格納庫へ行こう」
大尉の言葉に応じるように、がたん、と音を立ててエレベーターが目の前に下りてきた。
※
エレベーターでの降下には、随分時間がかかった。それだけ深くまで潜ってきたということだろう。僕は古びた倉庫のような場所を想像した。だが扉が開いた時、そこにあったのは清潔で広大な空間だった。
「最近手入れされたみたいだ」
僕は呟く。
大尉は無言で進み出て、大きなスイッチを拳で軽く叩いた。ばちん、と通電する音がして、部屋の奥まで照明が灯る。そこにあったものを見て、僕ははっと息を飲んだ。
「アクラン……?」
「差し詰め二号機、と言ったところだ」
「大尉、どうしてこれがこんなところに?」
「実は俺もさっき先生から聞かされたばかりなんだ。だが問題は――」
と大尉が言いかけると、カレンがすたすたとそのアクランに近づいて行った。
「カ、カレン?」
その場で点滴の針を抜き取り、キャスター付きの器具から手を離す。かたん、と軽い音を響かせて、点滴が床面に打ちつけられた。
(ケンイチ、一回これをあたしに装備してみて)
(で、でも……)
(いいから!)
カレンに急かされ、僕は装備を施していく。場所は違えど、僕の手はいつも通りに動いた。ジェットエンジンを一つ一つ装備し、接続をカレンと逐一確認していく。どうやらこのアクランは、カレン専用にチューンナップされていたらしい。
(どうだい、カレン?)
(軽いわね。動きやすい)
(それはよかった。でも武器が――)
「どうした? 武器か?」
大尉が声をかけてくる。薄暗いところからぬっと出てきた大尉の手には、ヒートブレードが握られていた。
「一応これも先生に聞いてきたぞ。ここにある空対空武器で、カレンに使いこなせるのはこれだけだそうだ」
「あっ、はい」
僕は大尉からブレードを受け取り、カレンに手渡そうとした。そして、柄の部分に注意事項が記されていたのを見て驚いた。
「刀身は一号機の二倍!?」
「そうだ。実質、最大出力で二・五メートル。元のブレードの八倍の宙域をカレンはカバーできる」
(貸して、ケンイチ。それから離れて)
僕がサーベルを手渡して離れると、カレンは躊躇いなくサーベルを起動した。ヴン、という音と共に、青白い光の剣が展開される。
それからカレンは曲芸師のように、そのサーベルを前後左右、加えて上下に余すところなく振り回した。
粉塵が舞うようなことはない。すぐさま融解・蒸発させられてしまうからだ。そうしてカレンが刀身を格納した時、そこには不敵な笑みが浮かんでいた。
(気に入ったわ)
その表情からカレンの心境を汲み取ったのだろう。大尉は腕組みをして言った。
「私、アラン・マッケンジー大尉は、空軍ゲリラ部隊の責任者としてカレン・アスミ上級軍曹に出撃許可を与える。攻撃目標は、現在越境を試みているヴェルヒルブ空軍爆撃機、及び護衛戦闘機。全機撃墜し、無事帰投せよ。命令だ」
本当は敬礼すべき場面だったのだろう。だが、カレンは口の端を上げて大きく頷いた。
「話はここまでだ。ケンイチ、いつも通りのオペレーションを頼む」
「は、はッ!」
それから、大尉には伝わらないように僕はカレンに呼びかけた。
(カレン)
(何?)
(僕からもお願いするよ。無事に帰ってきて。待ってる)
するとカレンは軽く僕の肩に手を載せ、そのまま大尉に続いて歩いて行った。
※
この山麓にある医療施設にも、レーダーサイトは用意されていた。
現在カレンは無事離陸し、高度を上げて山脈の低い部分、約二〇〇〇メートルの地点上空を通過中。敵の爆撃機は、レーダーサイトに入るにはまだ早いようだ。
もし肉眼で周囲が見えていたら、夜闇にぽっかりと浮かんだ月が実に美しかったことだろう。
件の化学兵器。まさか爆撃機が撃墜され、落下の衝撃で爆発するような代物ではあるまい。だが万が一ということもある。できればこの入り組んだ山脈地帯のどこか、谷間に落ちてくれればそんなに拡散しないだろう。
僕はカレンの航路を見つめながら、出撃前のペール先生の言葉を思い出していた。
撤退に関してだ。条件は一つ。傷口が開き、出血が始まったら何が何でも撤退させろと。それまでに、急造ではあるが空対空部隊を編成しておく、とのことだった。
僕は一旦立ち上がり、両手を組んで頭上に伸ばし、思いっきり筋肉を弛緩させた。
再びサイト前の椅子に腰かける。そして、そこに映し出されている光景に唖然とした。
(カレン! 敵機襲来、猛スピードで君の下へ向かってる!)
(何ですって?)
(動力はきっとジェットエンジンだ。恐らく、ヴェルヒルブ製Ⅴ型戦闘機に搭載されているミサイルだ!)
(ッ!)
南西方向から、二発の小型飛翔体が戦闘機より高速で迫ってきている。シンクロすると、カレンはヒートサーベルを抜刀、迎撃態勢に入るところだった。
僕はカレンを経由して、どうにかレーダーサイト外の状況を探ろうとした。そして、愕然とした。
(カレン、敵は爆撃機一、それにⅤ型戦闘機が三、いや四! 今君に迫ってるミサイルは、計十二基のうちの二基だ!)
カレンは無言。いかにして回避・迎撃すべきか考えているのだろう。
ミサイルがただの砲弾ではなく、誘導兵器であることが最大の問題だ。
と、その時だった。僕の脳裏に、凄まじいノイズが走ったのは。
「ぐあっ! ぐぐっ……!」
(どうしたの、ケンイチ?)
「ケンイチ、どうした!」
カレンと大尉が同時に意識を向けてくる。しかし僕は、二人に同じ返答をした。
大丈夫、任務に支障はない、と。
カレンを誤魔化すことはできたが、大尉はそうはいかなかった。何せ、僕がレーダーサイトに肘をつき、頭を抱え、歯を食いしばっている姿を見られてしまったのだから。
「ケンイチ、何があった?」
「はあっ、やっぱりこうなったか」
管制室に駆け足で飛び込んできたのはペール先生だった。僕の肩を揺すりながら、大尉が振り返る。
「まさか……」
「そのまさかさ。アラン、あんたがケンイチに渡した強制代謝促進剤だが、あれの副作用が出てるんだよ」
「そんな!」
僕は二人の語る意味を知っている。大尉が僕に渡した薬剤というのは、例の注射器の中身だ。ヴェルヒルブの陸戦部隊に基地が制圧されかけた時、僕が自らの胸に突き刺したあの液体薬剤。
あれのお陰で、僕はカレンを救い、窮地を脱することができた。しかしまさかその副作用が、テレパシー能力の阻害だったとは。
「ケンイチ、一旦テレパシーでの交信を止めて――」
「いえ、シンクロ、入ります」
僕は目をカっと見開いて、なんとかレーダーサイトを視界に叩き込んだ。そして先ほど以上の激痛に見舞われつつ、カレンと意識を重ね合わせる。
するとまさに、カレンの翼を掠めるような距離でミサイルを回避するところだった。空中でミサイルを爆散させなかったところからすると、敵もまだこのミサイルの取り扱いに慣れていないらしい。
直進したミサイルはカレンの後方の山肌に衝突し、鈍い爆音と黒煙を上げた。その麓で火の手が上がっている。どうやらカレンがサーベルで斬りつけ、もう一基のミサイルを墜落させたらしい。
(カレン、無事か?)
(ええ、あんたは?)
(何ともない! それより、敵機本体が接近中だ! 一時方向、同高度!)
Ⅴ型戦闘機の主装備は飽くまでミサイル。その重量を支えるという設計思想ゆえに、本体の動きは鈍重だ。
カレンは急降下し、敵機の真下から急上昇。サーベルで思いっきりコクピットを貫通した。そのままアクランを駆使し、機体を垂直にする。
(何やってるんだ、カレン!?)
(盾にする)
(危険だ! そいつはまだミサイルを一基積んでるんだぞ!)
(好都合。使わせてもらう)
(は、はあっ?)
二機目の敵機のミサイルが迫ってきた時、カレンは盾にしていた機体の機首をその敵機に向けた。そのままアクランをフル稼働させて、今放たれたミサイルに突っ込んでいく。
と見せかけて、ミサイルを再度ギリギリで回避。そのミサイルが旋回してくる前に、二機目本体に向けて一機目の残骸を放り投げた。
アクランで増速された残骸は、ほぼ水平に真正面から二機目と衝突。合計三基分のミサイルが空中で爆散し、あたりは昼間のような明るさに照らされた。
二機目が放っていたミサイルは主を失い、よろよろと減速して墜落する。
残るは爆撃機と、護衛戦闘機二機。ミサイルは六基だ。
そのことを確認しようと、僕が思念を送ろうとしたその時。
「ぐぼっ!」
「お、おいケンイチ!」
明らかに狼狽えた声がする。大尉のものだ。だが、大尉がこんなに落ち着きをなくすなんて。
何事かと思って顔を上げると、レーダーサイトが真っ赤に汚れていた。同時に、僕の口腔内は強烈な鉄臭さに満ちている。
「先生! ケンイチが吐血しました!」
吐血? 僕が?
いや、そんなことはどうでもいい。僕はカレンのオペレーターなのだ。早く意識を立て直し、シンクロし、て、彼女の、援護、を……。
薄れゆく意識の中、僕の左肩に鈍痛が走る。左頬にもひんやりとした感触。床面に接触したのだ。
自分は平衡感覚を失っている。そう気づいた僕は、それでもシンクロ続行を試みた。しかし、カレンと連携していたはずの意識が繋がらない。これは、まさか。
「シンクロ可能領域が狭まっている……?」
「何? ケンイチ、何だって? ああもういい! カレンに帰投させろ! おい、担架こっちだ!」
矢継ぎ早に言葉を発する大尉。その足首をぎゅっと掴み、僕はのっそりと立ち上がった。
「遮蔽物が多すぎる……。せめて、外へ……」
「もういい、作戦は失敗だ! カレンは無事だから、お前も今のうちに――」
「大尉、僕を外へ……。できるだけ高度のある所へ連れ出してください」
「だからもう作戦は失敗なんだ!」
「カレンは‼」
僕は腹の底から声を出した。
「彼女に失敗の二文字はありません。あったとしたら、僕がそれを掻き消します」
「どうやってだ?」
「いつも通りに」
むせ返ると、あたりに鮮血が飛び散った。だがここで退くわけにはいかないし、カレンを退かせるわけにもいかない。
それが、僕の命を救ってくれたカレンの生き様だからだ。
※
気がついた時には、僕は大尉の背中から下ろされるところだった。がたん、と揺れる床面。どうやらエレベーターに乗せられたらしい。
エレベーターで外部メンテナンスハッチのある階層まで上がり、そこからテレパシーの遣り取りをすれば、僕の負担も減るはずだ。
「アラン、覚悟しておきな。こんなことをして、もしケンイチやカレンが死んだら……」
「俺の覚悟など、彼らの覚悟に比べればたいしたものではありません」
「あんたはいつも思いきりがいいのか向こう見ずなのか、さっぱり分からんよ」
二人の会話が途切れたところで、両方から自分が覗き込まれるのが分かる。
「大尉、ぼ、僕は……」
「喋るな」
一喝されて、僕は再び俯く。
それからしばしの間、僕たち三人は無言だった。異常な揺れを伴って、エレベーターが停止するまでは。
「おっと! 何だい、突然?」
「ケンイチ、大丈夫か? どうやら整備の手が緩んでいたようですね。落下の危険があるとして、エレベーターが急停止したんです」
大尉は即座に扉の前に立ち、僅かな隙間に指を引っかけた。
「仕方ない、扉をこじ開けます。ケンイチ、少し階段を上ることになるが、大丈夫か?」
僕は半ば重力に任せて頷いた。ぴたん、と血が唇の間から滴り落ちる。足元には既に、小さな血の池が広がっていた。
エレベーターの扉を開くのに、大した時間はかからなかった。しかしここで、僕たちは大問題にぶつかることになる。
「くそっ!」
大尉がエレベーターの壁面を蹴りつけた。目の前にあったのは、コンクリートの壁。階層を区分けする段差だったのだ。
これでは、大尉の図体では這い上がることができない。僕の胸中にも、ゆっくりと絶望感が注入されていく。
「これじゃケンイチを負ぶっていけない!」
「やっぱり無理だったんだよ、アラン。すぐに助けを呼ぶから、それまで待って――」
「それは、できません」
僕は静かに断言した。
「カレンは今、ピンチに陥っています。シンクロしていないので詳しい戦況は分かりません。けど……げほっ!」
「無理に喋るな! ここには医療器具もないんだぞ!」
「は、早くカレンとシンクロできるところまで……」
僕は何も、不可能なことを言っているわけではない。大尉では通れなくても、小柄な僕ならこの段差の隙間を抜けられる。
大尉にだって分かっているはずだ。ここで救助を待っていたら、ここまでやって来た僕たちの苦労は無駄になるということ。そして何より、カレンが命を落とすということ。
心配げな先生をよそに、大尉は出口と反対側の壁に掌を押しつけた。
「……ケンイチ・スドウ曹長。命令だ。カレン・アスミ上級軍曹を遠隔支援し、必ず二人で生きて帰れ。今、お前を担ぎ上げてやる」
赤ん坊をあやすように、大尉は軽々と僕の身体を持ち上げた。確かに僕なら、この隙間を通れそうだ。
「ありがと……いえ、了解しました、大尉」
こうして僕は薄暗い無人の廊下に立ち、そばにあった階段を上り始めた。
※
これはきっと、天罰なのだ。僕はそう思う。
あれほど戦争に抵抗感を抱きながら、カレンを矢面に立たせて自分はこそこそ後方支援。
かといっていざ自分が戦わざるを得なくなった時の、あの高揚感と爽快感。
この全身を苛む激痛は、その報い。僕が殺害してしまった十余名の置き土産のようなものなのだろう。敵であることを考慮しても、僕はあまりにも残虐な行いをしていた。
どうして今こんなことを考えるのか? 昨日の今日で、心変わりができたとでも言うのか? まさか。
僕はカレンに死んでほしくない。たとえ彼女が自ら死地に臨もうとも。そう思う心の中心部には、傷一つついていない。
だからこそ僕は、この階段を上る。這うような無様な格好でも。血反吐をぶちまけながらでも。死者に恨まれ続けようとも。
それでも、カレンには無事に帰ってきてほしいから。
※
階段の踊り場に鉄扉があった。施錠はされていない。
ドアノブに手をかけ、なんとか立ち上がる。それから僕は余力を振り絞るつもりでノブを回し、体重を鉄扉にかけた。
ギシリ、と音がして、ゆっくりと鉄扉が向こう側へと開かれていく。
ふっと涼しい夜気を感じた直後、ドアの展開と共に僕は倒れ込んだ。今さらになって、自分の呼吸が乱れていることに気づく。
辛うじて上半身を起こし、立ち上がりながら閉まった鉄扉に背を預ける。
それから再び生じた激痛に耐えつつ、カレンに思念を送った。
(大丈夫か、カレン?)
(……)
(カレン?)
(ええ、問題ない)
(シンクロ、入るよ)
僕がカレンとシンクロし、最初に感じた問題。それは、左脇腹がじっとりと湿っていることだ。
(カレン、まさか……!)
(傷口が開いたみたい)
(そんな呑気に言ってる場合か! 大尉は君の傷口が開いたら、すぐに撤退命令を出すようにと――)
(でもその大尉からの命令に従うつもりはないんでしょう、ケンイチ?)
そう伝えられてしまうと、ぐうの音も出ない。
(さっき僕が感じた危機感は、君の傷口が開いたことだったのか。出血は?)
(大したことはな――)
(マズい! この出血だと、君はあと五分で失血性ショックで意識を失うことになるぞ!)
(あんたがサボってる間にミサイルは二基落とした。残り四基、誘導よろしく)
またもや反論の余地のない言葉。いつもなら溜息の一つもつくところだが、今はそれどころではない。
(カレン、敵が四基のミサイルを同時に発射した! もうじき化学兵器の投下ポイントに着くんだ! だから撃ち尽くそうと……)
(四発? 随分と気前がいいのね)
不敵にもそう言って、カレンはばさり、と両羽を羽ばたかせた。次に彼女が選んだ軌道は、一言で言えば理解不能だった。
急上昇によりミサイル群の上空に出たのは分かる。しかしそれから螺旋を描くように、上昇を続けるのはどういうことか。
(何をする気だ、カレン?)
(ケンイチ、あんた、Ⅴ型戦闘機のミサイルの信管が凍る温度って知ってる?)
(ああ、そりゃあ……ってまさか!)
僕が悟ったのはこういうことだ。
カレンはミサイルに高高度まで自らを誘導させ、信管が起動しないほどの温度下におく。
それを一つ抱え、信管が温まって再起動する前に爆撃機の真上から突撃。
そしてミサイルを直接ぶち当てようという作戦だ。
残り三基のミサイルは、そのうち誘導機能を失って自由落下し、軽い山火事を起こす程度の被害しかもたらさないだろう。
ぐんぐん高度を上げていくカレン。やがて高度一二〇〇〇メートルに到達する。この瞬間こそ、ミサイルの信管が起動しなくなる温度に達するはずだ。
カレンは慎重を期し、高度一四〇〇〇メートルまで上昇。そこでばさり、と真っ黒な両翼を広げ、薄い空気を深呼吸で取り込む。
肺が凍てつくような気温だが、カレンには関係ない。
それからカレンは半分宙返りをする要領で上下さかさまになり、全ジェットエンジンを噴射。一気に猛スピードでの降下を開始した。
「くっ! で、でもこのくらいっ……!」
僕はさらなる全身の痛みに見舞われていたが、ここで退くわけにはいかない。さっき誓ったばかりだ。カレンを助けるのだと。
(残り三基のミサイルは、皆自由落下体勢に入った。後はカレンの思うがままだ)
(りょうか……んっ)
(どうした、カレン?)
(狙いが、上手く定められない……!)
僕ははっとした。出血多量による弊害だ。
ここまで、二人で頑張ってきて、その結果がカレンの墜落?
(させるかっ……!)
(ケンイチ、何してるの?)
(僕の目を君に貸す! 視野が広く明確になったはずだ!)
(え、ええ。だけど)
僕の心配? まさかな。カレンがそんなことを気にかけるはずが――。
(あんたに借り一つね)
(ッ?)
今何と言った? いや、それはどうでもいい。本当はどうでもよくはないが、今考えるべきことではない。
カレンは抱き着くようにして掴んでいたミサイルに、横合いからヒートサーベルを突き刺した。これで信管は作動する。
それを、明瞭になった視界の中で真下に投擲。カレンは任務完了とばかりに身を翻しながら現場空域を離脱していく。
すると背後から、盛大な爆発音と爆光が波のように押し寄せてきた。翼部で自らを守るように丸くなるカレン。その代わりに僕が、爆撃機の状態に注意を払う。
結果、化学兵器を搭載した爆撃機は空中にて爆発四散。頑丈に守られていたため、化学兵器の漏洩は確認されず。
(カレン、作戦成功だ! 君の身体はあと一分半もつから、その間に安全に着陸を――)
(がっ!)
(どうした? カレン!)
尋ねるまでもない。カレンは撃たれたのだ。僕たちがうっかり忘れていた、ミサイルを撃ち放った後の二機のⅤ型戦闘機によって。
僕は今日一番の吐血と共に、そのままべたりと倒れ込んだ。
微かに僕の名前が呼ばれた気がしたが、これ以上の身体行動は何もできなかった。