【第三章】
【第三章】
これは夢だ。それは分かっている。
こんなにあたりが真っ白で誰もいない空間など、現実にはなかなか想像することすら難しい。具体的な場所が知りたかったが、夢の中だと分かっているだけよしとするか。
その時、僕の眼前にふっと人影が現れた。
「カレン……」
カレンはこちらに背を向け、ゆっくりと歩み去ろうとしている。
「カレン、待って!」
僕も後を追うように駆け出す。しかし、足がなかなか動かない。まるで腰まで泥沼に浸かってしまったかのようだ。
それでも僕は目を凝らす。そして、気づく。カレンの行く先にあるものに。
それはアクランの装備一式だった。夢の中にまで登場するとは思わなかった。
目を眇めると、さらに奥に見えるものがある。いや、ものというよりイメージ、概念だ。
それは爆炎だったり、銃器だったり、血飛沫だったりした。
そうか。これは戦争の在り様を呈しているのだ。そしてカレンは何の憚りもなく、躊躇もなく、そのイメージの中に踏み込もうとしている。
(止めるんだカレン! 君は戦うべき人間じゃない!)
僕は必死にテレパシーを送る。だが、カレンがこちらを振り返ることはない。その代わりに、思念が返ってくる。
(あたしの人生は戦いそのもの。ケンイチ、邪魔しないで)
(じゃ、邪魔って……。僕は君のことを心配してるんだよ、カレン!)
(そういうのを余計なお世話っていうのよ)
余計なお世話、だって? だったらこっちにも言い分がある。
(僕はそうは思わない)
(何ですって?)
カレンが初めて振り返った。今現在の、十六歳の姿で。
(戦争なんて、大人たちが勝手に始めたものじゃないか! 君が危険を冒すことはないだろう?)
(あんたには分からないよ、ケンイチ。あたしは自分の意志で戦ってる。戦いたいの。敵を殺したいのよ)
僕は思念の遣り取りの中で、初めて息詰まった。
(繰り返す。邪魔しないで)
もし僕が冷静だったなら、カレンが独力でアクランを装備することができないことが分かったはず。それはつまり、カレンに航空戦ができない、戦えないということだ。
だが彼女にとって、それは些細な問題だった。アクランの有無にかかわらず、カレンは戦場に向かってしまう。そんな強さ、危うさがよく見える。まるで背中にそんな言葉が書いてあるかのように。
いつしかその背中はうっすらと消え去り、戦争のイメージもなくなって、残されたのはカレンの名を連呼する僕だけだった。
※
「カレン……」
「何ぶつぶつ言ってんのさ、ケンイチ!」
ビシッ、といい音がして、僕の額に痛みが走った。うっすらと誰かの丸顔が視界に浮かんでくる。ユウジだ。デコピンを喰らったらしい。
「ん、あ……」
「今日は大尉が来るんだろ。俺とケンイチは荷物の搬入を手伝わなきゃ! それと、カレンは渡さないからな! 俺が彼女を守るんだ!」
ご苦労なことだな。僕はそれを口にすることなく、眉をひそめてユウジを見返した。僕は自分のベッドで横になり、ユウジはそばに立って僕の顔を覗き込んでいる。
「まったく、ケンイチだって油断大敵だぞ! 寝坊なんて珍しいじゃんか」
「ああ、そうかもな」
昨日は夜間に二度もカレンの出撃があり、しかも一方は未知の戦力、すなわちミサイルとの戦いだった。そのオペレーションを担当して、疲れない方がどうかしている。
それにしても。
カレンが頑なに戦いに出向こうとしている理由は何なのだろう? 僕とてカレンの過去全てを知っているわけではない。知らない方がいいのかもしれない。
だが、夢にまで出てくるということは、いつかは知らなければならないことなのかも――。
ううむ、こんなことを考えていると頭がどうにかなりそうだな。それより、目下のところ最も気になることに目を向けよう。あの夢を忘れられるかもしれないし。
「ところでユウジ、今日はやけに早起きじゃないか。いっつも僕が起こしに行ってるくらいなのに。それに、大尉が来るまでまだ時間はあるだろ?」
「それよりもさあケンイチ、俺に言うこと、あるんじゃない?」
「……は?」
「おいおい何だよそのリアクションは! 今日は記念日だろう、俺がこの基地に配属された記念日!」
「ん、あ、ああ……」
「いやだからさ、その淡泊な反応は何なの? 俺が配属されたってことは、ケンイチとカレンがこの基地を任されたのと同じってことだぜ? それで二人三脚で頑張ってきたんじゃないか!」
「二人?」
「うん、俺とカレンの二人で!」
呆れた。ユウジのやつめ、テレパシーを使うことで身体にかかる負荷というものを全く分かっていない。
「ほら、早く何かしようよ!」
「何かって?」
「ん? あーーー……そ、そうだな……」
ユウジが両手を腰に当て、宙に視線を彷徨わせる。それを見た僕が溜息をつくと、地上フェンスの開閉アラームが鳴り響いた。
「おっと、どいてくれ」
無遠慮にユウジを押し退け、自室の隅にある監視カメラを起動させると、一台の中型トラックが映った。そこから一人の屈強な男性が降りてくる。僕はそれがアラン大尉であるとすぐに分かった。
念のため、簡易マイクを引き寄せて声を吹き込む。
「こちらエア・ストライクD-4、基地東方で待機中のトラックの運転手、応答願います」
《エア・ストライクD-4、こちらエウロビギナ共和国空軍所属、アラン・マッケンジー大尉。食料及び生活必需品を搬送してきた。フェンスの開錠を求む》
「了解、ようこそアラン大尉」
《おう》
僕は壁に配されたフェンスの開錠ボタンを押し込み、トラックがゆっくり基地の前のグラウンドに滑り込むのを確認した。
カメラの位置が分かっているのか、大尉は陽気な笑みを浮かべ、軽く敬礼してみせた。
「あれ? ケンイチ、大尉が来るのってまだ先じゃなかったの?」
「早めに来てくれたんだから、損することはないだろ。僕は早速、荷物の搬入を手伝いに行くよ」
「なあんだ、やる気満々じゃないか。さっきはあんなに眠そうだったのに」
「そうかい」
僕は適当にユウジをあしらい、作業着に着替えると言って自室から追い出した。
それは決して嘘ではない。だが、カレンやユウジは伝えていない、僕と大尉だけの機密事項があることもまた事実だった。
テレパシーを軽く送り、カレンがまだ眠っていることを確認した僕は、さっさと階段を上がってグラウンドに出た。
※
「大尉! アラン大尉!」
「おう」
先ほどと同様、にこやかに応じる大尉。朝日が差し込んで、その筋肉質な姿を照らし出す。禿頭にしているのは、純粋に髪があると邪魔だからだそうだ。
それはいいにしても、僕には毎回大尉と出会う度、どこか怯んでしまうきらいがある。それは大尉の体格や、一見強面であるせいではなく、言ってみれば仕方のないことなのだが。
大尉の左頬や左肩には、金属片がきらきらと輝いているのが見受けられる。これはもちろん、都会の派手なファッションなどではない。
地雷の欠片だ。大尉が陸軍にいた頃、荒野を探索中に味方の兵士が地雷を踏んでしまった。そしてその破片が、大尉の身体にも容赦なく食い込んだのだ。
大尉がその兵士を責めることはなかった。下半身を吹き飛ばされながらも謝罪の弁を述べる兵士を抱え、自分は大丈夫だと言い続けた。それも一、二分に満たない時間だったが。
大尉の傷を治すことはできる。半身に無数に埋め込まれた金属片を取り除くことも。
しかし大尉はそうしない。これは僕の想像だけれど、きっと大尉は今も自責の念に駆られているのだ。戦友に注意を促さなかった自分が悪いのだと。
だから、自身の身体を完治させないことで、自らを戒めているのだ。
僕の考えていることは、きっととっくにバレている。大尉はしばらくじっと動かずに、僕を柔らかな目で見つめていた。いや、見つめているのは僕ではなく、自らの過去、そして命を落とした戦友か。戦闘要員でない僕には分からない感慨だ。
それを断ち切るのは忍びなかった。だが、僕はある物を大尉から、それも秘密裡に受け取らねばならない。そのために、大尉にこんな早朝に来てもらったのだから。
「そうそう、大尉」
「何だ?」
「例のものは持ってきてくれたんですよね?」
すると、ようやく大尉の顔に感情が浮かんだ。諦めとも悲壮感ともつかない、形容しがたいものだったけれど。
「ケンイチ、お前さんの熱意に押される形で持ってくることにしたんだが……。本当にいいのか? 未だ開発途中の代物だ、どんな副作用があるのか分からんぞ」
「戦えずにいるよりはマシです。それに、戦闘任務はカレンの専売特許ですから。念のためですよ、本当に」
すると大尉はふうっ、と短い溜息をついて、くれぐれも使いどころを誤るなよ、と言って眉間に皺を寄せた。
ユウジの無邪気な声が聞こえてきたのは、僕がその代物を足首に忍ばせた時だ。
何を血迷っているのだろう。ユウジはビシッと制服を着込み、大股で僕と大尉の間に割り込んできた。
それから直角に向きを変え、大尉に敬礼する。
「ユウジ・ミアン伍長、只今現着しました! これより今月分の貨物の搬入作業に入ります!」
「おう」
返答するだけで何も言わない大尉に代わり、僕はユウジに文句をつけた。
「あのなあユウジ、今は夏だぞ? これからもっと暑くなるんだぞ? それなのにその格好は何なんだ?」
「む! 何を言う! これこそ我らがエウロビギナ共和国空軍の制服ではないか!」
「いやそうだけどさ、任務内容は肉体労働なんだから。それじゃあ動きづらいじゃないか」
「一理あるな」
そんな素っ気ない答えを寄越したのは大尉だ。既にトラックの荷台を開錠しようとしている。流石に大尉に持論を否定されてしまっては、ユウジにも反論の余地はない。
反論できない理由は二つある。一つは、純粋にユウジより大尉の方が階級が上であること。
もう一つは、ユウジの育ての親が大尉その人であるということだ。
ユウジは急に背筋を曲げ、だらりと姿勢を崩すと大尉の筋肉質な背中に身体を預けた。
「父さん酷いぜ~、少しは子供の意見を尊重してくれよお~」
「都合のいい時ばかり子供らしく振る舞うな。何度も言っているだろう」
「うう……」
しょんぼりしたユウジは、もう一度着替えてくる、と言って再び建物に歩き出した。
これは以前大尉に聞かされたことだが、ユウジの両親は空襲で亡くなったらしい。
現場に急行した大尉たちの前線部隊が焼け野原でユウジを救出、妻子のなかった大尉が面倒を見ることになったのだそうだ。
「そうだ、ユウジ」
「んあ? どしたの父さん」
「お前に頼まれていた部品、預かってきたぞ」
「あっ! レーダーの探知範囲拡張キット!」
ユウジは猛ダッシュで戻ってきた。
「ありがとう、父さん!」
「おう」
レーダーの探知範囲……何だって?
「おいユウジ! それは何の機械なんだ?」
「教えてやらねえよ! 荷物の搬入が終わったら、ケンイチにもちゃんと見せてやるから! きっと気に入るぜ!」
「なんだあいつ、調子に乗って……」
僕は大尉を目の端で睨んだが、当の大尉はどこ吹く風といった風情だ。
「ところでケンイチ」
「何です、今度は?」
僕が腰に手を当てると、大尉が目を細めてこう尋ねてきた。
「お前、今の状況に満足か?」
「え?」
何じゃそりゃ。意味が分からない。
それが表情に出たのだろう、大尉は一度咳払いをして言葉を続けた。
「カレンやユウジとの生活のことだ。問題はないか?」
昨日無線で僕とカレンとの仲を邪推した時と違い、真剣な表情だ。
「ま、まあ。カレンがつっけんどんなのと、ユウジが調子に乗りやすい以外は特に問題ありません」
「それなら構わん」
さて、早速荷物を運び込むぞ。そう言って、大尉は勢いよく荷台の扉を引き開けた。
※
日がすっかり昇りきり、ようやく昼食休憩となった時。
僕がずっしりと重くなった肩から先をぶら提げ、地下一階に降りると、何やら声が聞こえてきた。
「だからさ、これを接続すればレーダーが……そう! そうなんだよ!」
「ん?」
ゆっくりと管制室に向かう。扉は無防備に開いていた。そして室内には、レーダーサイトを見下ろすユウジと、それを横から覗き込むカレンの姿があった。
「おいどうしたんだ、二人共」
「あっ、おい! 俺は今カレンに説明してるんだ! 邪魔しないでくれよ!」
「主管制官は僕だぞ。僕に何の報告もなしに、何をいじってる? カレン、君だってユウジの話なんかに――」
(話なんか、だなんて切り捨てられることじゃない。あんたも来て)
(……分かったよ)
なんだかカレンに引っ張られるようで癪だが、レーダーサイトは僕にとっての存在意義の象徴だ。僕が監督しているわけでもないのに、ユウジに勝手に機材をいじくり回されるのも気分よくはない。
僕がのっそりと管制室に入り込むと、空調設備の冷気が全身に迫ってきた。シャツの襟首をぱたぱたやりながら、ユウジの背中に歩み寄る。
「ほらケンイチ! これ見てよ、これ! まだシミュレーション画面だけど」
「はいはい」
適当な態度だった僕は、しかし驚きのあまりその目を見開くことになった。
「ユ、ユウジ、これって……」
「ああ。さっき大尉が言ってたろ? レーダー探知範囲拡張キット。それをうちのレーダーに搭載したらどうなるか、カレンと見ていたんだ」
ごくり、と唾を飲む。レーダーの探知半径が倍増している。探知面積は四倍だ。
僕が言葉を発せられないでいると、ユウジが肩を叩きながらこちらを見上げてきた。
「どうよ? 俺ならこれを整備できるぜ?」
「やってくれるのか?」
「もちろん!」
(あたしもユウジの手伝いをするから)
(ああ、そう……って)
「ええっ!?」
僕はつい口から叫び声を上げてしまった。
(カ、カレン、何もこいつの手伝いなんかしなくたって……)
(レーダーとあんたのテレパシーはあたしの生命線。どれほど重要か分からないほど馬鹿じゃないでしょ?)
(い、いや、でも……)
「ほらほらカレン! 二人でごにょごにょやってないで、早く屋上に上がろう!」
(じゃ、大尉の援護、頼んだから)
元から細い目に鋭さを込めて、カレンはそう念じてきた。
ぼさっとしている僕のそばを通り抜け、二人は屋上へ出るための非常階段へ向かう。
「……何だよ、あいつら……」
僕は小声で呟きながら食料貯蔵庫の前まで来て、気づいた時にはコツコツと爪先で扉を軽く蹴っていた。
ん、待てよ。これはいわゆる嫉妬というものではないだろうか。
僕はユウジに嫉妬しているのか? カレンを引っ張られていったがために?
僕はじりじりと自分の顔に血が上っていくのを感じた。必死にかぶりを振って、それを拭い去ろうとする。
「ああもう!」
僕は貯蔵庫の扉をぶん殴った。無論、傷んだのは僕の拳のほうだった。
※
幸か不幸か、この事件のせいで僕の意識はぼんやりしたものになった。そして気づいた時には、貨物の収容作業は完了していた。
あんなに真っ青だった空は、今や紅に染められている。さらに東側を見遣れば、群青色のカーテンが掛けられている。
「ご苦労だったな、ケンイチ」
「あっ、はい。大尉こそ、ありがとうございます」
「これが俺の仕事だ。気にするな。しかしひどく汗をかいたな。シャワーを貸してもらうぞ。ああいや、若い者から疲れを取るべきだな。ケンイチ、浴びてこい」
「分かりました。大尉も地下一階でゆっくりしていてください。すぐに晩御飯にしますから」
「おう。美味いものを頼む」
僕は地下一階へと下りた。自室で着替えを準備し、浴室へと向かう。
途中、廊下でユウジとすれ違ったらどんな嫌味を吹っかけてやろうか。いや、そんな余裕があるならさっさとシャワーを浴びて夕食を摂り、眠りに就くべきか。明日は筋肉痛だろうなあ。
「やけに疲れたな……」
そう呟きながら浴室手前の脱衣所の扉を開ける。
すると、僕の視界が温かな肌色に染まった。カレンがいたのだ。一糸まとわぬ姿で。
「え?」
(あ?)
何だ? 何が起こってるんだ? 僕は頭がくらくらして、再び頭に血が上るのを感じた。先ほどとは違って、顔面に集中している。鼻孔の先端部で、ぷつっと何かが切れるのを感じた。
しかし、僕はぴくりとも動けない。ただ、腕が脱力して自分の着替えがばらばらと落ちた。それだけだ。
そんな僕に対して、カレンは冷静だった。いや、冷酷だった。
はっと意識が戻った時、僕は脱衣所の向かいの壁に背中を叩きつけられていた。カレンの鉄拳が僕の腹部にめり込み、突き飛ばしたのだ。
「がはっ!」
だらりと首が下がると同時、鼻血がつつつっ、と床に落ちた。それを拭うよりも早く、脱衣所の扉が勢いよく閉じられる。そして向こうから思念が送られてきた。
(次は殺す)
結局、僕は頭を冷やすべく食料貯蔵庫の前へ戻り、その中にある冷凍庫を覗き込んで夕飯のメニューを考え始めた。カレンの裸体を頭の中から投げ出すために。
※
一度冷凍していた材料を自然解凍させるため、僕はダイニングに四人分の材料を運び出した。
「ふう……」
やはり今日は疲れる。きっと厄日なのだ。
まあそれはいいとして、僕は再び外へ足を向けた。だいぶ涼しくなってきたし。カレンのことは……今は放っておこう。いや、放っておかれているのは僕の方か。
僕がエントランスを抜けた、その時だった。
タァン、という響きが僕の鼓膜を震わせた。これは――銃声だ!
「うわあっ!」
僕は慌ててしゃがみ込み、ひとまずカレンと意思疎通を図った。
(カレン、敵襲だ! 早く防弾ベストを着て銃器を――)
(心配いらない。大尉が監督してる)
(そりゃあ、大尉がいれば頼りになるだろうけど。って、監督? どういう意味だ?)
(ユウジが銃撃訓練をするんですって。あんたは聞いてないの、ケンイチ?)
何だそれは。聞いてないぞ。僕は匍匐前進しながら、発砲音を頼りにユウジと大尉の下へ向かった。自分が射角に入らないように。
先に見えたのは大尉の巨躯だった。腕を組み、グラウンドの反対側を見つめている。
僕が声をかけようとすると、再びタァン、と音がした。第二射が発せられたのだ。その一瞬の輝きの中で、地面にうつ伏せに寝そべるユウジの姿が浮き彫りになった。
僕が見たこともないほどの鋭い顔つきで、前方を凝視している。手にしているのは狙撃用のライフルだ。
僕は瞬間的に頭の中が真っ白になり、しかしすぐに現実に意識を引き戻した。
「大尉! アラン大尉!」
僕が来ることを予期していたのか、大尉は僕の方に向き直り、耳栓代わりのヘッドフォンを外した。そしてわざとらしい、平然とした声でこう言った。
「どうしたんだ、ケンイチ?」
「どうしたんだ、じゃありませんよ! あなたは何をやってるんです?」
「ユウジの銃撃訓練だが」
「大尉、僕には理解できません! ユウジはあなたにとって我が子同然でしょう? どうして戦いに巻き込むようなことをさせるんですか!」
するとユウジが立ち上がり、いやに淡々とした声で述べ立てた。
「俺が望んだからに決まってんだろ、ケンイチ。この基地の位置がバレたら、一体誰が戦うんだ?」
その姿を見て寒気がしたのは、冷風が吹き抜けたからというだけではあるまい。
「ケンイチ、君はカレンにとっての最良のオペレーターかもしれないけど、いざ実戦になった時に彼女を守れるのか? 無理だろう? だったら俺が戦うしかないじゃないか」
「そ、れは……」
僕は昨日のことを思い出す。自動小銃一丁を持ち上げるだけでも苦労して、挙句一発も発砲できなかった。でも。
「で、でも、僕はカレンをテレパシーとシンクロで守る!」
「それは守ってるんじゃない、人殺しをさせてるだけだ!」
その一言に、僕は雷に打たれたような感覚に囚われた。
「言いすぎだ、ユウジ」
「だ、だって父さ……大尉、ケンイチは……」
「お前の訓練はまた後日な。今は飯を食おう。そうしたら少しばかり、こちらから報告事項がある。ケンイチやカレンにも関係のある話だ。ケンイチ、飯の用意を頼めるか?」
その問いかけに自分が何と答えたのか。それは、我ながらよく分からない。
※
(とんだ期待外れね、今日の晩御飯)
「せっかく生鮮食品が運ばれて来たのに、缶詰ってのはねえんじゃないか?」
「まあ、ケンイチには今日色々と働いてもらったからな。勘弁してやってくれ、二人共。いいだろう?」
ユウジ同様、大尉もテレパシーは使えない。だが、カレンの表情から彼女の不満を読み取ったのだろう。そういう洞察力のある人だ。
しかしそれとは別に、僕は僕で腹に据えかねるものがある。それをぶつけるべく、ドン、とテーブルを拳で叩いて立ち上がった。
「皆、一体どうしちゃったんだよ?」
「ケンイチ、何を言っている?」
「こんな……こんなのおかしいですよ! どうして皆、戦おうとするんです? 命を危険に晒すんです? そんなの人間の在り方じゃない! 僕以外は死に急ぎ野郎ばっかりなのか!」
「んだとケンイチ!」
身を乗り出してきたのはユウジだ。
「死に急ぎだと? あん? もっぺん言ってみろ!」
「ユウジ、お前だって管制官のくせに銃撃訓練を受けてたよな。どうしてだ? そんな技術は管制官には必要ないはずなのに! やっぱりお前は人殺しをしたいのか? そして自分も死にたいのか? 命をそう易々と投げ出すんじゃ――」
しかし、僕は全てを言い切ることが叶わなかった。言葉の途中で、ふっと身体が浮いて視界が揺らぎ、背中からしたたかに床面に叩きつけられたのだ。
「がはっ!」
缶詰がからん、と床に落ち、続いて水の入ったグラスが落下。ぴしゃん、と音を立てて粉々になった。
あまりの衝撃。僕は痛みを感じるよりも早く、肺に空気を取り込もうと必死だった。
それからまるまる五秒間は経っただろう。ようやく僕は、自分がカレンに投げ技を見舞われたのだと理解した。
「カ、カレン……」
何をするんだ、と問いかけようにも、思うように口が動かない。ああ、こういう時のためのテレパシーか。しかしそう気づく頃には、カレンはずいっと僕に顔を近づけていた。
その目は冷淡でありながら燃えるような熱を発し、背後からは冷たい炎が噴出しているように見える。
(あたしはあんたのスタンスに干渉するつもりはない。でも、自分の生き方を否定されてまで黙っていられるほどのお人好しでもない)
(カレン……)
(あたしは戦争が憎い、敵が憎い、世界が憎い。だから殺す。敵が向かってくるなら、何度でも斬って撃って八つ裂きにしてやる。誰にも邪魔はさせない)
(そ、そんなこと)
(ケンイチ、作戦中にあんたが安全な基地内にいることに関しては、あたしは悪いとは思わない。でも、あたしにはあたしの為すべきことがある。いや、『べき』じゃない。あたしが『したい』ことか。その妨害はしないで)
(君がやりたいことって……殺人か? 他人の命を奪うことか?)
(その通り。それ以外に何があるの?)
僕はなんとも情けない呻き声を上げた。既に呼吸は整っている。乱されているのは、僕の精神の方だ。
どうにかテーブルに手をつき、上半身を引っ張り上げるようにして立ち上がる。
繰り返すようだが、この場でテレパシーを使えるのは僕とカレンだけ。ユウジと大尉は、黙したままこの遣り取りを眺めていたことになる。
だが、少なくとも大尉は大方の文脈を掴んでいることだろう。でなければ、こんな複雑な表情――片眉を上げ、口をへの字にしている――はしていないだろうから。
ユウジだって、一貫して静寂の中にいるところからすると、状況がいかに深刻かは分かっているはずだ。
僕は俯き、ごめん、と一言。これは今までで一番重く、それでいて不本意な謝罪の言葉だった。
まともな神経の人間だったら、こんな殺人狂に頭を下げられるものか。
カレンもまたテーブルに片手をつき、ふと息をついてさっと視線を床に走らせた。
(……ちょっと言い過ぎた。あんたはあたしの缶詰食べて。床はあたしが掃除するから)
(えっ、でも)
(いいんだってば)
そう念じて僕を一瞥すると、カレンは早速雑巾やら塵取やらを持ってきた。
食料量調整のため、今日の夕飯として供せられるのは缶詰一個ずつだけ。カレンはほとんど手をつけていない自分の缶詰を、僕に与えようというのだ。
何をしたいのか。何を為すべきなのか。
そんな自問が津波のように襲ってきて、僕はくらりと視界が歪むような感覚に陥った。
※
翌日早朝。
僕は自室のベッドで目を覚ました。記憶はあやふやだが、どうやら無事転倒することなくここまで辿り着いたらしい。
昨晩のことを思い出す。あの時、僕には誰もが戦いに憑りつかれているように見えた。
大尉のみならず、カレンもユウジも。
大尉は大人で職業軍人だ。自ら戦いに出向く権利と義務がある。
だが、それは僕たちにも言えることなのだろうか? 無理やり戦争に巻き込まれた、まだ子供と言える僕たちに?
いいや、そんなはずはない。僕は枕に顔を押しつけ、自らの行為を否定しようとした。
僕は人を傷つけてはいない。ましてや殺してなんかない。
違うんだ。僕は戦争に関わってはいる。でも、罪深いことなどしていない――。
枕が汗と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったところで、微かに金属を叩く音がした。
僕の部屋のドアが、外側からノックされている。
「ケンイチ、起きてるか?」
「……ぅ」
大尉の声がする。起きてます、と答えようとして呻き声が漏れた。
「悪いな、入るぞ」
ぎしり、と音を立ててドアが内側に押し開かれる。僕は袖で顔を拭って、しかし大尉の方を見ることができずに上半身を起こした。
「大丈夫か」
「……ぁ」
さあ、分かりません。はっきりそう言えればよかったのだが、今度は喉が掠れている。
「話がある。ついて来てくれ。顔を洗う間くらいは待ってやる」
そう言って大尉は退室し、がちゃりとドアは閉じられた。
ようやくその言葉が呑み込めた時、僕はふと時計を見た。午前四時。まだ日が昇る前の時間帯だ。
時計を見るという行為によって、僕はようやく自分が何を考えていたのか、否、何も考えられなくなっていたという事実に気づかされた。
今の僕は軍属だ。上官の命令には従うもの。そう自分に言い聞かせ、先ほどの葛藤は一旦棚上げして、僕はベッドを下りて部屋を出た。
洗面所で冷水を顔に浴びせる。それでは物足りず、身を乗り出すようにして頭から冷水を被る。
これで顔は綺麗になったが、目が充血しているのはどうしようもなかった。まあいいか。大尉の前で空元気を発揮するほど、僕は強い精神を持ち合わせているわけではないし。
噂をすれば、件の人物の気配が洗面所の出入口から感じられた。
「すっきりしたか、ケンイチ?」
「ええ、まあ」
僕は中途半端に答えながら、タオルで顔を拭う。
「屋上へ行こう。まだ星が見えるかもしれん」
その大尉の提案は、僕にとってはちょっぴり意外だった。大尉はそんなロマンチストではないはずだが。
そんな僕の疑念など知ったことではないのだろう。大尉は僕に先立って地上一階へ上がり、そのまま階段を上って屋上へと姿を消した。
僕は全身脱力状態のまま、だらだらとついて行く。
屋上への出入口は、バールでこじ開ける蓋が載せられた構造になっている。僕が下から押し上げようとすると、大尉が引っ張り上げてくれた。
「大丈夫か?」
そう尋ねられて、はい、と答えられたら幾分楽だったかもしれない。だが、僕はこちらに手を差し伸べる大尉の瞳に、何某かの含みがあるのを感じた。
大尉は僕が屋上に出ることについて、確認を取ったのではない。昨日の会話の続きとして、僕のことを心配しているのだ。
でなければ、こんなに目元を歪めているわけがない。僅かな月明りの下でも、そのくらいは見えた。
僕が無事屋上に這い出てきても、大尉は目元の緊張感を崩さない。やっぱりそうか。
「大尉、過度な心配はしないでください。僕だって軍属の端くれです。戦う覚悟はできてます」
「いや、昨日の一悶着を見るに、俺にはそうは思えんが」
「それは僕が、僕自身の力で解決します。ご心配なく」
すると大尉は両眉を上げて、分かった、と一言。納得したというよりは、僕のことを強制的に自分の脳内から叩き出した、と言った方が正しいかもしれない。
「それで、何のお話なんです? 昨日の一件を蒸し返すのが狙いではないんでしょう?」
「おう」
そう言うと、大尉は屋上中央まで無造作に歩き、どっかりと腰を下ろした。
僕に座れと言いたいのだろう、自分のそばを叩いている。大尉はあぐらで、僕は体操座りで尻を屋上につける。
「昨日カレンが回収したボックスから、二つの事実が発覚した」
おや? そんな実務的な話をするために屋上に僕を連れ出したのか? 僕は一旦その疑問を引っ込め、大尉に向き直った。
「というと?」
「一つ目は、カレンが二度目の出撃時に交戦したヴェルヒルブの新型機のことだ。あれはⅤ型戦闘機。複座式で、絶大な射程と誘導機能を有するミサイルを搭載している。一機に搭載可能なミサイルは三基だ」
僕は膝の間にぐいっと顎を埋めた。
「二つ目の事実だが――。これはまだ曖昧な部分が多いんだが、アルバトルでの化学兵器工場の再稼働が確認された」
「化学兵器工場? アルバトルで?」
「ああ」
アルバトルは、歴史上最も流血で汚されてきた土地だ。ずっと昔からエウロビギナとヴェルヒルブは、この資源豊かな山脈麓の土地を取り合ってきた。今現在はヴェルヒルブに占拠されてしまっているが。
「そこに、航空機での攻撃作戦が計画されている」
「た、確かに地理的な問題はないでしょうが……。あの鉄壁の航空防衛線を破れますか?」
「やるしかあるまい。化学兵器? そんな危なっかしいものの製造を、みすみす指をくわえて見ているわけにもいかんだろう」
「ふむ……」
「その作戦会議が明後日に開かれる。場所は中央都市・メリドだ。質問事項は?」
「いえ、特には――ああ、いや、大尉」
「何だ?」
やはり訊かずにはいられない。
「どうして僕を屋上に連れ出したんです?」
「星が綺麗だろう」
そう言われて、僕は少し背を伸ばして顔を上げた。
すると、ちょうど一筋の流星が視界を横切るところだった。
「あっ……」
「願い事は唱えられたか?」
やや悪戯っぽい口調で大尉が言う。こんな一瞬で、無理に決まっているだろう。
だが、僕は不思議と不快感が湧いてこない自分に気づかされる。
「また誘ってやるから、次は覚悟しておけ」
そう言って大尉は立ち上がり、屋上と一階を繋ぐ階段の蓋を引っ張り上げた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。真剣な話題が終わって、大尉も肩の荷が下りたのだろう。
階段を下りながら僕は考える。
僕は、流星に関することは大いなる迷信だと思っている。大尉だって、本当はそうだろう。
それでも彼は迷信に頼り、僕を勇気づけようとしてくれた。
もしかすると、人を殺す以外にも生きていく選択肢はあるということを伝えたかったのではないか。殺人に加担してしまっているこの僕に対して。
「どうした、ケンイチ?」
「いえ、何でもありません」
大尉は僕に続いて自身の身体を滑り込ませ、がたん、と勢いよく蓋を閉めた。
※
翌々日、明朝。
「皆、揃ったな?」
「はッ!」
ぴしりと両足の踵をつけて、ユウジが大尉に敬礼する。その隣には僕とカレンが並び、こくこくと頷いていた。
「では、これより機密会議が実施されるメリドに向けて出発する。皆、水と最低限の武装は持ったな?」
「はッ!」
再び敬礼するユウジ。だが、僕はそんな彼のこめかみにデコピンを食らわせた。
「ちょっ、何すんだよ!」
「そんな勢いよく敬礼したら、僕たちが軍属だとバレるぞ。それに、上着が浮き上がって腰に差した拳銃が見えるじゃないか。もうちょっと注意してくれ」
ちらりと隣のカレンに目を遣ったが、何とも思っていない様子で首をくるくる回していた。会議なんかを開くより、さっさと任務にあたらせろ。そう言いたがっているかのようだ。
大尉はそんな僕たちに構わず、さっさとトラックに向かっていく。生憎、僕たちが乗れるのは荷台になるが。
「気分が悪くなったらすぐに言えよ。荷台を汚されたら、困るのは俺だからな」
背を向けたまま、大尉はそう言った。そのまま運転席に乗り込む。ちなみにトラックの幌は、来た時とは違って市街地迷彩のものに取り換えられている。濃緑色でなく、灰褐色だ。
不満げな顔をし続けるユウジのそばを通り抜け、僕は最初に荷台に乗り込んだ。ついて来たのはカレンだ。退屈極まったのか、大口を開けて欠伸をするのを憚る様子もない。
僕と向き合うように座り込んだカレンを見て、隣にいたユウジがすぐさま彼女の隣に移動した。
まったく、二人共恥じらいというものがないのだろうか?
いや、戦いの中に躊躇いを感じている僕の方が無様だろうか。夕食時のことが思い出されたが、しかし僕は頬をぱちんと叩き、あの遣り取りを脳内から追い出した。
僕がふっと息をつくと、何の前触れもなくトラックは発車した。思いの外身体が傾いたので、僕は片腕を立てて身体を支える。
「おっと! カレン、大丈夫?」
そう言ったのはユウジだ。余計な心配をするユウジに、頷いてみせるカレン。何もそんな気遣いをし合うこともなかろうに。
(ケンイチ、あたし寝るから。着いたら起こして)
(ああ、分かったよ)
するとカレンは、べったりと背中を荷台の内壁に預け、すぐさま眠りに落ちてしまった。
「ん? ケンイチ、今カレンは何か言った?」
「いや、何も」
さらりと受け流す。ユウジの癪に障るようなことを言って、無駄に疲れることもあるまい。
「あっそ」
するとユウジも、うつらうつらし始めた。先ほどの気合いはどこへ行ったのか。
ことり、とユウジの頭が傾き、カレンの上腕あたりに触れる。僕は思わず、そして不覚にもはっと息を飲んでしまった。
決してユウジを妬んでいるわけではないと自分に言い聞かせるのに、少々時間と労力を費やした。
※
「到着だ」
大尉の声と共に、ぎしり、と音を立ててトラックは停車した。
すぐさま目を覚ましたカレンが立ち上がる。お陰で頭を預けていたユウジは横転し、側頭部をしたたかに床に打ちつけた。
僕も腰を上げて荷台を降りる。既に背中は汗びっしょりだ。荷台後方の幌を上げて、外の様子を窺う。
「痛いじゃないか! カレン、せめて一声かけてくれよ!」
「馬鹿だなユウジ、暑さで頭がやられたのか? カレンは喋ることが――」
できないんだ。そう続けようとして、僕は言葉を失った。それほどの惨状が、眼前に広がっていた。
まず目についたのは、生々しい空襲の傷跡だった。
いくらカレンとて撃墜できる敵機には限りがある。僕たちの探知できない空域を抜けて、この街に多くの爆撃機が襲来したのだろう。
歩み出そうとして、慌てて足を引っ込めた。目の前の地面が陥没している。間違いなく爆弾によってできたクレーターだ。
加えて、建築物の上部には無数の銃痕が見受けられる。低空から戦闘機の機関砲を浴びたようだ。
「酷いな……」
そう呟く間にも、多くの避難民が視界を横切っていく。ひたすら東へ、東へと。
皆みすぼらしい格好をして、着の身着のまま、あるいは大きな鞄を持ったり担いだりして重い足取りで流れてゆく。
一際大きな荷物を背負っているのは商人だろうか。商品が自分の命より大切なはずがないだろうに。
僕はふーーーっ、と長い溜息をついた。
「ん?」
息を吐き切って顔を上げると、そばにいたはずの人影がなかった。
「ユウジ、どうした?」
あたりを見回すと、その背中はすぐに目に入った。が、何をしているんだ?
クレーターの縁に沿ってユウジに近づいていく。するとユウジはしゃがみ込み、背嚢から何かを取り出そうとしていた。って、まさか。
「よせ、ユウジ!」
僕は大声を上げながら、思いっきりユウジを突き飛ばした。
彼が手にしていたのは水筒だ。幸い蓋はまだ閉まっていて、水が零れることはなかった。だが、問題なのはそこではない。
「何すんだよ、ケンイチ! 俺は人助けをしようとしてたんだ!」
「見れば分かるよ」
僕は既に視界の隅で、ユウジに隠れて見えなかった人物――幼い姉妹の姿を捉えていた。
二人とも貧相な服装をしていて、頬もげっそりと瘦せ細っている。
僕はなんとも言えない居心地の悪さと共に、姉妹と目を合わせた。
本当だったら、何も恵んであげられないことを詫びるべきなのかもしれない。だが、そんなことをし始めたらキリがない。僕がユウジを止めたのは、僕たちが軍属だとバレること、そして大勢の避難民が物乞いと化すことを止めるためだ。
最悪の場合、彼らは僕たちを殺してでも水筒を手に入れようとするかもしれない。僅か二、三リットルの水のために。
この状況を前にして、姉妹のうち妹が目に涙を溜め始めた。だが、姉の方は正しい判断をしてくれた。微かに頷くような仕草をしてから妹の手を引き、すぐに避難民の列に戻っていったのだ。
その先に、両親や保護者と思しき人物の姿はなかった。
僕はその姉妹を、飢えに苦しんでいた六年前の自分と重ね合わせていた。
(茶番劇はお終いかしら?)
(……ああ)
(大尉が先に行ってるって。ケンイチ、あんたを監督役にしたみたいね)
(そんな柄じゃないと思うんだけどな)
そこまで念じてから、僕はカレンの方に振り返った。片腕を腰に当て、呆れた表情で突っ立っている。軽く顎をしゃくって見せてから、カレンはさっさと歩き出した。僕は再度ユウジの方に向き直って、行くぞ、とだけ声をかけた。
※
機密会議の会場は、裏通りに一本入った劇場跡の建物だった。
ゲリラ部隊は基本的に集合しないので、こんなに一ヶ所に人が集まっているのを見るのは久しぶりだ。
僕たち四人が後方の席に並んで腰かけると同時に司会の兵士が現れ、作戦概要を説明した。
作戦開始は三日後の早朝。太陽を背にして逆光に紛れながら、戦闘機部隊がアルバトル上空で奇襲を仕掛ける。それが成功し次第、重爆撃機が進行して化学兵器工場を跡形なく破壊する。
言ってしまえば単純。ならば何故今までこんな作戦が実施されてこなかったのか。その理由もまた単純で、ヴェルヒルブ空軍によるアルバトル上空の警備は頑強だからだ。
それでもこの作戦が立案されたのは、化学兵器の使用は止めなければならないということで、軍上層部が重い腰を上げたからだという。
それに伴い、空軍本部のレーダー性能も向上させられているらしい。僕も当日は本部に出向き、そこからカレンを援護することになる。
《では最後に、本作戦の全体指揮を執られる、スルズ・バルナ准将から一言お願い致します》
『准将』という、普段は耳にさえしないほどの階級の高さに、僕は驚いた。そこまでのお偉方が指揮するとなると、やはりこの作戦は正規軍との合同任務なのか。
驚きが納得に変わっていく間に、登壇した人影がある。
長身痩躯で目が細く、唇も薄くて色白の人物。真夏だというのに空軍の軍服をしっかりと着込み、しかし気負っている様子はない。むしろ軽く口元に笑みを浮かべているくらいだ。
だがその笑みを見ても、僕は落ち着かなかった。その目のせいだ。
切れ長であるところはカレンと似ている。だが、明確な意志を常に持ち合わせているカレンと違って、何かが定まっていないように見えたのだ。
視線? いや、違うな。あまりよく印象を掴めないが、強いて言えば、何を考えているのか分からないということは言えるかもしれない。
カレンといいユウジといい、あまりにも意志の明確な人間と暮らしているから、そう感じるだけだろうか。
スルズ准将は中性的な、男性にしてはやや高めの声で淡々と僕たちを激励し、これまた落ち着いた様子で降壇した。
僕はその姿に、魚の小骨が喉に刺さったような不可解な感覚に囚われたが、皆には黙っておくことにする。
士気を下げることなく、三日後の作戦を成功に導かねば。
今僕にできるのはそれしかない。
帰りのトラックの荷台で揺られながら、僕はそのことだけを考えていた。