【第二章】
【第二章】
今から六年前の冬の日のこと。
「もうじきね」
「ああ」
言葉を交わしているのは、僕の両親。そして僕が座らされているこの場所は、父親の運転する車の後部座席だ。
車といっても、随分とガタがきている。僕は子供心に、突然タイヤやドアが外れて車外へ放り出されるんじゃないかとひやひやしていた。
そして、先ほどから繰り返し頭にこびりついていた疑問に再び対面した。
父さんも母さんも、僕をどこへ、何の目的で連れていくつもりなのだろう?
ふと顔を上げると、雪が舞っていた。暖房機能の停止した車内で、僕は両の掌を擦り合わせる。
だがまさか、こんなことになるとは思ってもみなかった。外されるのはタイヤでもドアでもなく、この僕自身だったのだ。
「到着だ」
父親が、続いて母親が車を降り、顎をしゃくって僕にも出るように促す。
未舗装の車道に降りると、寒さが足元から急激に這い上がってきた。その僕の眼前にあったのは、自分の背丈よりずっと高い鉄柵。それに、奥には教会と思しき石造りの厳めしい建物があった。
「さあケンイチ、行くわよ」
温かいとも冷たいとも言い切れない口調で、母親が言う。鉄格子は既に開いていて、父親は車のそばで待機していた。
しばらく内側に入っていったところで、母は唐突に『いけない、忘れ物をしたわ』と一言。
その言葉に胡散臭いものを感じて、僕は母親の背中を見つめた。すると、ギイッ、と鈍い音を立てて、父親ともう一人の男性が鉄柵を閉じようとしているところだった。
「か、母さん! ちょっと待って!」
足をもつれさせながら、なんとか追いすがろうとする。しかし、僕が母親の肩に手を遣る直前、鉄柵は完全に閉じ切られてしまった。
「母さん! 父さんも、これはどういうこと?」
がたがたと鉄柵を揺さぶりながら、僕は声を張り上げる。しかし、しゃがみ込んで視線を合わせた母親の発した言葉がこれだ。
「戦争さえなかったら、お前をこんなところに預けはしなかったんだよ」
「えっ……」
僕を、預ける? どういう意味だ? いやそれよりも。
「いつ迎えに来るの?」
母親は斜め下に視線を遣ったが、すぐさま立ち上がって父親と合流し、車に乗り込んでしまった。
「ね、ねえ! 待ってよ! 母さん! 父さん! 一体僕はこれからどうなるの?」
僕がまた声を上げようと、空気を思いっきり吸い込んだその時、がぁん、という鈍い金属音と共に、鉄柵が震えた。
「ひっ!」
「ったく、ギャーピーうるせえガキだな。今日からてめえの家はあっちだ、さっさと歩け!」
そう言ったのは、父親と共に鉄柵を閉めていた男性だった。四十代くらいで痩せ細っており、無精髭を生やしている。そして彼が指さしている方には、教会らしき建物。
「おら!」
頭部を小突かれ、僕は否応なしに歩み出した。男性は建物入り口の木製ドアを押し開け、こう言った。
「今日からここがお前の寝ぐらだ。精々仲良くやるんだな」
「それってどういう――」
意味を尋ねる前に、男性の姿はドアの向こうに消えていた。
ひとまず僕は、状況を整理することにした。建物の構造からして、ここが教会である、あるいは教会だったことは間違いないようだ。
建物の中だというのに外気と同じくらい寒く、僕はぶるりと全身を震わせた。
だが一番の注目点は、その環境ではない。ここには、数十名の子供たちがいた。皆が汚らしい、寒々しい格好をして、互いに肩を寄せ合ったり、ぼそぼそと何かを呟き合ったりしている。
後に聞いた話だが、ここは実際に教会だったそうだ。しかし、神父が兵士たちの安全を祈念すべく従軍を志願し、管理者不在のまま孤児院のような場所になったのだとか。
それゆえ、管理は極めて杜撰で、それはここに集う子供たちへの直接的な打撃となった。衛生管理も不十分だったから、気づいた時には僕は鼻を手で覆っていた。
「よう」
「ッ!」
突然声をかけられ、僕は慌てて振り返った。そこにいたのは、僕より頭二つ分はでかい、しかしそれなりに痩せた姿の大柄な少年だった。
「新入りだな? いいもん着てるじゃねえか」
にやり、と不快な具合に口元を歪める少年。彼の言う『いいもん』とは、きっと僕が着ているジャンパーのことだろう。
僕が何をどうしたらいいのか分からないでいると、大柄な少年、いわばガキ大将の右の拳が僕の左頬を打った。
「うわっ!?」
何の覚悟もしていなかった僕は、無様に尻餅をつく。するとその隙に、後ろで待機していたらしいガキ大将の取り巻きが、僕の両腕を押さえつけた。
「止めろ! 放せ!」
僕は全身の力を込めて抵抗したつもりだったが、それが取り巻きたちから暴力を引き出す結果になるとは。
こうして僕は呆気なくジャンパーを奪われた。
「ふん、大人しく渡してりゃあ子分にしてやったのによ」
そう言って、比較的暖かい奥の方へと歩いていくガキ大将。それに取り巻きがついて行く。
「痛っ……」
蹴りつけられた脇腹が鈍痛を訴えている。
僕は悟った。ここは弱肉強食の世界だ。どうにかして生き延びる手段を確保しなければ。水と食料が最優先だ。
そう思っていると、唐突に木製ドアが開いた。何事かとそちらを見遣ると、先ほどの男性ともう一人の男性が担架を持って入ってくるところだった。
ざわり、と場が波打って、皆が道を空ける。寝そべっている一人を除いて。
「ったく、好き勝手にくたばりやがって。政府からの補助金が一人ぶん減っちまうじゃねえか」
男性二人は、寝そべっていた子供を乱雑に担架に載せ、二人がかりで運び去っていった。
これが、僕がこれから生きていく世界なのか。季節外れの汗が背中を伝うのを感じつつ、僕はその場で体育座りをして、ぼうっ、と周囲を眺めていた。
※
教会での生活が始まって、三日目の朝。僕はここでの生活に身体を慣らそうと努めていた。
まず、食事。朝と夕の二回、固くて黴臭いパン切れと、豆の浮かんだどろりとしたスープが配られる。
睡眠はいつ取ってもいいが、気温によってはそのまま低体温症で命を落とす危険もある。
だが一番の問題は、名前も知らないガキ大将の存在だった。ジャンパーを着ていたことで目を付けられたらしく、僕はこの三日間たかりに遭って飲まず食わずの状態だった。
食事の代わりに与えられるのは、鉄拳だったり、爪先だったり、時には投げ技だったりした。
一度、僕がスープを零してしまった時など、取り巻きの一人が床を舐めるようにしてスープに食らいついていた。
それを見て、僕の胸中には二つの気持ちが生まれていた。
一つは、こんな犬畜生のような生活を強いられるという絶望感。
もう一つは、戦争とはここまで人間の品位を失わせてしまうのかという諦念。
「よう、厚着野郎。お前、自分のパンはどうした?」
その言葉に、僕は自分の身が凍りつくような感覚に囚われた。言うまでもなく、ガキ大将だ。
スープのトレイを取り落とした僕は、せめてパンだけでもと思ってズボンのポケットに突っ込んでいた。だが、それも見透かされていたらしい。
「厚着野郎、よーく聞けよ? 今後俺に少しずつ貢いでくれるってんなら、今日はこれで済ませてやる。お前、だいぶ血色が悪くなってるしな。まだ死にたかねえだろう?」
確かに、こんな劣悪な環境で生きていくには必要な手段かもしれない。だが、僕にはそれがどうしても納得できなかった。
ガキ大将の態度云々ではない。戦争という概念そのものに対して、冷徹な怒りに似た感情を覚えていたのだ。
気づいた時には、僕は再びガキ大将の鉄拳を浴びていた。ばたり、と無様に倒れ込む。取り巻きたちがげらげらと下卑た声で笑う。
しかし、そんなことはどうでもいい。戦争だ。戦争さえなかったら――。
『――お前をこんなところに預けはしなかったんだよ』
そんな言葉を、実の子である僕に対して母親に言わせた戦争。
人間の歴史は、闘争の歴史だったという。それが本当なら、もうどこにも救いの道はない。
だが、いや、だったら僕は抗ってみせる。どうせ死ぬのだ。ならば人間の、人間たる所以とも言うべき戦争というものに、自分なりに対抗してみせてやろうじゃないか。戦争という色に染められることなく死んで、一矢報いてやろうじゃないか。
気づいた時には、ガキ大将は再び僕の襟首を掴み、腕を振りかぶっていた。でも恐怖は感じない。僕の目は、ガキ大将ではなくその背後、彼を暴力行為に駆り立てる戦争へと向けられている。
殺したければ、殺すがいい。だが、僕は絶対に戦争なんてものに屈しない。
生き延びようとも思わない。それでも、僕には僕の矜持というものがある。
僕が妙に落ち着いて見えたのか、ガキ大将はなかなか殴りつけようとはしてこない。
「どうしたんだい、大将。僕は君の取り巻きにはならない。殺したければ、その立派な拳で好きにすればいい」
思ったより、自分の声が明瞭だったことに我ながら驚く。
「てんめえ、舐めた口利きやがって!」
ガキ大将が怒声を張り上げた、まさにその直後のことだった。
彼の背後から鈍い音がした。ドゴッ、とかゴフッ、とかそんな音。僅かに苦痛を訴えるような響きが混じっている。
ガキ大将は僕を掴んでいた手を離し、振り返る。
そこに立っていたのは、初めて目にする少女だった。やや短めの黒髪に、すっと通った鼻筋。切れ長の瞳には暴力衝動の火が燃え盛っている。
「何だあ、てめえは!」
取り巻きたちが少女を包囲する。しかし少女は余裕のある素振り。ただし、それは緊張感の弛緩とは違う。冷静に、取り巻きたちの動きを観察しているのだ。
倒された二人を除き、取り巻きは残り四人。それにガキ大将本人。五対一だ。どう考えたって分が悪い。
僕だってこの三日間、ぼさっとやられっぱなしだったわけではない。取り巻きといえど、彼らの喧嘩のテクニックには(少なくとも当時の僕には)目を瞠るものがあった。
少女は最初の二人は不意討ちで倒したのだろうが、このままでは残り五人にボコボコにされてしまうのは目に見えている。
「逃げろ!」
いつの間にか、僕は叫んでいた。尻餅をついた、無様な格好で。
「逃げるんだ! 敵いっこない!」
「うるせえ!」
「がはっ!」
ガキ大将の爪先が僕の顎に入る。両手をついてなんとか転倒は免れた。
「お手並み拝見だ、嬢ちゃん。俺たち五人を倒したら、俺たちの分の朝食は持っていっても――」
しかし、ガキ大将は言葉を止めた。否、失った。
少女は自分の呼吸が整ったタイミングで、一気に取り巻き四人を蹴り飛ばしたのだ。
まともに蹴りを喰らった二人がダウン。残り二人も腕を痛めた様子。
少女に情け容赦というものはなかった。立っている取り巻き一人の腕をぐいっと引っ張り込み、反対側の取り巻きに向かってぶん投げた。
二人はもんどりうって転げ回り、腕が痛いと言ってべそをかきはじめた。
「こ、このアマ……許さねえぞ!」
ついにガキ大将が少女の正面に立ちふさがった。それに対し、軽く髪をふわりとさせる少女。
だが、この時気づいてしまった。ガキ大将がズボンのポケットから、ペーパーナイフを取り出すのを。無論、少女がいる角度からは見えていないはずだ。
「待って! こいつ、刃物を持って――」
注意を促そうとしたが、やはり僕の言葉は無視された。
ひゅん、と音を立ててナイフが空を、そして少女の肌を斬る。
だが斬れたのはそこまでだ。ただ一滴の出血もなく、少女はガキ大将の懐に入った。
そこから先、ガキ大将に為す術はなかった。連続で叩き込まれる拳。ときたま入る肘鉄。決め技は近距離からの顔面回し蹴りだった。
「ぶはっ!」
鼻血と涙と鼻水で、無様な体たらくのガキ大将。その手元には、しかしナイフが握られている。それが目に入ったはずだが、少女は眉一つ動かさない。
「死ねえ!」
手中のナイフが少女に届く直前、彼女の履いていたブーツが振り下ろされた。
そしてメキリッ、と嫌な音を立てて、ガキ大将の肘はあらぬ方向に曲がってしまった。
教会の講堂内に響き渡る絶叫。
ひとしきりその反響が止むと、少女は途端に興味を失った様子だ。これ以上ガキ大将たちに振り返ることなく、密かに逃げようとしていた僕の前に立った。
「ひっ!」
この状況。命乞いをすべきだろうか? それとも感謝を伝えるべきか? 頭の中が滅茶苦茶になり、結局僕が発したのはこんな言葉だった。
「ぼ、僕を食べても美味しくないぞ!」
全く以て頓珍漢な発言である。が、少女は僕の前にしゃがみ込み、手を僕の顎に遣った。じっと僕の顔を見つめてくる。
母親以外の異性からこんなに見つめられたのは初めてだ。正直、ドギマギした。
少女の目は相変わらず冷徹なまま。しかしそこに攻撃の色はなく、どちらかといえば観察している様子だ。
しばしの後、少女は僕を一際鋭く睨みつけた。ここを動くな、とでも言うように。
見つめていると、少女はガキ大将の分だったはずのパンとスープを持ってきた。
ああ、あれを食べれば、少なくとも今日は生き延びることができる。
そんな安堵からか、僕はそのままばったりと仰向けに倒れ込んでしまった。
※
気づいた時、まだ日は高かった。寒いことには変わりないが、今日はまだマシな日だ。
そんなことを実感しながら身を起こすと、眼前に少女の顔があった。
「うわっ!」
女性と顔を合わせた際に取るべきリアクションではあるまい。だが、少女の顔が目の前にあったことは事実だ。
相変わらず少女の目は冷たいものだったが、冷徹ではなく冷静といったところ。僕を敵視しているわけではないらしい。
背中を石壁に預けた僕に対して、少女は何かを口に寄せてきた。パンだ。スープに浸して柔らかくしてある。
「これ、君の……」
少女は首を横に振る。
ああ、自分の分はきっちり食べて、ガキ大将の分を僕に食べさせるつもりなのか。
「どうして、君が食べないの……? 皆、栄養失調、なのに……」
そこまで言っても、少女は頑なにパン切れを僕の前に翳し続けた。やがて僕の唇にそって、パン切れを擦りつけ始める。
パン切れから染み出た水分が、僕の唇を濡らす。微かに僕の喉が唸りを上げる。気づいた時には、僕はぱくり、とパン切れを口に含んでいた。
すると、すぐさま同じようにスープに浸されたパン切れが僕の口元に差し出される。
そんなことを繰り返している間に、僕は再び眠りに就いてしまった。
※
今思えば恥ずかしい限りだ。あれではまるで餌付けではないか。
だが、僕の生きることへの衝動を取り戻してくれたのは他でもないあの少女だ。
その日の夕飯は一人で黙々と食べた。午後一杯皆の様子を見ていたが、ガキ大将が無様に、呆気なく倒されたあの状況を見て、誰も騒ぎ立てようとはしなかった。
今まで不自由させられてきた皆の、ざまあみろという気持ちが空気中を漂っている。
その後数日にわたって、ガキ大将とその取り巻き、すなわち少女に倒された計七人は、次々に命を落とした。腕の負傷が原因だ。上手く食事を摂れずに死亡する者がほとんどだったが、どうもリンチに遭った形跡のある者もいた。
それに対して、大人たちの反応は実に淡泊だった。僕がここに来た初日同様、遺体を担架で運び出していく。
どうやら死因が気になる様子ではあったが、誰も事実を口にはしなかった。少女を庇う意味合いもあったのだろう。
その間、僕は時折少女の隣で時間を過ごした。どちらからともなく僕たちは互いの場所を確保し、何とはなしにふらふらとやってきて、腰を下ろす。
何かを喋り出すでもない。増してや肩を組もうというのでもない。ただ、僕が今まで生きてきて、異性を始めて意識したのはこの時だと思う。それが恋愛とまでは言わずとも。
少女がガキ大将を叩きのめしてから、約一週間後。
いつまでも『少女』では不似合いなので、僕は思い切って彼女に声をかけることにした。
「あの、この前は助けてくれてありがとう。危うく飢え死にするところだった」
少女は僕に一瞥をくれたが、すぐ正面に顔を戻してしまった。
「僕はケンイチ。ケンイチ・スドウ。十日くらい前からここにいる。君は?」
「……」
そこまで訪ねて、僕は自分があまりにもデリカシーに欠けていることに気づいた。
「ああ、ごめん。あんまり他人のことを詮索するのはよくないよね」
すると、少女はがしっと僕の肩を掴み、そちらに振り向かせた。
「えっ? あっ、ごめん、怒った……?」
しかし少女は、そんなことは関係ないとばかりにかぶりを振った。それから真上を向き、その白い喉元で両手の指を交差させ、バツ印を作ってみせる。
それを見て僕は、はっとした。
「君、喋れないのかい?」
やっと通じたのか。そう言わんばかりに肩を竦める少女。
「じゃ、じゃあ、僕は君を何て呼べばいい?」
すると、少女は目を見開いてこちらを見た。まるで、自分が興味の対象になっているとは夢にも思わなかった、とでも言いたげに。
ごめん、と繰り返そうとした僕の前で、少女は小さな瓦礫の一片を取り上げた。それで、石壁に傷をつけていく。文字を書こうとしているようだ。
僕はじっと、その傷が描く文字を見極めようとする。
「カ……レン、ス、ミ。カレン・アスミ。そうか、君はカレンっていうんだね?」
少女――カレン・アスミは、再びやれやれとばかりに肩を揺すった。
しかし僕は、名前を知ったことで俄然彼女に興味が湧いてきた。
「どうして僕を助けてくれたの? って、ごめん、君は喋れないんだったね」
じろり、とこちらを睨むカレン。やはり触れてはいけない話題であるようだ。
もしかしたら、彼女が喋れないというのは、病気や怪我ではなく先天的なものなのかもしれない。いや、でも極度のストレスによるものだったとしたら、後天的というべきか?
いずれにせよ、いつかカレンに恩返しができたら、という気持ちになったのは事実だ。彼女が喋れるようになるかどうかは分からないけれど。
※
その翌日、まだ日が昇るか否かという薄暗い明かりの中、ばんっ、と勢いよく講堂の扉が開かれた。
「全員起きろ! そして講堂前に並べ!」
一体何事かと目を擦っている子供たち。そんな彼らに、どやどやと乱入してきた大人たちは、蹴りを入れたり、殴りつけたりしながら無理やり意識を覚醒させた。勢いそのままに、放り投げるようにして子供たちを外へと追いやっていく。
大人たちは厚手のコートを着ていたが、子供たちはボロ布を一、二枚羽織っているのが精々だ。自分たちばかりを優遇し、さらにそれを隠しもしない大人たちの態度に、僕は頭に血が上るのを感じた。
そのお陰で目が覚めて、暴行を受けなかったのは幸いだったと言えるかもしれない。
「ほら! さっさと起きないか! 外に出たら整列しろ!」
整列って、そんなもの習ってないぞ。
しかし僕はそれを口には出さず、軽い駆け足で外に出て従順そうに振る舞ってみせた。
そうだ。カレンは無事だろうか。周囲を見回してみる。すると、心配無用と書いてあるかのようなカレンの後ろ姿が見えた。なんだ、僕より早く反応できたのか。
ふと、僕の脳裏に邪な考えが浮かんだ。カレンに頼めば、ここの大人たちを一網打尽にできるのではあるまいか。
だがすぐに、それは現実的ではないと思い直した。大人たちはホルスターを吊って、拳銃を所持している。子供たちのことをなんとも思っていない彼らのことだ、逆らったら見せしめにカレンはもちろん、余計に一人や二人、子供が殺されるかもしれない。
流石のカレンも、銃器を持った相手に逆らうほどの蛮勇を発揮することはないだろう。
ところで、この集会は何のために行われるのだろうか。僕が頭を捻っていると、並べ並べと連呼しながら大人(僕がここに来て最初に出会った無精髭の男だ)が近づいてきた。これはマズい。
こうなったら仕方がない。不器用ながらできつつあった列に、僕は自分の身体を滑り込ませた。皆痩せ細っていて、僅かな隙間にも入れたのが幸いした。
それからしばし、子供たちは大人たちに小突き回され、なんとか数列に分かれて整列を完了した。
そんな僕たちの前に現れたのは、杖を突き、頭頂部の禿げあがった眼鏡の老人だった。
他の大人たちが引き下がる。すると老人は、その痩せ細った体躯からは想像できない大声でこう言った。
「明日は我らがエウロビギナ共和国の建国記念日である! 士気高揚のため、貴様らには国歌を斉唱させる! いずれ軍属となった時、この旋律は貴様らを鼓舞し、必ずや我らが母国を勝利に導くであろう! さあ、歌え!」
歌え? 国歌を? そりゃあ、歌詞もメロディーも知ってはいるが。いや、問題はそこじゃない。
この老人、今何と言った? いずれ軍属となった時、だって? 僕たちは兵士にされるのか? 選択の余地もなく?
「おい!」
「がっ!」
唐突に大人にぶん殴られ、僕はたたらを踏んだ。気がつけば、もう既に皆は歌い始めている。
「今は有事だぞ、ボサッとしている暇があったらさっさと歌わんか!」
僕は殴られた左頬を擦りつつ、しかし大人からの追撃を防ぐためになんとか姿勢を立て直した。途中から皆の歌唱に混ざる。
周囲を窺うと、暴行を受けているのは僕だけではなかった。歌詞を間違えた者、音程を外した者、栄養失調で立っているのがやっとである者、そんな誰もが殴られていた。
これが大人のやることか。こんな場所だと知ったうえで、両親は僕をここに預けた、否、捨てたのか。僕は兵隊になって、どことも知れぬ荒野や密林で撃たれて死ぬのか。
急速に『死』という概念が僕の心を侵食し始めた。
これまでの死は、テレビやラジオから聞こえてくる場所や数字といった『情報』に過ぎなかった。
しかし今、死は単なる情報ではなく『実感』として迫りくるものだ。
僕は恐怖のあまり、完全に頭が真っ白になって、自分が何を歌っているのか分からなくなった。あれ以上暴力を振るわれなかったのは奇跡かもしれない。
そんな現実から逃れたかったのか、僕は空を見上げた。単に直感的なものだったのかもしれない。いずれにせよ、『それ』が目に入ったのは間違いない。
戦闘機、及び爆撃機の大群が、ちょうど真上を通過していくのが見えた。
僕は咄嗟に考えた。方位からして、戦闘機群は東へ向かっている。きっとエウロビギナに都市攻撃を実施するための領空侵犯事項だろう。
皆も段々と、頭上での異常事態に気づき始めた。
その場で僕は、おや? と首を傾げる。単に上空を通過するだけなら、敵機の編隊はとっくに通り過ぎているのではないか? こんな住む人のない旧市街地上空で何をやっている?
その答えは、文字通り降り注いできた。爆弾だ。これは空襲で、狙いは僕たちなのだ。
「おい、空襲だ! 皆逃げろ! 空襲だぞ!」
僕は咄嗟に叫んだが、皆が注意を向ける前に老人が一喝した。
「狼狽えるでない! 敵の方から来てくれたのだ! さあ、銃を取って戦え!」
もう言葉も出なかった。こんな骨と皮だけでできているような僕たちに戦えと? 自動小銃はもちろん、拳銃だって握れるものか。そんな余力はとっくに失くしている。
そもそも、飛行中の敵機を相手にどう立ち向かえというのか。
「おっ、おい!」
僕はそばにいた無精髭の男に渾身のタックルを見舞った。一刻も早くここから逃げなければ。
確かこの旧市街の周辺は森になっていたはず。そこに逃げ込むことができれば、生存率は格段に上がる。
まさか子供から攻撃されるとは思っていなかったのだろう、大人たちの怒声が一瞬途切れた。その隙に叫ぶ。
「逃げろ! 逃げて生き残れ! 森に入るんだ!」
身体のどこにこんな力が残っていたのか、僕は喚き、腕を振り回しながら、勢いよく駆け出した。それにつられて他の子供たちも動き出す。皆、なんとかついてこられるようだ。
ふっと一息つこうとした、その時だった。
ドッ、という鈍い音と共に、土埃が舞い上がった。空襲の第一波が、地面に着弾したのだ。
僕は咄嗟に飛び退くようにして倒れ込み、胎児のように身体を丸める。
音のした方を見遣る。どうやら最初の空爆は教会の西側に集中しているようだ。今すぐ頭上に爆弾が降ってくるわけではない。
だが、子供たちに与えた衝撃は大きかった。僕だって子供だが、両親の下で身を守る訓練は受けている。
だからこそ分かる。何の自衛策も知らずに、一方的で強大すぎる暴力に晒されては、とても落ち着いてはいられないだろうと。
気づけば僕だって、両足がぶるぶる震えて仕方がなかった。
「皆、逃げるんだ! 鉄柵から出て真っ直ぐに走れ!」
と、口では言うものの、先ほどまでの勢いは失われている。それに、爆発の轟音で僕の声は大方掻き消されてしまっている。一体どうしたらいいんだ?
そう思った次の瞬間。
空爆の合間を縫うようにして、銃声が皆の耳朶を打った。一度ばかりのみならず、二度も三度も。
薬莢が頭上から降ってきて、僕は慌てて後ずさる。僕のそばに立っていたのは、拳銃を手にしたカレンだった。
彼女の足元では、無精髭の男が倒れている。気を失っているようだ。カレンはこいつから拳銃を拝借したのだろう。
空を見上げると、爆撃機が一機、悠々と教会の上空を旋回していた。空襲の第一波は終了したらしい。山間部から姿を見せた太陽が、その銀翼を厳めしく照らし出している。
と、そこまで状況を鑑みたところで、僕は軽く足元を小突かれた。カレンがこちらを見下ろしながら、顎をしゃくっている。僕に立ち上がれと言いたいらしい。
まだ足は震えっぱなしだったが、ええい、こうなったらやれることをやるしかない。
「皆、聞いてくれ! この教会は直に空爆される! 早く南側の森の中へ逃げるんだ! 死にたくなければついて来てくれ!」
銃声に怯んでいた子供たちには、僕の言葉がきっと届いたはずだ。するとカレンは再び拳銃を掲げ、真上に向かって連射。そして弾切れが起きる頃には、子供たちの大半が鉄柵に殺到していた。
せめて一人でも多くの子供たちが生き延びてくれれば。もちろん、僕もカレンも。
そう思って駆け出した次の瞬間、先ほどとは比較にならない爆音が、僕たちの頭上から覆い被さってきた。
「うわあっ!」
僕は再び背を丸め、防御姿勢を取る。すると、僅か数メートル後方で何かが倒壊する音がした。
はっとして転がり、身を翻す。そして目を見開いた。教会の尖塔が、がらがらと崩れてゆくところだったのだ。
僕は腕に力を込め、再び震えだした足を殴るようにしてなんとか立ち上がった。
振り返って、鉄柵の方へと駆け出す。しかし、惨劇は僕の眼前で繰り広げられていた。
瓦礫が子供たちの頭上に降り注いでいる。もちろん僕の上からも。
この教会に大勢の人間がいることを、ヴェルヒルブ側は知っていたのだ。
だが、それが僕たちのような子供であることを彼らは知っていただろうか? もし知っていたとしたら、爆撃機のパイロットは一体どんな気持ちでこの殺戮を行っているのだろうか? 罪のない命を奪うことを、なんとも思っていないのだろうか?
そんな考えに至ったのは一瞬のこと。あまりに衝撃的な光景に、僕は一瞬気絶しかけた。
降ってきた瓦礫が、僕の前を走っていた少年を押し潰したのだ。
そこには殺意はおろか、何の意図も感じられない。機械的に、物理的に、彼の肉体を損壊せしめたのだ。
同じような状況は、あちこちで起こっていた。
押し潰された子供たちは、一瞬で肉塊となった。真っ赤な鮮血と紫色の臓物、それに骨や筋組織が混ざり合って飛散する。原型など留めているはずもない。
「ひ、あ……」
これらの阿鼻叫喚の光景に、僕は最早悲鳴も上げられなかった。ただただ、どちゃり、とか、ぐしゃり、という音と共に、地面に赤い染みができていく――それを見つめるだけだ。
「ぐうっ!」
僕は呻き声を上げて、なんとか再び駆けだした。その直後、ぶわり、と背後で空気が熱を帯び、膨張して僕を突き飛ばした。
今度は爆弾が直接地面に着弾したようだ。あちらこちらに散らばる、腕、足、どこのものとも分からない肉片。耳がキーン、と鳴ってまともに機能していない。
辛うじて頭部を守った僕は、自分の状況など顧みることなく、鉄柵に向かって再び駆けだした。自分で言ったじゃないか。この先の森まで逃げ切ることができれば……!
鉄柵自体が既に開いていたこと、爆風に巻き込まれなかったこと、そして何より、自分が五体満足であることは、まさに奇跡と言ってよかった。
それでも一つ、どうしても気にかかることがある。
カレンは無事だろうか?
気にかかると言ってはみたものの、それを確かめる術はない。そもそもそんな冷静さは、今の僕にはない。
走る。とにかく走る。
凸凹になった地面に足を取られたり、血がべっとり付着した石畳の上ですっ転んだりした。それに粉塵で目が痒くてしょうがなかった。
それでも僕は走り続けた。
どのくらい走って来ただろうか、周囲は空き家だらけになっていた。他の子供たちの気配はない。というより、耳が麻痺しているので分からない。周囲を見渡す余裕もなかった。
僕としては、それは自分が必死に生きようとしていることの証のように思えた。森の山道へはもうじき辿り着く。
そうして生き残った子供たちの中からカレンを探そう。彼女だって生きているはずだ。
そう思った、次の瞬間だった。ミシリ、と地面が歪んだ。そして、道路わきの鉄柱が一直線に倒れてきた。
「ッ!」
軒並み倒れてくる鉄柱。これでは全速力で走っても、いずれ押し潰されてしまうだろう。
恐らく僕は、声にならない音を喉から発していたと思う。これが断末魔というやつか。
あまり幸せとは言えない人生だった。贅沢は言っていられないが。だが、それはエウロビギナもヴェルヒルブも、大人も子供も同じこと。皆が不幸だったんだ。そして僕はここで脱落する。それだけの話だ――。
せめてもの悪あがきと思って、僕は前転。頭部を守るように両腕を載せる。
その直後だった。
「がはっ!」
僕の脇腹に鈍痛が走り、身体が道路の反対側へと吹っ飛ばされた。何が起こったのか。
恐る恐る振り返ってみると、そこには誰あろうカレンがいた。ただし、鉄柱に胴体を下敷きにされた状態で。
「カレン!」
僕は慌てて駆け寄ろうとしたが、カレンは顔を逸らしてこう言った。
(あたしのことはいいから、あなたは逃げて)
それに対して、こちらも応じる。
(そんなこと、できるわけないだろう? 君を助けなきゃ、一緒に逃げなきゃ駄目なんだ!)
(え?)
(どうしたんだよ? とにかく僕は、一刻も早く君を助け出して……あれ?)
ようやく僕も、違和感に気づいた。声を発することのできないカレンの言葉。それが、脳内に注ぎ込まれてくるような感覚を得たのだ。
(分かる……。分かるよ、カレン! 君の気持ちが!)
(あたしもケンイチの言葉が聞こえて……違う、頭の中で響いてるような……)
(とにかく頑張って! 僕がこの鉄柱を押し退けるから!)
僕が鉄柱の下に手を差し入れると、しかしカレンはかぶりを振った。
(無茶よ! あなた一人で持ち上げられるはずがない!)
(カレン、僕は、君に……命を救われたんだ……! そんな君を、置いてはいけない……!)
(ケンイチ……)
二回目。これで二回目だ。カレンに命を救われたのは。一回目はガキ大将からの食料奪還、二回目は倒壊する鉄柱の回避。
(君を、守れなきゃ、何も……何も報われない!)
だが、ようやく僕も気づき始めた。僕の独力でこの鉄柱をどかすのは無理だ。誰か大人を、それも十名近く呼んでこなければ。
(必ず戻る。カレン、お願いだから死なないで)
(勝手なこと言って……。分かってるわよ……)
それから僕は、森の中に猛スピードで駆け込んだ。何故そうしたのかは分からない。だが、とにかく助けを乞うことのできる大人を探して、僕は必死だった。
誰か。誰かいてくれ。そして力を貸してくれ。カレンは僕の、命の恩人なんだ。
木々の根に躓き、葉で頬を切り、全身泥まみれになりながら、僕は森を駆け抜ける。
まさに無我夢中だった。そんな状態で、この音が聞こえてきたのは僥倖だった。高射砲の射撃音だ。
バタタタタタタタッ、という音が前方から響いてくる。四門、いや、五門はあるだろうか。発射に伴う閃光が木々の合間から見えた。
誰かがいる。頼れる大人が、味方がいる。その実感が、速射音と共に僕の身体に熱を与えた。
(カレン……。絶対に助ける!)
「……ぁ」
身体は動いたが、喉が完全に掠れていた。大声が出せない。
それでも僕は、なんとか喚き立てようとした。どうにか、誰かに届いてくれ。口の利けないはずのカレンにだって、思いは伝わったんだ。きっと誰かに届くはず。
そう思って大きく一歩を踏み出した、その直後。
どん、と巨大な何かにぶつかって、僕は呆気なく弾き飛ばされた。
「……ッ!」
声が上手く出せないなりに悲鳴を上げる。尻餅をつきながら顔を上げると、そこに立ちはだかっていたのは――。
熊、だろうか。体高二メートルはありそうな、屈強な肉体を有する生き物。だが、それが人間であることにはすぐに気がついた。自動小銃を肩に掛け、拳銃をこちらに突きつけ、じっと観察の視線を寄越していたからだ。
「大尉! アラン大尉! どうかされましたか?」
背後から聞こえてきた問いかけ。そちらには振り向かず、その人物は声を上げた。
「要救護者一名、子供だ。すぐに輸送トラックに救護機器を配置しろ。大丈夫か、少年?」
「ぅ……ぁ……」
正直、最初はビビっていた。熊だと誤認した目の前の男性、アラン・マッケンジー大尉に。
だが、僕をひょいと担ぎ上げ、高射砲の近くに展開されている幌付きトラックに運んでいく大尉に、僕は自然と恐怖心が氷解していくのを感じた。彼に担がれていると、不思議な安心感を覚える。
それは不思議な感覚だったが、察しがついたのだ。
ああ、この人もまた、戦争で悲惨な体験をしたのだなと。
「あっ!」
「おおっと! どうした、少年?」
安心感と共に声帯の機能が戻ってきた。
「助けてください!」
「大丈夫、君はもう安全――」
「違います! カレンを、カレン・アスミを助けてください!」
「何だって?」
カレンの名前を聞いて、大尉は足を止めた。僕をそっと地面に下ろす。
「少年、彼女を知っているのか?」
「鉄柱が倒れてきて僕が潰されかけた時、僕を突き飛ばして……」
「カレンはまだ生きているんだな?」
「は、はい! 約束しました、必ず生き残るって!」
その言葉に、大尉は目をぎらりと輝かせた。
「中尉! 至急救助隊を組織しろ! カレン・アスミを救出に向かう! この周辺にいるとは思っていたが、やはりな……」
「えっ?」
「いや、それはこっちの話だ。少年、案内を頼めるか?」
「はい! それと、僕はケンイチです。ケンイチ・スドウといいます!」
「ケンイチか。よろしく頼む」
そう言って僕の頭に手を遣る大尉。泥まみれでも、その手が温かいものであることはすぐに感じ取れた。
「ケンイチ、怪我はないか?」
「はい!」
すると大尉は僕の頭から手を離し、振り返った。
「中尉! 救助隊の編成は?」
「はッ、完了です!」
「よし。高射砲部隊は直ちに撤収。医療班はここで待機しろ」
再び大尉は僕と目を合わせ、尋ねた。
「誘導係を頼めるな、ケンイチ?」
僕は大きく頷いた。
※
そこまではよかったものの、大尉の僕に対する扱いはなかなか乱暴なものだった。
「よっと」
「ちょっ、何するんですか?」
「分かるだろう、ケンイチ。お前を担ぎ上げてるんだ」
「どうしてそんなことを……」
「案内してくれるんだろう、カレンの下へ。子供よりも俺たち軍属の方が足は速い。俺が先頭を走って森を抜けるから、お前はナビゲートを頼む」
「えっ? えっ?」
「救助隊、これより救助対象カレン・アスミの下へ向かう! 総員、俺に続け!」
応、と威勢のいい声が轟く。同時に大尉は森の方へ振り返り、勢いよく駆けこんでいった。
「うわああああああああ!」
「ケンイチ、カレンが倒れているのはどのあたりだ?」
「う、うわ、え、ええっと……」
ぐわんぐわんと揺さぶられ、まともな思考ができなくなりそうだ。
そんな僕を正気に戻したのは、カレンの声、否、思念だった。
(あなたたちから見て二時方向。錆びた映画の看板が目印)
「あっ! ここから二時方向です! 古い映画館のそばです!」
「ほう? よく記憶していたな」
「それは――」
それはカレンが伝えてくれたからだ、と言おうとした。が、再び大きく揺さぶられ、僕はその機会を失った。
「よし、中尉! 聞こえていたな! 先導役を代われ!」
「了解!」
すると、中尉と呼ばれていた細身の男性が木々の間をすり抜け、まるで架空の魔術師のように駆け出していった。
それから二、三分ほど経っただろうか。
「大尉! 中尉から通信です!」
大きな通信機を担いだ兵士が声を上げる。
「繰り返してくれ」
「はッ、カレン・アスミの下へ到着、重傷を負っているとのことです」
「む……」
大尉は短い唸り声を上げた。だが、それより慌てたのは僕の方だ。
「カレンの怪我は酷いんですか? 助かるんですよね? 僕たちはそのために――あいてっ!」
僕は大尉の肩の上で、勢いよく額を木の枝にぶつけた。今は黙っていろということか。
木々はすぐさま途切れ、僕たちは旧市街へ出た。中尉がへし折れた鉄柱の袂に立っている。空を見上げると、戦闘機、爆撃機と思しき機影は見受けられない。どうやら空襲は終わったようだ。あるいは、次の街へと移ったか。
「大尉! 人手が必要です! この鉄柱をどかさないと!」
「了解! 皆、カレンを助け出すぞ!」
「うわっ!」
僕はどさり、と地面に放り出された。が、痛みはない。優しく僕を下ろしてくれたということは、やはり大尉は人情味溢れる人間のようだ。
かといって、僕も黙って救出劇を見守るつもりはない。助けられた張本人なのだから、今度は僕がカレンを助ける番だ。
七、八名の兵士たちが、鉄柱を両脇から支えるようにして力を込める。僕も無理やり手を突っ込んだ。早くこれをどかして、カレンの様子を確かめたい。
「せーのっ!」
屈強な兵士たちにかかれば、鉄柱をどかすことなど朝飯前だった。大尉や中尉がカレンの腕を掴み、鉄柱の下から引っ張り出す。
「カレン、無事か! カレ……」
その姿を見て、僕は絶句した。
背中側からカレンに倒れかかった鉄柱は、カレンの胴体を押し潰していた。呼吸は浅く、とても口を利ける状態ではない。元々そうだったのだが。
「カレン、分かるか? 俺だ、アラン・マッケンジー大尉だ」
大尉は片膝をつき、その厳つい顔をずいっと近づける。するとカレンは微かに顔を上げ、しかし大尉と目線を合わせるには至らなかった。
「大尉、カレンは重傷です。直ちに最寄りの救護所に搬送しなければ」
医療キットを手にした兵士が言う。
「止むを得んな、またペール先生の力を借りよう。ここから先生の救護所までは?」
「直線距離で約二十キロ、トラックにこの森を迂回させることも考慮すれば約四十キロです」
「了解。高射砲部隊とは別に、人員輸送トラック二台で救護所に向かう。至急トラックをこの旧市街へ寄越してくれ」
「はッ!」
僕はテレパシーで、カレンの容態がどうなのかを推し測ろうとした。
(カレン、大丈夫?)
(これが大丈夫に見える? 冗談よしてよ)
意識ははっきりしているようだ。しかし、僕が安堵した次の瞬間のこと。
(あたし、ちょっと休憩しないと……。応答できなくなったらテレパシーは諦めて)
「あっ、ちょっ!」
「どうした、ケンイチ?」
大尉が僕の顔を覗き込む。が、僕は何といったらいいのか分からず、俯くしかない。
どのくらいそうしていただろうか。大尉に名前を呼ばれて振り返ると、先ほど見かけた幌付きトラックが二台、視界に滑り込んできた。
荷台からはすぐに聴診器や点滴の袋を持った衛生兵たちが出てきて、カレンを担架に載せて素早く収容する。
「俺たちも行こう。ケンイチ、君はどうする?」
「え?」
「ついてこないか、我々に。すぐにこの場を後にするようにと作戦要綱にもあるし、もし君があの孤児院にいたのなら、置いていかれた場合に相当困るはずだが?」
「い、いいんですか?」
「お、おう」
僕が身を乗り出したのを見て、逆に大尉は身を引いた。それだけ僕が切羽詰まっていたように見えたということだろう。
「行きます、軍属にでも何にでもなります! 僕はカレンを助けたいんです!」
しばし無言で、大尉はじっと僕の目を覗き込んでいた。僕を品定めしているようでもあるし、心配しているようにも見える。
だが、そんな逡巡も大尉にとってはすぐに結論が出せるものだったらしい。
「了解した。我々はあっちのトラックに乗ろう」
「分かりました……じゃない、了解です!」
微かに口元を緩めた大尉は、ぽんと僕の頭に手を載せた。
「カレンのことは心配するな、これから最高の医療スタッフが処置をするからな」
「は、はッ」
今は大尉の言葉を信じるしかない。僕はカレンが収容されたのと同じ形の幌付きトラックに乗り込み、対面式の長椅子に、大尉と向かい合うようにして腰かけた。
するとすぐさまドルン、というエンジン音を響かせ、黒煙を吐き出しながらトラックは発進した。
※
救護所へ向かう途中、トラックの荷台でのこと。
「つまり君は、今回空襲に遭った孤児院にいたんだな、ケンイチ?」
「はい」
湯気の立つマグカップを差し出す大尉に向かい、僕は頷いた。
「そこにカレンが偶然現れた、と」
「偶然かどうかは分かりません」
僕はぎゅっとカップの把手を握り締め、大尉の言葉に異を唱えた。何せ、カレンは命の恩人なのだ。この出会いを、偶然という言葉で片づけたくはなかった。
「そうか……。まあ確かに、偶然ではないんだがな」
「僕だってカレンを守りたかった。でも、僕が彼女のためにできたことといえば、さっきの鉄柱を持ち上げるのを手伝ったことくらいです。僕はまだまだ、彼女に恩返しをしなくちゃいけない。少なくとも、それが今の僕の存在意義です」
自らもマグカップを手にした大尉は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「随分難しい言葉を知ってるんだな、ケンイチ」
「え? あ、まあ……。僕の両親は軍事技術者で、僕にもそうなるようにと英才教育を施しました。どれだけ役に立っているかは、甚だ疑問ですけど」
「やはりな……。スドウという苗字を聞いて考えていたが、やはり君はスドウ博士のご子息だったか」
「ご子息だなんて、そんな上品なものじゃありませんよ。人が傷ついたり、命を落としたりしていく戦場で、僕はまったくの無力でした。僕なんて、所詮……」
すると、再び暖かい何かが僕の頭頂部に触れた。大尉の掌だ。
「まあ、俺も陸軍にいた時に負傷して、今はこうして後方支援に当たっている身だ。そんなに自分を卑下するもんじゃない」
「……はい」
(そんなこと言われたって、君が助からなきゃ意味がないじゃないか、カレン……)
僕がそう念じてから、数秒後。
(だったらせめて銃器の扱いくらい覚えて頂戴、ケンイチ)
「ッ!」
僕はがばりと立ち上がった。
「ど、どうした、ケンイチ?」
大尉の言葉を無視して、僕は続ける。
(カレン、意識はあるのか? 無事なのか?)
(無事じゃないけど、意識は戻った。下手な心配しないでよ、鬱陶しいから)
「おい、落ち着けケンイチ。何があった?」
「カレンです! カレンがテレパシーで僕に――」
「何だって?」
大尉はすぐさま、隣に座っていた兵士の背中から通信機を分捕り、声を吹き込んだ。
「こちら二号車、一号車に収容中の負傷者に変化はあったか?」
《……いえ、ありません。バイタルは安定したようですが……》
「どういうことなんだ、ケンイチ?」
そう問われて、僕はようやく大尉にテレパシーのことを話す機会を得た。
※
「ふむ……」
大尉は足元を見下ろすようにして、じっと視線を固定させた。
「お前を疑うわけじゃないがな、ケンイチ。そのあたりは専門家の意見を聞く必要がある。もうじき到着するから報告は上げさせてもらう。構わないな?」
「はい、お願いします」
大尉が大きく頷くと同時、がたんとトラックが揺れて、急に車体が安定した。どうやら舗装された道路に入ったらしい。荷台の小さな窓から見ると、背の低い、しかし広大な建物が目に入った。きっとこれが救護所なのだ。ゲリラ基地同様に地下に主要設備があるのだろう。
僕たちの乗っていたトラックが止まった時、カレンを担架に載せた兵士たちは既に救護所に入っていくところだった。
(カレン、不安じゃないかい?)
(不安なのはあんたでしょ、ケンイチ)
辛辣な一言だったが、カレンの気の強さが反映されていると思えば安心材料にはなる。
「ほらほら、あんたたち急いで! でないと助かるもんも助からんよ!」
威勢のいい声が響く。そちらに目を遣ると、初老の女性が手でメガホンを作って声を張り上げていた。すらりと背が高く、長髪を背後で引っ詰めている。眼鏡越しの視線は鋭く、しかし場を取り仕切る者としての包容力が感じられた。
僕がトラックのステップを降りると、大尉が女性の下に大股で歩いていくところだった。
「ペール先生! ペール・オルセン先生!」
「またあんたかい、アラン大尉! いや、無線で報告は受けていたがね。今回の患者はあの女の子なんだろう?」
「ええ。お願いします。それと、ほら!」
とん、と大尉は僕の背中を押し出した。
「えっ?」
「テレパシーのことがあるだろう? ペール先生に報告しろ!」
「あっ、あの、その……」
「分かってるよ坊や、詳しい話は後だ。手術が終わったら聞かせてもらうよ。ほらあんたたち! 緊急手術の準備だ!」
周辺を駆け回る白衣の人々に喝を入れながら、先生は救護所に入っていった。
※
地下一階。手術室前のソファで、僕と大尉は二時間ほど待たされていた。
僕は身体を丸め、大尉は壁に背を当てて腕を組みながら、どろどろと流れる時間に身を任せている。
僅かな物音にも反応してしまう僕に、少しは落ち着けと諭す大尉。
だが、そんな大尉も顔を上げる瞬間が来た。手術室のドアが開いたのだ。すぐさま担架に載せられたカレンが現れる。
僕は立ち上がろうとしたが、直接声をかける必要がないことを思い出した。
(カレン、大丈夫なのか?)
応答はない。気を失っているのだろう。人工呼吸器を取り付けられたカレンの姿は、ガキ大将たちを伸してみせた彼女からは想像もつかないほど弱って見えた。
廊下の向かい側の部屋に収容されるカレン。その担架の後ろから、ペール先生が出てきた。
大尉がつと視線を上げると、分かっていると言わんばかりに先生は手招きをする。
「先生から説明がある。行くぞ、ケンイチ」
僕は足をもつれさせながら、大尉について行った。
※
狭い廊下を歩くことしばし。『ペール・オルセン』というプレートの掲げられた部屋に、僕たちは招き入れられた。
きっと研究資料なのだろう、紙束が無造作にデスクやキャビンの上に積まれている。
「今さらですが、ご無沙汰しております。ペール先生」
「何がご無沙汰だい、アラン。私がどれだけあんたの面倒見てきたと思ってんだい」
「失礼しました」
そんな言い合いをしながらも、二人の口元には笑みが浮かんでいる。
「とまあ、俺と先生の仲はこんなもんだ。出番だぞ、ケンイチ」
「は、はい。でも上手く説明できるかどうか――」
「さっさとしなさいな、お若いの。時は金なりって言うだろう?」
やや語気を強めて、先生が言った。眼鏡がぎらりと光沢を放つ。怒らせたら大尉より怖いかもしれない。
「まあいい。ケンイチくんとやらが心の準備をしている間に、私からカレンちゃんの容態の説明でもするかね」
「お願いします、先生」
大尉に頷き、先生は語り出した。
「まず良い報告から。骨は無事だよ。半身不随の可能性も考慮したけど、大丈夫だ。奇跡的にね。次に悪い報告だけれど……肺の状態がよくないね。呼吸するのに支障はないけど、気圧の影響を受けやすい。高地での戦闘は不可能だ。西方の山脈を越えて攻め込む作戦には、彼女は参戦できないだろうね」
再び短い唸り声を上げる大尉。
その時だった。鋭い思念が僕の脳裏に刺し込んできたのは。
(ど、どうしたんだ、カレン?)
(冗談じゃない……)
「どうしたんだい、ケンイチくん?」
「あっ、その、カレンの意識が戻ったようなんですけど、こちらの会話が聞こえていたようなんです。それで――」
(あたしを戦えるようにして。こう言えば皆に伝わるわ、アクラン、と)
「ア、アクラン?」
僕がその単語を口にした瞬間に、大尉と先生は即座に反応した。
「ケンイチ、今何と言った?」
「アクランだなんて、どこでそんな兵器の名前を?」
「へ、兵器?」
僕は慌ててカレンに確認しようとしたが、それよりも先に廊下側の扉が開いた。
はっとして振り返ると、そこにはカレンがいた。患者用の服を着て、胸のあたりを押さえながら荒い呼吸をしている。
(どうかあたしの肺を機械化して、高高度での戦闘を可能にして。そのための、ユニット、が、アクラン……)
そこまで伝えてから、カレンの身体がぐらり、と傾いた。
「おっと!」
大尉がなんとか転倒直前で支える。僕も慌てて駆け寄った。
「カレン! カレン!」
「お前は下がれ、ケンイチ! 先生!」
「まったく無茶するね、この子は! 大尉、あんたは今、カレンがケンイチに何て伝えたのか訊き出しておくれ!」
「了解!」
こうして、ペール先生の私室には僕と大尉が残された。
「まあ、あの調子ならカレンの方は大丈夫だろう。ケンイチ、お前は大丈夫か? 今さらだが、怪我はないか?」
「掠り傷だけです。その、カレンのお陰で」
「ふむ。確かお前は、鉄柱の下敷きになるところでカレンに救われた。そうだったな? これはごくごく稀なケースなんだが……。瀕死、あるいはそれに近い状況に陥った人間の中で、不思議な能力を獲得する者がいるんだ」
僕にはそれが、テレパシーのことだとすぐに判断できた。そうでなければ、カレンの気持ちや考えを共有できるはずがない。
「つまり僕とカレンが、その稀なケースである、と」
「そうだ」
僕はその時、既にアラン・マッケンジー大尉という人物に頼り甲斐を見出していたようだ。戦場にありながらも、僕の前で笑顔を作ろうとしていた気配は感じていた。だから過度な説明を聞かずとも、テレパシーに関しては理解できる。
問題はもう一つの方だ。
「大尉、アクランって何なんですか?」
「ああ、もうお前は知っているんだものな、名前だけは」
ぱん、と自分の両膝に手を載せる大尉。
「アクランは、生身の人間に航空戦力を与える装備一式の俗称だ」
「生身の人間に、航空戦力?」
「もし人が空を飛べたら、戦闘機を製造する必要がなくなる。それに、実戦では戦闘機より素早く宙を舞うことができる。問題は飛行者の呼吸器系がもたないということだ」
「だからカレンは、自ら肺を取り換えてアクランを使いこなせるようになるつもりだ、と?」
「……」
大尉は無言で眉間に手を遣った。重苦しい溜息が一つ。それとは逆に、僕の頭には血が上っていた。がたん、と音を立てて椅子を蹴倒し、ドアへ向かう。
「おい、どこへ行く?」
「カレンを止めるんです!」
カレンとのテレパシーは再び切られていた。麻酔でも注射されたのだろう。だが僕には、そんなことに頓着している暇はない。
自分の身体を機械化? そんな馬鹿な話があってたまるか。背後から羽交い絞めにされながらも、僕は声を振り絞った。
「カレン! カレン、駄目だ! 君は大怪我をしてるのに、まだ戦うつもりなのか? それは死に急ぐってことだよ! アクランの装備なんてやめてくれ!」
そこまで叫んでから、僕の意識は急に遠ざかることとなる。大尉が僕の後頭部に手刀を食らわせたからだ。
そうでもしてもらわなければ、僕は気が狂っていたかもしれない。
それほどまでに、僕はカレンを、いや、戦争を止めたかったのだろう。僕一人では、到底できることではなかったが。