31話
「起きて」
誰かに李夏の頬がペチペチと叩かれる。その手はどこか優しく、暖かさを感じた。叩いている人物に体温はもう存在しないが。
「う、うーん……」
李夏はまだクラクラする頭を押さえて起き上がる。この頭痛は落下の衝撃だけだろうか。焼け付くような暑さも理由の一つだ。太陽は真上に昇り、厚手の制服を着ていた李夏はすでに汗だくだった。
「おはよう」
テイノーの無機質な顔が李夏の視界に入る。テイノーはこちらをのぞき込んでふわりと笑った。
その姿はどこか大人びていて、人間らしさを感じなかった。
ライルは少し先に目が覚めていたようで、周りの光景を眺めていた。
しかしその目はどこか怯えていた。少し見た感じ、ここはとてもきらびやかで、住民全員が幸せそうに見える。
道行く人々は目を細めて、みな見えない仮面をつけている。
「アルー……シカ?」
ライルはもうここには来ないことを覚悟していた。それなのにその覚悟はテイノーによって簡単に壊された。
自分が捨てた国、自分が大嫌いな国。
頭に激痛が走る。いやだ。思い出したくない。もう忘れたんだ。ライルの視界がぐわんぐわんと揺れてあらゆるものが二重に見える。
「姉さんに見せたいものがあるんだ」
その声でハッと現実に戻される。
テイノーはライルの手を引いて人混みの中をずんずん進んでいく。道行く人の装飾が体や顔に当たりライルの体に傷をつけた。
「あ……ちょっと……!」
李夏は置いていかれないように二人の後をついていこうとする。しかし、多くの人に阻まれて二人を見失ってしまった。
人に揉まれながらも李夏の伸ばした手は無慈悲にも空を切った。
もう追いつけないと悟った李夏は走ることをやめ、人混みから離れた。
「(……することもないし、観光でもしてようかな)」
ライルがいるなら何か騒ぎが起こることは容易に想像できる。
騒ぎが起こったらその方に行けばいい。李夏はそう思って呑気に出店が集まる場所へと歩いていった。
その頃、ライルがテイノーに引かれてついて行った先には、彼女にとって記憶にこびりついた場所だった。ライルの記憶よりすこし色褪せた様子だったが、煌びやかであることに変わりはない。
そこは、ライルとテイノーが生まれ育った我が家だった。
「ほら姉さん。帰ってきたらただいまって言わないと」
テイノーはライルの手を握ったまま振り返ってそう言った。テイノーはライルのかわいい弟。それなのに、目の前にいる弟の姿は非常に不気味だった。握っている手を振りほどきたくなった。
テイノーの真っ黒な瞳には、なにも写らなかった。
ギィと音をたてて屋敷の扉を開く。数年ぶりに訪れた我が家はなにも変わっていなかった。外装は少しツタが伸び、苔が生えているのが見えたが、内装はライルの記憶のままだった。
「……おかえり。テイノー。ライル」
革靴が絨毯を踏みしめる音が静かな屋敷内に響く。
聞き馴染みのある声だ。
「……セド、兄様」
ライルは強張る口を動かす。その名前を呼ぶのは久しぶりだった。
オレンジの髪に、明るい水色の瞳。ライルと同じだ。しかし異なる点は、目に光が宿っていないというところだ。
セドヴィル・ブルーニ・ロワイユ。ロワイユ家の二番目の子供。彼も長男に並んで優秀な人だった。少し大雑多なところがあるが、人当たりがよく、無愛想な長男に代わって交流の場では積極的に前に立っていた。
「ごめん。今は二人とも別のとこに所属してたね。……言い直させて。おかえり。テインフォルド、ライレッタ」
「その名前で呼ばないで」
ライルはギロリとセドヴィルを睨む。二人の水色の瞳が交わった。テイノーは何を考えているのか分からない顔で二人をみている。
「手厳しいな」
セドヴィルは困ったように眉を下げて笑った。その表情に昔の面影はない。昔なら顔をくしゃっと崩して、大きく口を開けて笑っていた。
彼が変わってしまったのも、当主になってからだ。
ライルは今でも記憶にこびりついている。まだ幼いセドヴィルがしかめっ面の大人に手を引かれていく。扉が閉まる直前のセドヴィルの恐怖に満ちた表情。
あの時から、もうすでにセドヴィルも殺されたのだ。
「もうセド兄様は限界。次は姉さんだよ」
そういうテイノーの声は驚くほど無機質だった。まるで他人事のように、ライルを見る。
「っ……!なんでよ!当主になったら殺されるのはテイノーも分かって……!」
「姉さんが言える立場なの?逃げた分際で」
テイノーはライルの言葉を遮ってそう言い放った。




