26話
体に強い衝撃が走った。しかしこの感覚には覚えがある。まだめまいが収まらない頭を必死で動かして、周りを見渡す。
悪臭に、もわっとした不快な暑さ。李夏はゴミ捨て場に落ちていた。
硬い地面に落とされていないのは、マーレイに残された僅かな優しさだろうか。
時間がたっても、あのマーレイの顔は忘れられない。全てに絶望したような、格下に見られているような目。光のともっていない黒く濁った深紅が、瞼の裏側に焼き付いていた。
それにしても、ゴミの山の中にいるのは何度目だろうか。もう服や体にゴミの匂いが染み付いていないか心配になるほど、今日の李夏はゴミに縁があった。
「(そんな縁、絶対にいらないね……)」
李夏は疲れたようにため息をつく。重い足取りでゴミの山から降りると、近くの壁から見たことのある顔がこちらを覗いていた。
白髪に黄色が混ざった糸目の人物。シフィだ。
シフィは心配そうな表情で李夏に歩み寄る。
「李夏くん?大きな音がしたから見に来たら、どうしてこんな危ないところに?」
李夏は言葉を飲み込んだ。暇だったからスラムに向かうハーレンを尾行したらここに、なんて言えなかった。もし自分の意思で危険に飛び込んだなんて知られたら、きっと凄く怖い目にあう。
あまりシフィとは関わりがないが、なんとなくこの人は怒らせてはいけないタイプの人だと悟った。
「し、シフィさんこそどうしてここに?」
なんとか声を絞り出す。
「……帰省に近いものね。たまにはこの地獄も恋しくなるのよ」
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シフィはスラムで生まれ育った。過酷な環境かと思ったら、案外楽しい記憶が残っているのが以外だ。
少ない食料を家族で食べる。父や母はよく食べ物を譲ってくれたのを覚えている。友達にも恵まれたし、抗争が止んでいる時はよく走り回ったものだ。
シフィが赤ん坊のころは抗争が絶えなかったらしいが、騎士団の活躍でこのような平穏な場所になったそう。
しかし抗争がなくなっても治安は良くならなかった。どれだけ騎士団が整備しても、スラムは広かったので影響力はいまひとつだったのだ。
そこまで話し終えるとシフィは一つ呼吸をして、重い口を開ける。
「ハーレンと、仲直りできたらな……って思って。ハーレンを追いかけたの」
そう言ってシフィは視線だけ下にさげた。そこには後悔や懺悔の心がこもっている。
出会いは、偶然だった。
ハーレンはスラムの中で一二を争う権力者の家系。それに対してシフィはただの技術者の家庭。普通なら決して交わることのない道だった。
本当に偶然だった。スラム出行われるイベントでたまたま隣にいたのが最初だ。どんな内容のイベントだったかは覚えていないが、あまり楽しくなかったというのは記憶に残っている。
第一印象は、「この子、かわいいな」だった。
背中を覆う長髪を揺らし、薄い桃色の瞳に下げた眉。そうして彼は兄の影に隠れていた。
「よ、よろしくね」
そうしてシフィは精一杯の笑顔でハーレンに手を伸ばした。しかし彼は不安そうに出された手をみるだけ。
シフィの灰色の瞳が、しっかりとハーレンをとらえている。
「……」
沈黙が流れる。気まずそうにしてハーレンの兄は半ば無理やりハーレンをシフィと握手させた。
ハーレンは嫌そうにはしていなかった。どちらかといえば、恥ずかしくて目をそらしているという方が近いだろう。
そこから、シフィはハーレンと仲良くなるため、彼の家に通い詰めた。今思えば自分勝手な行動だったと思うけどそのおかげで今のシフィがあるのだから、よくやったと褒めてやりたい。
その日から、そのイベントが少しだけ楽しみになった。
「ねぇ、暇なの?」
シフィがハーレンの声を聞いたのはその時が初めだった。通い詰めていた時はだいたい兄のサーレイや姉のマーレイを通していて、彼らがハーレンの通訳のような存在だ。
ハーレンの言っている内容は冷たかったけど、心を許してくれた感じがしてシフィは胸が熱くなった。前より砕けたような、友達になれたような気がした。
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ある時、スラムに異変が起こった。
家は焼け、地面は崩れ、死体が転がっている。焼け焦げた布の匂いが鼻を劈く。パチパチと散った火花が体に当たって痛かった。
生き残る為に踏まないといけないほど、死体は地面に散乱していた。それを踏んだ時、吐き気を催すほどの気持ち悪さに襲われる。
足に残る死体に僅かに残された体温と、その光景が忘れられなかった。目を逸らしたくなる程、辛い記憶だ。
なんとかシェルターに入れたシフィは、建物の中から外を眺めていた。遠くで、煙にシルエットがゆらゆらと揺れている。
黒く、細長い人影の背中から羽のようなものが生えていて、少し怖かった。
その人影はゆっくりとこちらを向く。人影の後ろから光が差して、顔の輪郭が浮かび上がる。
緑色の長い髪に、頭の上に浮かぶ二つの光輪が輝く。
人影の唇がゆっくり吊り上がる。ただこちらを見下ろすような、不気味な笑みだった。
いいや、笑ってはいなかったかもしれない。勝手にシフィの脳が恐怖のあまり変換したのかもしれない。
体温が、一気に下がった気がした。まるで臓器が凍りつくかのように、体の内側から恐怖に包まれる。
こちらを見る真っ黒な目はとても怖いはずなのに、何故か目が離せなかった。
「……フィ!……シフィ!」
ある少年の声で目が覚める。
頭がクラクラする。どうやらあの人影を見て気を失ってしまったようだ。
窓の外に人影はいない。あるのは瓦礫と燃えカスのみで、まるで最初から誰もいなかったかのように人影の痕跡はなにもなかった。
目の前にいるのは長くて青い髪。それから深紅のような瞳。
ハーレンの表情は、シフィの見知った無表情ではなく酷く焦った様子だった。
「シフィがいきなり倒れて……!」
今言うことではないが、ハーレンが心配してくれるのが嬉しかった。自分の努力が報われたんだなと、ハーレンと仲良くなれたんだなと。
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その日、彼女は咄嗟に武器を手に取った。
襲ってきた人形の一体に向けて、引き金を引いた。
人形は崩れた。
いや、崩れたのは人形じゃない。
崩れたのは良く見知った顔だった。長い青色、少し跳ねた髪、赤い瞳が、どさりと地面に打ち付けられた。
「え……ハー、レン……?」
盾にされていた。目を閉じたまま震えていたハーレンの腹に、穴が空いていた。
音が、消えた気がした。代わりに、自分の心音だけがやけに響いていた。
「ハーレン!ハーレン!」と、マーレイが泣きながら縋り付いた。
シフィの手は震えて、止まらなかった。わざとじゃない。全て盾にした人形が悪い。私は悪くない。
倒れたハーレンから赤い液体が広がる。視界が揺れて、しだいに暗くなる。
それ以来、彼女は目の前の光景から目を逸らした。
「見てしまうから辛いんだ」
「誰かが壊れる瞬間なんて、見たくない」
もう武器なんて持つことができない。武器を持つと、あの時の感覚がフラッシュバックして照準が定まらない。ハーレンの体を貫いた、あの感覚が忘れられない。
そうして、彼女の瞳は細く閉じられていった。




